イラク自衛隊派兵違憲訴訟  
『意見陳述書』
2004年9月
2004年(ワ)第6919号 違憲行為等差止及び損害賠償請求事件
原告 北沢洋子
被告 国

意見陳述書

2004年9月6日
東京地方裁判所民事第18部 御中
原告 北沢洋子

原敏雄裁判長、工藤正裁判官、浜田更裁判官、

訴状の趣旨および細く意見を陳述いたします。

 私は、日本政府がイラクに陸上自衛隊を派兵したことが、明らかに憲法に違反しており、またイラク特措法に違反しており、さらに、米国のイラク戦争そのものが国際法に違反しているという、いわば3重の法律違反であるということから、政府を相手どって告訴いたしました。
本来は、憲法裁判所というものがあって、そこに主権者である私たち市民が政府の不法行為を訴えるのが常道であるのですが、これが日本にはありません。そこで、残念ですが
地方裁判所に違憲行為の差止と損害賠償を請求するという民事訴訟を地方裁判所に行わざるをえませんでした。
 どうか、私の意を汲んでいただいて、憲法第76条にもとづいて、審議していただくことを原裁判長にお願いいたします。
 
 私は父の仕事の関係で、小学校に入学してから女学校2年まで、当時日本の植民地であった中国東北の大連で育ちました。したがって、女学校1年の夏、敗戦を迎えるまで、日本内地の人びとのように戦争体験はありませんでした。
私の戦争体験は、1945年、12歳の夏からはじまります。敗戦と同時にソ連の赤軍が大連を占領いたしました。ソ連軍は1年あまりで大連を撤退し、すぐに中国の国民党軍が進駐しました。しかし、すぐに、中国共産党の人民解放軍が大連を占領いたしました。 
私は、2年近くの間、3つの異なった軍隊の占領下で暮らしました。この間、私たちを守ってくれる国家はなく、強盗にあっても、訴えるところもありませんでした。また大連市が経済封鎖されたため、父の仕事もなくなり、食べるものもありませんでした。敗戦から1年ぐらいは食糧の蓄えがありましたが、1946年の冬から翌年47年3月に日本に引き揚げてくる約半年間は、零下20度の寒さと飢えのなかで私は、あまりの空腹に耐えかねて、本の紙を食べ、激しい下痢をしたこともあります。
私の父はソ連軍にシベリアに連行されることもなく、母も病気がちでしたが生きていてくれたため、一家揃って日本に帰国することが出来ました。もし両親をなくしていたら、私も中国残留孤児と同じ運命をたどったでしょう。私は、中国残留孤児に関したテレビは必ず見ます。そして、私と同じくらいの歳の孤児が、日本語も、両親の名も忘れてしまったのを見てショックを受けます。人ごととは思えません。私がたどった人生であったかも知れないからです。
私は、アフリカの難民のニュースにも思い入れがあります。子どもたちの飢えた姿も、人ごとではありません。自分の少女時代の飢えの記憶がよみがえってくるからです。
さらに、今日のイラクの人びと、とくに女性と子どもの映像は、私にとって、遠いイラクの出来事とは思えません。敗戦後の大連での私の生活と全く同じだからです。
イラクの人びとはフセイン独裁政権がなくなって、本来は幸福なはずです。しかし、国家はなくなり、外国の占領軍の支配下に置かれています。彼らの身を守ってくれるものは、何もありません。
男性ならば、ゲリラとなって、占領軍に抵抗闘争をすることが出来ますが、女性と子どもはどうでしょうか。敗戦後の私の大連時代と同じ、彼らは裸で放り出された不安と恐怖のなかで暮らしているのです。私には、人ごとではありません。
 私は、国際問題、とくに途上国の政治、経済問題を専門分野にしている評論家です。ですから、たしか文筆活動をしてはいますが、私の少女時代の大連の体験が原点になっています。いつも私の心は、虐げられた人びととともにあります。
 そして、私は、彼らの敵対者に絶対になりたくありません。自衛隊が「人道援助」を口実にしていても、軍隊がイラクに派兵されることは絶対にイヤです。それも文字通り自衛隊が占領軍である米軍を支援するものであり、これは絶対に許せません。

原裁判長、
 裁判所で引揚者の声を聞くことはなかったでしょう。敗戦後の苦しみを語ることが出来る人は少なくなりました。私は映像でもって、私の経験をお知らせすることができません。ですから、あなたのような若い方に、私がなぜ、訴訟に踏み切ったか、その理由を十分にお伝えできないことをもどかしく思います。どうか私の意を御汲み取りくださるようお願い申し上げます。