論文集  
世界社会フォーラム報告―シアトルからムンバイまで
2004年3月
『世界』2004年3月号「世界は地の底から揺れている」より


プロローグ―04年1月、ムンバイにて

 1月16日から21日までの6日間、インド最大の都市ムンバイに、世界中から反グローバリゼーションの活動家、知識人、オピニョン・リーダー、社会運動、労働団体、農民運動、女性組織、山岳民族、先住民族などの代表、そして市民が集まった。参加者総数は10万人を超えた。私もその大群衆の中にいて、この原稿を書いている。
この巨大な集いは「世界社会フォーラム(WSF)と呼ばれ、今年で4回目になる。とくに今回は、昨年2月15日の歴史的な世界同時反イラク戦争デモと、後で述べる9月のカンクンでの反グローバリゼーション勢力の勝利を受けて、参加者の熱意と期待には大きなものがあった。
 世界社会フォーラムは、99年11月、シアトルにはじまり、その後、世界を揺るがしてきた反グローバリゼーションの大規模な抗議デモから生まれた。抗議デモの対象は、国際通貨基金(IMF)、世界銀行、世界貿易機関(WTO)など市場経済のグローバリゼーションを推進する国際機関や、それらを実質的に支配している主要先進7カ国(G7)の首脳会議(サミット)である。
9.11事件以後も、反グローバリゼーションのデモは、米国を例外として、ますます規模が拡大している。その中で、大企業主導のグローバリゼーションに代わるものを模索しようという動きが出てきた。そして、01年1月、ブラジルのポルトアレグレで開かれたのが第1回世界社会フォーラムであった。以後第2回、第3回と毎年1月、ポルトアレグレで、世界社会フォーラムが引き続いて開かれてきたが、年を経るごとに、規模が拡大し、昨年1月の第3回の参加者は11万人に達した。私は、第1回世界社会フォーラムに参加し、2日目の全体会議の「金融」のセッションの司会を務めた。今回は2度目の参加である。
 今日では、この世界社会フォーラムは、大陸ごとに開かれる各地域の社会フォーラムを含めて、最も重要な反グローバリゼーション派の政治イベントになっている。例えば、昨年11月、パリで開かれたヨーロッパ社会フォーラムには6万人が集まったが、ここにフランスのすべての政党の党首が訪れ、連帯の挨拶をした。政権の座にいる保守党や、極右の国民戦線といえども、反グローバリゼーション派勢力を無視することが出来なくなっている。
 ムンバイの世界社会フォーラムを主催したのはインド組織委員会であった。ここには、インドの主要なNGO、労組、農民運動、社会運動の代表が結集した。中でも非常にインド的であったのは、ダリットと呼ばれるアウトカースト、それに2000地域を越える山岳民族、先住民族の参加であった。
 それが今回の大きな特徴だったが、それはカラフルな衣装を着て、踊りながら入場するというパーフォーマンスだけではなかった。たとえば、これまでの3回のフォーラムはグローバルな新自由主義の支配構造の分析から始まり、オルタナティブを議論するというアカデミックな手法をとってきた。しかし、ムンバイでは、「土地、水、食べ物」という人間の基本的なニーズが主要なテーマとなった。このニーズのために最前線で闘っているのは、ほかでもない山岳、先住民族であり、ダリットたちである。彼らは世界銀行が融資する巨大ダム建設に抵抗している。水の民営化に反対している。土地の権利と生きる権利を要求して闘っている。そして多国籍企業が彼らの貴重な食べ物や薬草に特許をかけて奪っていくことに反対している。初日の冒頭に開催された「土地、水、食糧主権」シンポジウムに8,000人が押しかけたのをはじめ、同じテーマの分科会には常に大勢の人が集まり、世界中の人びとに闘いの経験を分かちあった。オルタナティブはここにある、と私は感じた。
世界社会フォーラムは非常にユニークな集りである。
第1に、10万人というマンモス会議であったにもかかわらず、10数カ国語の同時通訳を含めて会議の費用はすべて参加者の会費で賄われた。
さらに、その広大な敷地内では、コカコーラ、ネスカッフェ、エビアン水をはじめ多国籍企業のブランド商品の販売は一切なかった。代わって、インド各地から集まった物売り商人、労組員、農民などがそれぞれの地場の飲料や食品を売った。ガンジー以来のインドの自助運動の精神が生きていた。
第2に、このマンモス会議が主としてインターネットを通じて組織されたと聞いて、驚く人も多いだろう。インド組織委員会が開催した全体会議をのぞいて、大小あわせて1,200にのぼるワークショップ、セミナー、シンポジウムは、すべて参加団体による自主企画であった。
第3に、これは最も大事なことだが、ここに集まった人びとを結ぶものは、「もう1つの世界は可能だ」という言葉である。この「もう1つの世界」とは、今日の世界を支配している大企業主導のグローバリゼーションではない世界である。したがって、ここにはグローバルな市民社会を構成するすべての人びとが集まっている。
第4に、これらの人びとは、6日間にわたって、情報をシェアし、意見を交わすのだが、宣言文を決議したり、行動綱領を決めたりはしない。ムンバイはあくまで議論の「場」であり、何よりも、民主主義の根本である多様性を尊重する。

一、途上国農民の登場
(1)歴史的な南北の激突
 03年9月10〜14日の5日間、メキシコのリゾート地カンクンで開催された世界貿易機関(WTO)の第5回閣僚会議は、南北間の激突で幕開けしたが、ついに最終日の14日午後交渉が決裂し、流会となった。会議場内では、マスコミが、交渉決裂のきっかけをつくったアフリカの代表の姿を求めてインタビューに走り回り、一方では、数百人のNGOが「我々は勝った」と踊り狂っていた。私もその踊りの輪の中にいた。
しかし、WTO交渉を決裂に追い込んだのは、アフリカの政府でもなければ、WTOに登録しているNGOでもなかった。真の主役は、会議場には姿を見せなかった途上国の何百万もの農民であった。
これまで第三世界の農民は、物言わぬ、忘れられた存在だった。しかしカンクンでは、その農民が、強大な先進国政府、多国籍企業に対して勝利したのだ。自由貿易を掲げ、新自由主義のグローバリゼーションの象徴であるWTOの閣僚会議が、4年前のシアトルに続いて2度も流会になるのは異常な事態である。
今まさに「世界は地の底から揺れている」と、私は感じた。
 では、どのように第三世界の農民がカンクンを流会に追い込んだのであろうか。
