イラク自衛隊派兵違憲訴訟  
 
 
平成16年(ワ)第6919号
原  告  北沢洋子
被  告  国

 


準 備 書 面(8)
法の支配の回復と裁判所の責務
−違憲審査権発動の必要性−

2005年10月24日
東京地方裁判所 民事第18部合議2係 御中

                               原告訴訟代理人
                               弁護士 内田雅敏 ほか

 

第1 被告の準備書面(1)に対する反論

 1 人格権の侵害

   本件において、原告らは人格権が侵害されたと主張しているところ、被告は「原告らの主張する人格権(は)具体的権利とは認められず、国賠法上保護された利益と認められない」とし、また「本件における自衛隊のイラク派遣それ自体は、原告らに向けられたものではなく、原告らの具体的権利が侵害されたということはおよそあり得ない」と主張している。
   しかし、これまでも主張してきたとおり、人格権は、憲法上保障された具体的権利であって、国賠法上も最大限保護される利益であることは明らかである。
   そもそも人格権は、各人の人格に本質的な生命、身体、健康のほか、名誉、氏名、肖像、プライバシー、自由および生活等に関する諸利益の総体を指し示す概念であるところ、本件において問われているのは、この人格権の中でも、「いのち」を奪い奪われる立場には決して立たないという権利、いいかえれば、「戦争の被害者にも加害者にもならない」という「いのち」に密接に結びついた権利の保障なのである。
日本国憲法は前文において、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」とともに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあり、武力・暴力によらずに「公正と信義」という非暴力的な方法で安全と生存、すなわち「いのち」を尊重することをめざしている。そして、このような「いのち」に対する保障を日本国民だけではなく、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」として、全人類に対して保障をしているのである。徹底した「いのち」の保障の理念であるといえる。このように「いのち」が絶対的に保障されていることについては、人権規定の中で、真っ先に「生命・・・に対する国民の権利については、・・・最大の尊重を必要とする」とされていることからも明らかである。また、この前文に記された崇高な理念を確実なものとするために、第9条において、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」(2項)として、戦力不保持という原則を打ち立てた。これは、「いのち」に対する最大の脅威が戦争であるという人類の経験則に基づき、あらゆる戦争を悪であると見なし、一切の戦力を放棄しているのである。
   このような日本国憲法の定めた「いのち」尊重の理念は、所与のものとして実現されているものではない。崇高な理念であるからこそ、また地球上に紛争が絶え間なく起こっている不幸な現実があるからこそ、平和を希求する日本国民の不断の努力が必要となるのである。これは日本国民一人一人が具体的な行動によって、「いのち」の尊重、平和の実現のために諸国民の信頼を得なければならないことを示しているとともに、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうに」政府の暴走を監視する役割を担っていることも示している。
   さらに原告らは、準備書面(4)において、掃海艇事件東京地裁平成8年5月10日判決を引用して、「個人の内心的感情も、それが害されることによる精神的苦痛が社会通念上受忍すべき限度を超えるような場合には、人格的な利益として法的に保護すべき場合があ」ると主張し、本件自衛隊派兵は国家賠償法の不法行為に該当すると主張したが、被告はこれに対し何らの反論も、釈明もしていない。したがって被告の準備書面(2)の人格権に関する反論は失当である。

