論文集  
『平和研究』
2002年11月
「グローバリゼーション時代における平和研究の課題」 

(1)冷戦時代の国際政治の枠組み

 第2次世界大戦が終わった1945年、連合国は国連を創設した。「人類は2度も世界戦争を繰り返した。しかも、第2次世界大戦では、戦闘員の数よりもはるかに多くの民間人が犠牲となった。このような愚かな戦争を二度と繰り返さない」という国際社会の誓いが、国連創設の理念であった。国連憲章には、国家間の紛争は、武力によらず、平和的に解決するという原則が明確に規定された。(憲章第2条 3、4)
 しかし、まもなく米ソ間の冷戦がはじまった。その後、約半世紀にわたって、国際政治の枠組みは、米ソ間の冷戦構造によってつくられてきた。

米ソ間の冷戦構造

 冷戦構造下において、米ソは、核兵器をもって対決した。それぞれ地球上の全人口を何回も殺すことができるほどの核爆弾と大陸間ミサイルを保有し、さらに、米国は西ヨーロッパに、ソ連は東欧に、それぞれ中距離ミサイルを配備していた。この「恐怖の均衡」は、実際に戦火を交える熱い戦争に対して、「冷たい戦争」と呼ばれた。
 しかし、米ソに限らなかった。やがて西側では英国、フランス、東側では中国が、核保有国になった。さらに、イスラエル、南アフリカなど、それぞれ地域紛争の主要な要因である国が核を保有しているという疑惑があった。
第三世界における米ソの覇権争い
 一方、第三世界においては、米国とソ連は、熾烈な覇権争いを繰り返してきた。朝鮮戦争、ベトナム戦争、さらにアフガニスタン戦争など、それぞれ米ソが軍事介入した戦争があった。中東では、米国の代理人としてのイスラエルと、ソ連に同盟、あるいは援助を受けたアラブ諸国との間に4次にわたる戦争が起こった。
 戦後、第三世界では、熱い戦争が続いてきたのであった。

(2)植民地からの解放闘争

 戦後半世紀の歴史を動かしてきたのは、植民地からの解放闘争であった。それは、インドにおけるガンジーの非暴力不服従の反英抵抗闘争があり、もう一方では、毛沢東の中国革命に代表される人民戦争があった。
 後者は、8年半に及んだフランスに対するアルジェリア解放戦争、四半世紀にわたるインドシナにおける反仏、反米の解放戦争、1959年のキューバ革命、1974年のニカラグア革命などの系譜をたどることができる。これらは、さまざまな形態のゲリラ戦争によって勝利した。
 1979年、ホメイニ師のイラン革命は、社会主義イデオロギーにとって代わる、イスラム革命という新しい時代を切り開いた。
 1960年は「アフリカの年」と呼ばれた。この年、サハラ以南のアフリカ17カ国が一挙に独立した。
 国連は、それまでの「安全保障」に対して「開発」を加え、国際政治の二大課題とした。

(3)冷戦時代の平和研究の課題

 冷戦時代の平和研究は、もっぱら米ソ間の核対決問題に限られていた。これは、日本を含めて、先進国の平和研究の主流をなしていた。第三世界の熱い地域紛争、民族独立運動などについての研究は脇役でしがなかった。

IPRAの創設

 1960年代に入ると、世界各地で、平和研究が学問体系の1つとしてとらえられ、学会として制度化されていった。
 1963年8月、前年のソ連の核実験再開によって、東西冷戦が激化した中で、キリスト教会のクエーカー派がスイスのクラーレンスで平和のための国際会議を開いた。この会議の参加者の中から、「国際平和と安全保障研究の国際会議(COROIPAS)」開催が提起された。これはバートランド・ラッセル、アインシュタイン、湯川秀樹などの「科学と世界問題に関する会議(パグウォッシュ会議)」のいわば普及版であった。
 やがて、COROIPASは、国際平和研究学会(IPRA)の創設につながっていった。そして、1965年、オランダのグロニーゲンにおいて、第1回IPRA大会が開かれた。当時IPRAに参加した平和研究者は、北欧、英国、東欧など、北ヨーロッパが圧倒的に多かった。
 1970年代に入ると、国際政治の場において、南北対立が激化した。国連では、「新国際経済秩序」をめぐって、先進国と途上国の間に激しく対立した。一方、先進国、途上国ともに、多国籍企業に対する批判が高まった。
 この中で、IPRA創設者の1人であったノルウエイのヨハン・ガルトゥングが「構造的暴力論」を提唱したのであった。国家間の戦争という暴力ではないが、先進国が貿易や投資など経済的手段でもって第三世界の人びとを貧困に追いやっている。この南北間の「構造的暴力」と名付け、平和研究の課題とすべきである、と提唱した。
 しかし、冷戦時代の平和研究の主流は、依然として、核による米ソ間の対立をテーマとしてきた。