 カンクンでは、途上国政府が団結して、米国とヨーロッパ連合(EU)に対して全面的に対決し、最後まで譲らなかった。これはWTO始まって以来の出来事であった。その途上国政府を突き上げたのは、貧困と飢えに苦しむ貧しい第三世界の農民たちであった。
カンクンでは、主として「農業」と「投資」という2つの議題をめぐって南北が対立した。
 WTOでの「農業」とは、主として米国とEUが、巨額の政府の農業補助金を支出して、安い農産物を輸出しているという問題を言う。農業に依存している途上国では、この補助金漬けの安い農産物が入ってきて、自国の農業が立ち行かなくなっている。当然のことながら、途上国側は、米・EUに対して「補助金を廃止せよ」と要求していた。
 また、「投資」とは、多国籍企業の投資にとって邪魔な規制の緩和を多国間協定で決めようという「投資の自由化」のことである。当然のことながら、自国の産業を守ろうとする途上国はこれに激しく反対してきた。
 上記の2つの議題についての南北対立の根源は、01年11月、カタールのドーハで開かれた第4回閣僚会議宣言に遡る。ドーハ宣言では、先進国側は、農産物の補助金を「段階的に撤廃する」ことを認めた。ただし、その撤廃の時期など具体的な記述はなかった。そして、米国のゼーリック通商代表などは、会議後の記者会見で、「段階的に」とは「100年の間にということだ」などといった暴言を吐いた。
 一方、ドーハでは、先進国側は、農産物補助金でのこの“譲歩”を取引材料にして、投資などについての「交渉に入る」ことを閣僚宣言に盛り込ませることに成功した。ただし、交渉に入るには、「明確な合意を必要」とするという条件が付いた。そしてドーハ以後、この2つの問題について、ジュネーブのWTO本部での2年近い交渉では全く進展がないまま、カンクン閣僚会議を迎えたのであった。
(2)途上国政府を突き動かした農民の反乱
 途上国の農業は、先進国の補助金漬けの安い農産物によって、壊滅的な打撃を受けた。その結果、困窮化した農民のさまざまな反乱が、WTOを共通の敵として、国境を超えて、さらに大陸を超えて連帯していった。
南米やアジアの土地なき農民たちは、たとえ土地占拠に成功しても、また農民協同組合を組織し、有機農業を行っても、それでもなお、アメリカから輸入される安い農産物には太刀打ちできない。農民には、日々の生産の場から、米国やEUの巨額の農業補助金と、それを支えるWTOが敵であることが容易に理解できた。
 またアフリカの砂糖、棉花など換金作物を生産している小農民、あるいはとうもろこしや牛肉を生産している自給自足農業の極貧農民でさえ、世界市場の動向に翻弄されている。 
これら農民運動や小農民協同組合は、「ビア・カンペシーナ(農民の道)」と呼ばれる国際的な反WTO農民運動に合流していった。ビア・カンペシーナの誕生は、シアトルの第3回WTO閣僚会議の前の99年8月、インドのバンガローで、第三世界の農民、先住民が国際会議を開いた時、ラテンアメリカの農民たちが「シアトルに向けて行進しよう」という決議を採択したことに遡る。
 カンクンでは、これら農民の反乱が、途上国政府を動かしているという事実をいくつも見ることができた。
@、G20プラスの登場
 まず、ジュネーブの段階で、ブラジル、インド、中国、アルゼンチン、エジプト、南アフリカなど途上国の農業大国20カ国が、「先進国の農産物の補助金撤廃」と「食糧安保」を要求した声明を発表した。G20の声明には、具体的には、「戦略的農産物(SP)を例外」とすることと、先進国にだけ認められている特別セイフガード制度(SSM)を途上国にも認めよと記述されていた。
 カンクンでは、新たにこれにインドネシアやナイジェリアなどが加わって23カ国になり、「G20プラス」と呼ばれた。G20プラスは、米国、EUの分断策や脅迫にもかかわらず、最後まで団結を貫いた。これら途上国政府を突き動かしたのは、それぞれの農民の反乱であった。G20プラスの代表であるブラジルのアモリン外相は、記者会見の中で、「我々は、途上国の農民の要求を裏切ることは出来ない」と語った。
A、アフリカ4カ国の声明
 また、会議2日目、ベニン、ブルキナファソ、マリ、チャドというアフリカの最貧国4カ国が、米国に対して「棉花の補助金撤廃」を要求する声明を出した。4カ国の経済は100%棉花の輸出に依存しており、米国の安い綿花の輸出攻勢によって農民は窮乏化した。 
4カ国声明は誰の目にも正当な要求であり、これが、ドーハの「貿易と知的所有権(TRIPs)協定と健康」問題と同様、カンクンでの交渉の突破口になるかも知れないと囁かれた。ドーハでは、アフリカのHIV/エイズ患者の救済が中心議題となり、ついに、TRIPs協定の見直しについての特別宣言が採択された、という経緯がある。
 ではなぜアフリカ4カ国声明が出たのか。それには、それぞれの国で全国規模に組織された棉花生産小農民協同組合が、この2年間、4カ国政府に対して共同で活発、かつ有効なロビイングを展開してきたという経緯があった。最貧国政府が超大国の米国に対してあえて異議申し立てをしたのは、これら農民の圧力であった。
 カンクンでの出来事は、新自由主義のグローバリゼーションに抵抗する運動の主導権が、ついに第三世界の農民たちの手に移っていることを物語った。
私にはこの世界が大地からゆれ始めていると感じられた。

二、99年シアトル 
 少し時間をさかのぼってみよう。WTO第3回閣僚会議は、99年11月30日から12月3日まで、米国のシアトルで開かれた。しかし、この会議は、宣言文をめぐって参加国の合意が得られなかったばかりでなく、会議そのものが崩壊してしまった。さらに、シアトル合意にもとづいて、2000年1月に開始を予定していた「新しい多角的貿易交渉(通称ミレニアム・ラウンド)」も先送りになってしまった。
 このシアトルで起こったこと、つまり国際会議の流会という事態は、国際政治史上、まさに前代未聞であった。WTOはその存在自体が問われたのであった。
 同時に、会議の決裂に大きな影響を及ぼした市民たちの大規模なデモの存在があった。これは、今日、世界を揺るがしている大規模な反グローバリゼーションの抗議デモの幕開けとなった。
ではシアトルのデモはどのように組織されたか。
 シアトルでは、政府代表が到着する前に、米国内はもとより、世界各地から労働組合、農民団体、環境、人権、国際開発協力などのNGO活動家などが結集した。その数は、7万5,000人にのぼった。これは、その後シアトルで起こった異変の前兆であったと言えよう。
