世界の底流  
フイリピンの共産党ゲリラの復活
2003年5月
 3月26日の米紙『ニューヨークタイムズ』は、「フィリピンで共産党の反乱が復活」という記事を掲載した。記事は、「すでに1990年代半ばにほとんど終わりをつげたかに見えたが、世界で最も長い共産党の時代錯誤とも言える武装反乱が再び息を吹き返した」と延べた。
 記事は続いてマニラ近郊ので起こった政府軍とゲリラの戦闘の模様を報じた。「サン・アグスティンにある教会のプールで、1人の"アマゾン"(フィリピンでは一般に女性ゲリラ兵士を指す)が着替えをしており、外に4人の男性ゲリラがグアバの木の下でおやつを食べていた時に政府軍が急襲し、激しい戦闘となり、ゲリラ側に戦死者が出た。しかし、ここ3年来、フィリピンでは、このような戦闘は全土で毎日のように起こっているので、新聞はこのような戦闘については4行のベタ記事扱いにすぎない」と書いている。
 軍事専門家は、共産党のゲリラ組織である「新人民軍」は、現在フィリピンと米国の合同軍が掃討作戦を展開しているミンダナオのイスラム・ゲリラよりも、はるかに大きな脅威だと見ている。21世紀最初の共産革命がフイリピンで起こるかも知れない。

フィリピン共産党の抗日ゲリラ

 『ニューヨークタイムズ』はこの記事のニュース源を明かにしていないが、記事の日付から推察して、新人民軍側の発表によると推測される。というのは、新人民軍の前身である旧人民解放軍(第1次抗日フク軍団)の誕生したのが1942年3月29日であり、さらに今日の新人民軍の誕生日も1969年3月29日であった。今年は新人民軍の34周年記念となる。フク団結成以後から見れば61周年となる。たしかに、これは世界で最も長く続いている共産党の武装反乱である。
 しかし、フィリピンの共産党ゲリラの歴史は、平坦ではなかった。
 太平洋戦争が始まった直後、1942年1月、日本軍がフィリピンに侵攻した時、米太平洋軍司令官マッカサー将軍をはじめとして、米軍はフィリピンからほとんど戦わすして逃げ出した。
 代わって、フィリピン共産党の抗日ゲリラ「フク軍団」がゲリラ戦を展開し、山下将軍率いる40万の日本軍をフィリピンにくぎ付けにした。抗日フク軍団は正規軍2万、ゲリラ5万人で、3年間に約2万5,000人の日本軍を殲滅した。

■ 1950年代の第2次フクの反乱 

 1945年、日本軍は降伏した。フィリピンを占領した米軍は、フィリピン政府軍に武器を供給して、フク軍団の武装解除を強行させた。一方、フク軍団の政治組織であるフィリピン共産党も、当時ソ連のスターリンの指示によって、議会民主主義路線に転向した。1946年の第1回議会選挙では、共産党の合法組織「民主連合」が中部ルソンから6人の候補を立て、全員当選したが、その直後議会から追放されてしまった。
 一方、1949年10月、毛沢東の中国革命が勝利した。地下に潜行したフィリピン共産党指導部は、50年3月29日、ルソン島中部の農村地帯で反政府ゲリラを開始した。これは「第2次フク軍団の武装反乱」と呼ばれるが、半年後の10月に終息した。

■ 新人民軍ゲリラの結成

 フィリピンでは、大統領の任期は4年1期限りという制度で、自由党と国民党の2大政党制の政治が続いていた。ところが、1966年、国民党のマルコスが第6代目の大統領として登場した時、フィリピン政治に変化が起こった。当時はベトナム戦争が激化しており、フィリピン軍のベトナム派兵に反対する学生の抗議デモが急進化していた。その運動の中心となったのが「民族主義青年同盟(KM)」であった。1968年12月26日、KMの創設者であったフィリピン大学のホセ・M.シソン講師は、新にマルクス・レーニン共産党(毛派)を結成した。翌年3月29日、かっての第2次フクのゲリラの生き残りでルソン島中部のタルラク州で反政府ゲリラ闘争をつづけていたダンテ司令官の下で、「新人民軍」と改名して武装闘争を再開した。
 一方、1970年、マルコス大統領は、4年一期限りという大統領制の不文律を破って、再度大統領選挙に出馬し、史上最も汚い選挙で自由党のアキノ候補に勝利した。1972年10月、マルコス大統領は、戒厳令を敷き、独裁政治を行った。
 新人民軍は、ルソン島から、ビサヤス諸島を南下し、ミンダナオ島にまでほぼ全土にわたってゲリラ地区を拡大した。同時に、ミンダナオでは、イスラム教徒の「モロ民族解放戦線(MNLF)が分離独立を求めてゲリラ闘争を開始した。

■ 新人民軍の分裂

 1983年8月、アキノ氏が亡命先の米国から帰国した際、マニラ空港でマリコス派によって暗殺された。この事件をきっかけに全国民的規模での反マルコス運動に発展した。新人民軍は首都マニラを攻撃する構えを見せた。86年2月26日、マルコス一家はハワイに亡命し、20年に亘ったマルコス独裁政治に終わりをつげ、議会制民主主義が復活した。
 この時、共産党・新人民軍の中で、コラソン・アキノ政権を支持するか、武装闘争を続けるかをめぐって分裂が起こった。この分裂は、党レベルに留まらず、新人民軍、大衆団体「民族民主戦線(NDF)」、労組、学生、農民、女性組織にまで及んだ。新人民軍司令官ダンテはアキノ政権に協力する道を選び、共産党議長のシソンは、武装闘争続行を唱えて、オランダに亡命した。新人民軍のゲリラ地区はほとんど消滅し、面ではなく、点を確保するのにやっとという時代が続いた。

■ 貧困の増大と政治の腐敗がゲリラの温床

 1997年、アジアを襲った通貨金融危機の波を受けて、フィリピン経済は低迷し、貧困が増大した。その翌年、「貧困根絶」を公約にエストラーダ大統領が登場した。人口の4分の3にのぼるフィリピンの貧困層は、エストラーダ大統領に大きな期待を寄せた。しかし、それは見事裏切られた。エストラーダ大統領の腐敗とスキャンダルは目にあまるものがあった。貧しい人びとには、銃を持って闘う以外には、生きる道はないと思われた。新人民軍が急速に勢力を伸ばすのは当然のことであった。
 新人民軍は、かっての誤りを反省して、アブサヤフよりはるかに大きいモロ・イスラム解放戦線(MILF)と戦術的な同盟を結んでいる。9.11以後、米国は、アブサヤフと並んで共産党系のNDFを「テロ組織」に名指した。しかし、新人民軍側は「テロと見なされるようなターゲットを選んでいない」と声明している。ゲリラ攻撃は、10〜20人の小隊から100〜200名の中隊単位で、大農園、養魚場、伐採業、バス会社、牧場、建設現場、携帯電話会社などに及んでいる。攻撃のターゲットにならないようにするには、「革命税」をゲリラに支払わねばならない。