世界の底流  
ジェマー・イスラミアとは何か?
2005年11月20日

1.ジャマー・イスラミアとは何か?

  02年11月、インドネシアのバリ島で最初に爆弾事件が起こる前には、ほとんどジャマー・イスラミア(Jemaah Islamiyah−JI)のことなど知る人はいなかった。
  しかし、このバリ事件以来、JIという言葉はイスラム過激派とテロの暴力の象徴として、東南アジア一帯では、日常的に使われるようになった。しかし、その悪名の高さにくらべると、ほとんどその実態は明らかではない。
  インドネシアに距離的には最も近いオーストラリアでは、ホワード首相がイラクへの軍派遣の口実としてJIの脅威をフルに利用している。さらに、オーストラリアは南太平洋地域への新植民地主義的な進出の口実にJI の脅威を使っている。またオーストラリア国内の民主主義と人権弾圧の口実にJIの脅威が使われている。
  一方、インドネシアでは、JIはオーストラリアとは異なった見方がされている。インドネシアでは、米国のアフガニスタンやイラク戦争に反対する声は広がっている。さらに、多くの人びとは「JIに対する戦い」という口実で、米国とオーストラリアが公然と介入し、また国内では軍が勢力を伸ばし、民主主義が後退することを恐れている。
  また人びとは、米国とオーストラリアの意図に疑いをもっており、JIがバリ事件やその他のテロ事件の主犯だとする説を容易に信じようとしない。
これはJI自身のあいまいな性格によるところが大きい。たとえば、JIは、これまで声明や資料を発表したこともなければ、政治組織としては当然あるべき政治綱領もない。
  さらに、JIという名前も目的がはっきりしない原因である。JI とは「イスラム共同体」の意味である。したがって、JIに対する攻撃は、イスラム社会全体に対するものになる。バリ事件でJIを疑うことは、米国のオクラハマ爆弾事件でキリスト教社会を、アヨダヤ・モスク破壊事件でヒンズー社会を非難するのと同じである。
  したがって、「国際危機グループ(OCG)」のSidney Jonesが分析したように、「JIが存在すると信じているのはインドネシアの人口の半分以下である」ということになるだが、JIは存在するのだ。
  JIは、1990年代初めに、当時マレーシアに亡命していたAbdullah SungkarとAbu Bashirによって設立された。JIは、主として中部ジャワのソロ市郊外のNgruki村のBashirの神学校などインドネシアのイスラム過激派の神学校出身者に基盤を置いていた。このことから、JIはしばしば、「Ngrukiネットワーク」と呼ばれる。
  爆弾事件についてのバリ法廷で、JIが決定的に関係していたことが明らかになった。有罪となった4人の被告はJIと長期間にわたって関係があった。その中で国側の証人となった被告の1人がそれを認めた。他の3人も無罪の主張を翻し、事件に関係したことを認めた。
  しかし、JIのものとされるテロ事件の多くは、法廷では証明されなかった。だた、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリピン、アフガニスタンやその他の国に200人のJI容疑者が逮捕されている、という事実しかない。その多くは起訴もされず、裁判にもかけられずに何年間も拘置されたままである。そして、多くのケースでは、自白は精神的、肉体的拷問によって得られたものである。その結果、裁判にかけられると、多くは、証拠不十分で却下されている。

2.JIのイデオローグは誰か

  JIのイデオローグは疑いなくBashirと、1999年に死亡したSungkarの2人であった。2人は、おおやけには政治綱領を発表していないが、「イスラムの敵」に対する暴力的な攻撃を正当化する反動的な原理主義者のイデオロギーを持っていた。
  JIとその主たる敵であるブッシュ政権との間には、イデオロギー的には共通するものがあるといえる。Bashir とSangkarがテロ行為でもって「イスラムの防衛」を正当化するときに使う誤った世界観や遅れた歴史観は、ブッシュのそれに類似している。
たとえば、ブッシュは「悪の枢軸」に対して「文明」を護ると称して、「先制攻撃」ドクトリンをもってアフガニスタンやイラクを侵略した。その結果、多くの無実の人びとが殺された。
  Bashir/Sungkarは「善と悪」、「アラーの信者」と「サタン信者」の間の不可避な対立をもって、イスラム世界を守る「ジハード(戦いの意味)」を正当化する。
  1999年、BashirとSungkarはインドネシアに帰国した。そして、「インドネシアの危機―原因と解決」と題するビラを出した。それは、「異端者オランダ人」、「馬鹿な日本人」「異端者中国人」「異端者キリスト教徒」などといった反ユダヤ主義的、人種差別主義的な言葉が使われており、インドネシア人がイスラムへの信仰が欠如していたから、これまで、抑圧されてきたのだ、と弾劾している。97年のアジア通貨危機は、アラーを信仰してこなかったために罰を受けた、と言っている。イスラム教徒にとっては、シャリアを実行するイスラム国か、それを達成するために死ぬか、の2つの選択肢しかない。
  このような考えはエキセントリックであるばかりでなく、非常に反動的である。JIは世俗的な国、民主的な国を嫌悪している。理想とするのは、昔のような主人と召使、僧侶と信者、夫と妻のような封建的な社会関係である。これを宗教の衣をつけ、さらに野蛮な懲罰制度をもって導入しようというのである。
  JIはインドネシアの富裕層の最も遅れた部分で、イスラムを支配の道具と見ているものを代表している。JIが人びとの利益を代表しているとは決して言えない。JIはインドネシアの最も極端な右翼のイスラムである。

