論文集  
グローバリゼーションと環境問題
2004年11月
「環境保全の闘いと持続可能な開発−途上国のNGOの試み」


1.グローバリゼーションが環境を破壊する

新自由主義による企業主導のグローバリゼーションが進行するにつれて、とくに途上国において、環境が破壊された例は限りなく挙げられる。それは、輸出を増やすために、貴重な熱帯雨林やマングローブ林が消滅し、大気や海洋が汚染され、生態系が変化したり、あるいは、天然資源が乱開発されて、枯渇したりするといったように、市場経済のグローバル化によって当然起こると考えられる環境破壊だけに限らない。

というのは、世銀やWTOなどグローバリゼーションを推進する国際機関の政策によって、途上国に意図的にもたらされたものも多いからである。とくに世銀は、世銀債を発行してほとんど無制限に市場で資金を調達できるというところから、途上国政府に対して、年間250億ドルもの巨額の長期開発融資を行ってきた。これは、主として、巨大ダムや火力発電所の建設、石油、鉱山、森林など天然資源の開発プロジェクトに充てられた。実際は、世銀が「構造調整プログラム」の名の下にこれらの開発プロジェクトを途上国政府に押し付けたのであったと言うほうが正しい。途上国では、これら巨大開発プロジェクトは、すさまじい環境破壊を生み出した。これらプロジェクトの中のかなりの部分が失敗に終わっており、結局途上国政府は多額の債務に苦しむ結果となっている。

環境保護運動からの非難に対応して、世銀は、1992年、リオの地球サミットで創設された「グローバル環境基金(GEF)」を世銀の下に置き、途上国の環境保護のための資金融資を行うことになった。しかし、このGEF融資そのものが環境を破壊してしまった。それはアフリカのコンゴの「熱帯雨林の保護プロジェクト」であった。熱帯雨林を保護するためには、そこへのアクセスが必要だとして、道路を建設したのであった。しかし、逆に道路が出来たために木材の伐採と搬送が可能になり、ヨーロッパ企業が、コンゴの熱帯雨林を破壊してしまった。これは、いかに世銀が先進国の企業の利益に奉仕する国際金融機関であるかを証明するものである。

WTOも、「貿易の拡大が開発を促進する」として、途上国に対して、コーヒーや木材など一次産品の輸出を増やすことを奨励した。その結果、途上国ではこれら一次産品の作付けが無制限に増えた。これが環境の破壊につながった。一方では、これら一次産品の価格が低落し、そのロスを回収するために、さらに作付けを増やすという悪循環を繰り返している。結局、これは貧困の増大をもたらす。

また、WTOの「貿易に関する知的所有権協定(TRIPs)」によって、多国籍企業が途上国の人びと、とくに先住民たちが伝統的に守ってきた種や知恵を奪っていった。その結果、種の多様性が破壊された。

このように、グローバリゼーションが環境破壊をもたらす一方、環境破壊自体のグローバリゼーションが起こっている。その典型的な例は、地球温暖化である。先進国がCO2を無制限に排出し続けた結果、地球の温度が上昇し、太平洋の島嶼国やバングラデシュなどが海面下に沈むという危機的状況に置かれている。

2.環境破壊に対するNGOの闘い

先に述べたように、99年のシアトル・デモは、市民による最初の反グローバリゼーションのデモであった。そこで、亀に扮して踊っている人びとがテレビに大きく放映されたが、これは「世界野生動物基金(WWF)」という巨大な国際環境団体のデモの一群であった。このように、環境保護NGOは、反グローバリゼーションの運動に積極的な役割を演じてきたのであった。

しかし、NGOは環境破壊を告発し、あるいは環境破壊を阻止することだけに終わっているのではない。とくに途上国のNGOはユニークな活動を展開してきた。

すでに1980年代に、環境保全と持続可能な発展を一体化した事業を実践してきたのであった。それは、とりもなおさず、新自由主義によるグローバリゼーションに対する草の根のオルターナティブの試みである。ここに、インドネシア、フィリピンのNGOによる実践の例を紹介する。

(1) インドネシアのNGOの実践
1990年代前半、インドネシアのBINASWA DAYA(BD)というNGOが、ジャワ島中部の森林地帯で展開していた土地なき農民支援プロジェクトを調査したことがあった。BDは500人のスタッフを抱える大きな開発NGOであったが、当時スハルト独裁政権下にあって、貧しい人びとの自立と開発を支援するというだけで、危険分子だと見なされるという困難な状況に置かれていた。

インドネシアの貧しい人びとの大半は農村の土地なき農民である。彼らには耕す土地も住む家もない。地主や村人からは、人間と見なされず「虫けら」と蔑称されている。BDが支援しようとしたのはこのような農村の土地なき農民であった。