日本平和学会の創設

 戦後の日本では、草の根レベルでの平和運動が活発であった。それは、過去の侵略戦争を再び繰り返さないために、平和憲法を守ることに集約された。この運動の先頭に立っていたのは平和教育を推進していた日教組であったが、実際に草の根で運動を担ってきたのは女性たちであった。
 1950年代の原水爆禁止運動、1960年の反安保デモなどを経て、1960年代後半から1970年代はじめにかけてはベトナム反戦といったように、戦後日本の平和運動は、全国的規模をもって、ほとんど連続してきた。日本は、市民の平和運動においては、最も先進な国であった。
 1973年に、国際政治学者たちによって「日本平和学会」が設立された。学問としての平和研究が制度化された。これは、市民レベルの平和運動に比べると、はるかに遅れており、また国際的にもIPRA創設から10年遅れた出発であった。

1. 冷戦後、グローバリゼーションの時代の平和研究

(1) 国連に見るグローバルな課題の取り組み

 1990年代に入ると、毎年、連続して国連は、子ども、環境、人権、人口、社会開発、女性、人間居住などといったグローバルな課題について、サミット規模の会議を開催した。
 なぜ、国連はこのような大規模な会議を開催したのだろうか。
 冷戦の終了とともに、それまでの米ソ間の核による対決、あるいはインドシナ、南部アフリカなど第三世界での米ソの代理戦争、紛争は解消した。しかし、湾岸戦争、アフガニスタン戦争(2001年)が起こり、さらに、地域紛争、国内紛争が激化した。冷戦後の10年間、武力紛争地域は80カ国に及んだ。その結果、1億5,000万人の難民が発生した。これらは国家間紛争ではなく、内戦であるため、国連による介入を困難にした。
 冷戦構造の崩壊によって、それまで隠されていた諸問題が、一挙に表面化したこと、同時に、社会主義の崩壊によって市場経済がグローバル化した結果、格差が世界大に広がった。途上国、市場移行国において、環境破壊、人権侵害、貧困の増大などが進行した。
 これこそが、より拡大、深刻化、激化した各地の武力紛争の根本的な原因であった。したがって、国連は、一連のグローバルな課題を取り上げ、解決のための行動計画を策定したのであった。
 先進国側も、貧困の根絶と取り組むことが急務であるという認識に達していた。1990年半ば、OECDは、すでに13億人にのぼる絶対的貧困を、2015年までに半数に減らすという計画をたてた。これは、国連総会、世銀などにおいても合意され、国際公約になった。
 国際社会は、この公約の実現のためにどのような課題ととりくまねばならないか。途上国では、貧困根絶戦略の策定、がbヴぁ何すの確立であり、国際的には、先進国政府はGNP比0.7%のODAの達成、債務救済、為替取引き税、炭素税など「革新的な資金調達システムの確立などである。
 にもかかわらず、国際社会は、これらグローバルな課題を解決することができなかった。
 これら国連の決議は、先進国政府が合意したのであるが、その実行は先進国政府の政治的意思に委ねられる。またOECDは言うまでもなく、世銀もG7によって支配されている。先進国政府は、市場経済のグローバル化を推進している。先進国政府がグローバル化の結果として生み出される貧富の格差解消に積極的に取り組まねば、国際的公約は一片の紙切れに終わる。

