世界の底流  
イスラエル・パレスチナ和平の真実
2002年2月
 昨年9月以来、イスラエル・パレスチナの和平交渉は中断し、ヨルダン川西岸・ガザでは、宣戦布告なき戦争状態が続いている。この記事を書いている12月15日の時点では、ガザとイスラエルの境界地点で、パレスチナ自治政府のアラファト議長とイスラエルのベンアミ外相が会談し、「1週間以内に和平交渉を再開する」ことに同意した、というニュースが報じられている。一方、バラク首相の辞任によって、イスラエルでは2月に総選挙が予定されており、本格的な和平交渉が始まるのは、新政権誕生以後だとも言われている。  
 昨年10月17日、エジプトのシャムエルシェイクにおいて、クリントン米大統領やアラブ諸国の首脳までが参加した和平会議の合意事項さえ守られない現状では、暴力の対決の構図が、一挙に和平に向けて転換するとは思えない。

「戦争のジャーナリズム」

 西側マスコミは、昨年7月、クリントン大統領が仲介し、キャンプデービッドで続けられていたイスラエル・パレスチナ和平交渉が決裂したのは、「東エルサレムの返還についてのアラファト議長の頑なな態度のせい」であったと報道している。また、その後の戦争状態についても、9月28日、東エルサレムのイスラム聖地をシャロンが訪問したことに、パレスチナ人が怒り、投石したことに始まった、と報道している。これは「戦争のジャーナリズム」に他ならない。なぜ、オスロ和平プロセスは崩壊したのか、なぜパレスチナ人は、再び「インチファーダ(武力蜂起)」を始めたのか、といった疑問に答えたものはいない。今日に必要なのは、「平和のジャーナリズム」である。「平和をつくる」世論が国際的に多数派にならねばならないからである。

イスラエルの「パウエル・ドクトリン」

 今回の紛争は、極右リクード党首のシャロンが、1,000人のイスラエル武装警察を引きつれて、アル・アクサ寺院の参道に足を踏み入れたことから始まったのではない。実は、バラク首相が、翌日の金曜日、つまりイスラムの祈りの日に、同寺院の周囲に大規模な治安部隊を展開したのであった。その結果、パレスチナ人とイスラエル軍との間に衝突が起こり、パレスチナ側に死者7名、負傷者200名の犠牲者をが出た。その後の紛争の犠牲者もイスラエル人1人に対してパレスチナ人20人という比率である。バラク首相は、少数派政権であるため、やむを得ず強硬路線を採っているという西側マスコミの分析は正しくない。バラク首相こそは、大量の軍事力によって相手を叩きのめす、という湾岸戦争以来米国が採択してきた「パウエル・ドクトリン」の信奉者である。

バラク首相の民族浄化政策

 バラク首相が、キャンプデービッドの交渉のテーブルに提出したパレスチナの最終地図は、マンデラの言葉を借りれば、「南アフリカのアパルトヘイトよりひどい」ものであった。イスラエルは、1967年の占領地の土地と資源を手放す気は全くない。
 バラク案によると、西岸地区のパレスチナ人居住区は、ナブルスその他の町を含む北部区、ラマラの中部区、ベツレヘムの南部区であり、ジェリコは完全に孤立した町となる。これらの区は、巧妙に計画されたハイウエイによってそれぞれ孤立した島同様になっている。道路建設の口実となっているのは、入植地である。オスロ協定以後の7年間に入植地の数は2倍になり、今日では170の軍事入植地に20万人のユダヤ人入植者が住んでいる。
 ガザ回廊地区でも同様に、南の沿岸部とネツリム入植地でもって、20%の土地がイスラエル領になった。そして、回廊を分断する道路の建設とイスラエル軍駐留の口実になっている。これには、米国の寛大な援助金が使われている。
 バラク案によると、西岸地区でのパレスチナ人居住区の面積は、オスロ協定に記された30%ではなく、わずか13%にすぎないものとなる。実際イスラエルは、オスロ協定以後の7年間に、入植地を2倍に増やし、今日では、西岸地区に170の軍事入植地が建設され、20万人のユダヤ人が住んでいる。彼らには自由に移動することが出来るが、300万人のパレスチナ人には、移動の自由はない。

イスラエル産業界のジレンマ

 イスラエル産業は、パレスチナ人市場において、年間25億ドルの売上げを記録してきた。そのことから、産業界には、パレスチナ人の民族浄化政策につながるバラク案を支持しない者もいる。しかし、これまでイスラエル産業が、パレスチナ人の低賃金労働に依存してきたのも事実である。正式の労働許可証を持っているパレスチナ労働者は4万人だが、持っていない労働者の数は6万人に上ると言われる。彼らの労働条件は、非人間的で、現代の奴隷労働だと非難されている。その背景には、60%にのぼるパレスチナ人労働者の失業がある。イスラエル政府は、パレスチナ人居住区に輸出加工区を設ける計画を持っており、ここに公害工場を移す予定である。これについては、産業界は満足している。

なぜパレスチナ人は「インチファーダ」を再開したのか

 1987年に始まった西岸・ガザ地区の「インチファーダ(蜂起)」は、イスラエル軍に対する少年たちの投石、労働者のスト、女性たちによるイスラエル商品の不買運動など、パレスチナ社会ぐるみの、しかも持続的な抵抗闘争であった。イスラエル軍と産業は大きな打撃を受け、始めて守勢に追い込まれた。さらに、インチファーダは、1948年のイスラエル建国以来、イスラエルとアラブ世界との力関係をアラブ側に有利に変えたのであった。
 1993年のオスロ合意は、冷戦の終了という国際的な変化もあったが、主として、インチファーダに対するイスラエル政府とアラファト指導部の対応であった。オスロ合意の重大な欠陥は、イスラエルに対して占領地からの全面的撤退を求めた1967年の国連安保理第242号決議を無視したこと、とくに、東エルサレムの返還、難民の帰国という決定的な問題をあいまいにした点にあった。
 オスロ協定の真実を知った時、パレスチナ人はインチファーダを再開した。たとえ和平交渉が再開されても、パレスチナ人に対する民族浄化政策は変わらない。パレスチナ人は、自分の国土の13%という狭いゲットーに押し込まれ、一切の人権と自由を奪われてしまう。