論文集  
『違憲訴訟:第1回口頭弁論』
2004年4月
2004年(ワ)第6919号 違憲行為差止請求事件
原告 北沢洋子
被告 国

第1回口頭弁論書

時間:2004年6月14日午前11時30分
 
場所:東京地方裁判所民事第18文民事撃P5号法廷

原告:北沢洋子
職業:国際問題評論家



裁判長様

私は、自衛隊のイラクへの派兵は戦争放棄を規定した憲法第9条に違反する行為であり、また日本政府自身が国会で採択されたと主張している「人道復興支援活動及び安全確保支援活動を行うイラク特措法」にさえ違反しており、さらにイラク戦争そのものが国連憲章や安保理事会決議に違反する、すなわち国際法に違反する不法行為であると考える。その3点に基づいて国に対して民事訴訟を起こした。

 04年3月29日に東京地方裁判所に提出した訴状には、以上の3点の不法行為について、述べた。しかし、その後3ヵ月近くの間にイラク戦争そのもの、そしてイラクをめぐる国際情勢も著しく変化した。以下は、訴訟を補完する文書である。
この新しい情勢は、自衛隊のイラク駐留の目的とされている「人道復興支援活動」と「安全確保支援活動」そのものの大義をさらに一層失わせるものである。

1. イラク戦争そのものの変化

ファルージャの悲劇
 バグダッド陥落後の03年5月1日、ブッシュ大統領が、「イラクでの大規模軍事作戦は終了した」ことを宣言し、さらに同年12月13日、米軍がサダム・フセインを拘束して以来、米英共同軍の任務は、平和維持と戦後復興であるかのように思われた。これは日本政府がイラクに自衛隊を派兵する際、意図的に使われた言葉であった。
 このイラク情勢を決定的に変えたのは、04年4月の米海兵隊によるファルージャ包囲攻撃であった。その結果、イラク全土に米占領軍に対する抵抗闘争が激化し、さらに、その標的は米軍の占領に協力する国の軍隊、民間人にまで広がっていった。
 3月31日、バグダッド北部のファルージャで、米軍の民間請負会社で働く4人の米国人が嬲り殺されるという事件が起こった。これに対して、その2日後、米海兵隊がファルージャの町を包囲攻撃した。
 そもそもファルージャの町は、人口30万人、フセイン政権を支えるスンニー派の牙城であった。ここには、フセイン時代からの民兵も多く、米占領軍に対して抵抗闘争も激しかった。この町に対して、正面から米軍そのものが軍事作戦にでるということがはたして有効であるかについては、米軍内でもさまざまな論争があった。しかし、あえて海兵隊が包囲攻撃に踏み切ったことの背景には、海兵隊と陸軍との根深い抗争があったといわれる。  
 ファルージャの民兵の抵抗が激しいことにいらだった米軍がお得意のハイテク型の火力戦に出た。言い換えれば、住民に対する無差別攻撃であった。その結果、ファルージャ市民の側に600人の死者と2,000人以上の負傷者を出した。死者の大部分が女性と子どもであった。
 これは、ファルージャの悲劇として、イラク国内、アラブ地域、そして全世界に決定的な影響を与えた。イラク国内では、スンニー派と対立するシーア派の反乱を誘発した。それまでフセインに弾圧されてきたシーア派は米軍の占領に対して好意的であった。しかし、「ファルージャの悲劇を忘れるな」の合言葉とともに、シーア派の若者が続々と義勇軍としてファルージャ入りをした。4月7日の戦闘では、12人の米海兵隊が戦死した。これは2003年5月以来、米軍の1日の死者の数では最大規模となった。

ナジャフのモスク爆撃
 一方、イラク人の米占領軍に対する抵抗闘争は全土化した。バグダッド南方シーア派の牙城であるナジャフでは、サドル師が率いる民兵が反米蜂起した。これに対して、サドル師逮捕のために米海兵隊2,500人が派遣された。米軍はナジャフにおいては、モスクを空爆するという暴挙を犯した。
 こうして米軍は、イラクにおいて2つの戦線を闘わねばならなくなった。結果として、ファルージャからもナジャフからも撤退せざるをえなくなり、さらに悪いことに、ファルージャの治安維持については、フセイン時代のバース党治安部隊に委ねることになった。これで、米国の当初の目的であったフセイン政権打倒の大義は、消滅した。