(2) NGO、市民社会の役割

 国連は、加盟国政府によって代表される。しかし、国家間の国益の対立が、2度にわたる世界大戦をもたらしたという反省の上にたって、国家の枠にしばられない草の根の知恵を活用しようとした。そのため、国連憲章では、第71条に、「NGO(非政府機関)」の参加が規定された。当初、NGOは、国際機関であることが条件づけられた。その結果、国連に参加することが出来たのは、NGOは国際労働団体、世界大の宗教団体などに限定された。
 1972年、ストックホルムで、国連は環境と人間についての世界会議を開催した。当時は、米ソの冷戦が激化しており、同時に「新国際経済秩序」をめぐって南北が対立していた。開催国のパルメ・スエーデン首相は、政府間会議に先立って、NGOのフォーラムの開催を呼びかけた。このNGOフォーラムには、公害問題などに取り組んでいる環境団体の代表が世界中から集まり、有益な提案を政府間会議に提起した。
 以後、ニューヨーク以外の場所で開かれる国連会議には、同時にNGOフォーラムを並行して開催することが、不文律となった。
 冷戦後、国際政治を動かす最も重要な要因として登場したのは、NGO、続いて市民社会であった。市場経済のグローバル化によって、国家の役割が後退していく中で、市場経済にグローバルな対抗勢力として登場したのであった。
 すでに、冷戦中の1980年代に、途上国において、NGOは重要な存在となっていた。それは、1982年に、途上国に発生した債務危機からはじまった。債務危機の解決策として、IMF・世銀による構造調整プログラムが導入された。これによって、財政支出の削減など一連の緊縮政策、貿易、外国投資、金融の自由化と国営企業と公共サービスの民営化が行われた。その結果、途上国政府の機能が、低下、縮小した。代わって、NGOが、
環境の保全、人権擁護、貧困の根絶、持続可能な開発などの分野において、自立した活動を行った。とくに、絶対的な貧困数の3分の2を占める南アジアでは、1万人規模のスタッフを抱え、広大な地域にわたって、初等教育、初等保健、持続的開発などの分野で活動する巨大なNGOが出現していた。
 NGOによる開発プログラムも拡大し、年間総額は85億ドルに上った。開発政策の遂行に、NGOの参加は不可欠となった。
 また、途上国においては、世銀が融資した巨大ダム開発などによる環境破壊が明らかになった。そのため、シエラ・クラブ、WWF、地球の友など国際的な環境NGOが、世銀に対して政策提言と対話を繰り広げた。その結果、世銀は、新たに「独立審査パネル」を創設した。これによって、世銀の開発融資プロジェクトによって否定的な影響を受ける人びとが、直接訴えることが出来るようになった。
 1992年、リオデジャネイロで開かれた環境と開発について国連サミット(地球サミット)において、NGOの参加の形態が大きく変化した。準備会議の過程で、女性の環境NGOが「アジェンダ21」の草案に女性という言葉が1つもないことを発見した。そこで、70カ国から女性の環境NGOの代表1,000人がマイアミに集まり、「環境を守っているのは女性であり、女性は環境破壊の最大の犠牲者である」ことを決議し、国連に対して、活発なロビイ活動を開始した。その結果、国際団体でなくても、地域、国内レベルのすべての環境NGOが、地球サミットに参加を認められた。これはオブザーバーという資格ではあったが、それまで、一握りの外交官の手に独占されていた国際政治が、市民社会に明らかになり、「外交の透明性とアカウンタビリティ」が確立された。
 以来、NGOは国連会議の決議に大きな影響力を持つようになった。なかでも女性のNGOがはたした役割は大きい。「女性の権利は人権である」「女性のリプロダクティブの権利」「(経済開発ではなく)社会開発を最優先課題とする」「女性を開発の主体」「政府がNGOを対等のパートナーとする」「居住の権利」などが国連決議に盛られたのは、NGOのロビイ活動の結果であった。
 国連の会議やNGOフォーラムに参加するNGOの数は飛躍的に増えた。北京で開かれた国連女性会議では、NGOの参加者の数は、政府代表をはるかに上回った。多数のNGOが参加することは、国連決議の内容が市民社会に明らかにされる。当然、人びとは自国の政府に対して、政府が合意した国連決議の実施を要求するようになる。

