世界の底流  
イラクは“ベトナム化”した
2004年4月7日

 2004年4月1日、イラクのファルージャで米企業に雇われた4人のアメリカ人ガードマンが殺害されるという事件が起こった。しかも怒ったイラク人たちが遺体を切り刻み、橋の欄干につるし、しかもそれが通行人によってビデオに収録された。この4人は、元米軍の特殊部隊にいた人びとであって、イラクに進出した企業の警備を担当していた。
 この事件は米国人にとっては大きなショックであった。なぜなら、ここ数ヵ月、イラクの戦闘のニュースの報道は数が減っていたからだ。
 『ニューヨークタイムズ』紙は、この写真を1面に掲載した。一方、多くのテレビやケーブルのネットワークはこの生々しい映像の報道を自己規制した。しかし、米国人の多くは、これが10年前、ソマリアのモガデシオで18人の米海兵隊員の遺体が町中を引き回された事件と同じであることを感じたのであった。ソマリアの事件は、米軍の即時撤退につながった。

この事件はいくつかの点で、イラク情勢が曲がり角にあることを示している。

 第1にブッシュのイラク攻撃の口実であった大量破壊兵器の存在とフセイン政権とアルカイダとの関係が、全く嘘であったことが、ブッシュ政権内部の人物によって明らかになった時に、まさにこの事件が起こった。これはブッシュにとっては2重の打撃であった。
 第2に、ファルージャ事件の同じ日に、ファルージャに近いハイウエイ上で、5人の米兵が殺害され、さらに、ブッシュ大統領自ら爆撃にも絶対の壊されることがないと保証した装甲車が、襲撃にあって見事ひっくり返され、炎上するという事件が起こった。この日の米軍の死者の数はここ4〜5ヶ月で最大の記録となった。3月の死者の数は48人にのぼり、前月の2倍になった。そして、昨年5月1日、ブッシュ大統領がイラク戦闘終結宣言をして以後の米軍の死者数はついに600人に達した。
 第3に、ファルージャ事件は、「外国とそれにつながる国内のイスラム過激派が、フセイン支持派に代わった」という米軍の声明、さらに、「“スンニー”三角地帯のフセイン派の残党は壊滅した」とする米軍の声明などを見事覆すものとなった。

 これらのことから言えるのは、イラク情勢が、ベトナムに似てきたということだ。
 68年1月30日、それまで米軍司令官は、「ベトコンは壊滅された」と繰り返し声明していたが、突如として解放戦線がベトナム全土1000キロの戦線に米軍に対して一斉攻撃を行った。これは有名な「テト攻勢」であった。これで米国は軍事力ではベトナムを制圧できないことを悟ったのであった。
 4月5日、米軍は、ファルージャ殺害事件に対する報復として、陸と空からの大規模な攻撃を町に対して開始した。と同時に、この隣町のラマディで30人近くの米兵と外国軍兵士が戦闘で死んでいる。
 一方では、シーア派のサドル師の率いる民兵と人びとが、大規模な反米デモを開始した。このシーア派の反乱はラマディ、バグダッド、サドルシティ、バスラ、モスル、アダミヤ、クファ、クト、カルバラ、アマラ、キルクーク、モスル、ナシリーヤ、スラなど、イラク全土にわたっている。これに対して、すべての反乱地域に米軍が派遣され、鎮圧にあたらざるを得なくなっている。
 イラクの米占領軍は今、真の意味でのイラク人の反乱に直面している。マスメデイアは、イラク人をフセイン支持の“スンニー派”とフセイン時代に抑圧されたシーア派とに区別しているが、真実は、米軍の占領に対して、イラク人全体が闘っているということである。米軍の占領に対する憎悪は一般の人びとに広がっている。米軍の占領行為そのものがこの憎悪を作りだしている。今やネオコンのメディアと化した『ウォールストリートジャーナル』紙は、「米兵の“不適切な”行為を裁く軍事法廷を設け、違反者を罰するべきだ」と言い出している。しかし、米兵の士気を殺ぐような軍事法廷などは、今の米占領軍にはとうてい考えられないだろう。
 1つ重要なことは、ベトナムとイラクとの違いである。米国がベトナム侵略したのは、中国の共産主義から“自由世界”を守るため、であった。米軍はベトナムから撤退したが、代わりに、中国と国交を回復し、ソ連に対して「中国カード」を使った。今日、米国は、これまで言ってきたすべての口実が否定されたため、やむなく「イラクを民主化する」ことを口実にしている。しかし、明らかなことは、世界第2位の埋蔵量を持つイラク、そして世界の埋蔵量の3分の2を占める中東の石油を手中に収めることであり、イスラエルを守ることである。そのため、米国がイラクから簡単に撤退することはできない。
 ブッシュ=ラムズフェルトの選択は、さらなる米軍の増強であろう。それは、イラク人の憎悪を増大させ、出口の見えない泥沼にはまっていくだろう。