3.JIの歴史的背景

  JIの歴史は、20世紀初頭に遡ることができる。19世紀末、「純粋なイスラムに戻れ」という運動が中東で起こった。その後、これが植民地支配に対抗して生まれた国内のブルジョワジーが台頭してきたインドネシアに伝わっていった。
しかし、インドネシアのブルジョワジーはイスラムの復興と近代の科学と技術をミックスさせた「イスラム近代主義者」であった。20世紀に入ると、このイスラム近代主義は、植民地独立運動の中に吸収された。インドネシアの独立運動は、労働者と都市中産階級が参加したが、一方農村部にはまったく浸透しなかった。農村では、ヒンズー教、仏教、アニミズムとハイブリッドしたイスラム教が支配的であった。ロシア革命以後、この独立運動の中から、インドネシア共産党(PKI)が誕生した。
  第二次世界大戦中、イスラム近代主義は、主として都市部のプチ・ブルジョワジーの保守的分子に依拠する一握りの右翼主義グループに成り下がっていた。彼らはオランダ人支配者、ジャワの貴族、中国人の経営者を憎悪した。同時にPKIを敵視した。
  日本軍占領下に誕生した組織Masyumiは、戦後、主要なイスラム近代主義党になった。彼らはPKIと世俗的な民族主義者であったスカルノを敵視した。1958〜59年、Masyumi党の幹部がスマトラでCIAの支援を受けた反乱政府の樹立に参加したため、スカルノによってMasyumi党は非合法化された。1940年代、Masyumi党の政治家から僧侶に転向したS.M.Kartosuwirjo がDarul Isulam運動を設立した。これはスカルノを最も敵視した。彼は、アチェと南スラべシの反乱と呼応して、1949年8月、スカルノのインドネシア共和国に対抗して、インドネシア・イスラム国(NII)の樹立を宣言した。ジャカルタ政府に対する反乱は持久戦になり、1962年まで続いた。15,000〜20,000人の死者を出したと推測される。Kartosuwirjoは逮捕され、処刑された。
  1965〜66年、インドネシアにCIAの支援を受けた反スカルノ・反PKIのクーデターが起こり、スハルト政権が誕生すると、Masyumi党、非合法のDarulの残党などすべてのイスラム組織はこれを熱烈に支持した。そして、クーデターに続いたPKIメンバーの殺戮にも参加した。
  オランダのインドネシア学者のMartin van Bruinessenは「初期スハルト政権の顧問であり、新秩序の起草者であったAli Murtopo が、ひそかにDarul Islamの元戦士グループをPKIに対する闘争の秘密の武器として保護してきた」と語った。
  スハルトは、これらイスラム党を利用したが、しかし、彼らが要求するシャリア法などを導入する気はなかった。前任者のスカルノ大統領と同様、スハルトはインドネシアのブルジョワジーの利益を代表するものであった。
  スハルトがMasyumi 党の要求を拒否したため、Masyumi党の中で分裂が起こった。指導者の一部とモスリム学生協会(HMI)はゴルカールに参加した。残りはイスラム国建設に固執し続けた。
  第2のグループの中で、「Dewan Dakwan Islamiayah Indonesia(DDII)」は、政治運動ではなく、イスラムへの改宗に勢力を注いだ。DDIIは中東のサウジアラビアからイデオロギーと資金的な援助を受けた。サウジアラビアは1962年に、「イスラム世界同盟」を設立し、ワハビズムというイスラム原理主義のブランドを広めていた。DDIIは同盟のインドネシアの有力なパートナーとなり、元Masyumi党の議長であったMohammed Natsirが同盟の副議長になっていた。