(3)国際政治を動かすNGO、市民社会の国際キャンペーン

対人地雷禁止条約の締結

 1990年代はじめ、武力紛争後の国で対人地雷の除去、犠牲者の援助活動に取り組んでいたNGOが、対人地雷を禁止する国際条約の締結以外には、真の解決策はないという結論に達した。1個の地雷を除去しても、他の場所では、新たに100個の地雷が埋められている。1個を除去するには、埋める時の10倍に費用と手間がかかる。
 本来、対人地雷は小火器の範疇にあり、ジュネーブの軍縮会議の議題であった。しかし、軍縮会議では、核軍縮が優先議題である、軍事大国の利害に支配されていた。ここで早急に対人地雷の禁止を期待することは出来ない。
 そこで、NGOは、ジュネーブ以外の場所で、対人地雷の国際条約締結の国際キャンペーンを開始した。この時のNGOはわずか6団体という少数であった。最初は、このキャンペーンが国際的に「見えるもの」にすることに苦労した。たとえば、古靴を、大国の国防大臣に送りつけたりした。最後にダイアナ妃という強力な支持者を得て、彼女がアンゴラの地雷原を歩くという行為によって、地雷キャンペーンは国際的なメディアの関心を集めることによって、国際世論の形成に成功した。一方、NGOは、米国、ロシア、中国などの軍事大国をバイパスし、先進国の中の「中権国」、つまりカナダ、オランダ、北欧3国などに働きかけた。この戦略は功を奏し、ついに1997年、オタワでの対人地雷禁止条約の締結を実現させたのであった。
 NGOは、国際政治において、無視することが出来ない存在となった。

ジュビリー2000国際キャンペーン

 ジュビリー2000とは、「2000年までに、アフリカなど貧しい国の返済不可能な債務を帳消しにしよう」という国際的なキャンペーンであった。対人地雷禁止のキャンペーンはNGO単独の運動であったが、ジュビリー2000は、ローマ法王をはじめとするカトリック教会などの国際的な宗教団体、国際自由労連などの国際的な労働団体、世界医師会、OXFAMなどの国際NGOなどが参加したグローバルな市民社会ぐるみの国際キャンペーンであった。
 最貧国の債務の削減については、すでに1995年、リヨン・サミットにおいて、G7首脳が2国間の公的債務を3分の2削減することに合意していた。またIMF・世銀などの多国間債務について、1996年、サハライ以南のアフリカなど41カ国を重債務最貧国(HIPCs)と認定し、「HIPCsイニシアティブ」という名の削減措置を公約した。しかし、実際には、債務の削減は行われず、1998年までに、交渉の対象になったのは、わずかウガンダとボリビアの2カ国にとどまった。
 1998年、英国のジュビリー2000のメンバー7万人が、バーミンガムで開かれていたG7サミットの会場を「人間の鎖」で取り囲み、債務の帳消しを要求した。G7サミットの議長であったブレア首相は、帳消しを公約したが、サミットの中では、ドイツ、日本、イタリアが反対したため、合意に達しなかった。
 その後、ドイツで政権が交代し、社民政権が誕生した。1999年6月のケルン・サミットに向けて、ジュビリー2000は、G7各国を始め、60ヶ国に幅広い国内連合が結成され、署名、ロビイ活動が活発に展開された。これを受けて、1999年1月、ドイツのシュレダ―首相が、HIPCsのODA債務の100%帳消しを含む「ケルン・イニシアティブ」を発表した。続いて、英国のブラウン蔵相が、総額500億ドルの帳消しを公約した。これに対して、クリントン大統領が、700億ドルの帳消しを発表した。
 G7首脳の間で、ジュビリー2000の国際キャンペーンを意識した「公約競争」がはじまった。ケルン・サミットでは、世界各地から3万5,000人が集まり、サミット会場を「人間の鎖」で囲み、1,700万人の署名を提出した。これに対して、G7首脳は、重債務最貧国(HIPCs)41カ国の債務2,100億ドル中700億ドルを債務帳消しにすることを公約した。HIPCsの債務総額は2,100億ドルであり、3分の1にすぎない。しかも、2000年末までには、「ケルン・イニシアティブ」はついに実施されなかった。41カ国中、削減の交渉を受けたのは、22カ国にとどまり、しかも、向こう20年間にわたって、毎年返済する額の3分の1しか削減されない。

