論文集  
2001年1月、ポルトアレグレ
 
― 新しい運動の時代の始まり

 「もう一つの世界は可能だ」 これは、2001年1月25〜30日、ブラジルのポルトアレグレの「世界社会フォーラム」に世界各地から集まった16,000人にのぼる参加者の共通の言葉であった。

1)なぜ私は「世界社会フォーラム」に参加したのか

 「世界社会フォーラム」は、その名称と日時から明らかなように、同じ時、地球の反対側にあたるスイスのダボスで開かれた世界の経済・政治のエリートたちの「世界経済フォーラム」に向けた"対抗会議"だと報道された。
 しかし、ポルトアレグレは、たんなる反ダボス会議にとどまらなかった。
 「世界社会フォーラム」は、新しいグローバルな市民社会の運動のはじまりであった。これは、世界を変えるグローバルな運動である。そして、ポルトアレグレは、まさにこの新しい運動の始まりにふさわしい都市であった。

 私が最初にポルトアレグレの会議のことを聞いたのは、昨年9月、プラハの反IMF・世銀の大デモの場であった。その後、まもなくブラジルの組織委員会から私のところに招待状が送られてきた。日本からブラジルまでは、飛行機で往復50時間以上もかかるので、しんどいという気持ちもなかったわけではないが、よろこんで参加の返事を出した。
 その理由は、第1に、反グローバリゼーション派が一堂に会して、対抗会議を開くという点に賛同したからであった。
 1999年12月、シアトルの7万人にのぼった反WTOデモ以来、4月のワシントンのIMF・世銀会議のデモ、6月、メルボルンのアジア太平洋地域の世界経済フォーラムに反対するデモ、9月、プラハのIMF・世銀の年次総会に反対するデモ、11月、ソウルの反ASEMデモ、そして12月のニースのEU首脳会議に対するデモにいたる、この1年間、世界各地で、反グローバリゼーションの大規模なデモが繰り広げられてきた。そして、第3回WTO閣僚会議が流産になったのを皮切りに、メルボルンやプラハでも、デモのために、世界のエリートたちの贅沢な会議は、流会に追いこまれた。この点では、これらのデモは大きな効果をあげてきた。
 しかし、反グローバリゼーションのデモは、WTO、IMF、世銀、世界経済フォーラム、首脳会議など、グローバリゼーションを推進する国際機関やエリートたちが開く大規模な国際会議に対して抗議するという形をとってきた。これは、世界各地から集まった人びとが、「デモ」という手段で抗議の意志を表明することにとどまり、グーローバリゼーション、あるいはWTO、IMF、世銀が果たしている役割、G7政府、そして、これらの背後にいる多国籍企業などについての議論をする場はなかった。したがって、はじめて反グローバリゼーション派が一同に会して議論するポルトアレグレの「世界社会フォーラム」は、私にとって、大変魅力的であった。
 第2に、ブラジルの労組、農民運動、そしてラテンアメリカの先住民の闘争などについて、知りたいということももう一つの動機であった。昨年9月には、ブラジルのJubilee2000が中心になって、キリスト教会、労組、農民運動などの連合が、「債務返済、IMFの緊縮政策など」の項目について、「住民投票」を実施した。これには、500万人を超える人びとが参加し、圧倒的な「ノー」の投票を行った。このような、ブラジルの市民社会のダイナミックなエネルギーに触れたいとの思いがあった。
 私のところに送られてきた招待状には、500人規模の会議だと記されていた。実際、世界社会フォーラムのWeb Siteには、出席者の名簿が掲載されていたが、それは、100人を超えることはなかった。
 ポルトアレグレに到着した1月24日に、ブラジルの組織委員会による記者会見が開かれた。この席で、ポルトアレグレ市長が、「最初は2,500人規模の会議ということで、市はホテルなどの受け入れ体制を準備したが、隣国のウルグアイから600人、アルゼンチンから1,200人、フランスから200人と大グループが到着しはじめた。さらにブラジル国内から10,000人が集まり、参加者総数は16,000人に達した。市当局は、ホテルに収容できない人のために、急遽公園にテント村を設営し、このほか、夏休み中の学校を宿泊所にした」と語った。私は、はじめて、とてつもない、マンモス会議に参加したことを知らされた。 
 ポルトアレグレは、すべての面で、ダボスを上回っていた。テレビや新聞などの記者団も、1,800人が登録した。うち海外からは、800人であった。ダボスを取材したジャーナリストの数は1,000人に過ぎなかった。それも反対デモの取材が目的というのが多かった。