イラク国内で米軍以外の外国人の誘拐・攻撃事件続発
 米軍によるファルージャ、ナジャフ包囲攻撃は、広範なイラク人の抵抗運動を触発した。それは、米軍占領に協力するすべての国の軍隊、そして民間業者にも向けられた。このような状況下に「日本の軍隊の撤退を要求する」ことを目的とした5人の日本人誘拐事件が起きた。これに対して、日本の国内では、NGOグループがアラブのマスメディアに対して、「誘拐の被害者はNGOやフリーのジャーナリストであり、イラクの友である」ことを証明する働きかけが行われた。その結果、人質が無事釈放された。
 日本の中で、これら5人の勇気ある国際連帯行動を表彰するどころか、彼らを貶める発言が政府やマスコミ、議員などによって行われたことは、時代の認識錯誤もはなはだしい。
 重要なことは、自衛隊の派兵そのものが、NGOによる人道、復興支援を妨害する存在になっているということを、この誘拐事件が教えてくれたということである。

テロのグローバル化
スペインのマドリッド駅爆弾事件は、米国のみならず、米占領軍に協力する有志連合国もテロの脅威に晒されることを証明した。日本もスペインと同様、テロの標的になる可能性が濃くなった。これは海外に住む日本人の安全を脅かすものである。
また、米国のイラク攻撃の背景には中東の石油の権益を独占しようという米国の石油戦略があり、その要となっているサウジアラビアの石油生産の破壊を攻撃の標的とするテロが発生した。これは、バレルあたり42ドルという歴史的な原油価格の暴騰をもたらし、日本を含めた石油依存の経済に打撃を与えた。

有志連合の動揺
 ブッシュ大統領は、30カ国がイラクに派兵していると言い、それが、あたかも真実であるかのように伝えられている。しかし、実際に、軍隊を派兵したのは、30人しか送っていないカザフスタンを除くと、米英を含めても20カ国であった。この数は国連加盟国191カ国の1割にすぎない。
 スペインはマドリッド事件後に誕生したサパテロ社会労働党政権が、かねての公約どおりイラクからの撤退を決めた。スペインに続いて、かねてから国内で派兵反対の声が大きかったホンジュラス、ドミニカ共和国、ニカラグア、シンガポール、ノルウエーが撤退を決定した。さらに、ブルガリア、タイ、フィリピン、ニュージーランド、ポーランド、エルサルバドルなどが撤退を検討中である。
その結果、イラク駐留を決めている国は、米国、英国、イタリア、オランダ、ウクライナ、オーストラリア、韓国、日本の8カ国である。しかも、この8カ国の中には、英国やイタリア、オランダのように断固としてイラク駐留を主張する首相の政治的生命が危うくなっている国もある。これが有志連合の現状である。日本は先進国の中で、米軍と運命をともにする唯一の国となるであろう。自衛隊はイラク人の抵抗闘争の標的となって、犬死することになろう。そして、日本はこれまでつちかってきたアラブ世界の友という地位を失うことになるのだ。

2. サマワでの自衛隊の活動について
 6月2日の『朝日新聞』朝刊は、「自衛隊50年 検証 アフガン・イラク戦争」と題する特集記事を掲載した。そこでは、小泉首相が米国の圧力によって陸上自衛隊をイラクに派兵することにいたった経緯が明らかにされている。
それは、実際にイラク戦争がはじまる半年前、米国のアフガニスタン戦争最中の02年10月23日にさかのぼる。この日、ワシントンで、イラク戦争の有志連合に参加することを日本に打診するために、日米の外務、防衛当局の安全保障審議官級会合(ミニSSC)が開かれた。ここで、ローレス国防次官補代理が、「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(地上部隊を派遣せよ)」と日本側に要求した。つまり、日本は、アフガニスタン戦争では派遣しなかった陸自をイラクに派遣しろということであった。この場合は、実際にイラク戦争に
参戦を意味した。
 日本は、アフガニスタン戦争の段階から、フロリダ州のタンパにある米中央軍司令部横に設けられた「有志連合村」に数名の自衛隊の連絡官を派遣していた。しかし、ここで米国はイラク戦争に参加することを「コミット」しなければ、日本に「情報」を渡さないと圧力をかけた。そして、3月15日、タンパの自衛隊の連絡官は米中央軍司令部に招かれ、「ショック・アンド・オー(衝撃と恐怖)作戦」のコンピュータ画面を見せられたのであった。これは、日本が、事実上有志連合に参加し、米国のイラク戦争に参戦した瞬間であった。そして、5日後の3月20日、米軍のイラク攻撃がはじまった。
 どのように陸自をイラクに派遣するかについては、その後日米の間では、緊張したやり取りが続いた。日本政府は湾岸戦争の時のように海自による「海上の機雷処理」を提案したが、4月の統一地方選での世論への影響もあって、ぐずぐずしているうちに、英国の掃海艇が機雷除去作業を完了してしまった。そして6月30日、再び、外務省、防衛庁、自衛隊の担当者がワシントンの米国防総省を訪問した際、ローレス国防次官補に、日本は「やる気が見えない」と批判された。そして、米国側は、具体的に日本にたいして1,000人規模の一定地域を制圧できる戦闘部隊とヘリやトラックなどの輸送部隊の派遣を要求した。
 日本は、ともかく陸自を派兵することを決めた。そして、米軍に対して水を提供することを申し入れた。2週間後、米軍からは、「バグダッド北方約90キロのバラドに展開している米軍部隊に水を供給してほしい」という要請が来た。
しかし、「イラク特措法」(03年7月26日)の制定などでもたついて入る内に、イラク情勢が悪化し、米軍に対する武装抵抗闘争が激しくなった。バラドは、イラク特措法の「非戦闘地域」ではなくなった。そこで、水の提供目的を「米軍支援」からイラク人への「人道支援」に切り替えた。こうして、南部のシーア派の町、サマワが選ばれた。イラク情勢は悪化する一方で、給水の規模も縮小され続けた。結局、100人の予定であったのが数十人規模となり、浄化装置の数も半分近くになり、24時間稼動予定が日中だけになり、全体の浄水能力は4分の1に落ちた。ちなみに自衛隊派兵の費用は、377億円である。さらに日本は政府開発援助(ODA)として、総額1,650億円を支出しており、また米国の要請に応じて、先進国では唯一イラクの債務7,700億円の帳消しを約束した。