@シアトルに結集を呼びかけたのは誰か
「WTOの中で変革する」グループ
 シアトルのデモにはリーダーはいない。しかし、シアトルのデモを成功させたいくつかの団体のプロフィルと、その戦略を明らかにする必要があるだろう。
 まず第1に、ワシントンの消費者ロビイストのラルフ・ネーダーが主宰するパブリック・シチズンが挙げられる。この組織は、99年5月、インターネットを通じて、世界中のNGOに対して、WTOの「新ラウンド(多角間交渉)」に反対する声明案への賛同を呼びかけた。その声明の趣旨は、「WTOは自由貿易を推進する国際機関である。G7が直接的に支配しているIMFや世銀と異なって、WTOは全加盟国のコンセンサスに基づくことになっているが、実際には、非民主的な「グリーンルーム」方式を通じて、先進国主導の機関になっている。そしてWTOの自由貿易とは、一方的に途上国に押し付けるもので、他方では先進国は巨額の輸出補助金やセイフガード制度を通じて、保護主義貿易を正当化している。WTOは実に不公正な国際機関である。さらに先進国側は、WTOに投資協定や競争条項などを盛り込んだ新ラウンドを開始しようとしている。これを阻止しよう」と呼びかけた。これに対して、65カ国、600の団体とネットワークが署名した。
これらNGOはWTOに登録し、会場内で新ラウンド阻止のロビイ活動を展開した。
「WTOを解体する」グループ
 第1のグループは、どちらかと言えば、WTOを中から変えて行くという立場である。これに対して、「閣僚会議を開かせない」ことによってWTOそのものを解体しようというグループがある。
まず、米国最大の労働組合AFL-CIOが、労働者に対して、シアトル・デモを呼びけた。このほか、農民運動、環境NGOなど、数え切れないほどの国際的ネットワークがシアトルへ向けて、結集を呼びかけた。
 11月30日午後、シアトルの中心街はこれらWTOに反対する人びとで占拠された。道路はさまざまな旗、プラカード、バナー、また巨大な人形であふれかえった。ドラムやトロンボーンの音が鳴り響き、60年代のロックがマイクのボリュウーム一杯に溢れ出した。路上では、WTOを暴く劇が、数多く繰り広げられた。WWFなどの巨大な環境保護団体が呼びかけたデモには、カメに扮した人が踊っていた。一方では、米国最大の労組AFL-CIOが組織した2万人の労働者のデモがあった。農民、消費者、女性、NGO、市民がデモに参加した。そのほとんどは平和的なデモであった。
 WTOに反対する30日のデモは、シアトルに限らなかった。ロンドン、パリ、ジュネーブ、ニューデリー、マニラなど世界の主要都市でデモが行われた。その数は50万〜70万人に達し、「20世紀最大の抗議行動」となった。
 WTO解体をめざすグループのうち、第2にあげられるのは、シアトルの閣僚会議場への政府代表の入場阻止を呼びかけた「直接行動ネットワーク(DAN)」であった。DANの戦略はマハトマ・ガンジーの「非暴力不服従」を見習ったものであった。閣僚会議が始まる数日前から、デモの参加者に対して、どのように政府代表の入場を阻止するかについての短期講習を行っていた。
 その内容は、@、デモ参加者は、少人数のグループに分かれ、それぞれ自立して行動する。グループにリーダーはいるが、その機能は単にグループ間の調整役に過ぎない。A、非暴力の歴史と哲学を教えた。B、警察の弾圧にどのように対処するかという技術についての研修。これは、阻止行動中の心得とともに、逮捕されたときの法的な(米国の「ミランダ条項」を含めた)権利、拘置所内での連帯行動などが含まれていた。
 当日、参加者に対しては、言葉を含めて全ての暴力行為をしない、武器や麻薬、アルコールを持ち込まない、そして、他人の財産を破壊しない、という非暴力のガイドラインの尊重が求められた。さらに、直接阻止行動の実行グループのほかに、救急医療班、逮捕者のための弁護士グループも準備された。
 閣僚会議の初日、DANの呼びかけで、早朝6時ころから何千人ものデモ参加者が会議場を包囲し、スクラムを組んで政府代表の入場を阻止した。その結果、午前に予定されていた開会式はキャンセルされた。午後には、全体会議がスタートしたが、かろうじて数カ国の代表が演説しただけに終わってしまった。
 最後に英国に本拠を置く「RTS」と「アース・ファースト」というアナーキストのグループがある。彼らは、古典的な意味でのアナ―キストではなく、むしろ資本主義否定派とも呼ぶべきである。すでにシアトル会議の数カ月前からインターネットで、「世界同時破壊活動」を呼びかけていた。
 夕方になると、RTSなど少数のアナーキストが暴力行為を始めた。彼らは、グローバリゼーションを象徴するマクドナルドやスターバックスを襲撃した。店のショーウィンドをハンマーで壊したり、路上で火を焚いたりした。これが引き金となって、シアトルの失業中の若者が宝石店のショーウィンドを壊して、略奪行為を働いた。
 マスコミが、この映像を繰り返し全世界に報道したため、シアトル・イコール暴力という構図が定着してしまった。しかし、これは11月30日夕方の短い時間の、しかも少数の若者の行為にすぎなかった。
 当日は朝から、すでに市民と警察との緊張が高まっていたのだが、これをもって、警察は一斉にデモの制圧に乗り出した。催涙ガスを放射し、ゴム弾を発射し、目にチリ・スプレーをかけるといった弾圧を行った。夕刻になると、シアトル市長が市の中心街に戒厳令を敷き、夕方7時から翌朝7時まで60区画を外出禁止とした。そして警察は無差別逮捕を開始した。逮捕者の数は1,000人に達し、その中の多くは非暴力のデモの参加者であった。
 こうして、その後「シアトルの戦い」と呼ばれる99年11月30日は暮れた。

三、反グローバリゼーション運動の前史
 反グローバリゼーション運動は、突如シアトルで生まれたのではない。その前史となったのは、98年から00年にかけて世界を席巻したジュビリー2000の国際キャンペーンであった。 
 ジュビリー2000とは、「キリスト誕生から2000年というジュビリーの年までに、貧しい国の債務を帳消しにしよう」という国際的なキャンペーンであった。