反グローバリゼーションのデモ

 1999年11月、シアトルでWTOの第3回閣僚会議が開かれた。シアトル会議前に、すでに、投資、競争政策、政府調達などの自由化、さらに貿易に環境、労働問題を絡ませるといった、新しい交渉項目を議題とする「ミレニアム・ラウンド」を主張する先進国と、先進国の市場解放、途上国に対する特恵待遇などウルグアイ・ラウンドで合意したにもかかわらず、実施されていない項目を優先的に議論することを主張する途上国が対立していた。
 シアトル会議前、米国最大の労組AFL−CIOがミレニアム・ラウンドに反対する声明を発表した。シエラ・クラブ、WWF、地球の友などの巨大な環境NGO、パブリック・シティズン、農業政策国際研究所などのロビイ組織などが集まって、シアトル会議に反対することを呼びかけた。さらに、サンフランシスコの「直接行動ネットワーク(DAN)」が、シアトル会議の開催を阻止するために、非暴力不服従による直接行動を呼びかけた。これに対抗して、「街頭を取り戻そう(RTS)」、「アース・ファースト」「ブラック・ブロック」などのアナーキスト・グループも、シアトルのWTO会議の開催に反対する実力行動を呼びかけていた。
 シアトル会議では、まず、DANによる会議の開催を阻止するピケにより、開会式が流れた。日中は、AFL-CIO、環境NGOや市民団体など7万人がシアトル市内でデモをした。
夕刻、アナーキスト・グループがグローバリゼーションの象徴であるマクドナルドやスターバックスの店のウインドウを破壊した。これに、シアトルの失業青年が便乗して、宝石店を襲い、略奪行為を働いた。シアトル市内には戒厳令が敷かれた。
 WTO閣僚会議でも異変が起こった。WTOには、「グリーン・ルーム」と呼ばれる非公式、非民主的な決定プロセスがある。ここで、先進国と限定された途上国約20カ国が、議題毎に集まり、協議、決定する。
 このグリーン・ルーム方式に対して、はじめてアフリカの代表が結束して、反対の意を表明した。また、米国とEU間、日本、韓国などと穀物輸出国との間などでの対立も解消しなかった。ミレニアム・ラウンドの開始は途上国の抵抗にあって、可能性はなくなった。
 ついに、WTO閣僚会議は、流会となった。国際会議が流会におわるという前代未聞のことが起こったのであった。
 シアトル・デモは、通称「反グローバリゼーション・デモ」と呼ばれる。これは、2000年春、ワシントンで開かれたIMF・世銀の春季会議に対する3万5,000人の反対デモ、同年9月、プラハで開かれたIMF・世銀の年次総会に反対する2万人のデモ、2001年4月、ケベックで開かれた第3回米州自由貿易地域(FTAA)サミットに反対する7万人のデモ、同年7月、ジェノバのG7サミットに対する25万人の抗議デモへと続いた。最後のジェノバ・デモにおいては、警官の発砲によって、ついに1人の死者がでた。
 これら万単位のデモは、インターネットを通じて組織される。デモの主催は、これまでの複数の団体による実行委員会によるものではない。
 反グローバリゼーションのデモは、「Convergence(収斂)」によって準備される。これは、「市場経済によるグローバリゼーションに反対する」組織、個人の極めて緩やかな集合体である。デモの日時と出発地点、大まかなルートを決め、それにマスコミ向けのスポークスパーソンを選ぶ。デモの目的、戦略、スローガン、集合場所、デモのルートにいたるまで、参加者の自由にまかされる。参加者は、大組織であろうと、個人であろうとすべて平等な関係にある。
 これらのデモに参加できるのは、時間と資金に恵まれた先進国の中産階級に限定される。
デモの逮捕者の社会階層を見ると、検事や大学教授といった恵まれた家庭の子弟が多い。彼らは、市場経済によるグローバリゼーションの直接の犠牲者ではない。しかし、彼らは、グロ^場リゼーションと競争が生み出す貧富の格差の増大、環境破壊、ネオ・ナチの台頭などについて、敏感に反応し、知的に理解し、そして直接行動を開始している。

 反グローバリゼーション・デモに参加しているのは誰か。

@ 労働組合 
 米国最大の労組AFL-CIO(労働総同盟・産別会議)が挙げられるシアトル以来、グローバル化に反対する決議を行い、労働者にデモ参加をよびかけてきた。その方針は平和的なデモに徹し、最も穏健派に属する。
 一方。ヨーロッパの労組は、ギリシアやイタリア、フランスの一部の急進派労組を除き、デモに参加していない。その理由は、主要な労組が社民政権の支持基盤となっているところからきている。

