イラク自衛隊派兵違憲訴訟  
 
 
平成16年(ワ)第6919号 違憲行為差止等請求事件
原告 北沢洋子
被告 国

準 備 書 面(3)

2004年11月29日

東京地方裁判所 民事第18部 合議2係 御中

                               原告訴訟代理人
                               弁護士    内田雅敏 ほか

目次
     
  はじめに
 

第1章 イラク戦争・占領の実態

   

1   イラクにおける膨大な数の犠牲者
2   マドリード列車爆破テロと犯行声明
3   「ファルージャの流血」
4   占領軍,シーア派と各地で衝突拡大
5   「ファルージャの流血」をめぐるイラク情勢
6   あいつぐイラクからの撤退
7   日本人人質事件の発生と問題の本質
8   さらなる人質事件
9   自衛隊の活動と宿営地サマーワの情勢悪化
10  日本人ジャーナリスト2人死亡
11  アブグレイブ刑務所におけるイラク人虐待
12  小括

 

第2章 イラク戦争,イラク占領の国際法上の違法性

   

1) 米英軍のイラク攻撃
  1   イラク攻撃の実行
  2   戦争違法化の歴史と武力攻撃が認められる国際法上の例外
  3   イラク攻撃は国連憲章上認められるか
  4   国際社会はイラク攻撃を認めていない
  5   米国のイラク攻撃の真の目的はなにか

2) イラク占領
  1   CPA,CJTF7を通じた米英軍によるイラク占領
  2   米英軍の義務の不履行
  3   イラク国民の生活破壊
  4   人道支援活動の阻害
  5   資源の収奪
  6   主権の委譲と占領の継続
  7   侵略の罪該当性

  おわりに

はじめに

イラクでは、いまだに衝撃的な事件が相次いで発生している。イラク民衆と米軍・占領軍との対立は決定的なものとなり、全土が交戦状態になっている。米国主導のイラク占領統治の失敗は、もはや誰の目にも明らかとなった。

日本政府は、イラク特別措置法に基づき、自衛隊をイラクに「派遣」したが、この「派遣」は交戦当事国の立場に立つものではなく、専らイラクの「人道復興支援」を行うものであると言ってきた。

しかし、その後の日本政府の対応を見ると,「人道復興支援」の本当の動機は、米国の期待に応え米軍の占領政策を徹底して支えることにあることが、ますます明瞭になった。そのことによって、日本の自衛隊が反米・反占領軍勢力の標的とされ、ボランティアやジャーナリストら民間人までが標的とされ、日本の民間人2人の犠牲者を出すという最悪の事態にまで発展したのである。

本書面では、自衛隊「派遣」後のイラク情勢の要点について、事実経過と問題の所在を明らかにする(第1章)とともに、イラク戦争、イラク占領が国際法上違法であること(第2章)を指摘する(なお、イラク特措法の憲法違反および自衛隊派兵の憲法違反、イラク特措法違反については、次回の主張に譲る)。

第1章 イラク戦争・占領の実態

1 イラクにおける膨大な数の犠牲者

(1) 本準備書面添付の「イラク戦争の実態一覧表」に示すとおり、米兵の死者数は、昨年3月20日の開戦から5月1日の戦闘終結宣言前日までに138人であるのに対して、宣言後今年4月30日までの1年間では594人、合計732人に達している(米国ブルッキングス研究所の資料などから/朝日新聞5月2日付朝刊)。
さらに、9月7日時点で、米軍死者は1000人を突破した(ワシントン・ポスト9月
5日付)。

04年4月に入ってから衝突が激化し、同月の米兵死者数は138人で開戦以来最高となっている(AP通信/毎日新聞2004年5月2日付朝刊)。また、負傷者数は3864人に上っているという(米国防総省/同)。

なお、今年8月だけでも、米兵の負傷者は1000人となっており、イラクの治安は悪化の一途をたどっている。

占領軍の死者数は、以下のとおりである(括弧は戦闘終結宣言までの死者)。
アメリカ(派兵規模135,000人) 732人(138人)
イギリス(派兵規模9,000人) 59人(33人)
イタリア(派兵規模2,600人) 19人(0人)
スペイン(派兵規模1,400人) 10人(0人)
ブルガリア(派兵規模480人) 6人(0人)
ウクライナ(派兵規模1,650人) 4人(0人)
ポーランド(派兵規模2,500人) 2人(0人)
タイ(派兵規模450人) 2人(0人)
他に、エルサルバドル1人(0),エストニア1人(0),デンマーク1人(0)があり、占領軍合計837人(171人)となっている(4月30日現在)。