SungkarとBashirは、Masyumi/DDIIの最も過激な分子であった。彼らは、Darul Islamの反乱にインスピレーションを得て、イスラム近代主義派にも関係していた。2人とも30年代、ジャワで生まれ、イスラム近代主義の神学校で学んでいる。1950年代には、Gerakan Pemuda Islam Indonesia(GPII)というMasyumi党に属する学生組織のメンバーであった。2人が出会ったのは1963年であった。
  勿論、2人は、これら非合法組織に関係していることを隠していた。しかし、Darul Islamに関係し、イスラム国建設の武装闘争を支持していたことは間違いない。
  1997年、オーストラリアのイスラム学生誌『Nida’ul Islam』のインタービューに対して、SangkarはKartosuwirjoを褒め称え、JIの起源をDarul Islamに求め、ジハードをスハルト政権に対する戦いの武器として認めている。
  65〜66年のクーデター以後、DDIIのジャワ支部長であったSangkarはBashirとともにイスラム国建設のキャンペーンを公然と開始した。2人は67年ソロ市内にラジオ局を設け、71年に同市内にイスラム神学校を立てた。2年後、これを今のNgruki村に移した。彼らはスハルトの世俗主義とパンチャシラを激しく攻撃した。
  1975年、治安当局によりこのラジオ局は閉鎖された。1977年には、Sangkarは選挙ボイコット運動を行ったため逮捕され、6週間拘留された。
1970年代には、スハルトはイスラム過激派が反政府運動に合流することに危機を感じはじめていた。そこで、1978年11月、西ジャワのDarul Islam 司令官であったIsmail Pranoto師との関係と、Komando Jihad、すなわちJIの武装グループとの関連でSangkarとBashirを逮捕した。
  一方ではIGCの報告書によると、スハルト政権のMurtopo治安司令官がさまざまな人脈を利用して、Darul Islamとつながっていた、という。治安局であるBAKINはKomando Jihad、すなわち武装民兵と連絡を取っていた。その理由は、1975年、米軍がベトナムで敗退したので、「共産主義の復活の脅威に対処するため」だというものであった。
  1979年半ば、治安当局は、Pranoto師やDanu Mohamad HasanなどKomando Jihadのリーダー185人を逮捕した。裁判の中で、HasanはBAKINによってリクルートされたと自白した。そして、軍が彼に、元Darul Islamのメンバーに対して、共産主義の脅威を宣伝するように指示したことを暴露した。
  その翌年、Sangkar とBashirが逮捕されたのだが、Murtopoに指示されていたことを白状した。SangkarはPranoto 師に会ったことは認めたが、Darul Islamのメンバーであったことは否定した。Pranoto師は決して裁判にかけられることはなかった。ただSangkarとBashirの声明だけが報道された。
  当時の2人とJIの活動は明らかでない。ICGの報告書には「1979年末ごろのJIは、政府がでっち上げた組織なのか、Darul Islamの再来なのか、単なるある種のイスラム教徒の集まりなのか、Sungkar/Bashirの組織であるのか、はっきりしない。いずれにせよ、それらすべてであった」と書いてある。
  ジャカルタ地裁では、Sangkar とBashirは有罪を宣告され、9年の刑が科せられた。しかし、その3年後の1982年には、高裁の判決で釈放された。ところが85年、最高裁が高裁の判決を覆し、地裁の9年の刑が確定した。その時、2人は国外に逃れ、99年までマレーシアに亡命した。