 そもそもジュビリーとは、旧約聖書に記されたヨベルの年からきた言葉である。それは、7年を7度数えた年の翌年にあたる50年目の年を指す。古代イスラエルでは、角笛(ヨベル)を吹いてその年の到来を人びとに知らせた。すべての債務は帳消しにされ、奴隷も開放されたと言う。言いかえれば、これは社会正義の制度であった。しかし、実行されたという歴史上の確証はない。
 ジュビリーは、この古代イスラエルがはたせなかった社会正義の理想を、現代に蘇らせようとするものであった。国連は、「21世紀には、すべての人が人間らしく生きられる世界の実現」(98年総会)をうたいあげた。世界中の人びとが2000年のジュビリーを心から祝うためには、まず、地球人口の4分の1に当たる15億人の絶対的貧困を根絶しなければならない。20世紀が生み出した貧困という不正義を21世紀に持ち越してはならない。
 この貧困の最大要因の1つに挙げられるのは、第三世界の重い債務である。ジュビリーが、「2000年までに、貧しい国の返済不可能な債務の帳消し」を掲げたのは、以上のような理由である。
98年から00年にいたる2年間、ジュビリーは、市民社会の歴史においては最大規模の国際的キャンペーンであった。ジュビリーは、最貧国の債務問題を、G7サミット、OECD(経済協力開発機構)、IMF、世銀などの国際金融機関、国連を含めたあらゆる国際政治の場において、最重要、かつ緊急課題に押し上げた。
 市民社会ではジュビリーの幅広い連合体が誕生した。ローマ法王を先頭にあらゆる宗派のキリスト教会、国際自由労連などの労働組合、世界医師会、国際女性組織、OXFAMなどの国際開発協力NGO、グリーン・ピース、地球の友など環境NGOやアムネスティなどの人権NGOが参加した。「2000年までに貧しい国の返済不可能な債務を帳消しにしよう」のスローガンの下に、このようなグローバルな市民社会のすべての構成員を包括する巨大な連合体が結成されたことは、史上初めてのことであった。
 確かに、ジュビリー以前に、市民社会のキャンペーンが国際政治を動かした例はあった。97年にオタワ条約を実現させた対人地雷禁止の国際キャンペーンが挙げられる。これ
は、NGOが国際社会を動かす時代の到来と評価された。しかし、この段階では、キャンペーンの主体はNGOの活動に限られた。
 99年6月、ドイツのケルンでG7サミットが開かれた時、ジュビリー2000は160カ国から送られた1,720万人にのぼる「債務帳消しを求める」署名簿を提出した。
 同時に、世界中から集まった3万5,000人のジュビリーのメンバーが、サミット会場を「人間の鎖」で取り囲み、英国『エコノミスト』誌の表現を借りれば、「G7から700億ドルの債務削減の公約をもぎとった」のであった。
 しかし、公約は即実施につながらない。G7政府は、それぞれの2国間債務の帳消しを実施したが、IMF、世銀など多国間債務は僅かばかりしか削減されていない。04年1月現在にいたるまで700億ドルの帳消しの公約のうち実施されたのは340億ドルにとどまっている。
にもかかわらず、ジュビリーの国際キャンペーンは、グローバルな市民社会に1つの大きな啓示を与えた。それは、貧しい第三世界の子どもが、重い債務の支払いのために死に追いやられていることに怒るだけではなく、大規模な人間の鎖でG7サミットを取り囲み、帳消しを要求するという手法であった。これは、直接民主主義の行動であった。 
そしてこれは、同じ年の11月、米国のシアトル・デモへとつながっていった。

四、グローバリゼーションとは何か
 これら反グローバリゼーションのデモは、グローバリゼーションのすべてに反対しているわけではない。デモは、人間より利潤を優先する大企業のグローバリゼーションに「ノー」と言っているのだ。
では、企業主導のグローバリゼーションは何をもたらしたのか?
 80年代はじめに米国にレーガン政権、英国にサッチャー政権、日本に中曽根政権が誕生すると、それぞれ新自由主義の経済政策をとりはじめた。まず、すべての国有企業と公共サービス・福祉を民営化した。そして、「市場経済がすべてを決定する」というドクトリンを唱えた。国家の役割は国防(軍隊)と治安(警察)だけでよいのだという極論まで出てきた。
 同じ頃、G7が支配するIMF・世銀などの国際金融機関は、途上国政府に対して、その債務危機を解決するという名目で、画一的手法でもって構造調整プログラムを押しつけたのであった。
80年代、債務危機に陥ったラテンアメリカ諸国に対して、IMFが短期の救済融資を行った。この時、IMFが条件とした構造調整プログラムとは、@、政府が財政から債務を返済するために、公務員の解雇、賃下げに始まり、各種補助金の廃止、教育、保健、福祉など民生予算の削減、付加価値税などの増税といった緊縮財政政策であった。当然、政府の社会サービスが低下し、物価は上昇し、その結果、貧しい人びとにしわ寄せされた。A、債務は外貨で返済しなければならないので、輸出を増大させる。これは換金作物の生産の増大であり、貧しい人びとの主食まで不足する事態となった。B、高金利と通貨切り下げを強制した。高金利は、国内産業に打撃を与えた。また通貨を切り下げると、輸出の競争力は高まるが、そもそも一次産品の輸出価格は極端に低いので、輸出が増えてもあまりメリットはない。一方、途上国では、工業製品は先進国からの輸入に依存しているので、通貨切り下げは、しばしばインフレにつながる。C、各種規制緩和、金融、投資、および貿易の自由化、国営企業とサービス部門の民営化が押しつけられる。途上国の場合、民営化とは外国資本による買収以外のなにものでもない。とくにCは、債務危機の解決には関連のない項目である。しかし、IMFは救済融資をテコに、多国籍資本が途上国経済を乗っ取るための環境を整備したのであった。
 世界銀行は、IMFに続いて債務国に「構造調整融資」を行い、第三世界の経済のグローバリゼーションを推進した。また、あまりに貧しいので外国投資も融資も来ない、したがって債務危機も起こらなかったアフリカには、長期の無利子融資(ソフトローン)を餌にして構造調整プログラムの導入を図った。ソフトローンの返済は滞り、かえって深刻な債務危機に陥った。アフリカは非情な市場経済の餌食となっている。
この構造調整プログラムこそはレーガン=サッチャーが導入した新自由主義政策とほとんど同一のものであった。
 90年代に入ると、冷戦構造が崩壊した。社会主義国は、北朝鮮を除いて、すべて市場経済に移行した。グローバリゼーションは、まさにグローバル化した。
 この新自由主義のグローバリゼーションがもたらしたものは何であったか?