(2) 他方、イラク人の犠牲者は、正確な把握すら出来ない状況であり、民間団体のイラク

ボディ・カウントによると、今年3月末時点で最高で1万1005人、少なくとも9148人の民間人が死亡しているという。

これに、4月の戦闘に関連して死亡したイラク人は約1360人、うちファルージャでは女性や子どもを含み700人以上と言われている(AP通信/朝日新聞2004年5月2日付朝刊)。負傷者数は、上記の数倍に上る可能性がある。

さらに、今年9月3日までの間に、米英などの占領軍により殺害されたイラク民間人は最少でも1万1793人、最大で1万3802人となっているとされている(イラク・ボディ・カウントの調査による)。しかも、非公式ながら、最低でも3万7000人以上死亡したとの調査結果もある。

今年4月初めの「ファルージャの流血」とシーア派との衝突以降、イラク情勢は、民衆の抵抗とそれを鎮圧しようとする米軍・占領軍との全面衝突となっており、戦死者の数、戦闘の件数、戦域の広がりなど、そのいずれを見てもイラクは「全面戦争」状態と化している。
以下、幾つかの重要な事実及び問題点について論ずる。

2 マドリード列車爆破テロと日本への犯行声明

(1) 3月11日,スペインの首都マドリードで、大規模な列車爆破テロがあり、約20
0名の犠牲者が出た。翌日には、同国史上最大の800万人以上によるデモ行進が行われ、4日後の総選挙で、米英との緊密な「有志連合」を誇っていたアスナール政権が敗北した。

社会労働党書記長のサパテロ新政権の下で、スペイン軍はイラクから完全に撤退した。

衝撃的だったのは,事件直後にマスコミが報道した「アルカイダ系の組織の犯行声明」とされるものの中で,「攻撃は反イスラム戦争で米国の同盟国である十字軍のスペインに対する報復の一部にすぎない」とし,「だれが,おまえ(アスナール首相)や英国,日本,イタリア,ほかの対米協力国をわれわれ(の攻撃)から守ってくれるのか」と,日本を名指ししたことである。「人道復興支援」を標榜する日本のイラク派兵が,この当時すでに,米国ら占領国と同列に憎悪と敵意の対象とされていたのである。

(2) ところで,これより前の3月2日夜(現地時間),サマーワにおいて,駐留している自衛隊に対して,「陸自宿営地をRPG7(隊戦車ロケット砲弾)で襲撃しようとしている男がいる」との情報が寄せられ,全隊員が徹夜で戦闘準備をする事態が発生していた。
すなわち,3月2日午後10時頃,「黒いトラックの男がサマーワ市内で『日本軍(陸上自衛隊)の宿営地はどこか』と尋ねていた。RPG7を積んでいた」との複数の情報がオランダ軍などから寄せられた。イラク警察も捜査し,一時特徴の似た男が目撃されたが,行方を見失った。陸自部隊は「確度が高い情報」と判断,宿営地内の態勢を「警戒レベル」に上げた。当時,宿営地では本隊主力第一陣まで含めた計二百数十人到着していたが,全員が迷走服と半長靴を着用し,防弾チョッキと小銃などで武装,宿営地の周辺を徹夜で警戒した(北海道新聞4月30日付夕刊)。

しかし,この陸自宿営地襲撃情報が報じられたのは,自衛隊を狙った攻撃が相次ぎ,日本で報道されはじめた4月末日になってからのことだった。3月初めは,陸上自衛隊がサマーワに到着して1か月足らずであり,派遣部隊のリーダーである番匠幸一郎一佐が現地入りし,日本では治安の良さや住民の歓迎ぶりが報道されていた時期である。現地には数十名から百名前後のマスコミがいたはずである。自衛隊による事実の隠蔽あるいは報道規制が行われていた可能性を疑わざるをえない。

この事実は,マドリード列車爆破テロの犯行声明が決して唐突なものではなく,自衛隊が,現地へ到着した当初より占領軍と同視され,敵意と攻撃の標的とされていたことを物語るものである(詳細は,本章9参照)。

3 「ファルージャの流血」

(1) バグダッド西方に位置するファルージャは,旧フセイン政権の中枢を担ったスンニ派住民が多く居住している「スンニ派三角地帯」と呼ばれる地域である。米軍は,占領当初から,テロ掃討を理由にこの地域の人々を容疑がないにもかかわらず大量に拘束したり,取材中のアラブメディアに発砲して死亡させたりする事件を起こしていたために,住民による反発が強まっていた。拘束したイラク人を収容していたアブグレイブ刑務所における米軍兵士による拷問,非人道的な扱いについては,後に大問題に発展した(詳細は,本章11参照)。

