世界の底流  
第5回世界社会フォーラムについて(注)
2005年2月15日


はじめに

  第5回の世界社会フォーラム(WSF)は、再びブラジルのポルトアレグレで開かれた。ブラジルのWSF組織委員会は、かねてからスイスのダボスの世界経済フォーラムに対抗して、ポルトアレグレを貧しい人びとが集う“聖地”にしたいと主張していた。昨年1月のインドのムンバイからポルトアレグレに戻ったので、主催者の意気込みは大きかった。
   ポルトアレグレには、フォーラムに登録した人の数では、120,000人にのぼった。
これはポルトアレグレでの第3回の100,000人、ムンバイの110,000人を上回り、最大の参加者数になった。組織の数では4,000を超え、国の数では112カ国にのぼった。メディアの数も5,421人と最大を記録した。
  今回は、これまで開催地の実行委員会が準備する一連の全体会議を廃止した。代わりに、グローバリゼーション、文化、多様性、人権、連帯経済、スピリチュアリティ、社会運動、反戦平和、知識の共有化、国際機関改革など11のテーマを設け、それらを、長さ4キロ、15万平方メートルのスペースに、それぞれのテーマ別の会場を建設した。これには米、麦などの藁を含んだ有機の廃品が使われた。
  それぞれ11の会場では、参加団体がテーマに沿った内容の会議、セミナー、ラウンドテーブル、ワークショップなどを開いた。全イベントの数は2,500にのぼった。これには日本語を含む17カ国のボランティア通訳(バベル)が議論をサポートした。
  また、第1回情報・通信フォーラムや国際映画祭が開かれたのも今回がはじめてであった。Parque Harmonia にはテント村も設けられ、1日5ドルという安い料金で家族が泊まれた。

特徴―ダボスへの影響力

   すでに、昨年1月のムンバイで、WSFは1999年のシアトル以来、世界中で反グローバリゼーションのデモを繰り広げてきた労働者、農民、市民などの社会運動が、一堂に会して議論をするという当初の思惑を超えて、巨大な国際開発協力NGOや環境NGO、その他あらゆる国際ネットワークが、ここに参加するとともに、フォーラム開催を利用してフォーラム期間の前後に自分たちの戦略会議をひらくといったことまで起こっていた。 
  さらに、反グローバリゼーション派のオピニオン・リーダーと目される人が続々とあつまった。そればかりでなく、ムンバイには、世銀のチーフエコノミストで、ノーベル経済賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ、ヘッジファンドのジョージ・ソロスといった本来ダボスの立役者であるような人も顔をみせた。国連のアナン事務総長がビデオ・メッセージを寄せるなど、もはや世界はWSFの存在を無視することができないまでになっていた。 
  今回のポルトアレグレは、ついに、ダボスの政治経済のエリートたちの世界経済フォーラムに大きな影響を与えたというのが、目だった特長である。
  そもそもダボスは国際決済銀行(BIS)が主催し、多国籍企業の重役たちが4万ドルの参加費を払って、“秘密裏に”、世界戦略を話し合う場であった。しかし、90年代の終わり頃から、政治家が参加するようになり、世界のエリートの一大ショーと化していた。
  ところが、今年のダボスには、英国のブレア首相が参加し、米国にテロと闘うと同時に貧困と闘うべきだ、と言い、テロ以外に国際社会の課題として、貧困、エイズ、温暖化などを上げたのであった。ブレア首相は、また、ビル・ゲイツ、ロックスターのボノと共にダボスで記者会見を開き、アフリカのエイズと貧困根絶と闘うことを訴えた。
さらにフランスのシラク大統領は、保守派であるにもかかわらず、また公務でパリをはなれることが出来なかったにもかかわらず、ビデオで途上国の貧困根絶の重要性を訴えた。そのための資金源として、彼は、為替取引税(トビン税)、環境税、航空燃料税、武器輸出税など一連の国際税の導入を訴えた。シラク大統領は、反グローバリゼーション運動を意識して「連帯のグローバリゼーション」という言葉さえ使った。
  これらは、ポルトアレグレを意識した政治的ゼスチャーであることは間違いない。

