国連  
第11回国連貿易開発会議(UNCTAD)開催
2002年8月23日
 

1. UNCTAD XIで何が決まったのか

2004年6月13−18日、ブラジルのサンパウロで、第11回国連貿易開発会議(UNCTAD XI)が開催された。UNCTADは1964年、ジュネーブで第1回会議が開かれて以来、4年毎に開催され、今年で40周年を迎える。

1976年、ケニアのナイロビで開かれた第4回会議にいたるまでまで、UNCTADは南北間の交渉の最も重要な、しかも最も大規模は会議であった。第1回UNCTADにおいて途上国77カ国が結束して先進国と対決した。以来国連では、途上国グループのことを「G77」と呼ぶようになった。

G77は、第1回以来、(1)対外債務の帳消し、(2)ODAの増額、(3)一次産品の値下がり防止、の3項目を掲げ、先進国に解決を迫った。1972年、チリのサンチャゴで開かれた第3回UNCTADでは、(2)については、先進国はGNPの0.7%をODAに充てる、(3)一次産品を、バナナ、パーム油、砂糖、コーヒー、ココア、木材、銅、錫、ボーキサイトの9品目に規定し、これを「共通基金(Common Fund)」を設けて、国際価格の変動に対処する、ことが決まった。

1980年代以降、途上国は債務危機に襲われ、IMF・世銀の構造調整プログラムによって、政府の機能が低下した。これによって、UNCTADにおいても、途上国側が勢いを失い、国際政治におけるUNCTADの地位も低下した。以後、とくに1995年WTOの創設とともに、UNCTADは貿易と開発問題を南北が議論する場ではなくなり、単に、調査・研究機関、あるいは途上国に対する技術支援機能に後退してしまった。UNCTAD無用論まで出ていた。

2000年にタイのバンコクで開かれたUNCTAD Xは、債務帳消しの国際キャンペーンが広がるなかで、会議場の外では、グローバリゼーションに反対する激しいデモが展開され、会議の中でも、南北対決の様相が見られた。

サンパウロのUNCTAD XIでは、「サンパウロ・コンセンサス」が採択された。これは、(1)グローバル化のなかでの開発戦略、(2)生産力と国際競争力を高める、(3)国際貿易制度と貿易交渉において開発の成果を保障する、(4)開発のパートナーシップ、の4項目から成っている。

途上国がサンパウロ・コンセンサスが獲得したもの;

1) 途上国政府の「政策立案のスペース(Policy Space)」
 WTOの創設によって、先進国に有利な国際貿易のルールが数多く決定された。また、IMF・世銀の構造調整プログラムが導入された。その結果、途上国政府は自立した開発政策を立案するスペースを極端に制限されている。
 そこで途上国政府は、Policy Spaceの権利を認めるよう要求し、これをサンパウロ・コンセンサスに盛り込むことに成功した。これは、国連会議では最初のことであり、UNCTAD XIの最大の成果であった。

2) UNCTADの役割と機能
 先進国、とくに米国は、UNCTADを途上国政府に対する技術支援機能にとどめ置くことを狙っていた。しかし、途上国のまき返しによって、UNCTADの役割と機能という組織問題の項で、国連の開発問題についての国連改革プロセスに、UNCTADが「積極的に参加し、貢献する」ことが決まった。これでUNCTADはWTOの補完的な役割でなく、国連のミレニアム開発ゴールの達成に向けた独自の機関として、位置づけられる。

3)ガバナンス問題
 先進国側は、ガバナンスの問題を途上国の国内に限定しようとした。しかし、参派ウアロ・コンセンサスでは、「国内レベル、と同時に国際レベルのグッド・ガバナンスが開発に重要な要素である」という表現になった。

以上のような成果は見られたが、一方では、これまでの国連会議の決議、たとえばモンテレイ・コンセンサスやヨハネスブルグ行動計画などに比べて、後退した部分もある。

(1) 企業の社会的責任
 途上国は、「多国籍企業の社会的責任」を盛り込むことを要求していた。市民社会側は、サンパウロ会議に出された草案がこの点については、モンテレイやヨハネスブルグ決議より後退した弱いものであると批判していた。しかし、この弱い表現ですら、米国は受け入れずに反対した。サンパウロ・コンセンサスには「企業、とくに多国籍企業は途上国への技術移転や輸出推進にとって重要な役割をはたす」という表現になり、社会的責任については削除されたしまった。
(2) 為替取引税(CTT)
 国連においては、CTTは「革新的な金融メカニズム」という表現が使われている。モンテレイやヨハネスブルグにおいては、それぞれ決議に盛り込まれた。しかし、サンパウロにおいては、米国が頑強に反対した。その結果、CTTの項は草案から削除され、「ボランタリーな金融メカニズム」という表現に変えられた。

2. 市民社会フォーラムで決まったこと

UNCTAD XIに並行して、サンパウロにおいて、ブラジルのABONG(NGO連合体)とREBRIP(ブラジル人民統合ネットワーク)が共催する市民社会フォーラム(CSF)が開かれた。これには、ブラジル、ラテンアメリカ、そして北からの200の組織が参加した。

CSFは自由貿易のオルターナティブ、食糧主権、グローバル・ガバナンスなどの問題が議論された。

最後の日に議論されたのは、債務帳消し、CTT、そしてグローバル・ガバナンスの問題であった。

とくに、グローバル・ガバナンスの問題は国連改革、IMF/世銀、WTOなどネオリベラルな国際機関の改革であった。この問題を2005年1月にブラジルのプルとアレグレで開かれる世界社会フォーラムに向けて、さまざまな場で、議論を詰め、市民社会の戦略を打ち出していこうということになった。

まず第1に、2004年9月、バルセロナで開かれるUBUNTU会議、11月にイタリアのパドアで開かれるPeace Roundの国際セミナーなどでグローバル・ガバナンスの戦略を議論していくことになった。a