世界の底流  
9月11日米国の無差別テロ事件
2002年11月
はじめに

 このような事件について、今日(9月30日)の時点で論評することは難しいし、同時に危険でもある。ブッシュ大統領が叫んでいる「オサマ・ビンラビンとタリバン政権に対する報復戦争」が、いつはじまるか、また、米国の同盟国や、新たに反テロ同盟に参加した国々の指導者たちが望んでいるような「タリバンの内部崩壊」が起こるのか、全く予想がつかない。したがって、ここでは、この事件をどう考えるか、オサマ・ビンラビンとは誰か、について述べる。

1. 「テロ」とは何か

 事件が発生した直後、私は、パレスチナの自爆テロが、ニューヨークに波及した、つまり「パレスチナの全世界化」だと感じた。時間が経ち、事件の全貌が明らかになるにつれて、これは、一年前の、イスラエル・パレスチナ紛争の再発よりはるか以前に計画されていたものであることが判った。むしろ、これは、1993年、同じニューヨークの世界貿易センタービル爆破、3年前のケニア、タンザニア米大使館同時爆破、昨年のイエメン港での米イージス艦爆破など一連のイスラム原理主義による「自爆テロ」の系列に属する。
 このような政治的な「テロ」とは何か。また「テロ」と「ゲリラ」との違いは何か。
 歴史的には、「政治的な暗殺」を「テロ」と呼んできた。幕末の井伊大老の暗殺、第一次世界大戦の引き金になったオーストリアの皇太子暗殺などは歴史を変えたテロ事件であった。一般的には、テロは、支配階級が衰退、腐敗していながら、変革の勢力が弱体である時に起きる。いわば、テロは社会の弱さの表現である。
 また、テロとゲリラは、目的の正当性では共通しているが、その手段や戦略は根本的に異なるものである。ゲリラは、対独レジスタンスや、毛沢東の解放戦争、アルジェリアの対仏独立戦争、ベトナム戦争の民族解放戦線のように、支配者や占領者の正規軍に対して、軍事力では劣る解放勢力の闘争であり、圧倒的な人びとの参加、ないし支持がある。その点では、ゲリラは、社会の強さを表わしている。
 イスラム原理主義による「自爆テロ」は、古典的な意味の「テロ」ではない。つまり「政治的な暗殺」ではない。これは、「無差別テロ」と呼ぶべきものである。そして、この「自爆テロ」は、パレスチナにおいても、9月11日事件においても、否定的、破壊的な役割を演じている、許しがたい行為である。

2. パレスチナの自爆テロについて

 昨年9月28日、当時極右リクード党首シャロン(現在はイスラエル首相)が、東エルサレムのアル・アクサ・モスクに1,000人の武装警官を引き連れて侵入した。当時、オスロ合意に基づくパレスチナのPLOとイスラエル政府間の和平交渉は行き詰まっていた。パレスチナ人の間には、イスラエルが交渉の場に出したパレスチナ自治区の最終地図が、西岸とガザの総面積の僅か13%にすぎないことを知り、怒りが充満していた。
 アル・アクサ事件が引き金となって、パレスチナ人のインチファーダが始まった。インチファーダとは、パレスチナ人の「非暴力の暴力」とも呼ぶべき闘争形態である。イスラエル占領軍に対して、パレスチナの子どもが石を投げる、女性がイスラエル商品をボイコットする、パレスチナ人労働者がイスラエル企業に対してストをする、といった占領地のパレスチナ人社会総ぐるみの抵抗闘争である。これに対して、イスラエル軍が発砲し、パレスチナの子どもが死ぬ。パレスチナ人のインチファーダは一層激しくなり、一方、イスラエルは、世界中から非難を浴びる。これが繰り返され、1987年12月に始まった第一次インチファーダは、93年9月のオスロ合意をもたらした最大の要因となった。
 昨年9月から第二次インチファーダが始まった。ところが、今年5月、イスラム原理主義による「自爆テロ」が始まった。これに対して、イスラエル軍がパレスチナ自治区を空爆する、また、自治区をイスラエル軍戦車が蹂躪するなどの報復が始まった。ここに、パレスチナの「自爆テロ」対「イスラエルの国家テロ」という構図が生まれ、パレスチナ人のインチファーダは影に追いやられてしまった。
 ブッシュ大統領が、中東和平に無関心になり、イスラエルの国家テロを支持しても、国際世論は動かなかった。PLOが、「国際監視団を派遣して、パレスチナ自治区を守ってほしい」と、悲鳴に近いアピールをしても、国際世論はこれを無視した。また、オスロ合意に基づいて、最初のパレスチナ自治区となったジェリコの町に、イスラエル軍の戦車が占領し、パレスチナ住民を無差別殺戮しても、国際社会は動かなかった。このように、イスラム原理主義の「自爆テロ」は、パレスチナ人の正当な闘いであるインチファーダに対して否定的、破壊的な役割を演じてきたのであった。

