世界の底流  
アフリカの危機―イラク戦争報道の陰に隠れたもの
2003年6月
 これまで1年以上、世界中の関心はイラクに向けられた。2000万人が地球を1周したイラク戦争反対のデモに参加し、国際政治はイラクを軸にして動いた。
 その陰にイラク戦争の惨禍をはるかに超える人類的な危機と、軍事紛争解決の偉大な努力が続けられている。

史上最大のアフリカの飢え

 さる4月8日、世界中がバグダッドからの衛星テレビに目を奪われている時、ニューヨークの国連世界食糧計画(WFP)は、「サハラ以南のアフリカ大陸では、4,000万人が飢えに晒されている」と発表した。WFPのジェームズ・モリス所長は、「これを救うには、今すぐに、10億ドル(約1,200億円)の緊急食糧援助が必要である」とし、「もしこれが他の大陸であったなら、このような史上最大の飢えを誰も黙っていないが、アフリカというだけで、長い間、このような事態が放置されている。明かにこれは国際社会の不当な二重基準である」と述べた。

330万人を超えるコンゴ紛争の死者の数

 同じ日、ケニアのナイロビで「国際救援委員会(IRC)」のジョージ・ラップ代表は、記者会見を行い、「コンゴ民主共和国(旧ザイール)では、これまで4年半に及ぶ内戦で、すでに330万人が死んだ」と発表した。これは「内戦による飢えと疫病が原因だ」と述べた。
 IRCは、ニューヨークに本拠を置き、途上国の難民などの救援活動を行っている巨大な国際NGOの1つである。ラップ代表は、「このコンゴ内戦の犠牲者の数は、第2次大戦後に起きた軍事紛争の中で最大である。そして、アフリカでは、記録された紛争の中で犠牲者の数では最大規模のものである」と述べた。さらに、ラップ代表は、「これは恐ろしい、かつ衝撃的な人類の破滅だと言うべきだ。そして、このコンゴでの最悪の死者の数に比べれば、湾岸戦争以来のイラク戦争の犠牲者の数、バルカン半島(旧ユーゴ)でのすべての戦争での犠牲者の数などは取るに足りない。にもかかわらず、国際援助機関や国際メディアは、このコンゴの危機について、何の関心も持たず、耳を傾けようともしない」と非難した。
 コンゴ紛争は、部族間の紛争だと報道されている。しかし、コンゴ紛争は、直接的にはコンゴの豊かな地下資源をめぐる周辺諸国の介入によって引き起こされたものである。だが、その遠因は、帝国主義の時代に、ヨーロッパ列強がアフリカ大陸の分割を行った1884年のベルリン会議に遡る。この時、現在のコンゴはベルギー領に、ウガンダは英領に、ルアンダとブルンジはベルギーの保護領に、タンザニアはドイツ領に分割された。当然この地域に住んでいたアフリカ人はばらばらに引き裂かれ、さらに植民地政策によって、部族間が対立するようにそそのかされたのであった。
 例えば、IRCの記者会見の1週間前、コンゴ東北部のイツリ州で起こった部族間紛争で、一度に900人もが虐殺されたという事件が起こった。この紛争は、1998年8月に、周辺6カ国が、コンゴ東北部に軍隊を侵攻させたことにはじまっている。現在では、周辺諸国は撤退したが、コンゴ内の部族間紛争に変化して、今日まで続いている。

コートジボアールの和平協定

 サハラ以南のアフリカでは、HIVエイズの拡大に加えて「人類的な破滅」に至っているにもかかわらず、アフリカの代名詞のように見られてきたいくつかの内戦が終結に向かっている。これはアフリカ人自身による平和への真摯な努力の賜物である。しかし、マスメディアでは、たとえ報道されても、小さな囲み記事にとどまっている。
 西アフリカの旧フランス領コートジボアール(象牙海岸)は、1960年に独立して以来、故ウフェボアイエ大統領の下で、アフリカでは例外的に長期安定政権と経済成長を記録してきた。コートジボアールは世界最大のココア産出国である。しかし、最近の世界的なデフレと過剰生産のあおりを受けて、ココア豆の国際価格が下落した。
 昨年9月19日、南部キリスト教徒に支持基盤を置く「人民戦線」のローラン・バグボ大統領に対して、コタネ・シリキが率いる北部のイスラム教徒の「愛国戦線」が軍事クーデターを起こしたが、失敗に終わった。これが引き金となって、南北間で内戦が起こった。内戦は数千人の死者と100万人の難民を生んだ。
 大統領派の要請で、フランスが700人の軍を派遣した。これが、大規模なフランスの介入を呼ぶのではないかと危ぶまれた。
 今年1月、フランスと国連の仲介で、パリに紛争当事者全政党が集まり、和平会議が開かれた。9日間の討議の末、1月24日に停戦と和平協定が締結された。バグボ大統領の地位は維持されるが、大統領派のパルカル・ヌゲサン首相は辞任し、各政党間で民主的に選出される。反大統領派のシキリ代表は「これは、国家の再建と和解への良い出発だ」と語った。しかし、その後、ココアの一層の下落は、コートジボアールの紛争解決の行く手に暗い影を落としている。

スーダンとソマリア内戦の終結の兆し

 これまで、紅海とインド洋に面した「アフリカの角」と呼ばれる地域は、長らくアフリカ内戦の代名詞となっていたが、その代表格のスーダンとソマリアの内戦が終結に向かった。
 コートジボアール内戦の終結と同じ時期の今年1月13日、北部イスラム教徒のスーダン政府と南部キリスト教徒の反政府派派は、南北間の内戦を終わらせる和平会議を再開した。これは、ケニアのラザロ・スンベイウオ将軍の仲介で、ナイロビで、大統領派と反政府派の「人民解放軍」との間で、和平交渉が行われ、「停戦」「南部の自治権の確立」「富と権力の分配の枠組み」について合意した。スーダン内戦は、20年に及び、戦争によって引き起こされた飢えと疫病によっておよそ200万人の死者を出した。

 同じ頃、ソマリアでも、和平への兆しが生まれた。