BDが手がけたのは、フォード財団の資金援助を得て、広大なマホガニーの国有林を借用し、そこで土地なき農民が生活できるような農業を営むというプロジェクトであった。 
マホガニーは苗木が植えられてから伐採できるまで50年かかる。苗木と苗木の間は前後左右10メートルの間隔がある。通常その間には何も植えられていない。そこでBNは、まず、政府と交渉して、この国有林の苗木の間の土地を借り受けた。次に、周辺の土地なき農民を10世帯ごとのグループに組織し、苗木と苗木の間の土地を1グループに0.1ヘクタール相当を貸与した。同時に農民にくわなどの農具や種などを供与した。

農民はとうもろこしや野菜など自身の食料、パイナップルやバナナなど売れる果物、そして、空気中の窒素を土の中に固定する役目をするアカシアの木など混植するように指導したのであった。マホガニーの木が育って、陽が当たらなくなるまで、少なくとも20年の間、農民たちはここで農業を営み、生きていくことが出来る。一方マホガニー林も、このように混植が行われることによって土壌も豊かになり、環境も保全される。

BDのプロジェクトは、インドネシア国軍のレンジャー部隊の監視の下で続けられていた。このプロジェクトが始まる前は、土地なき農民は、地主のところで収穫時に働かせてもらい、わずかな食べ物を貰うことしかなく、いつも飢えの状態にあった。そこでやむを得ず、国有林に侵入してマホガニーの苗木を伐採するなどして、レンジャー部隊に弾圧されていた、と聞いた。しかし、BDの介入によって、そのような紛争はなくなり、土地なき農民も食べられるようになり、環境も守られたのであった。

(2) フィリピンNGOの持続可能な開発の試み
60年代すでに、フィリピンではルソン島北部の山岳地帯で、日本向けの熱帯雨林の伐採がはじまっており、90年代には、完全な禿山と化していた。90年代半ば、私は、フィリピン地域再生運動(PRRM)という開発NGOが活動していたイフガオ州の山村を訪ねた。

そこにはイフガオ民が住んでいる。もともと彼らは狩猟と採取を生業とし、ごく小規模な焼畑農業も行っていた。しかし、山に木がなくなったため、やむを得ず、焼畑を続けていた。焼き払ったあとの土地は、残った灰が肥料の役目をするので、トウモロコシの種などをまくととにかく1年目は収穫できる。しかし、続けて同じ土地を使い続けることはできないので、別の場所に移動して、再び焼かねばならない。このような焼畑を続けると、山は草と潅木だらけの禿山になり、台風に襲われれば大規模な山崩れが起きる。

政府は、このような焼畑を環境破壊であるとして、レンジャー部隊を差し向けて、弾圧した。これに対して、イフガオ民は、村ぐるみ武力で抵抗し、紛争が続いていた。

PRRMは、イフガオ民に対して、焼畑を非難するのではなく、持続可能な農業のモデルを提案した。それは、まず焼畑の跡地に2〜3メートルの幅で横に何本かの線を引く。PRRMがマメ科の木の種を提供して、農民が線に沿ってその種をまく。マメ科の木はそれこそ何十種類もあるので、そこの土壌にどの種類が適しているかについては、PRRMの農業研究所が調査をしている。このマメ科の木の列は、山の傾斜地を畑にする時、地すべりを防ぐ役をする。そこでやっと焼け残っていた大木の根や大きな岩を取り除くことができる。同時に、インドネシアのアカシアと同じく、このマメ科の木は窒素肥料にもなる。また50センチ以上伸びると影になるので、刈り込み、その部分はたきぎや堆肥にもなる。そして、最後にこのマメ科の木の列の間に、陸稲を植える。

こうして、焼畑は見事に山の傾斜地にできた持続可能な畑になる。年に2〜3回陸稲が収穫できるので、イフガオの農民はもはや焼畑を続ける必要がなくなり、移動することなく、定着農業を続けることが出来る。

次に、PRRMは、農民にこの畑の周りにバナナやマンゴーなどの果物の木、あるいはチーク、アカシアなどの苗を混植するように指導した。私が訪ねた山村は、かっての禿山が見事な緑の森林と陸稲や野菜の畑になっていた。

しかし、イフガオ州のような僻地では、果物を売るといっても所詮買付け商人に足元を見られて敲かれる。そこで、PRRMは、農民の女性たちを10人単位のグループに組織し、彼女たちに小額の資金を供与して、作業場を建て、ドライフルーツやジュースなどに加工するプロジェクトを提案した。私が訪ねた村には、すでに、いくつかのこのような加工所があり、女性たちが楽しそうに働いていた。

結果として、それは環境破壊の結果ではあったが、さらなる環境破壊を生んでいた焼畑農業はなくなり、持続可能な農業と発展がイフガオに生まれた。ここでは環境と開発が車の両輪となって、同時に平和がもたらされたのであった。

環境破壊を非難するのはたやすい。しかし、「開発のためには環境を犠牲にするのはやむを得ない」という論理は、世銀や多国籍企業ばかりでなく、途上国政府にも受け入れられている。途上国のNGOは、インドネシアやフィリピンの例のように、環境と開発を両立させ、貧困を根絶する事業に、すでに10年以上も前から取り組んでおり、それが可能であることを証明している。先進国の環境保護運動の側もこのような途上国のNGOの実践から学ぶ必要がある。