世界の底流  
ネパール宮廷クーデタの背景―毛沢東派ゲリラ
2002年8月
1)宮廷クーデタの真相

 さる6月1日夜半、ネパールの王宮内で、射殺事件が起こり、ビレンドラ国王夫妻、その子どもたち9人が殺された。翌朝の報道では、ビレンドラ国王の長男であるディペンドラ皇太子が、両親に結婚を反対され、言い争いの結果、自動小銃を乱射して一族を皆殺しにした挙句、自らも自殺をはかったというストーリーであった。しかし、その後、内務相は、「事件は全くの事故であり、ディペンドラ皇太子が国王の座につき、ビレンドラ国王の弟であるギャネンドラ王子が摂政となった。」と発表した。
 ビレンドラ国王らの遺体は王宮前の広場で即座に焼かれた。そして、事件の3日後、ディペンドラ国王が病院で息を引き取り、ギャネンドラ摂政が国王となった。不思議なことに、事件の夜、ギャネンドラは王宮にいなかった。また、これまで何回も殺人を犯していながら、その罪を問われなかったギャネンドラの長男パラス王子が皇太子になった。彼は事件の夜、ディペンドラと行動を共にしていながら、かすり傷すら負っていない。
 ギャネンドラ国王の戴冠式は、民衆の抗議のデモでもって迎えられた。外国の報道は、ビレンドラ国王を、絶対王政を英国式の立憲王制に代えた英君として称え、弟のギャネンドラ新国王を、王制復古派の悪玉と描いている。事実はどうであろうか。

2)1990年の「民主化」とは

 1990年4月6日、ネパール会議派と統一左翼戦線(ULF)による「ピープルズ運動」のデモに対して、カトマンズ警察が発砲したことがきっかけとなって、ビレンドラ国王は民主化を約束し、立憲議会が選出された。この立憲君主制度は、そもそも、ビレンドラの祖父がインドの仲介により結んだ、1951年の「デリー協定」に盛られていた。この時点で、英国の傀儡であったラナ家の105年にわたる支配に終わりをつげた。しかし、1960年、ビレンドラの父であったマヘンドラ国王が、中国革命の影響を恐れて、議会を解散し、絶対王制を敷いたのであった。
 1990年に民主化が実現し、1997年の7ヶ月間、共産党を含む左翼統一戦線が政権の座についたこともあった。しかし、ネパールの人びとの絶望的なまでの貧困は解決されないばかりか、人口の3分の1にのぼる少数民族は全く忘れられた存在となった。

3) 毛沢東派ゲリラの武装蜂起

 1996年2月4日、ネパール共産党から分裂した毛沢東派のバタライ政治書記が、会議派政府に対して、40項目の要求書を突きつけた。それは、インドとの不平等条約の廃止などの民族主義、王族の特権剥奪、世俗国家宣言、新憲法の起草、思想・報道の自由などの民主化、さらに買弁資本家の資産国有化、すべての村に水・道路・電気を供給など生活向上の要求が含まれていた。その最後通牒が切れる3日前の2月13日、毛沢東派ゲリラは、西部丘陵地帯で武装闘争を開始した。
 その5周年記念にあたる今年の2月13日、毛沢東派ゲリラが首都カトマンズを攻撃するという噂が広まっていた。すでにこの5年間に、ゲリラは、一万人の軍隊を持ち、ネパール全土75県に勢力を伸ばしている。人権団体によると、死者の数は1,700人に達しているが、ゲリラによるよりかむしろ警官による民間の死者の数が多い。2000年12月には、西部5県に人民政府を樹立し、開発事業、人民法廷、徴税を行っている。また都市部の学生にも勢力をのばしており、同じく昨年12月、全土的規模で学生が「国王を称える」国家を歌うことを拒否して、1週間のストを行った。

4) 毛沢東派の歴史

 そもそもネパール共産党は、インド共産党の亜流であった。1960年代、インド共産党が中ソ論争のあおりを受けて分裂したとき、ネパール共産党も分裂した。また1972年、西ベンガルでナクサルバリ派の武装闘争が起こった時、国境沿いのネパール領内で、即位したばかりのビレンドラ国王に対して、武装蜂起した。これはその地名をとって「ジャパ運動」と呼ばれたが、たちまち壊滅させられた。
 一方、インド共産党中国派に近いネパール共産党は、1974年、「第4回党大会」を開いた。彼らは、ジャパ運動を「準アナーキスト」と批判をしたが、今日、毛沢東派ゲリラの指導者の多くは、この「第4回党大会」派の出身者が多い。 

5) ネパールの行方

 6月13日、ネパール最大の日刊紙『カンティプル』が、毛沢東派ゲリラのバタライ政治書記の、「新しいコット虐殺を許さない」という論文を掲載した。「コット」とは、1846年、当時軍の将校だったジャンガ・ラナが反英民族主義者を虐殺し、王立ネパール軍を設立し、ラナ家の支配を築いた事件を指す。以後105年にわたって、ネパールは英国の半植民地となった。バタライ論文は、ビレンドラ国王が、毛沢東派ゲリラの鎮圧のために、警察の武装化と王立ネパール軍を動員しようとしていたことをあげ、「人民の敵」であったという。一方、米CIAとインドと組んだ弟のギャネンドラ新国王は、ネパールを第2のブータンにし、次いでシッキム化しようと企んでいるという。
 いずれにせよ、ネパールの王宮で起こったことは、毛沢東派ゲリラがカトマンズ市内に迫っているという噂に怯えたギャネンドラ現国王一族の宮廷クーデタであった。多分、毛沢東派によって、王室全員が処刑されると想像したのであろう。それには、すべてに生ぬるいビレンドラ国王一族を皆殺しにすることだと考え、息子のラパス王子を使ったのであろう。