 まず第1に、すさまじい貧困層が生まれた。
国連が規定する絶対的貧困とは、人間が生きていくのに基本的に必要なニーズを奪われている人びとを言う。この人たちは、飢えており、読み書きができず、安全な飲み水もない。この地球上には、13〜15億人もの絶対的貧困者が住んでいる。
 第2に、地球規模のすさまじい格差の拡大である。
 例えば、マイクロソフトの会長ビル・ゲイツ1人の資産は、最貧国49カ国のGDPのすべてをあわせたものより多い。これら最貧国の人口は6億人である。ゼネラル・モーターズ、ウォール・マート、エクソン・モービル、フォード、ダイムラー・クライスラーなど巨大企業それぞれの年間売上高は、49の最貧国のGDP総額より大きい。
 グローバリゼーションは一握りの金持ちと巨大企業を生み出し、その対極に膨大な貧困層を作り出した。
 第3に、世界経済が巨大なカジノとなった。
毎日1兆3,000億ドルの巨額な投機資金が、時時刻刻、国境を超えて世界中を走り回って、巨大な利益をあげている。これは、途上国経済、とくに貧しい人びとに災厄をもたらしている。新自由主義のグローバリゼーションは、世界を大きなカジノに変えた。 
 新自由主義のグローバリゼーションがもたらした貧困、格差、経済のカジノ化に対して、ついに人びとは「ノー」と言って立ちあがった。これが、今地球上を吹き荒れている反グローバリゼーションのデモである。
 多国籍企業がグローバルな寡占体と化した今日では、資本主義の勃興期にアダム・スミスが言ったような「見えざる手」によって制御できると夢見る人はもはやいない。 

五、00年プラハ、01年ジェノバ
 99年11月、シアトル以来、米国、ヨーロッパの各地において反グローバリゼーションの大規模なデモが起こった。01年9月11日事件によって、米国では、このデモは沈静化したように見えるが、ヨーロッパでは、同7月、ジェノバG8サミットに対する25万人の抗議デモ以来、反グローバリゼーションの熱い波は続いている。
 99年、シアトルの反WTOデモの中心は、米国最大の労組AFL・CIOであった。以来、AFL/CIOは、2000年ワシントンのIMF・世銀に対するデモ、01年4月のカナダ・ケベックでの米州自由貿易地域(FTAA)サミットの抗議デモなど、西半球での反グローバリゼーションのデモでは常に中心勢力になってきた。
 一方、英、独、仏などヨーロッパの巨大労組は、これまで反グローバリゼーションの闘いの先頭に立ってこなかった。なぜなら、労組は、社民党政権の支持基盤になっているため、明確な対決姿勢を打ち出せない。しかし、市場経済によるグローバリゼーションは進行しているのに、社民党政府には、日々深刻化する失業、貧困問題を解決する資金がない。 
このジレンマは大きなフラストレーションとなり、労組の先鋭化が起こっている。すでに、イタリア、ギリシア、スペイン、ベルギーなどでは、労働総同盟がグローバリゼーション反対を打ち出している。
 その結果、01年12月のブルッセルでのEU首脳会議に対して、ヨーロッパ労組連合(ベルギーの労組が中心)が8万人の反対デモを行った。デモのスローガンは「より社会的なヨーロッパを」であった。これは、EU各国政府が、通貨統合を口実に福祉や社会保障制度、雇用対策を犠牲にしていることに対する抗議である。
(1)00年9月、プラハの熱い秋の1日
 2000年9月26〜28日、チェコの首都プラハで開かれたIMF・世銀の合同年次総会は、182カ国から大蔵大臣、中央銀行総裁、民間銀行頭取、NGOなど1万4,000人が集まり、史上最大規模になった。しかし、初日の火曜日に、2万人の抗議デモに見舞われ、さらにそれに続いた街頭ゲリラ戦によって、大蔵大臣や中央銀行総裁たち代表や銀行家たちが会場内に缶詰になってしまった。総ガラス張りの会議場は、小高い丘の上に位置していたため、デモの様子が会場内から窺えた。あるデモのグループは、会場から50メートルのところまで前進した。代表たちは、深夜、地下鉄に乗せられ、郊外の公園に放り出された。日常、お抱えのリムジンしか乗ったことのない大臣、総裁、頭取などが、地下鉄のつり革につかまされたことは、屈辱的であったに違いない。やっとのことで、宿舎のホテルにたどり着くと、さらにデモ隊の騒音の歓迎が待ち構えていた。
 翌日、彼らは先を争って帰国してしまった。したがって、27日以後は自然流会になってしまった。IMF・世銀当局は、「効率よく議事が進行したので、会議は2日間で終了した」と記者会見で発表したので、日本では、そのように報道された。だが、まともに会議が開かれたのは、26日午前中の開会式だけだった。これは、反グローバリゼーション派の完全な勝利であった。
 私はこのプラハIMF・世銀総会にNGOとして参加し、一方では、抗議デモの隊列にも加わった。そこでの経験を述べよう。
(2)市民社会の亀裂
 シアトルにはじまった反グローバリゼーションのデモは、プラハの段階になると、これまで、国際社会を動かしてきたNGOと新しい社会運動との間に、明確は亀裂が生まれた。
@、NGOは「中に入って、対話する」路線
 総会に参加の登録をしたNGOの数は350団体、ただし人数は判らない。しかしNGOは「ビジター」という資格でしかなく、開会式にのみ出席を認められた。結局のところ、NGOはIMF・世銀側の広報活動のターゲットになっただけだが、それでも登録したNGOは会議場の中に閉じこもっていた。国連の会議のように、NGOが抗議の共同声明を出すこともなかった。  
 ウォルフォンセン世銀総裁は、記者会見で、OXFAM、地球の友、ジュビリー2000を対話の相手に挙げた。「これらはお行儀の良い子たちで、外で暴れているのは悪い子たち」である。彼らの「気持ちは判るが、中に入って対話をしなさい」という。
 私は、NGOが「中に入って、対話する」ことに反対ではない。しかし、IMFや世銀のような巨大な国際機関に対して対等の立場で対話をする場合、どうしても背後に大きな運動がなければならない。それは、まさにプラハの街頭でデモをしている人びとではないか。
A、反グローバリゼーションのデモとゲリラ戦
 チェコ国内では、「経済のグローバリゼーションに反対するイニシアティブ(INPEG)」という統一組織が誕生した。そして、9月26日を「グローバル行動デー」とし、グローバリゼーションに反対する24時間闘争を呼びかけた。
 INPEG側は、当日の朝まで、一切の計画を秘密にしてきた。その一方、次々とマスコミに、デモのルート、1日のスケジュールなどといった「計画」をリークし、それらがテレビや新聞に報道された。ところがすべて偽情報だった。
 たとえば、朝9時にミール(平和)広場に集合せよと言った。しかし広場にいたのは5,000人ほどだった。実際には、市内各所で、集会が開かれたようだった。また、ミール広場の広報係は、「デモは3ルートに分かれ、最も安全なルートはピンクの旗、少し戦闘的なのはイエロー、そして弾圧に対処する研修を受けているデモ隊はブルーだ」と言った。しかし、ピンクの旗を掲げ、ピンクの風船を持っていたデモ隊は、実は最も戦闘的なブルー組であった。
 11時半、何の前触れもなしにデモが始まった。デモの最前列まで行って見ると、その前に、1,500人の報道陣が群がっていた。彼らはIMF・世銀総会の開会式の取材を放って、デモの取材に駆けつけたのであった。