2)なぜポルトアレグレであったのか

 ダボスの世界経済フォーラムは、1971年から毎年1月末に開かれてきた。ダボスは、スイスの寒村で、近くにある国際決済銀行(BIS)が主催してきた。当初は、多国籍企業や銀行の重役たちが集まって、インフォーマルに意見を交換する場であった。冷戦以後、これに米、ヨーロッパの政治家が参加するようになり、最近では、マンデラ、アラファトのような第3世界の政治家も加わるようになった。したがって、ダボスは、世界の経済、政治、官界のエリートが結集する一大晴れ舞台となり、グロ―バリゼーションの象徴となった。
 1998年1月、従属理論派のサミール・アミンが主催する第3世界フォーラム(本部はダカール)が、ダボスの近くで、「オルターナティブ経済フォーラム」を開催した。これには途上国の社会科学者約50人が集まり、「ネオ・リベラリズム」に反対する決議を採択した。 
 多分これが、ダボス会議に反対する最初の動きであった。翌年の2000年1月には、フランスのATTACが呼びかけて、ダボスで、抗議デモが行われた。このATTACは、世界を駆け巡る投機的な資本の移動を抑制するために「トビン税」を課税し、これを雇用や福祉、貧困の根絶の資金にしようという新しい市民運動であり、フランス国内だけで、25,000人の会員を擁する。ちなみにATTACの代表は、フランスの月刊誌「Le Mondo Diplomatique」の社主兼編集長であるベルナール・カッセンである。
 ATTACは、ダボスに対抗する「世界社会フォーラム」を第3世界で開くことを企画した。カッセンが持っているマスメディアの人脈をフルに使って、ブラジルのポルトアレグレに白羽の矢を立てたのであった。
 ブラジルは、途上国の中でも、インドと並んで大国であるが、同時に、連邦国家である。ブラジルの最南端のリオグランデ・ドスル州は、左翼の労働党が政権を握っている。その州都である人口130万人のポルトアレグレ市も、すでに12年前から、市長、市議会ともに労働党である。
 ポルトアレグレ市は、「参加民主主義のモデル」と言われている。その典型的なプロジェクトが、2年前からはじまった「参加型予算システム」である。市の収入のうち、公務員の給料を差し引いた事業費の80%が、市内16のコミュニティの運営に任されている。それぞれのコミュニティが代表を選出し、交通、病院、教育、公的住宅、上下水道の開発、課税制度改革などのテーマについて、議論し、予算の額と、優先順位を決める。予算の配分、実施にあたっては、コミュニティの代表と市議会議員と共同で行う。
 この参加型予算システムが成功していることは、ポルトアレグレ市を訪れた人には、一目瞭然である。まず、ポルトアレグレ市には乞食がいない。スラムがない。小さな小路にいたるまで、清潔である。夜、女性が町を歩いても安全である。市の人口より多くの樹木が植えられていて、大気汚染がない。ブラジルの他の都市に比べると、その成果が判る。国連開発基金(UNDP)の人間開発指数では、ラテンアメリカの中で100万人を超える都市のなかでポルトアレグレ市が最上位にランクされている。水道の普及率は99%、下水道は82.9%にのぼっている。
 12年前、労働党の現リオグランデ・ド・スル州のOlivio Dutra知事が、ポルトアレグレ市長に就任した時には、今日の他のブラジルの都市と同様、市財政は破綻し、汚職がはびこっていた。犯罪が多発していた。人びとの政治不信の根は非常に深かったのであった。
 ポルトアレグレには、この政治面での参加型民主主義に加えて、「連帯経済」と呼ばれる経済システムがある。これまで、フランスやEUなどで「社会経済」と呼ばれてきたものである。これは、利潤追求の市場経済に対抗して、協同組合、共済組合、NGO、労組、社会運動など、利潤ではなく人間の連帯に基く非営利の経済活動を指す。これらの経済活動が、市や国のGDPの10%を上回ると、利潤追求の市場経済をコントロールすることが出来ると言われてきた。ポルトアレグレでは、この連帯経済が非常に発展している。生産者、消費者だけでなく、学校やミュージアムまでも協同組合によって経営されている。
 また、ポルトアレグレ市内には、貧困地域はあるが、リオなどに見られる不法占拠者のスラムはない。これは、ブラジル最大の社会運動である「土地なき労働者運動(MST)」の活動が大きく貢献している。
 MSTは、都市に流れ込んできた元農民が、再び農村に帰り、大地主の遊閑地を占拠する運動である。ブラジルの軍事独裁政権下で、労組のCUTと並んで、MSTは最も激しい抵抗運動を闘い抜いてきた。
 世界社会フォーラムの目玉行事の1つに、MSTのツアーがあった。私は、最後の日にこれに参加し、バスで2時間のところにある郊外の占拠村を訪問した。
 MSTは、まず第1に、ポルトアレグレ市内のスラムで組織活動を開始する。貧しい人びとを組織し、経済的な自立の道を確立したり、衛生の改善などをはかる。ついで、これらの人びとを、元の農民に帰るというMSTの占拠運動に参加するように説得する。