3.9月11日事件とは

 同じことが、今回の9月11日の「無差別テロ」についても言える。99年11月のシアトル以来、今年7月のジェノバ・サミットにいたるまで、「グローバリゼーション」に反対する大規模なデモが、先進国で起こった。豊かな国の若者たちが、大企業の無制限な利潤追求の結果、世界大に広がっている貧富の格差に「ノー」と言い始め、街頭に出て、デモを始めたのであった。
 この「ネオ・リベラルなグローバリゼーション」の象徴が、世界金融のニューヨークの世界貿易センタービルであり、米国の軍事力のペンタゴンであった。この点では、「反グローバリゼーション」のデモと、「無差別テロの標的」とは、共通するものがある。しかし、「無差別テロ」によって、「反グローバリゼーション・デモ」がはかり知れない打撃を受けたことは間違いない。実際、9月29〜30日に予定されていたワシントンのIMF・世銀の年次総会はキャンセルとなり、それに合わせて、ワシントンで10万人規模の「グローバルな正義」を求める大規模なデモも不可能になった。代わりに、9月29日、ワシントンで行われた「反戦・反レイシズム」のデモは数千人にとどまった。

4. オサマ・ビンラビンは誰か


 「オサマ・ビンラビンは、米CIAの申し子である」といったら、驚く人が多いだろう。だが事実である。
 1979年、ソ連軍がアフガニスタンを侵略した。78年4月以来、アフガニスタンには、人民民主党と親ソ派将校が連立したタラキ政権があった。タラキ政権は、ソ連と友好条約を結び、国内では、急進的な土地改革を行っていた。これが、旧封建勢力との衝突を生み、すでにイスラムの反政府ゲリラが活動していた。このような社会不安に乗じて、タラキ大統領の下にいたアミン首相がクーデタで政権を奪った。アミンの外交政策に不安を感じたソ連が、軍事介入を行い、親ソ派のバラク・カマルを政権の座につけた。
 アフガニスタンは、内陸の山岳地帯で、可耕地は国土の5%でしかなく、人口の90%は遊牧民という貧しい低開発国である。しかし、中央アジア諸国、イラン・パキスタンと国境を接しており、地政学的には重要な地位を占める。ソ連軍の侵略に脅威を感じた米国は、CIAを使って、直ちに史上最大規模の大諜報作戦を開始した。
 CIAの作戦は、パキスタンの軍情報機関(ISI)を通じて行われた。ISIは、イスラム諸国の若者に、ソ連の侵略に抵抗するアフガニスタンの「ジハード(聖戦)」を呼びかけた。1982〜92年、イスラム圏の40カ国から、35,000人のジハード志願兵「ムジャヒディーン」がパキスタンのISIの施設でゲリラの訓練を受けて、アフガニスタンに送り込まれた。この費用を支払ったのはCIAだが、その総額は20億ドルといわれる。この中に、サウジアラビアから参加した20歳のオサマ・ビンラビンがいた。
 一方、ISIは、CIAと共謀して、パキスタンに流れ込んだアフガニスタン難民の若者に、マドラッサと呼ばれるイスラムの神学校に学ぶ機会を与えた。ここでは、イスラム原理主義の教義とともに、テロの訓練も施された。この卒業生は、タリバンと呼ばれ、対ソ連ジハード戦のムジャヒディーンの主力勢力となった。ソ連崩壊に伴ない、92年4月、ソ連軍が撤退した。94年、タリバンがパキスタンから進撃し、たちまちアフガニスタンの実行支配者となった。やがて、マドラッサもまた、イスラム諸国の若者に門戸を開き、その結果、イスラム諸国から10万人の若者が、ここを卒業した。現在タリバン政権に参加している者もいるが、多くは、出身国に戻り、イスラム原理主義の勢力の中核になっている。
 CIAの援助は、パキスタンのISIを通じた「ムジャヒディーン」の養成にとどまらなかった。85年、レーガン大統領の直接指示により、対ソ連ジハード戦に年間65,000トンの武器が供与された。武器援助に伴なって、CIAとペンタゴンの要員がパキスタンに派遣された。彼らは、ラワルピンジのISI本部で、ジハードの作戦を練ったといわれる。