3.CIAの反ソ「ジハード」の中で

  ソ連軍のアフガニスタン侵略が始まらなければ、SangkarもBashirもマレーシアで反スハルトの陰謀を企みながら、歳をとっていっただろう。ところが、CIAが対ソ作戦にイスラム過激派をリクルートし始めたのであった。これに呼応して、パキスタンのジア軍事政権が基地を提供し、サウジ政権が資金を提供した。マレーシアにいたSangkarとBashirもこれを好機到来と捕らえた。サウジアラビアからの資金を狙って、DDIIとのコネを使い、イスラム世界同盟にアプローチした。
  オランダのVan Bruinessen 博士によると、「JIのネットワークに属する200人がイスラム世界同盟の資金でアフガニスタンに赴き、Abdul Rasul Sayyafが率いるムジャヒディーン・ゲリラのキャンプで訓練を受けた。Sayyaf は、ワハビ派に属し、サウジアラビアと関係が深かった。このキャンプにはオサマ・ビンラディンもいた。
  80年代、スハルトがイスラム右派の弾圧を強化したため、SungkarとBashirの下には、多くの志願兵が集まった。とくにSungkarは、自身のゲリラ組織を設立するという目的のために、とくに教育のある人材を集めた。ゲリラ志願兵は、Sayyafのキャンプでフル・コースの訓練を受けた後、さらに3年間、軍事、イデオロギーの訓練を受けた。この時、インドネシア人はタイ、フィリピン、マレーシアからの志願兵と一緒にされた」と言っている。
  このことからも明らかなように、JIの誕生に寄与したのはCIAの「汚い戦争」であった。アフガニスタンのゲリラたちは帰国すると「英雄」扱いを受けた。インドネシアでは、帰国したゲリラたちは「272退役軍人会」という組織を設立した。
  ICGの報告書によれば、「爆弾事件に関係したJIの指導部の多くは、1985〜95年、
  アフガニスタンで訓練を受けた。そこでは、ジハードの世界観から武器の扱い方までを学んだのだ。注目すべきなのは、JIの設立がアフガニスタンのリクルートが始まってから最低7年間かかっている点である。つまり、JIの組織としての設立は、それ以前にすでに存在していたネットワークの延長であった」という。
  アルカイダにしろ、JIにしろ、80年代には親米の組織であったものが、どうして反米に転向したのかは大きな問題点である。それは、60年代、インドネシアでCIAは左翼を弾圧するためにイスラムを利用したが、同じように、アフガニスタンでもCIAはイスラム過激派を対ソ戦略に利用した。これは、CIAとイスラム過激派の“政略結婚”であった。そして、ソ連が崩壊すると、彼らはゴミのように捨てられた。ビンラディンのケースでは、転向は90〜91年、湾岸戦争だった。ビンラディンは米軍が世俗的なイラクを攻撃することには反対ではなかった。だが、彼が怒ったのは、メッカやメディナというイスラムの聖なる土地サウジアラビアに異教徒米兵が駐屯していることであった。
  アフガニスタンで培われた東南アジアのイスラム過激派のネットワークを利用して、SangkarとBashirは、1993年、JIを設立した。
  一方、インドネシア国内では、スハルトは揺らぎ始めた政権をテコ入れするためにさまざまなイスラム勢力にアプローチしはじめた。そのため、スハルトはいかがわしいメッカ巡礼に行った。また盟友B.J.Habibieを議長にしたイスラム知識人協会(ICMI)を設立した。ICMIは独自の機関紙『Republika』を発行した。また有力なイスラム教徒を政府や軍の幹部に取り入れた。イスラム銀行やイスラム法廷の権限を強化したりした。
  このスハルトの戦術は功を奏した。たちまちDDII のタカ派幹部たちがスハルトに付き、「インドネシア・イスラム世界連帯委員会(KISMI)」の設立に大きな役割を演じた。KISMIは大統領の女婿であるPrabowoSubianto 将軍を通じてスハルトと密接な関係を持ち、ボスニア、カシミール、チェチェン、アルジェリアで迫害されたイスラム教徒支援のチャンピョンとなった。
  一方、SangkarとBashirはマレーシアにいて、相変わらず「反スハルト」の旗を掲げていた。しかし、1996〜97年にインドネシアにアジア危機が起こった。ルピアの価値は激落し、企業はバタバタと破産した。貧困と失業が急増した。IMFはこれをテコにインドネシアに構造調整プログラムを押し付けた。その結果、スハルトの政治的、経済的権益が脅かされた。またスハルトはワシントンの後ろ盾をも失った。学生の反スハルト・デモが起こった。スハルト政権は打倒された。
  しかし、JIはマレーシアにあって、このスハルト打倒運動には何の役割も果たしていない。国内では、KISMIとその他のイスラム右派は最後までスハルトを支持した。
  国軍は、意図的にコミュナルな紛争を煽った。1999年から2000年にかけて、東チモールでは国軍の上級将校がインドネシア派民兵の独立派に対する武力攻撃を扇動した。
2000年には、国軍はまた、モルッカやスラベシでの宗教間対立を扇動した。
  99年に帰国したBashirたちJIは、このような混乱とオルターナティブな勢力が不在なところにつけ込んで、宗教紛争を利用し、アジア危機で困窮化した中産階級、破産した中小経営者などの間に勢力を伸ばした。JIは大学教育を受けながら就職口のない若者たちをJIの民兵にリクルートした。またJIの反IMFや反米の過激なレトリックもこれら絶望的な人びとを引き付けていったのであった。