 事前にデモの計画を知っていたのは、国別、組織別のリーダーに限られていた。私のようなフリーランサーには、安全なピンクのデモ隊を見つけるのに苦労した。やっと、大汗をかいている人を見つけ、それが、ピンク組のリーダーだということが判った。そのデモの中には、ジュビリー国際キャンペーンの仲間たちもいた。
 デモの進行とともに、続々と新しい部隊が加わった。イタリアのヤ・バスタ!や、ギリシアのグループが現われると、一斉に歓声が起こった。デモの参加者は2万人に膨れ上がった。デモのバナーは反グローバリゼーションで埋め尽くされたが、中には「IMF・世銀は人殺し」という過激なものもあった。人びとが持っていたプラカードには、「利潤でなく、人間を 」と「 債務を帳消しに」が最も多かった。
 3つのコースのデモは、同時に会議場の東、南、西の入り口に到着した。当初の計画では、ここで会議場を囲む「人間の鎖」を作り、IMF・世銀の代表を会場から出さないという作戦だった。しかし、INPEGのチェコ人リーダーたちは、最後までデモの許可が下りなかったこと、また、事前にマスコミに対して「非暴力なデモであること」を強調しすぎたこともあって、警察に恫喝されるとデモを解散してしまった。
 私の見た限り、ピンク組のデモ参加者でさえ、解散する気はなかった。人びとは、口ぐちに「催涙ガスにも屈しない」と言っていた。また、英国から来た60代の女性の一群は、座り込みをするのだと言って、イエロー組に移っていった。
 デモの解散直後の午後1時、イタリア、ギリシア、ポーランドのアナーキスト団体が、ゲリラ戦を開始した。彼らが事前にリークした情報では、北から会議場に通じるヌスル橋を攻撃するはずだった。しかし、実際には、ヒット・アンド・ラン戦術でもって、会議場に通じる警察の手薄な道路のバリケードを次々に襲った。ゲリラの武器は主として石だったが、火炎瓶も投げられた。午後5時半には、会議場に隣接しているホテルが攻撃された。午後7時半には、ヤ・バスタ!のグループが到着した。そのため、各国代表を招待していたコンサートはキャンセルになった。その後、彼らは、オペラ劇場近くのワンセスラス広場で、グローバリゼーションの象徴として、マクドナルド、ケンタッキー、ベンツ、投資銀行などのウインドウを壊した。警察がゲリラを排除したのは、午後10時半のことだった。
B、反グローバリゼーションの新たな潮流
 例えば、ヤ・バスタ!を、伝統的なアナーキストとして、決めつけて良いだろうか。そして、彼らは、ほんの一握りの破壊分子なのだろうか。考えてみる必要がある。
 確かに、彼らは、グローバリゼーションに反対し、その帰結として、「資本主義の打倒」を主張している。
ヨーロッパの政権のほとんどが、グローバリゼーションを進める一方で、その犠牲者を社会的安全網で救済する社会民主主義である。この点、米国の新自由主義とは異なる修正資本主義である。しかし、社会的安全網には、政府に十分な予算がなければならない。グローバリゼーションを推進する以上、政府の歳入は減り、失業者は増える。したがって、社会的安全網は「絵に描いたモチ」に過ぎない。ヨーロッパの若者たちが、社会民主主義にあきたらなくなるのは、以上のような事情による。 
 また、プラハのデモの特徴は、20代の若者と、50〜60代の女性が圧倒的な部分を占めていたことである。女性たちの多くは、私が話をした範囲ではあるが、70年代のネッスル・ベビイ・ミルクキャンペーン、80年代の反核デモ、グリーナム・コモンの座り込み、反原発デモの経験者であった。彼女たちの過激な言動には驚かされた。
(3)ジェノバG8 vs. 史上最大の抗議デモ            
 コロンブスの故郷、そしてルネッサンスの街として知られたイタリアのジェノバは、01年7月20−22日の3日間で、史上最大の反グローバリゼーション・デモの街として、歴史に名を残すことになった。
 わずか7人プラス1人が会合するドカ―レ宮殿を護衛するために、宮殿から半径2キロの地帯が立ち入り禁止の「レッド・ゾーン」に指定され、高さ7メートルのハイテクの鉄壁が築かれた。また彼らが泊る1隻のクルーザーのために、すべての船が港から追放された。
 一方、「レッド・ゾーン」の外では、連日25万人が抗議デモを繰り広げた(CNNは15万人、イタリアのリベラルな新聞は30万人と報道したが、誰も正確な数字は判らない)。デモ側に1人の死者、450人の負傷者、そして、多くの店や車が破壊された。
 これまで27回のサミットの中で、これほどの大規模の抗議デモに見舞われたのははじめてであった。また1人の死者をだすほど、デモ隊と警官隊との激しい衝突が起こったのもはじめてであった。
 サミットに抗議するために、25万人が集まったという事実を無視することはできない。この数は、ジェノバの人口7万5000人の3倍強である。これは生半可な数ではない。
 03年6月、フランスのリゾート地エビアンで開催されたG8サミットでは、10万人の人びとがデモをした。この段階になると、反グローバリゼーションの抗議デモというよりも、むしろ人びとがピックニック気分で集まり、議論を交わすという風景に変化した。
(4)9.11とブッシュ大統領のユニラテラリズム
 01年9月11日に、ニューヨークとワシントンで起こった同時多発のテロ攻撃はなぞの多い事件である。しかし、9.11の最大の受益者がブッシュ大統領であったことだけは間違いのないところである。なぜなら彼は、それまで、ゴア民主党候補との間に大統領選の決着がついていなかった。明らかに得票数では、ゴア候補の方が多かった。ブッシュは、半分の大統領でしかなかった。ところが、9.11以後、彼は合衆国大統領となった。
 ブッシュ大統領は、「これはテロではなく、米国に対する戦争である」と言い、「報復」を叫んだ。そして、10月には、アフガニスタン戦争を始めた。
 さらに、02年6月、ブッシュ大統領は、それまでの「やられたら、やり返す」という報復主義から、一歩踏み込んで、「先制攻撃」戦略を発表した。これは、アルカイダのテロ組織が60カ国以上にあり、これに対して、米国はいつ何時でも攻撃することが出来るというものであった。60カ国は、世界中の国の3分の1を占める。
 ブッシュ大統領は、この先制攻撃戦略にもとづき、03年3月20日、イラク戦争を開始した。国連安保理では、米国のイラク攻撃に常任理事国のフランス、ロシア、中国が反対したばかりでなく、ブルガリアとイタリアとスペインを除くすべての非常任理事国が反対するという、安保理始まって以来の異変が起こった。とくに、米国の隣国で、北米自由貿易地域協定(NAFTA)加盟のカナダとメキシコの反対は世界を驚かせた。
 そして、イラク戦争が始まる前の2月15日には、この地球上で2,000万人がブッシュのイラク戦争に反対するデモが起こった。これは、シアトル以来、の反グローバリゼーションのデモの帰結であった。
ロンドンを埋め尽くした200万人、ローマの100万人、マドリッドの100万人と続き、大西洋を越えて、ニューヨークの50万人を含む米国全土では100万人、太平洋を越えたメルボルンでは50万人と地球を一周する反戦デモの波であった。
ロンドンの反戦デモの人波の中で人びとは「これはもはやデモではない。歴史的事件だ」と叫んでいた。

六、そしてポルトアレグレへ 