5.史上最大のCIAの麻薬作戦


 CIAの大諜報作戦の知られざる第三の任務は、麻薬栽培であった。ソ連のアフガニスタン侵略以前に、パキスタンとアフガニスタンにはすでに、阿片の原料であるけしの栽培が行われていた。しかし、それは少量であり、地域の市場に出回るだけで、ヘロインに精製されることはなかった。CIAの作戦が始まって2年も経たないうちに、この地帯は世界最大のヘロイン生産地となり、米国のヘロイン市場の60%を供給するまでになった。パキスタン国内でも、麻薬中毒者は急増し、85年には、120万人に上った。
 アフガニスタンでは、ムジャヒディーンがゲリラ地域を拡大するたびに、農民に「革命税」と称して、一定のけしの栽培を義務づけた。パキスタン側の国境沿いには、麻薬シンジケートとISIが数百カ所のヘロイン精製工場を経営した。米本国から麻薬取締り官が派遣されても、CIAによって、必ず捜査活動が阻まれた。米国内の麻薬問題は、対ソ戦略に従属させられたのであった。
 この麻薬取引は、年間2,000億ドルに上ったといわれる。この額は世界の麻薬取引の3分の1を占めた。もし、これが真実ならば、CIAの20億ドルの援助金や、武器援助は、とるに足らない額である。CIAは支払った額のものよりはるかに多くを麻薬取引から得たことになる。
 オサマ・ビンラディンや他のムジャヒディーンは、CIAのこの大諜報作戦を知らない。それほど、CIAとパキスタンのISIとの連携作戦は巧妙であった。

5. イスラム原理主義


 イスラムは一神教の宗教の中で、最も寛容な宗教である。ユダヤ人を「ディアスポラ(離散)の民」にしたのは、ローマであって、イスラムではない。長い間、イスラムはユダヤ人と共存してきた。また、イスラムは女性を差別する宗教ではない。預言者マホメッドは、未亡人と結婚し、幸福な夫婦生活を送った。女性、子ども、動物にやさしい人であった。現在タリバンが女性の教育、労働をはじめとするあらゆる権利を奪っているのは、イスラムの教義でもなければ、コーランにもとづくものではない。
 今日のイスラム原理主義は、イスラム諸国の政府の腐敗、イスラム教指導者の無能さに対する人びとの不満を怒りに根ざしたものである。民主主義と市民社会がある程度成熟していれば、このような不満や怒りは、正しい政治的な解決の方向に向かうのだが、イスラム諸国には、残念ながらそれは望めない。
 したがって、イスラム原理主義は、一方では、人びとの敵に対しては、「テロ」、あるいは「自爆テロ」を行い、他方では、人びとに対しては、カネを貸したり、食糧や住居を提供したり、NGOと同じような活動を行っている。その結果、原理主義は貧しい人びとの間では、一定の支持を得ている。
 ブッシュ大統領は、オサマ・ビンラビンとアフガニスタンのタリバンの壊滅を叫んでいる。しかし、イスラム原理主義こそは、CIAが育てたフランケンシュタインであり、また、伝統的な組織ではない、緩やかなネットワークであるため、もぐら叩きと同様、壊滅させることはとうてい不可能である。