 MSTの実際の土地占拠闘争は、2段階に分けて行われる。

 第1段階は、約150世帯を1単位に組織して、市外のハイウエイ沿いの国や州政府の公有地に、テント村を設営して、スラムから移住する。ビニールや木切れは、MSTが提供するが、人びとが井戸を掘ったり、学校を建てたりして、1つのコミュニティを建設する。 
 他の州では、州警察や連邦軍隊がこのテント村を襲撃して、この段階ですでに血なまぐさい闘争になっているが、リオグランデ・ド・スル州では労働党の州政府が好意的であるので、現在では、平和的に行われている。彼らは、このテント村に、半年〜1年滞在する。この間、人びとは、近くのりんご園に働きに行ったりして、生活費を稼ぎ、一方、協同組合の活動を実践していく。ここで、有機農法、生産者協同組合のノウハウなどを学ぶ。

 第2段階は、この中から、20〜30単位のグループが、州政府が提供する公有地、あるいは、大地主の遊閑地を実力で占拠し、そこに定住する。私が訪れたMSTの村は、28世帯からなり、1世帯あたりの私有地が20ヘクタール、協同組合の土地が600ヘクタールという広大な土地を占拠していた。水田、小麦畑、野菜畑、酪農や畜産といった多角的な有機農業を経営していた。
 農民の家は、小奇麗な一軒家で、かってのスラムやテント村と比較すると天国である。
しかし、ブラジルの農産物価格はラテンアメリカで最も低く、農業経営は容易ではない。それは、農産物の自由化によって、米国などから政府の補助金を受けた安い農産物がブラジル市場にダンピングされた結果だと、MSTの活動家は語った。
 訪問した占拠村は、州政府が提供した公有地であるので、土地の代金の支払いには問題がないが、大地主の土地の場合、それまでは、遊閑地として放棄されており、土地代はほとんどただであったのに、MSTが占拠して、立派な農地に変えた結果、高騰した土地の価格の支払を要求する。これについては、裁判沙汰にまで発展している。
 世界社会フォーラムでは、MSTは最大勢力であった。緑の旗と緑のスカーフが、どの会場をも圧倒していた。このブラジルのMSTの土地占拠運動は、「農民の道(Via Campesinos)」という名称で、ラテンアメリカ全土に広がっている。                                          
 以上述べたように、ポルトアレグレそもものが、新しいグローバルな市民社会の運動のはじまりの地として、最もふさわしいことが明らかであろう。閉会の時、司会者に、「もう一つの世界は可能ですか?」と聞かれたアフリカの女性は、「それはポルトアレグレそのものが証明しています」と答えていた。