01年1月、ブラジルのポルトアレグレで開かれた「世界社会フォーラム」は、新しいグローバルな市民社会の運動のはじまりであった。これは、世界を変えるグローバルな運動である。そして、ポルトアレグレは、まさにこの新しい運動の始まりにふさわしい都市であった。
 私が最初にポルトアレグレの会議のことを聞いたのは、2000年9月、プラハの反IMF・世銀の大デモの場であった。その後、まもなくブラジルの組織委員会から私のところに招待状が送られてきた。その招待状には、500人規模の会議だと記されていた。しかし、ポルトアレグレに着くと、隣国のウルグアイから600人、アルゼンチンから1,200人、フランスから200人などと世界各地から大グループが到着していた。さらにブラジル国内から1万人が集まり、ついに参加者総数は1万6,000人に達した。市当局は、ホテルに収容できない人のために、急遽公園にテント村を設営し、このほか、夏休み中の学校を宿泊所にした。私は、とてつもないマンモス会議に参加したのだった。 
 (1)なぜポルトアレグレであったのか
 「世界経済フォーラム」は、1971年から毎年1月末、ダボスで開かれてきた。ダボスは、スイスの寒村で、近くにある国際決済銀行(BIS)が主催してきた。当初は、多国籍企業や銀行の重役たちが集まって、インフォーマルに意見を交換する場であった。冷戦以後、これに政治家や官僚も参加するようになった。ダボスは、世界の経済、政治、官界のエリートが結集する一大晴れ舞台となり、グロ―バリゼーションの象徴となった。
 01年1月、フランスの「ATTAC(為替取引に課税して市民を援助する協会)」が、ダボスに対抗する「世界社会フォーラム」を第三世界で開くことを企画し、ブラジルのポルトアレグレに白羽の矢を立てた。ATTACは、世界を駆け巡る投機的な資本の移動を抑制するために「為替取引税(トービン税)」を課税し、これを雇用や福祉、貧困根絶の資金にしようという新しい市民運動であり、フランス国内だけで、5万人の会員を擁する。 
ブラジルは連邦国家である。ブラジル最南端のリオグランデ・ド・スル州は、左翼の労働党が政権を握ってきた。その州都である人口130万人のポルトアレグレ市も、89年以来、市長、市議会ともに労働党が握っていた。
 ポルトアレグレ市は「参加型民主主義のモデル」であった。その典型的なプロジェクトは、99年からはじまった「参加型予算システム」である。市の収入のうち、公務員の給料を差し引いた事業費の80%が、市内16のコミュニティの運営に任されている。それぞれのコミュニティが代表を選出し、交通、病院、教育、公的住宅、上下水道の開発、課税制度改革などのテーマについて、3カ月にわたって議論し、予算の額と、優先順位を決める。予算の配分、実施にあたっては、コミュニティの代表と市議会議員が共同で行う。
 この参加型予算システムが成功していることは、ポルトアレグレ市を訪れた人には、一目瞭然である。まず、ポルトアレグレ市には乞食がいない。スラムがない。小さな小路にいたるまで、清潔である。夜、女性が町を歩いても安全である。市の人口より多くの樹木が植えられていて、大気汚染がない。水道の普及率は99%、下水道は82.9%にのぼっている。国連開発基金(UNDP)の人間開発指数では、ラテンアメリカの中で100万人を超える都市の中で、ポルトアレグレ市は最上位にランクされている。
 労働党のオリビオ・デュトラ氏が市長に就任した時には、今日の他のブラジルの都市と同様、市財政は破綻し、汚職がはびこっていた。犯罪が多発していた。人びとの政治不信の根は非常に深かったのであった。
 ポルトアレグレには、この政治面での参加型民主主義に加えて、「連帯経済」と呼ばれる経済システムがある。これは、利潤追求の市場経済に対抗して、協同組合、共済組合、NGO、労組、社会運動など、利潤ではなく人間の連帯にもとづく非営利の経済活動である。ポルトアレグレではこの連帯経済が非常に発展している。なかでも活発なのは、協同組合運動である。工場や学校、博物館までも協同組合によって経営されている。
 また、ポルトアレグレ市内には、貧困地域はあるが、第三世界の大都市に見られる不法占拠者のスラムはない。これは、ブラジル最大の社会運動である「土地なき労働者運動(MST)」の活動が大きく貢献している。
(2)MST土地占拠運動
 MSTは、都市に流れ込んできた元農民が、再び農村に帰り、大地主の遊閑地を占拠する運動である。ブラジルの軍事独裁政権下で、労組のCUTと並んで、MSTは最も激しい抵抗運動を闘い抜いてきた。
 世界社会フォーラムの目玉行事の1つに、MSTのツアーがあった。私は、最後の日にこれに参加し、バスで2時間のところにある郊外の占拠村を訪問した。
 MSTは、まず第1に、ポルトアレグレ市内のスラムで組織活動を開始する。貧しい人びとを組織し、経済的な自立の道を確立し、衛生の改善などをはかる。ついで、これらの人びとを、元の農民に帰るというMSTの占拠運動に参加するように説得する。
 MSTの実際の土地占拠闘争は、2段階に分けて行われる。
 第1段階は、約150世帯を1単位に組織して、市外のハイウエイ沿いの国や州政府の公有地に、テント村を設営して、スラムから移住する。ビニールや木切れは、MSTが提供するが、人びとが井戸を掘ったり、学校を建てたりして、1つのコミュニティを建設する。 
 他の州では、州警察や連邦軍隊がこのテント村を襲撃して、この段階ですでに血なまぐさい闘争になっているが、リオグランデ・ド・スル州では労働党の州政府が好意的であるので、現在では、平和的に行われている。彼らは、このテント村に、半年〜1年滞在する。この間、人びとは、近くのりんご園に働きに行ったりして、生活費を稼ぎ、一方、協同組合の活動を実践していく。ここで、有機農法、生産者協同組合のノウハウなどを学ぶ。
 第2段階は、この中から、20〜30家族のグループが、州政府が提供する公有地、あるいは、大地主の遊閑地を実力で占拠し、そこに定住する。私が訪れたMSTの村は、28世帯からなり、1世帯あたりの私有地が20ヘクタール、協同組合の土地が600ヘクタールという広大な土地を占拠していた。水田、小麦畑、野菜畑、酪農や畜産といった多角的な有機農業を経営していた。
 農民の家は、小奇麗な一軒家で、かってのスラムやテント村と比較すると天国である。
しかし、ブラジルの農産物価格はラテンアメリカで最も低く、農業経営は容易ではない。それは、農産物の自由化によって、米国などから政府の補助金を受けた安い農産物がブラジル市場にダンピングされた結果だと、MSTの活動家は語った。
 訪問した占拠村は、州政府が提供した公有地であるので、土地の代金の支払いには問題がないが、大地主の土地の場合、それまでは、遊閑地として放棄されており、土地代はほとんどただであったのに、MSTが占拠して、立派な農地に変えた結果、高騰した土地の価格の支払を要求する。これについては、裁判沙汰にまで発展している。
 世界社会フォーラムでは、MSTは最大勢力であった。緑の旗と緑のスカーフが、どの会場でも圧倒していた。                                          
 以上述べたように、ポルトアレグレそのものが、新しいグローバルな市民社会の運動のはじまりの地として、最もふさわしいことが明らかであろう。閉会の時、司会者に、「もう一つの世界は可能ですか?」と聞かれたアフリカの女性は、「それはポルトアレグレそのものです」と答えていた。

七、オルタナティブになりうるか?
