世界の底流  
日本政府は地球破壊の戦犯第1号
2002年1月
― ハーグ温暖化防止会議が分裂に終わる ―

 11月13日からオランダのハーグで開かれていた国連気候変動枠組み条約第6回締結国会議(通称COP−6)は、合意に達せず、25日夕方、ついに決裂した。この会議は、「地球温暖化の防止」という人類共通の緊急課題を解決するものであった。オランダのプロンク環境相を議長として、185カ国の政府代表団と3,500人のNGOが参加した。
 11月18日土曜日、会議場前の道路に、環境NGOが120メートルにわたって土嚢の堰を築き、それに「石油会社をやつけろ」「皆が泳げるわけではない」などと書いた横断幕を掛けた。プロンク議長はNGOのデモに加わり、自ら土嚢を積んだ。国土の半分が海面より低いオランダにとって、温暖化は死活問題である。

先進国の産業が地球を温暖化

 地球温暖化とは、先進国の産業、とくに火力発電所や自動車が大気中に排出する一酸化炭素が地球を温室のように暖めることを指す。その結果、北極や南極の氷を溶かし、100年後には、海面が13〜8メートルも上昇する。その被害を蒙るのは、主として、小さな島しょ国やバングラデシュなどの最貧国である。また、気候変動によって、すでにニカラグア、ホンデュラス、モザンビークなどの最貧国が有史以来の大洪水に見舞われ、壊滅的な被害が出ている。
 したがって、先進国は地球温暖化を防止しなければならないばかりか、これら災害に見舞われる途上国を援助しなければならない。ハーグのCOP−6は、先進国がこれら2つの課題について細かなルールを決定することになっていた。
 そもそも「気候変動枠組み条約」は、1992年リオで開かれた地球サミットで採択された「アジェンダ21」に盛り込まれた。リオでは、米国が頑強に反対し、孤立したといういきさつがある。
 やがて、1997年12月、日本が議長国になって、京都でCOP−3が開かれ、「京都議定書」が採択された。ここでは、先進国は温室効果ガスの排出を1990年レベルから5%削減することに同意した。うち米国は7%、EUは8%の削減を公約した。日本は、当初2.5%を主張していたが、議長国として、最後には6%の削減を受け入れざるをえなかった。一方では、先進国側は議定書に中に抜け穴を設けた。それは、「排出権の国際取引き」や途上国の削減を援助した分を自国の削減にカウントするという「クリーン開発メカニズム」などであった。

日本政府が「京都議定書」を裏切る

 マスコミは、ハーグの決裂の原因は、日米とEUの対立であったと報道した。しかし戦犯第1号は、日本政府と、ハーグに経団連の代表まで送って政府に圧力をかけつづけた日本の産業界であった。
 日本政府は、川口環境庁長官を送り込み、最大の紛争項目であった排出権の国際取引き、森林による九州などの「メカニズム」についての非公式作業委員会の共同議長をブラジルとともに務めた。そして、米国とカナダを引きずり込んで、一酸化炭素の大気中への排出量を国内の森林で吸収する、さらに、途上国に植林や原発建設を援助した分を自国の削減量に加算するという、ペテン師のような共同提案を行った。
 日本は森林吸収によって3.7%の削減ができると主張した。これは、京都会議で当初目論んでいた「2.5%」に辻褄を合わせた数字であった。また米国の場合、森林吸収を入れると何もしなくても8%も削減したことになる。米代表は「これは通らない」と感じていたようだ。また、日本は削減目標を尊守しない国に罰則を課すことに1人反対し、「勧告」にとどめることを主張した。これは、「京都議定書」を骨抜きにするものであった。
 この日米カナダの共同提案に対して、EUが激しく反発した。また、温暖化の被害を受ける途上国の代表を絶望させた。怒ったNGOが、記者会見中の米国主席代表ロイ国務次官の顔にクリームパイを投げつけたりもした。実際、彼は石油会社の傀儡であった。
 会議の最終日の前日にあたる11月23日、プロンク議長が最終調停案を提示した。それは、日本の森林吸収分は0.5%、途上国の原発建設援助は認めない、尊守しない場合罰則を課すなど、ほぼ日本の主張をしりぞける内容であった。日本案にたいする唯一の妥協点は、途上国での植林援助を削減分としてカウントできるとした個所であった。
 11月25日未明、川口環境庁長官は、「交渉は決裂した」と記者会見をした。この段階では、まだプレスコット英副首相などが米国代表などと最後の交渉を続けていた。日本代表団の対処方針には、「原発援助については譲歩する」とあったにもかかわらず、通産官僚出身の川口政府代表は電力業界の意を受けて、プロンク案を強引に拒否した。彼女は、環境庁長官であるより、むしろ産業界の代弁者である。
 COP−6は、「京都議定書」の細かなルールを決めるための閣僚級会議であった。ここでの合意にもとづいて、条約加盟国が批准の手続きに入り、リオの地球サミットの10周年目にあたる2002年に、「気候変動枠組み条約の京都議定書」が発効することになっていた。したがって、ハーグ会議を失敗させた日本政府の行為は、「京都議定書」そのものを壊すものである。
 プロンク議長は、「各国が地球温暖化防止に取り組むことに合意したことが唯一の成果であった」と語った。ということは、京都以後の3年間、断続的に続いてきた様々な政府間会議や、国連が委託した2,500人の専門家の研究は、一体何であったのだろうか。壮絶な無駄以外の何ものでもない。来年5〜6月に、ボンでCOP−6のパート2を再開することが決まったが、もし、日本政府の態度を変更させることが出来なければ、ハーグと同じことが繰り返されるだろう。