2 原告らの人格権の侵害

   原告らは、「いのち」を最大限尊重することを人格形成の中心に据えて生きてきたといえる。したがって、自らの「いのち」が危険にさらされることはもちろんのこと、人殺しの側に立って(人殺しの国民になり)、他人の(他国民の)「いのち」を奪うことに対しても激しい心理的な抵抗を感じ、著しい精神的な打撃を受けるのである。
繰り返していう。日本国憲法は、一切の武力を保持せず、戦争を放棄し、諸国民の公正と信義に信頼して、安全と平和、すなわち「いのち」を守ろうと決意した。いま、他国の民衆の「いのち」を奪う側に立つことは、自らの立脚してきた理念をかなぐり捨てることになり、これまでの原告らの生き方を否定することになる。それと同時に、自らの「いのち」の安全をも脅かされる結果になる。原告らが著しい恐怖心を感じるのも当然である。
    「生命は尊貴である。一人の生命は全地球よりも重い」(昭和23年3月12日最高裁大法廷判決)という言葉がある。自衛隊のイラク派兵が決まって以降、既にイラクで5名の日本人が殺害され、2004年4月・11月のファルージャでの大虐殺に示されるように、あまりに多くのイラク人が殺害されており、一方、対日テロ宣言も再三なされている。このような深刻な事態は、60年に及ぶ日本国憲法の下でかつてなかったことである。まさに、原告らは戦後60年目のなかで最大の精神的な被害を被っているのである。
   イラクの武装勢力は、日本国民に対して、テロを予告し続けている。このようなテロ発生の危険性からすれば、日本国民である原告ら自身が日本国内や滞在する海外において、日本のイラク派兵に対する抗議・抵抗としてのテロのために自己若しくは近親者の命が奪われる可能性が、イラク派兵決定前に比べ、各段に高くなったことは疑いない。原告らが持つこの恐怖心は、十分「法によって保護されるに価する人格的利益の侵害」と評価しうるものである。
   いまも、イラクでイラクの民衆が理不尽に殺され、自衛隊員が今にも殺し殺されようとしている。報道統制下であってもマスコミ報道等を通じて、このような状況を原告らは繰り返し繰り返し見聞している。このような中で、原告らは、自分の肉親が殺され、人を殺した時と全く同様に、強く心かきむしられている。幾多の人命と人生を奪った侵略戦争の実相を学び、戦後60年の世界を生きるなかで、このように他者の痛みも我が心の痛みと全く同じく感ずる、このような人々が国民のなかに相当数存在しており、原告らはみなその痛みを覚える人々なのである。
   これは、戦後60年を経るなかで、日本国憲法の価値を人生観とするべく努めて来たことも反映している。加えて大きなことは、地球規模の情報が直ちにかつリアルに伝わる世界になり、いわば村の中で起こった出来事のように、あるいはそれ以上に、まるで自分の家のなかでおきているかのように、映像で伝わる時代になっているということが挙げられる。
   被告は、自衛隊派遣によって原告らの具体的権利は侵害されていないと主張している。しかし、あらゆる者の「いのち」を保障した日本国憲法の精神に学び人格形成してきた原告らが、イラクにおける不条理な「いのち」の剥奪の報道に接し、イラクの民衆の怒りが日本国民に向けられていると知ったとき、「戦争の被害者にもなりたくない。加害者にもなりたくない」という痛切な願いが政府の行為によって無惨にも踏みにじられたと感じるのは当然である。この原告の心の痛みは、まさに人格権の侵害によるものであって、「単なる不快感、嫌悪感等の域を超え、個々人の具体的利益を侵害されたと認められる場合」(2004年4月福岡地裁靖国判決)また「それが害されることによる精神的苦痛が社会通念上受忍すべき限度を超える」個人の内心的感情であって、「人格的な利益として法的に保護すべき場合」(1996年5月10日東京地裁判決)に該たり、不法行為が成立するとみるべきである。