3. 新しい国連決議と多国籍軍への参加問題
 04年6月8日、ニューヨークの国連安保理は、同年6月末に予定されている主権委譲後のイラクに関する1546号決議を15カ国一致で採択した。
 4月以来、米軍はファルージャとナジャフという2つの戦線での困難な作戦を余儀なくされ、ベトナム戦争末期のような泥沼に陥ってしまった。さらにアブグレイブ刑務所での米軍の捕虜虐待事件の全容が世界のマスコミに暴露されるにいたって、米国の「イラク戦争の大義」はまったく色あせたものになってしまった。
 米国に残されて唯一の道は、国連を引き込み、イラク戦争を国際化することであった。
 そのために、国連に働きかけて、新しい安保理決議を採択させることであった。それが、1546号決議であった。
 この決議案は米英の共同提案となっているが、実は米国の草案はこれまでにフランス、ドイツなどからすでに3回も修正を求められ、その都度、米国が譲歩して書き直してきたものであった。したがって、当初米国が意図していたものとは、随分違ったものになってしまった。
第1に、6月末には米英の暫定占領当局(CPA)は解散し、イラク人の暫定政府に主権が委譲される。しかし、この暫定政府はイラクの将来に関する決定は何もできない。つまり、これは05年1月までに直接選挙によって成立する本当の暫定政府のための「暫定政府」に過ぎない。米側が今の暫定政府はCPA寄りだという仏独の疑惑を考慮した結果であった。
第2に、国連は直接選挙の実施、憲法草案作成など、民主イラクの誕生に中心的な役割をはたす。しかし、現在、国連はイラクから撤退している。国連のイラク復帰はアナン事務総長の判断に委ねることも明記された。これは、米国が国連に配慮した結果であった。
第3に、米英共同軍から移行する多国籍軍の駐留が決まった。これは、米国と仏独との間で最ももめた部分であった。仏独側は、イラク暫定政府に、多国籍軍の駐留の拒否権を与えることを主張した。最後には、暫定政府の要請にもとづくものとする、多国籍軍とイラク暫定政府との間に治安問題で調整する場をもうける、暫定政府は多国籍軍の作戦にイラク軍が関与するかどうかの権限を持つ、というところで折り合いがついた。
多国籍軍に参加する軍隊は、統一した指揮の下に置かれる。その任務は、治安維持、人道復興支援、国連イラク支援団(UNAMI)の保護とする。その駐留期限は正式の政府の樹立が完了した時点、あるいは、暫定政府の要請があったとき、ということになった。
小泉首相は、この安保理決議が提案される前から、多国籍軍への参加を表明した。それは多国籍軍の任務の中に人道復興支援が含まれるからというのであった。しかし、多国籍軍の任務として挙げられている3つの任務は、それぞれ孤立したものではなく、切り離すことはできない。そして、統一した指揮下、当然これは米軍の指揮下に置かれる。したがって、日本の自衛隊は、人道援助だといって水の浄水ばかりしてはいられない。

米国は、仏独に対してどんなに譲歩しても、国連安保理1546号決議さえ通してしまえば、米英共同軍を多国籍軍に肩代わりさせればよいと考えている。しかし、この決議の最大の問題点は、米英の暫定占領当局(CPA)から主権を委譲される暫定政府が、イラク人に受け入れられるかどうかにかかっている。それは、当然のことながら、これまでの反米抵抗闘争が沈静化し、イラクが安定化するかどうかにかかっている。残念ながら、安保理決議以後のイラクからのニュースを見ても、そのようには決して動いていない。