危険な兆候

1) ルラとシャベス両大統領のスピーチに対する反応
  2003年1月、第3回WSFがポルトアレグレで開かれたとき、就任間もない労働党のルラ大統領がスピーチをした。当時は、ネオリベラルなグローバリゼーションとの闘いの象徴としてルラ大統領が熱狂的な歓迎を受けた。
  しかし、2年後の今回は少し違ったようだ。1月28日、ルラは「貧困根絶のグローバルな呼びかけ(GCAP)」を発表した。しかしこのルラのスピーチには、大多数が拍手したが、かつてはルラの最大の同盟者であったに土地なき労働者運動(MST)や少数の極左グループの統一労働者社会主義党(PSUT)からブーイングを受けた。ルラがIMFに屈したことや彼の選挙スローガンであった「飢えのキャンペーン」の失敗、さらにポルトアレグレに続いてダボスに参加することなどに対する不満があった。
  一方、ベネズエラのシャベス大統領は、02年の反革命クーデタに勝利して以来、彼の「ボリバール革命」を遂行してきた。石油の輸出代金から40億ドルを社会保障プログラムに投じて、労働者の職業訓練、農地改革、識字プログラム、低所得者用住宅建設などに充当しており、それらプログラムはかなり効果をあげている。シャベスのスピーチでは「シャベス・シ、ルラ・ノー」の連呼があがった。
  このような傾向に対して、今回はじめてWSFに参加したポルトガルの作家でノーベル賞受賞者であるJose Saramago は、ルラ大統領を擁護し、「極左行動」を非難した。

