世界の底流  
ハイチの政権転覆クーデタの背景
2004年3月4日

1、 ラムゼイ・クラーク元米司法長官の論文(抄訳)

 これまで3年間、ブッシュ政権はアリスティードを大統領の座から引き摺り下ろそうと画策してきた。たとえば、一方的な経済制裁を課したり、または北半球で最も貧しい国に対して人道援助を削減したりした。反アリスティードの宣伝もすごかった。さらにハイチの憲法と法律に違反した選挙の呼びかけを支持したりした。反政府勢力に対する直接の軍事援助もした。
 最近ではハイチに重火器をもって潜入した元ハイチ軍の将校、FRAPHの指導者、それに犯罪者どもの軍事侵略を援助して、直接アリスティード政権の転覆をはかった。"反乱軍"は、数こそ数百人と少ないが、たちまちCap Haitien、 Gonaives、 Hinche、 Les Cayesなどの諸都市を制圧し、戦闘の訓練を受けていず、ピストルしか所持していなかった警官をやすやすと殲滅した。
 アリスティード大統領が、1990代半ば、「平和を志向して」ハイチ軍を解体していなかったら、"反乱軍"はあえてハイチに潜入してこなかっただろう。このようなアリスティードの平和主義は勇気のある行動ではあったが、不幸なことに軍事侵略に対して、国を守る手段を喪失する結果となった。
 CARICOM(カリブ海共同体)、OAS(米州機構)、国連などの国際組織は、民主的に選出されたハイチ政府を守るために行動すべきである。以前、コスタリカが軍隊を解体したとき、隣国のニカラグアのソモサ大統領が2度も軍事侵略を試みたが、最初はOAS、次はベネズエラによって阻止されたという歴史がある。
 歴史的に米国は、30年にわたってハイチの軍隊、民兵のFRAPH、犯罪ギャング、それにオリガーキィたちによって支えられてきたデュバリエのテロリズムを支持してきた。1986年Baby Docデュバリエ(2世)が危機に瀕し、もはや人びとの怒りを沈静化できないと判断した米国は、空軍機を送って、独裁者をフランスのリビエラに亡命させた。
 アリスティード大統領は、断固として、ブッシュ政権の圧力に対して、辞任、亡命、そして民主主義と憲法に基づいた政府の転覆を拒否してきた。これは、1991年、アリスティードが大統領に就任して9ヶ月後に起こったクーデタと同じであった。アリスティードは、1791年、ハイチのToussaint Louverteurの奴隷の反乱からナポレオンの軍隊を破ったJean-Jacques Dessalinesの独立宣言 に至るまでのハイチ革命以来、はじめての民主選挙で選出された大統領であった。
 フランス亡命中の1992年にアリスティードが書いた自叙伝には、1991年、彼が国連総会で述べた「ハイチの民主主義の十戒」が述べられている。すなわち「自由、民主主義、人権の尊重、食と職の権利、ハイチ人移民の保護、非暴力、人間の尊重、富の分配、ハイチ文化の尊重、すべての人が同じテーブルにつくこと」であった。
 ブッシュ大統領がアリスティードを追放したことは、一方的な侵略戦争であり、国際法の侵害である。米国を国際的に孤立させることなく、テロが世界中に蔓延するのを防ぐために、米国の議会は、以下の項目について調査を開始すべきであると私は要求する。
1) アリスティード大統領の追放に米国が果たした役割
2) ハイチ侵略のためにブッシュ政権が支援した訓練、資金供与
3) ブッシュ政権がハイチを不安定化するために、旧軍隊、FRAPH, オリガーキーに与えた援助
4) アリスティード大統領が、それまでの声明に反して、突然出国し、その飛行機が遠いアフリカに向かったことについての米国の役割
5) 米国はなぜこれまでハイチの旧軍隊、FRAPH, その他の武装ギャングに武器を放棄するように言わなかったのか
6) 米国はなぜ、民主的に選出された大統領にしつこく辞任を求めたのか
7) アリスティードは、かってハイチのLouverture がフランスに、フィリピンのアギナルドが米軍に誘拐されたのと同様に、誘拐されたのではないか
2004年3月1日
2.ハイチのアリスティード政権転覆の背景

 エスパニョラ島の半分を占めるハイチは、コロンブスがはじめて上陸した島として知られる。しかし、東半分のドミニカ共和国の地域とは異なり、西部のハイチ側は土地が痩せていて、スペイン人の入植がなかった。そこでフランスがスペインから譲りうけたのであった。1799年、フランスに対してルーベルチュールによる黒人奴隷の反乱が起こった。
 1915年、米国は、フランスに代わって債務不履行を理由に軍事介入を行い、34年までハイチに軍政を敷いた。1956年、フランソワ・デュバリエ(Papa Doc)がクーデタを起こし、秘密警察トントン・マクードを使って独裁政治を敷き、64年には終身大統領を宣言した。71年、父デュバリエが死に、息子のジャン・クロード(Baby Doc)が継いだ。
 1986年、Baby Docは打倒された。そして、1990年、ハイチでははじめて民主的な選挙が行われ、アリスティード神父が大統領に就任した。しかし、9カ月後には、米CIAに支援されたRaoul Cedras 将軍のクーデタによって、アリスティードは大統領の座を追放された。その後3年間、軍政が続き、アリスティード派の抹殺、略奪が横行した。
 1994年、クリントン大統領は、海兵隊を送り、アリスティードを大統領の座に復権した。しかし、クリントンは、介入を軍事面に限定した。この時最も必要であったのは、農村で人権を侵害していた不法な民兵の武装解除と、新しい治安部隊の訓練であった。農村はアリスティードの主な支持基盤であった。その結果、これら不法な民兵や武装ギャングは米国やドミニカ共和国に逃亡した。
 今回の「反乱軍」、または「反アリスティード勢力」には、これら武装ギャングとともに民兵組織FRAPH(ハイチ前進進歩戦線)がある。Joel Chamblain、Emmanuel "Toto" Constant、Gabriel Douzableなどがリーダーである。彼らは、1993年10月、アリスティード政権の法務大臣だったGuy Malary暗殺の首謀者であった。
 また現在、アリスティード政権転覆後の「反乱軍」のリーダーとして登場しているGuy Philippeは、元ハイチ警察署長で、2000年10月、クーデタ計画に失敗して、国外に逃亡した人物である。
 しかし、これら「反乱軍」が3週間の攻撃でやすやすと首都を攻めることができたのには原因がある。それはアリスティードの失政であった。彼は、1994年、法王の命令により、神父を辞めた。同時に聖職者アリスティードとしてのカリスマ性も消えた。そして人びとにはフラストレーションが残った。
 アリスティードはIMFの報復を受けたのであった。アリスティードはIMFの公共サービスの民営化に抵抗した。彼はすでにこれらの民営化が第三世界で、どのような結果をもたらしたかを知っていた。そこで、IMFはアリスティードの改革に対して、あらゆる妨害を始めたのだ。アリスティードには、改革を執行する僅かな資金も供与されなかった。
 またアリスティードの誤りとして、彼が、軍隊を解体し、そして弱体な警察力に期待しすぎたということであろう。警察はピストルしか所持しておらず、ドミニカ共和国から侵入してきた米国製のM16、迫撃砲で武装した「反乱軍」には太刀打ちできなかった。