国連  
中身のない『モンテレイ合意』
―国連開発資金会議の報告―
2002年3月
 

はじめに
 コペンハーゲンでは、5年後の2000年に、各国が貧困の根絶、雇用の増大、社会的統合などの「行動計画」をどのように達成したかを検討する会議を開くことになっていた。しかし、この5年間に、アジアや南米では金融危機が起こり、アフリカは債務危機に陥り、
一方先進国からのODAは減少した。その結果、貧困の根絶どころか、逆に貧困と失業が急増し、武力紛争が拡大した。社会開発をとりまく状況はコペンハーゲン当時よりはるかに悪化した。したがって、5年前の「行動計画」の達成を検討することよりも、むしろ新しい社会開発サミットが必要であった。そこでジュネーブ会議では、コペンハーゲンの政治宣言の「公約」10項目について、「さらなるイニシアティブと行動計画」草案を議論することになった。

1.何が重要な問題であったか
 アフリカの債務危機の解決には、まず債務の帳消しが必要である。さらにODAを増やすことが緊急である。一方アジアの金融危機の再発を防ぐためには、ヘッジファンドのような巨額の資金投機を抑制しなければならない。それには、為替取引税(トビン税)の導入が必要である。これは、ODAの約4倍の資金を生み出すというもう1つの効果がある。これをもって、先進国は、GNP比0.7%をODAにという長年の公約を達成することができる。つまり、「さらなるイニシアティブと行動」では、(1)最貧国の債務帳消しと(2)為替取引税の導入が中心課題であった。

2.政府代表とNGOの参加の姿勢について
 残念ながら、ジュネーブ会議は「社会開発サミット」とは言い難い。国家首脳は37人のみ、合計196カ国が参加した。この中で、途上国、つまりG77の参加が弱かったことが問題であった。イスラムや南米の保守的な国の代表の多くは、ニューヨークの国連代表であり、首都から参加したものも、社会福祉省が多かった。彼らは、債務帳消しや為替取引税などといった金融問題には疎かった。というよりは、問題を理解していなかった。
最貧国については、本国からの代表1人というケースもあり、同時進行している本会議、第1、第2非公式会議をカバーすることが出来ないという悲惨な状態であった。
日本政府代表も実質的には、ニューヨークの小林大使と梅田公使が采配を振るっていた。
 国連会議に登録したNGOの数は2,045人と発表された。そして、非公式の会議にも、
オブザーバーとしての参加が認められた。これは、リオ・サミット以来、NGOが闘って得たものである。だが今回、その多くは、会議場に現われない、来ても常時ロビイで雑談しており、会議に出席しているのは、数人ということもあった。日本のNGOも連合の桝本さんと私の2人であった。NGOの席は後方で、会議中、政府代表と接触は出来ないことになっていたが、目立たなければ黙認された。そこで、NGOは自国の代表にロビイしたり、一方、カナダ、フィリピン、ブラジルなど政府代表団に加わっていたNGOの仲間と絶えず相談することができた。

3.国連のIT化
 「さらなるイニシアティブと行動」草案は、すでにニューヨークにおいて、2回の準備会議と断続的な非公式会談において議論されていたのだが、129パラグラフ中、ジュネーブ会議が始まっても、合意した部分はわずか49に過ぎなかった。未合意のパラグラフは、ゴシックで書かれ、括弧に入れられていた。
 この「さらなるイニシアティブと行動」草案は、(1)社会開発の国内的、国際的資金に関わる公約1(可能にする環境整備)、7(アフリカと後発途上国)、8(構造調整プログラム)、9(資金の調達)、10(協力)と、(2)社会開発そのもに関わる公約2(貧困)、3(雇用)、4(社会的統合)、5(ジェンダー)、6(教育と保健)に分割され、それぞれワーキング・グループ(WG)と呼ばれる非公式の会議で議論された。連合の桝本さんはWG2に、私はWG1に出た。
 WG1では、会議の事務局長でもあったチリのマキエラ大使が議長を務め、草案を起草した経済社会理事会のジョン・ラングモア部長が補佐役であった。この2人のコンビが、(1)資金がなければ社会開発は出来ないというG77と、(2)ガバナンスや自助努力を強調する米国、日本、EUといった、対立する2つの陣営に対して仲裁案を出し、議論をまとめていった。 
 最近では国連もIT化していて、議長席にあるコンピュータから草案が前面の大スクリーンに写し出され、議論の過程でさまざまな修正がなされる。合意に達すると、そのパラが、即座にニューヨークに送られ、7カ国語に翻訳され、そのプリントが全員に配られた。