2) 19人の「ポルトアレグレ・マニフェスト」
  第5回ポルトアレグレWSFは大成功であった。と同時にある種の転換点に差しかかっているようだ。  
   2001年6月事実上の運営委員会である第1回国際評議会(IC)において、採択された「憲章」は、WSFとは、「もう一つの世界は可能だ」という共通のスローガンの下に、ネオリベラルな自由市場モデルに反対する人びとが集い、民主的な議論をし、提案を行ない、経験を交流する「オープン・スペース」であり、決して、グローバルな市民社会を代表する組織ではない、と規定した。したがって、WSFでは、決議を採択しないし、組織化もしない、というのが原則であった。だからこそ、これまで5年間、続いてきたのだし、また回を重ねるたびごとに参加者の数も増大していった。そして、ついには、ジョセフ・スティグリッツのようなネオリベラルなエコノミストでさえ、参加するようになった。 
   しかし、成功は、当然のことながら、憲章に合わなくなる。また「もう一つの可能の世界とは何か」という問いが出てくる。
  第1の兆候は、ルラ大統領が、ポルトアレグレでスピーチをした後、ダボスに参加して、ある種の「橋」をかけると言ったときだった。ルラは、WSFを代表する声ではない、として反対の声があがった。なぜなら、たとえルラ大統領であっても、WSFはリーダーもスポークスパーソンも持たないという原則に反するからである。
  第2の兆候は、WSFの2日目、1月28日、19人の著名人たちが「ポルトアレグレ・ マニフェスト」を発表したことであった。
  その1人であるJose Saramago は「WSFは、毎年メッカ(ポルトアレグレを指す)への巡礼であり、ユートピアを議論する場ではない。具体的な提案に基づいた行動の武器にしなければならない」と述べた。
  19人の顔ぶれの中には2人のノーベル賞受賞者がおり、多くのWSFの創設者とICメンバーがおり、また今度がはじめての参加者もいた。
  Aminata Traire(マリの作家)、Adolfo Perez Esquivel(アルゼンチンの建築家でノーベル平和賞受賞者)、Eduarudo Gaetano(ウルグアイの週刊誌、日刊新聞の編集者)、 Jose Saramago(前述)、Francois Hutart( ベルギーの哲学教授で、Centre Tricontinental を主宰、ICメンバー)Boaventure de Sousa Santos( ポルトガルの法学者)、Armand Mattetart(ブラジルの情報学教授、ICのメンバー)、Roberto Savio{IPSの名誉会長でICメンバー}、Riccardo Petrella(ベルギーの教授)、Ignacio Ramonet(ルモンド・ディプロマティークの編集長とMedia Watch global の会長、ICメンバー)、Bernard Cassen(ルモンド・ディプロマティーク誌の社主でWSFの創設者)、 Samir Amin(エジプトの学者「従属理論派、第1回WSFから参加」、Atlilo Baron、Samuel Ruiz Garcia(メキシコ、チアパス教区の司教)、Tariq Ali(パキスタンの作家)、Frei Beto(ブラジル人作家)、Emir Sader(サンパウロ大学の哲学教授)、Walden Bello(フィリピン大学教授、ICメンバー)、Imanuel Wallerstein(米国教授で「世界システム論」)
  「マニフェスト」は、12項目の提案を行なっている。それは、債務帳消し、為替取引に対するトビン税の導入、タックス・ヘブンの解体、フェアトレードの推進、食糧主権と安全保障、知識のパテント化禁止、水の民営化反対、少数民族と女性に対する差別撤廃、知る権利、外国軍事基地の解体、環境破壊をやめること、国際機関の民主化などをふくんでいる。国連については本部をニューヨークから南の国に移すことも入っている。「マニフェスト」は12項目のうち7項目が経済問題で占められている。残りの5項目は国際機関の民主化に費やされている。
  これは、記者会見の席でIgnacio Ramonet が述べたことだが、「マニフェスト」の12項目は、今回のWSFが選んだ11のテーマ別のブロックでの議論をまとめたものだという。したがって、彼はWSF Vの参加者の大多数がこれに賛同するものと信じている、と述べた。しかし、「マニフェスト」は、WSFの第2日目に発表されており、しかもWSFの会場から離れたプラザ・サンラファエル・ホテルで起草されたものだった。
   「マニフェスト」に署名した19人から落ちている人の中で、特に注目すべきなのは、WSF創設者の1人であり、「憲章」の起草者であり、ICメンバーでもあるFrancisco(Chiko) Whitaker(ブラジル労働党員で、カトリック正義と平和協議会会長)と Candido Grzybowski(IBASE会長)の2人である。Chico は「これは何百もある提案の1つにすぎない」と述べた。
  またもう1人の署名しなかった創設者Grzybowskiは、Bernard Cassenに誘われて起草に参加したのだが、署名をしなかった。彼は「内容には完全だし、多分80%の参加者が賛同するだろう。しかし、これが起草され、提案された経緯に、賛成できない。なぜなら、これは少数の知識人によって起草されたからだ」」と述べた。
  また「マニフェスト」に対する批判のなかには、「戦争と平和」の問題が抜けている点である。たしかに、今日、ネオリベラリズムとともに、軍事力主義がはびこっており、ともに重要な問題である。また、19人の起草者の多数が“ヨーロッパ”出身の男性であるということも批判の1つである。
  WSFがこれによって分裂するとは思えない。しかし、WSFの成功そのものが、これまでWSFの推進力となってきた水平思考、非ヒエラルヒー性、参加型、多様性が失われていく危険をはらんでいるといえよう。
 
これから

  来年2006年には世界社会フォーラムは開かれない。その代わりに、地域別のフォーラムが開かれる。しかし、それぞれが何処で開かれるかということに関しては、政治がからんでくるようだ。たとえば、来年のアメリカ社会フォーラムは、ベネズエラのシャベス大統領と社会運動は、是非カラカスで開きたいト言っているが、これがシャベス政権支持の大会になることを危ぶむ声もあり、実現には時間がかかるだろう。
  次回のWSFは、アフリカで開かれることになっている。私は、セネガルのダカールか、ケニアのナイロビのいずれかであろうと思っている。次回3月末に開かれるICで決まる
だろう。
  このほか、月31日付けで、「社会運動からの呼びかけ」と題して、「戦争、ネオリベラリズム、搾取、疎外に反対する」という長文の声明が出ている。これは2001年1月の第1回WSF以来、ポルトアレグレで開かれたWSFでは、いつも発表されるもので、参加した社会運動が署名するという形をとっている。(www.movsoc.org

(注)これは現地報告ではありません。私はポルトアレグレに行きませんでした)