 冷戦が終了するまでは、資本主義にとって代わるオルタナティブは社会主義であった。しかし、社会主義が崩壊して以来、今日では、資本主義にとって代わるものはない。
 では、今日の無制限な利潤を追求する企業のグローバリゼーションを抑制することはできないのだろうか?
私は「ある」と言いたい。しかし、それは、ありもしない仮説であってはならない。それは人びとや地域、コミュニティの中ですでに実践されているものでなければならない。
 多国籍企業は、最大限利潤を得るために活動する。しかし、一方では、利潤を目的としない経済活動があるではないか。
19世紀以来、人びとは協同組合活動を続けてきた。そして労働組合や共済組合を組織した。今日では、NGO、NPOなどが挙げられる。これら人間と人間との間の連帯に基づいた経済活動は、環境や人権を守り、同時に女性の無償労働を考慮に入れているものでなければならない。この連帯の経済は、マイクロ・クレジットや地域通貨などの分野にも存在する。
地方自治体レベルだけではなく、中央政府レベルでも、すでに、直接民主主義的な参加のアプローチがなされている。政府と住民とが権力を共有する動きさえでている。それは「参加型予算プロジェクト」と呼ばれるものである。ポルトアレグレは、まさにこの連帯経済の都市である。
 国際レベルでは、フェア・トレードや、南北間のNGOの国際開発協力などが挙げられる。NGOの国際開発協力では、世銀の調査でも、年間85億ドルにのぼる。これは、昨年の日本のODAに匹敵する額である。
 これら、草の根の連帯経済の1つ1つの規模は大きなものである必要はない。それは顔の見える規模でなければならない。なぜなら、それに参加している人びとの間の信頼がなければならないからである。そして、それぞれの単位が、国、地域、グローバルなレベルで緩やかなネットワークをつくっていく。
 では、この連帯経済は市場経済のオルタナティブになりうるだろうか?グローバル化した市場経済を壊して、これら連帯経済に置きかえることが出来るだろうか?
 世界社会フォーラムでは、「もう1つの世界は可能だ」というが、それが何であるかについては、まだ議論が煮詰まっていない。
しかし、私の答えは「ノー」である。
 例えば、協同組合は多国籍企業にとって代わることはできない。地域通貨はドルの支配を覆すことはできない。マイクロ・クレジットでもって、商業銀行に代えることはできない。すべての外国貿易をフェア・トレードでもって代えることはできない。
 そうではない。
 市民社会は、最大限利潤を求め、行き過ぎた、過度の、無秩序の、そして投機的で、破壊的で、社会的責任を持たない多国籍企業の活動と市場経済をコントロールすべきである。過度の労働者搾取、無制限の環境破壊、多国籍企業の政治的、経済的支配、さらに、一部のエリートによる権力、決定、選択、機能などの独占を正さなければならない。この規制とコントロールは、コミュニティで、国内で、地域で、グローバルなレベルで連帯経済を推進した時、可能である。
連帯経済は大企業主導のグローバリゼーションに対して闘わねばならない。ある協同組合の活動が、WTO協定に抵触した時、WTOのパネルが「違反だ」と採決した場合、その協同組合活動は停止させられてしまう。IMF・世銀が構造調整プログラムや貧困削減戦略ペーパーを途上国政府に強制しつづければ、草の根の連帯経済活動は阻害されるだろう。国際開発協力NGOはIMF・世銀の構造調整プログラムが膨大な貧困を生み出していることに闘わねばならない。そして、巨額の投機マネーが世界中を駆け巡れば、地方政府レベルの参加型予算プロジェクトも実施できないだろう。これは、マイクロ・クレジットや地域通貨についても同じことが言える。97年のアジア通貨危機の時、これら投機マネーが、タイ、インドネシア、韓国で、いかに大規模な失業と貧困を生み出したかを目の当たりにしたところである。
 このように、連帯経済は包括的であり、かつ新しい経済のパラダイムである。それは草の根の人びとの経済活動、地方あるいは中央政府の参加型アプローチ、新自由主義のグローバリゼーションに反対するグルーバルな、かつ大規模な人びとの抗議行動などを統合したものである。
 以上のことは、ムンバイの世界社会フォーラムで議論された中で、私が最も重要と考えるテーマであり、内容である。またこれは、今日の反グローバリゼーション運動の到達点である。

おわりに
 世界を揺るがしている反グローバリゼーションのデモ、地球を一周したイラク反戦の波、そして、マンモスの世界社会フォーラムは、すべてインターネットによって組織されている。しかし、このインターネットは、なぜか日本を素通りしている。
 日本では、グローバリゼーションに対する抗議デモはない。労組は、米国のAFL-CIOのような指導的な役割をはたしていない。昨年2月15日、イラク戦争を支持したすべての国で起こったイラク反戦デモの波は東京には達しなかった。フランスでは、カンクン直前に、WTOに反対する35万人の市民が集まり、大企業主導のグローバリゼーションについて議論した。しかし、日本では、反WTOのデモや集会は開かれなかった。またムンバイの世界社会フォーラムを報じたマスコミはなかった。
 なぜ、日本はこのように世界の現状に取り残されているのだろうか。なぜ日本の市民社会はおとなしいのだろうか。
 私は、70年代以降、日本の市民社会が、自ら考え、議論し、行動することを止めたところにあると思う。それまで、市民社会の代弁をしてきた左右の政党も機能停止状態に入ってしまった。
「受益者負担」の名目で、健康保険や年金の改革が行われ、福祉、教育予算が削られ、高齢者、低所得者の税率が引き上げられ、それでも世界一の赤字国債が発行されている。これは、IMF・世銀が途上国に押し付けている悪名高い構造調整プログラムと同じではないか。国際法を無視した米国のイラク戦争に自衛隊が派遣される。憲法9条改正の日程まで決まっている。
私は、このような目をおおうような悲惨な状況を変えるためには、今「議論をおこす」ことが必要であると思う。ムンバイでは、世界中から10万人が集まって、6日間も議論をした。今からでも遅くない。日本中で議論を巻き起こそう。