A NGO
 シアトル以後、反グローバリゼーション・デモには、否定的になった。これまでNGOは先進国政府、国連、世銀などに対して、アドボカシイ(政策提言)活動を行ってきた。前記のオタワ対人地雷禁止条約の例に見られるように、国際政治の場では、無視出来ない存在になった。このNGOのアドボカシイ活動は、相手の存在を認めなければならない。その上で、政策の変更を求める。したがって、WTO、世銀、G7サミットの開催そのものに抗議する「デモ」に対しては、一線を画することになる。

B 直接行動派
 シアトル・デモで最も効果を発揮したのは、前記のDANであった。ガンジーの非暴力不服従運動を手本に、「直接行動」戦略を編み出した。DANは、インターネットを通じて、直接行動の哲学、参加のガイドライン、警官の棍棒、催涙ガス、放水車に対抗する実践的な技術、救急班、弁護団などの組織化を記載した短期講習用のテキストを配布した。DANの類似組織が各地の反グローバリゼーション・デモにおいて、同様の活動をしている。

C アナーキスト・グループ
 シアトルで有名になったRTS(前記)は、グリーンピースから分裂した急進的なエコロジストである。またジェノバ・デモで最も活躍したのは、イタリアの「Ya Basta!(もう沢山だ)」であった。これはイタリアの20代の若者をちゅうしんとして、その組織はイタリア全土に広がっている。
 この他に、暴力行為で悪名高いアナーキスト・グループに「ブラック・ブロック(BB)」がある。この組織は、北米、北ヨーロッパに広がっている。しかし、その実態は明らかではない。BBの名は黒い服装に由来したもので、組織の正式名称ではない。BBは、コミュニティ毎に組織され、緩やかなネットワークをつくっているBBはいかなる権威も認めないので、Convergenceにも参加しない。ジェノバでは、BBに変装した警官がデモ隊を攻撃し、銀行を襲撃した。このことがデモ側にBBに対する不信を呼び、反グローバリゼーション派の中で、大きな論争の的になっている。
 これらアナーキストに共通しているのは、「資本主義の否定」であるが、それに代わるものを提示したはいない。
新しい形の反グローバリゼーションの試み
 このような大規模デモを繰り返すことについて、反省がではじめている。「サミット・ホッパー(追っかけ屋)」を止めるべきだという意見もでている。一方、WTOは、2001年11月に予定されていた第4回閣僚会議をカタールのドーハで開催することを決めた。また、IMF・世銀は、2003年秋に予定されているIMF・世銀の年次総会の開催地をドバイに決めた。カナダ政府は2002年のG7サミットの開催地をカルガリの山中に決めた。これらの開催地はいずれも、国内に反グローバリゼーション派は言うまでもなく、NGOさえ数が少なく、また入国にはビザがいる。今後予定されるサミット級の国際会議は、グローバリゼーション反対のデモがアクセス出来ない場所に逃げ込んでしまった。
 これに応える形で、2001年1月、スイスのダボスで開かれた「世界経済フォーラム」に対抗して、地球の反対側にあたるブラジルのポルトアレグレで、「世界社会フォーラム」が開かれた。
 これを呼びかけたのは、フランスの「ATTAC(為替取引に課税して市民のために使う協会)」であった。フランスでは、鉄道労組の長期ストや、戦闘的な失業者組織「AC」が全土で200万人を超えるデモを繰り広げるなど、社会運動が活発化していた。ATTACは、世界を駆け巡る投機的な資本の移動を抑制するために、為替取引きに課税し、これを雇用や福祉、貧困の根絶の資金にすることを要求している。フランス国内だけで2万5,000人のメンバーを擁し、ヨーロッパで最も良く組織された社会運動である。
 ATTACの呼びかけで、ブラジル国内の労組CUT、農民の土地占拠運動MST、NGOなどと、ポルトアレグレ市長などが加わって社会フォーラム準備委員会が結成された。
 ポルトアレグレには、世界各地から、労働者、農民、NGO、学者など1万6,000人が集まり、市場経済によるグローバリゼーションにいかに対抗して行くかについて議論された。その答えの1つとして、協同組合やNPOなど利潤追求ではなく「人びとの連帯に基づいた経済」を発展させるべきであるという結論であった。 
 「世界社会フォーラム」は、2002年1月、同じくポルトアレグレで開かれる予定である。
 また、グローバリゼーション反対派の中から、サミット会議を大規模なデモもって抗議するより、不買運動などを通じて、多国籍企業そのものを直接攻撃する方がより効果的であるという意見が出ている。
 すでに、米国では、ブッシュ大統領が京都議定書から脱退した真の理由には、彼の選挙資金の最大の献金者である巨大石油会社のエクソン・モービルの意向があったとして、同社のガソリンの不買運動が起こっている。
 また、世銀は、金融市場で世銀債を売って、開発融資資金を得ている。米国では、この世銀債の最大の買い手が、地方政府、労組などの年金ファンド、大学、キリスト教会などの資金運用部門である。反グローバリゼーション派は、これらのファンド機関に対して世銀債ボイコットを呼びかけている。これは、1980年代、南アフリカのアパルトヘイトに反対して、黒人団体やキリスト教会が行った米系多国籍企業に対するDivestment運動(南アフリカに投資している企業の株をボイコットする)の経験を生かしたものである。すでに地方議会では、ボイコット決議が行われており、世銀のイメージ・ダウンと資金不足の危険が出ている。