4.何が決まったのか

 1)債務
 準備会議の過程から最ももめた問題であった。そこで最初から、債務に関するパラだけを抽出して、ジャマイカ代表の有能なソニア・エリオット女史を議長にした非公式コンタクト・グループ(CG)に議論を委託した。ここではNGOは締め出され、おまけに、会合の時間、場所も発表されないので、G77の参加は十分と言えなかった。幸い、このCGにはフィリピンNGOのマリビック女史が政府代表として出席していたので、私たちは、情報を得たり、ロビイすることが出来た。しかし、重債務最貧国(HIPCs)が不在の会合では緊迫感がなく、単に昨年のG7のケルン合意を追認したにとどまった。
 HIPCs対象国の決定には「柔軟性」をもつこと、削減には追加の資金を出すこと、中進国の債務削減に言及したこと、などは前進と言えるだろう。また、アフリカと後発途上国(LDCs)の債務について、日本が、HIPCsの拡大につながるとして反対し、さらに2国間の債務救済措置に「現行の」という形容詞を付けて、「40年賦の債務救済無償援助スキーム」の維持を図ろうとしたが、翌日、東京からの指示で取り下げてしまった。
 IMF・世銀の債務救済措置「HIPCsイニシアティブ」は、構造調整プログラムの実施を条件にしている。これは、ジュビリー2000だけではなく、あらゆるところで批判されてきた。しかしG77の修正案には、この条件を是認する文章があった。G77代表のレベルの低さにあきれ、また、NGOの女性コーカスがこれを無意識に支持しているのを知って驚いた。CGにおいて、このG77の修正案を否決できたことは、幸運であった。                

2) 為替取引税
 コペンハーゲンでは、先進国の反対で否決された。当時は、国際税として提起された。翌年、米議会が、米国民に課税することを国連が決議したならば、一切の拠出金の支払を止めるという法律を制定した。その結果、国連では、タブーになっていた。しかし、アジア金融危機によって、その必要性が再浮上した。カナダ議会が「為替取引に0.1%の税金を国内的に課税する」決議を行い、5月の第回準備会議に提起した。ここでは、ノルウエーを除いて誰も支持せず、結局議長裁決によって、カナダが新しい提案をジュネーブに出すことになった。その間、カナダ政府は「為替取引税を研究する」という妥協案を作成し、一方、NGOのロビイ活動によって、EU、G77が賛成に転じた。残ったのは、米、日、オーストラリアの3カ国であったが、米国の反対が最も激しかった。この問題は、WG1ではほとんど議論されず、カナダとEU間の秘密協議に任された。政府代表団に入っているカナダのNGOは数名いて、彼らは専ら、私や米国のNGOと協議し、政府の反応をさぐっていたようだが、結局、「為替取引税」が削られてしまった。カナダ代表は、閉会の全体会議で、「これを為替取引税の研究の発足と解釈する」という演説を行い、それに続いてノルウエー、タイ、メキシコが賛成演説を行った。国連のラングモア部長は、これで経済社会理事会の下に、研究チームを設立できると解釈している。11月には、発足の予定である。ともかくも、「為替取引税」については、ほんの少しだが前進した。

3)WTO
 a) 後発途上国の産品に対する先進国市場へのアクセス
シアトルとは違って、ジュネーブでは、グリーン・ルームもなく、南北平等に議論できるのだが、なぜかG77に迫力がなく、「主要にはすべての産品を関税ゼロ、数量制限ゼロにする」というWTO用語を残してしまった。この「主要にはすべて」とは「主要にはノー」という意味である。
 b) 貿易に関連した知的所有権協定(TRIPs)
 公約6の保健の項目で、途上国におけるHIV/AIDS対策について南北が激しく対立した。それは、WTOのTRIPsがらみのパラであった。TRIPsには、特許権について、それが公共の福祉を脅かす場合には、例外規定がある。それを根拠にして、南アフリカやタイが安くHIVの治療薬を製造しようとしているのだが、医薬品会社を保護する米国がTRIPsの別の条項をもって反対している。これはG77に有利な議長の妥協案が採択された。