第2 違憲審査権発動の必要性

1 憲法判断回避がもたらしたもの

   すでに訴状・準備書面等においてくり返し述べてきたように、1959年12月16日、砂川事件最高裁大法廷判決において、いわゆる「統治行為論」により、憲法第9条(戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認)についての判断を回避して以降、今日にいたるまで約半世紀にわたって司法の場において憲法第9条をめぐる論議は封印されてきた。このことは、裁判所が同じ憲法問題である人権条項について、憲法第13条(幸福追求の権利)等を根拠に判例理論を発展、確立させてきたことと著しい違いをもたらしている。
   司法の場における約半世紀にわたる憲法第9条をめぐる論議の封印がもたらしたものは、政府による自衛隊の拡大と米軍との一体行動の強化であった。
ところで、「統治行為論」によって三権分立に基づく違憲立法審査権の行使を回避した前記最高裁判決において前提となっていたのは、日本の防衛、すなわち日本に対して他国からの攻撃があった場合の防衛に関するものであり、日本の防衛には関係なく、自衛隊が海外に派遣されることなど全く想定されていなかったことに留意しなければならない。自衛隊が日本の防衛に関係なく、米国の要請により、遠くイラクにまで派遣される事態を、当時の最高裁判事15人中誰一人として想定していなかったであろう。憲法第9条をめぐる判断回避、その論議の封印という最初の過ちが、今日の事態──それは単に憲法第9条をめぐる論議の封印のみならず、立憲主義の空洞化、法の支配の破壊──をもたらしていることをもう一度考えてみる必要がある。
   米国のイラク攻撃は、国連のアナン事務総長の発言にもあるように、国連憲章に違反した先制予防攻撃であり──イラクが米国を攻撃したわけでなく、しようとしたわけでもない。また攻撃開始時に声高に語られた「大量破壊兵器」も存在しなかったことも明らかとなっている──、到底許されないものである。新聞報道等によれば、今日、米国においては、かつてのヴェトナム反戦運動ほどの高まりは見せてはいないものの、イラクからの撤退を支持する声が駐留継続を支持する声を上回るなど、ブッシュ大統領によるイラク攻撃に対する批判の声は高まりつつある。そして米国の要請によってイラクに派兵した国々も、スペイン、オランダなど続々と撤退をしている。
   このような事態になっても、なお日本政府は米国に対する配慮から自衛隊のイラクからの撤退という選択肢をとることなく、「日米同盟」「日米基軸」の呪文の下、米国ブッシュ大統領に対する追従を改めようとしていない。「日米同盟」による思考の停止である。
   「日米同盟」ということについて、正確に言えば、そのようなものは存在していないことに留意すべきである。あるのは日米安保条約であり、同条約第1条は、「締約国は国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危くしないように解決し・・・また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する・・・」としており、同第3条は、「締約国は個別的に及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を憲法上の規定に従うことを条件として維持、発展させる。」としている。すなわち、日米安保条約は、国連重視及び各自の国の憲法に立脚することを基本としているのである。米国によるイラク攻撃及びそれに対する日本政府の追随がこれにことごとく反するものであることは明らかである。米国によるイラク攻撃は、「国際の平和及び安全並びに正義を危くしないように解決し」という前記日米安保条約第1条に明らかに反するものである。
   すでに準備書面において述べてきたように、2001年9月11日の米国同時多発テロの発生、及びこれに対する報復としてなされた米国によるアフガン攻撃、イラク攻撃は、世界を一変させ、全世界にテロを拡散してしまった。世界を憎しみの大地と化してしまったのである。テロ発生の根源である貧困、すなわち南北問題等の解決にメスを入れることなく、また度重なる国連決議を無視し、パレスチナにおいて民衆の生活を破壊しているイスラエルに対する事実上の支持という米国のダブルスタンダードが米国に対する同時多発テロを引き起こした。米国の「イスラエル化」である。そして、この同時多発テロに対する米国の先制予防攻撃が全世界の「イスラエル化」をもたらしてしまった。
   イラクにおける民衆、とりわけ子供に対する被害、劣化ウラン弾による被害など、米国のイラク攻撃、それに追随する日本政府の行為によって「国際の平和及び安全並びに正義」が著しく危くされてしまっていることを裁判所も直視しなければならない。