(3) 9月11日無差別テロ事件

 2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易タワービル、ワシントンのペンタゴンが、民間航空機のハイジャック犯によって、攻撃され、6,000人の犠牲者が出た。ブッシュ大統領が、この事件を「米国に対する戦争」であると規定した。彼は、証拠を示すことなく、犯人は「オサマ・ビンラディンと彼のアルカイダ組織」であると断定した。そして、「ビンラディンと、彼を匿っているアフガニスタンのタリバン政権」に対して、「自衛権を行使して、報復戦争を行う」と宣言した。
 同時にブッシュ大統領は、世界の指導者に対して、「テロを非難するか、さもなくば、テロの支持者と見なす」というレトリックを使って、「反テロ世界同盟」への結成を呼びかけた。これに対して、パレスチナ自治区がイスラエルの包囲化に置かれているPLOのアラファト議長、米国の経済制裁下にあるキューバのカストロ議長、タリバン政権の生みの親であるパキスタンのムシャラク大統領さえも、米国の軍事報復を恐れて、テロ批判を行った。
 10月7日夜半、米国はアフガニスタンに対する空爆を開始した。「空爆の標的をアルカイダとタリバンの軍事施設に限定している」というラムズフェルド米国防長官の声明を信じるものは誰もいない。国連が支援している地雷除去のNGO、国際赤十字の救援物資を貯蔵していた倉庫、住宅街や村が爆撃され、大きな被害が出ている。
 9月11日の無差別テロ事件は、シアトル以来の反グローバリゼーション・デモに対して大きな打撃を与えた。9月29−30日に予定されていたワシントンのIMF・世銀年次総会はキャンセルとなった。これに対して準備していた10万人規模の抗議デモも不発に終わった。代わって、9月29日、ワシントンでホワイトハウスに向けて、「戦争と人種差別に反対するデモ」が企画されたが、これは1万人規模のものにとどまった。

(4) 新たな平和研究の課題

市場経済のグローバリゼーションが生み出す格差

 冷戦後、市場経済のグローバリゼーションが、IT革命とあいまって、先進国の一部の人びとに豊かな生活と便利さをもたらした。また、先進国において、実体経済が衰退し、余剰の投機資金が発生した。1日2兆ドルの投機資金が、為替取引き、証券取引きに投与され、巨大なカジノ経済が出現した。
一方では、市場経済のグローバリゼーションは、地球的規模での格差を増大させた。低開発国(LDCs)の数は50カ国にのぼった。これは30年前に比べると2倍に増えている。、とくに、貧困の増大、環境破壊、国内紛争の頻発、内戦の激化と長期化、大量の難民の流出、女性に対する暴力、HIV/AIDSの蔓延、対外債務の増大などが起こった。
 平和研究は、第1に、こうした市場経済によるグローバリゼーションがもたらす格差の増大について分析しなければならない。同時に市場経済によるグローバリゼーションを推進しているIMF・世銀、WTOなどの国際機関、これらを支配しているG7などのアクターについて研究しなければならない。
 1990年代、国連はグローバルな課題を解決するために多くの行動計画を採択した。さらに、OECD、世銀は、2015年までに貧困を50%削減するという目標をたてた。このような国際社会が合意した目標がなぜ達成されないのか。