3)ポルトアレグレでなにが議論されたか

 世界社会フォーラムは、第1日目は、開会式と夕方のデモで暮れた。デモの先頭には、州知事、市長、労働党党首、MST議長などが立ち、ポルトアレグレの繁華街を行進した。
 第2〜4日は、午前中が全体会議、午後がワークショップ、午後6時から8時までは、証言に充てられた。
 全体会議は、世界社会フォーラムの主要テーマである「富」と「民主主義」について、4つの会場において同時進行の形で議論された。
 例えば、第1テーマは、「富の生産」であって、第1日目は「生産システム」、第2日目は「貿易」、第3日目は「金融システム」、第4日目は「地球」というサブ・テーマでパネル討論の形で議論された。私は、「金融システム」のセッションの司会を務めたが、ここでは、債務帳消し、トビン税、新金融秩序の確立などをとりあげた。このテーマ自体が国際フォーラムのテーマであるような大きなもので、到底半日の議論では、結論はでない。しかも、セッションの参加者が2,500人を超え、中身のある議論は到底望めなかった。
 第2テーマは「富へのアクセス」であり、これは「科学」「共有財産」「分配」「都市」のサブ・テーマであった。第3テーマは、「市民社会」であり、「市民社会の能力」「情報」「グローバル市民社会」「文化」のサブ・テーマ、第4テーマは、「政治的権力」で、「民主主義」「国際機関」「民族国家」「紛争」のサブ・テーマに分かれていた。
 テーマの設定が、アカデミック過ぎるとの批判が出ていたようだが、いずれも魅力のあるテーマと、魅力のあるパネリストが配置されていたが、日本から1人だけの参加だったので、司会をやり、各種打ち合わせなどに時間をとられ、十分に議論をフォローできなかったのは残念であった。この全体会議は、カトリック大学の体育館を仕切った4つのホールで開かれたが、いずれも英、仏、スペイン、ポルトガルという4つの言語の通訳がついた。しかも、ほぼ完璧な通訳であった。
 午後は、参加者があらかじめ登録していた総計470ワークショップの時間であった。それは、通訳の設備もエアコンもない小教室があてがわれた。これも、WTO、IMF、世銀、Jubilee2000、パレスチナ、バスク、コロンビア計画、先住民など、めったに聞けないテーマで、しかも専門家や活動家の生の声に接することが出来るという良いチャンスであったが、聞き逃したのが多かった。
 夕刻の証言は、ブラジルのMSTのJoao Pedro Stedile議長、労働党の前大統領候補Lura da Silva、フランスのマクドナルド店襲撃農民のJose Bove 、グアテマラのノーベル平和賞受賞Rigoberta Menchu、ウルグアイの詩人Edurdo Galeano、ポルトガルのノーベル文学賞受賞Jose Saramago、フランスのDaniel Mitterand 、アルジェリアの初代大統領Ahmed Ben Bella などが登場した。このほか、珍しい参加者には、フランスのアスコエ連帯経済相(緑の党)がいた。彼の同僚のファビウス財務相(社会党)は、ダボスに出ていた。

4)ポルトアレグレでが何が決まったのか

 世界社会フォーラムの開催をよびかけたのは、組織委員会であった。委員会は、ブラジルの開発NGO連合体であるABONG、ブラジルのカトリック正義と平和委員会(CBJP)、ブラジル・ジャーナリスト連盟(CIVES)、労働組合総同盟(CUT)、土地なき労働者運動(MST)、提言型NGOのブラジル社会経済分析研究所(IBASE)、人権擁護のNGOであるグローバル正義センター(CJG)、それにフランスのATTACで構成された。ちなみにATTACはブラジルにも支部が設立されている。
 このように、組織委員会はブラジルの市民社会の主な団体が加盟しているが、考え方はそれぞれ異なる。グローバリゼーションについても、ネオ・リベラリズムには反対だが、そのオルターナティブは、社会民主主義であるとするものから、資本主義を打倒するべきだとするものまで、含まれている。これまでで最も長く続いたコロンビアの左翼ゲリラに対しても、武装闘争に反対する開発NGOは、不支持の立場をとっている。このような意見の対立は、全体会議のすべてのセッションで見られた。
 対立は、非政治、非暴力の立場を採る開発NGOと労働者、農民、先住民、都市貧困層など「社会運動」と呼ばれるグループとの間で激しく起こった。
 組織委員会では、IBASE、ABONGなどのNGOグループが、労働党の政治に利用されるとして、世界社会フォーラムを定期化すること、そして、来年1月にも再びポルトアレグレで開くことに反対した。また、世界社会フォーラムが「宣言文」を出すことにさえ反対した。
 宣言文を出さないことについては、そもそも世界社会フォーラムの発案したフランスのATTACが納得しなかった。そこで妥協案として、アジア、アフリカ、ヨーロッパの3地域グループが、宣言文を起草し、これに、参加者、団体が署名するという形をとることになった。また、大陸毎に、世話役の組織と人を選び、少数のインフォーマルな世話人会議を発足させることになった。これはATTACが今後連絡役として、まとめて行くことになった。同時に、バンコクのFocus on Global Southがインターネットを通じて、世界社会フォーラムに提出された論文を発表していくことになった。 
 フォーラムの最終日に、組織委員会は、来年1月、ダボスの世界経済フォーラムと同時期に、再びポルトアレグレで、第2回世界社会フォーラムを開催することに同意した。
 是非日本から、来年は多くの人が参加して欲しい。