2 司法は何かをなし得るか ―憲法32条,81条と裁判所法3条―

   米国の先制予防攻撃がテロを拡散し、全世界を「イスラエル化」してしまったが、これを是正するために司法は何かをなし得るか。
   今、日本社会において憲法問題に関して早急に求められているのは、立憲主義の確立、法の支配の回復である。そのためには何を置いてもまず私達1人1人がそのためになし得るあらゆる努力を払わなければならないことはもちろんであるが、同時に、司法も国民から負託された権限を行使しなければならないことは言うまでもない。国の基本法たる憲法は、統治システムとして国家の権力を、立法・行政・司法の三権に分立し、互いにチェック機能を働かせるようにしている。司法による立法・行政のチェック機能を規定しているのが、憲法第81条の違憲審査権である。ところで、原告らは憲法第32条によって裁判を受ける権利を保障されている。この権利は、刑事・民事・行政すべての分野において国民に裁判を受ける権利を保障したものであり、参政権の行使──選挙において立候補する権利、投票する権利等──と同じく、国民の主権の行使の一態様である。国民は、立法あるいは行政が憲法を無視し、立憲主義の制約を超えて暴走し、法の支配が破壊されようとしているとき、参政権等の主権を行使して、その是正を求めるとともに、同時に裁判所に対して憲法第32条裁判を受ける権利に基づき憲法第81条の違憲審査権の発動を求めることができる。
   そこで問題となるのは、国民が裁判上の救済を求めるに当たっては、「法律上の争訟」性が必要であるとする裁判所法第3条の規定の存在である。すでに準備書面等において述べてきたように、裁判上の救済を受けるに当たっての「法律上の争訟」性の要件は、憲法上の規定でなく、裁判所法による規定であり、このような要件については、近年ゆるやかに解釈されるべきだとの見解が有力になってきている。
   したがって裁判を受けるに当たって「法律上の争訟」性を要件とする裁判所法第3条の規定が、憲法第32条裁判を受ける権利との関係で違憲とまでは言えないにしても、その具体的適用いかんによっては適用違憲と云うことも当然考えられてしかるべきである。前述したように、憲法の人権条項については裁判所は憲法第13条幸福追求の権利等を柔軟に解釈・適用して、判例理論を発展させてきたことを考えれば、立憲主義の確立、法の支配の回復のための拠り所である憲法第81条を発動させるに当たっての憲法第32条裁判を受ける権利を制約する裁判所法第3条の求める「法律上の争訟」性についても、ゆるやかに解されてもしかるべきである。この点について、裁判所がやたらと憲法第81条の違憲審査権を行使すると、国民の選挙によって選ばれたのではない裁判所が国民の選挙によって選ばれた立法あるいはその延長上の内閣の行為を制約することになってしまって、好ましくないという反論がなされるかもしれない。しかし、前述したように、憲法第9条をめぐっての論議は1959年12月16日の最高裁砂川大法廷判決以来ずっと封印されてきているのだから、この批判は当たらない。少なくとも憲法第9条に関する限り、裁判所(最高裁判所)は憲法第81条違憲審査権を行使したことが一度もないのであり、決して「やたら」とこれを行使するということにはならない。
   ところで、1992年秋のカンボジアPKO派遣以来、自衛隊の海外派遣に対して憲法が保障する平和的生存権等に基づき様々な平和訴訟が提起されて来た。裁判所はこれらの訴訟において、いずれも原告の請求を棄却してきたが、その際裁判所が用いた論理は、争訟性がなく、原告らには「訴えの利益」がないということであった。自衛隊の海外派遣によって仮に原告らが「不快感」「不安感」を感じたとしても、それは裁判上の救済を受ける程度のものではないという論理であった。
   1931年9月18日の「満州事変」に始まる15年の長きにわたるアジア・太平洋戦争において、国内で310万人、国外で2000万人もの死者を出すという戦争の惨禍を経て、私達は、平和憲法を持つにいたったが、そこでは今後二度と戦争の加害者にも被害者にもならない権利が人格権として保障されていることを裁判所は理解すべきである。自衛隊のイラク派遣、米国との一体行動によるイラクの民衆に対する殺戮をやめさせようとする原告らの思いは、決して単なる「不快感」「不安感」ではなく、裁判上の救済を受けることのできる人格権である。さらに、「精神的苦痛」のような個人の内心的感情も、一定の限度を超える場合は人格的利益として法的に保護されるべきであることはすでに述べたとおりである。

3 裁判所のダブルスタンダードは許容されない

   昨今、立川自衛隊宿舎イラク反戦ビラ入れ住居侵入罪事件、葛飾マンションビラ入れ住居侵入罪事件など、市民の憲法上の権利である表現活動に対して、逮捕・勾留・起訴などがなされるケースが増え、自由な言論活動がなし得なくなるのではないかと危惧されていることは裁判官諸賢におかれて御承知のことと思う。
これらの「微罪」事件について、これを民事の問題としてみた場合に、仮にビラ入れをされた宿舎、あるいはマンションの住民等が、不安感を抱いたとしても、それは前述した裁判所の言い方に倣えば、法律上の救済を受ける必要性が認められる程度に達しないものであろう。
   警察用語に「民事不介入原則」があるように、民事と刑事を比較すれば、民事に比べてより大きな法益の侵害があった場合に、初めて刑事の問題となるのである。しかるに前記ビラ入れ事件など、本来民事問題にもなり得ないようなケースについて、公安警察が動き出すのは、それは宿舎あるいはマンション住民の抱いた「不安感」というよりは、これらのビラによる表現活動が国家の政策を批判するものであるが故に国家が「不快感」を覚えるがからであろう。
   裁判所は平和憲法訴訟において原告らが抱いた「不安感」「不快感」を裁判上の救済を受ける程度のものではないと切り捨て、他方では、市民の表現活動について住居侵入罪における保護法益としての「住民の不安感、不快感」を過大に評価して、法律上の救済を受ける程度のものとし、逮捕・勾留令状を発令するのは、裁判所として「裁判上の救済を受ける権利」についてダブルスタンダードを設けていることになるのではないか。裁判所は国家の守護神でなく、国民にとっての「人権の最後の砦」であり、民事と刑事の保護法益を逆転させ、「裁判上の救済を受ける権利」についてダブルスタンダードを設けることは許容されない。