あらゆる暴力

 北京の国連女性会議では、貧困が女性にしわ寄せされている、つまり女性の貧困化と、女性に対する暴力を、行動綱領の2大柱とした。そして武力紛争下で女性が殺されることさらに、組織的レイプ、性的奴隷、強制妊娠など女性に対する暴力を「人道に対する犯罪」と規定した。また平和時においても、国際的な人身売買、強制売春、レイプ、性的虐待、セックス・ツアー、ドメスティック・バイオレンス、セクシャル・ハラスメント、ポルノグラフィなどを女性に対する暴力として規定した。
 また国連は、暴力にさらされやすい女性の範疇を規定した。それは、マイノリティ、先住民、難民などの女性、移住者家族、女性移住労働者、農村や辺境の女性、国内難民女性、投獄された女性や少女、障害女性、高齢女性、強制立ち退き女性、貧困女性、武力紛争下の女性、外国の占領、侵略戦争、内戦の中の女性、人質行為を伴ったテロの対象となった女性などが挙げられた。
 平和研究は、第2の課題として、あらゆる形態の暴力の研究に取り組まねばならない。その中でも、女性に対する暴力の研究は重要課題である。

「ブッシュ・ドクトリン」

 冷戦後唯一の超大国となった米国は、1991年、クエートを占領したイラクに対して空、陸による攻撃を開始した。この「湾岸戦争」は、国連安保理の決議を踏まえて、米軍を主力とする多国籍軍がイラクを攻撃するという形をとった。米国は、イラクのフセイン大統領を「ヒトラー」と呼び、クエート解放を「正義の戦争」と自称した。
 しかし、湾岸戦争は、このように単純なものではなかった。1979年、イランにイスラム革命が起こり、つづいて隣国のイラクとの間に「イラン・イラク戦争」が勃発した。この間、イラン革命を敵対視した米国が、イランの対抗勢力としてイラクに対して軍事援助を行った。その結果、イラクは湾岸最大の軍事大国となったのであった。
 同じことが、2001年9月11日の世界貿易センタービルとペンタゴンに対する無差別テロ事件においても繰り返された。ブッシュ大統領が、この事件を、米国に対する戦争であると宣言し、議会での演説において、「テロを非難するか、さもなければテロリストとみなす」と語った。この白か、黒か、それ以外にはない。これが「ブッシュ・ドクトリン」の真髄である。このドクトリンは、米国だけが唯一の判事であり、米国の判決に従わない国には、空爆の報復が下されるのである。
 しかし、湾岸戦争のイラクと同様、オサマ・ビンラディン、アルカイダ、タリバンなど「イスラム原理主義者たち」は、冷戦時代、ソ連のアフガニスタン侵略戦争に対するイスラムの「ジハード」の「ムジャヘディン」として、米CIA、パキスタン軍情報部(ISI)が、まさに育成したものであった。
 平和研究は、第3の課題として、この「ブッシュ・ドクトリン」を取り上げるべきである。これは、国連憲章をはじめとする国際法に違反している。

インターネットと遺伝子組換え技術

 IT革命が、通信産業に計り知れない発展をもたらした。そもそもコンピュータは、高度な計算機として、開発されたのだが、やがて通信革命をもたらした。IT革命は、マイクロソフト社の例に見られるように、資本の独占度が非常に高い。ビル・ゲイツのような極端な資産家を生み出した。しかし、インターネットは、コンピュータ・ウイルス、ハッカーなどの犯罪行為によって脅かされたいる。
 一方、遺伝子組換え技術は、医療、医薬品産業の発展に大きく貢献した。しかし、1996年、モンサント社など巨大化学産業によって農業生産に導入された。遺伝子組換えした農産物(GMO)の作付け面積は飛躍的に拡大し、わずか5年間で30倍、米国のみならずアルゼンチン、オーストラリア、カナダ、中国、南アフリカなど15カ国に及んでいる。2001年、全作付け面積は5,000万ヘクタール、1年間で10%の伸びを記録している。これは、遺伝子操作の農産物、食品(GMO)として、農業革命をもたらしつつある。しかし、EUはGMOの輸入を禁止しており、消費者の強い抵抗を受けている。
 米国は、通信産業におけるインターネットと遺伝子組換え技術をほぼ独占している。この2つの新産業分野が、21世紀の新しい産業革命であるだろうか。これらの技術は、それ自身に破壊性、反倫理性をもっているのではないか。これらは、平和研究にとって、非常に困難だが、挑戦的な課題ではないか。