3月31日,ファルージャ北西のラマディを走行中の米軍車両が爆破され,乗っていた兵士5名が死亡した。さらに,バグダッド西方のファルージャでは,走行中の2台の車両が銃撃を受け,乗っていた米国人4名が殺害された。この4名は,占領当局と契約する復興事業請負業者だとされる。民間車両の襲撃現場では,焼けただれた遺体を周辺住民がたたいたり,切り刻んだり,車で引きずって鉄橋につるすなどした。

この事件が報道されたアメリカでは,「ソマリアの悪夢」の再来として,波紋を広げた。この「ソマリアの悪夢」事件は,1993年,内戦が続く東アフリカ・ソマリア紛争にPKO部隊として派遣された米軍のヘリ「ブラックホーク」が地元の武装勢力に襲撃され,救出に向かった地上部隊を含めて,計18名が殺害されたものである。兵士の遺体が地元住民に引きずられる写真が米メディアで報じられると,議会が即時撤退を要求,当時のクリントン政権は抗しきれずに撤退を決めた。その後,同政権が軍の運用を極力犠牲の出ない形に限定するきっかけとなった。

(2) 民間業者殺害事件に対して,反発を強めた米国は,4月5日,米軍が主要道路を完全封鎖してファルージャを包囲,掃討作戦を開始した。米軍による,大規模で激しい軍事作戦(空爆)が日夜展開され,5日と6日の2日間だけで住民の死者は100名を越えたとされる(4月8日付の新聞各社の報道)。後述するアサド・ジャワード教授のレポートによれば,「攻撃開始から数日の間に,代用病院が記録した死者は600名以上,負傷者はその倍に及んだ」とされる。

4月7日には,米軍ヘリコプターがモスク(イスラム礼拝所)にミサイル3発を撃ち込み,40人以上の一般市民を殺害した。

アラビア語衛星テレビ・アルジャジーラが,米軍によるファルージャ空爆の現場を生々しく伝え,その凄惨な映像はイラク市民に衝撃を与えた。

7日には,バグダッド市内のスンニ派モスクの指導者が,説教の中で「反米聖戦」を信者に訴えたとされる。これまで「聖戦」は反米武装勢力が秘密裏に行うものだったが,モスクが公に訴えれば,聖戦は全イスラム教徒の義務となるという(4月8日付朝日新聞朝刊/川上泰徳記者)。

こうして,米軍=占領軍は,「ファルージャをアメリカから救え」「ファルージャの悲劇」の旗印に結集するイラク国民を,敵に回すことになった。

このようなファルージャ情勢の下で,4月8日,高遠奈穂子さんら日本人3名がファルージャ付近で武装勢力に人質にとられたのである(詳細は,本章8参照)。

結局,ファルージャでの激しい戦闘行為は,4月11日に一時停戦が成立するまで続き,その後も断続的に続いた。事態が落ち着いたのは,アブグレイブ刑務所のイラク人虐待問題の表面化と並行して米軍の撤退が開始された,4月末になってからのことだった。

4 占領軍,シーア派と各地で衝突拡大
(1) 4月4日,イラク中部イスラム教シーア派聖地ナジャフで,米軍などの占領統治に抗議するシーア派強硬派のデモがあり,イラク人民兵とスペイン軍など占領軍との間で銃撃戦となり,双方あわせて22名が死亡し,200名が負傷した。米英主導の占領軍とイラク人の衝突としては戦争後,最大規模となった。

ナジャフ近郊のクーファには,シーア派の強硬派指導者ムクタダ・サダル師が住んでおり,周辺にはその支持者が多い。3日に同師側近がスペイン軍に身柄を拘束されたとの情報が流れたため,4日,支持者ら数千人が釈放を求めて同軍の駐屯地に抗議デモをかけた。デモ隊が駐屯地に向けて投石したのに対して,スペイン軍など占領軍が発砲し,デモ隊に交じっていたイラク人民兵が応戦して,約3時間にわたる銃撃戦になった(4月5日付各紙)。

(2) 同日は,首都バグダッド東部のサドルシティーでも,シーア派民兵と米軍とが衝突し,米兵7名が死亡,20人以上が負傷し,イラク側は少なくとも2名が死亡,7名が負傷した(4月5日付各紙)。

サドルシティーは,ムクタダ・サドル師の影響力が強いところであり,米軍と交戦した兵士は,同師の支持者でつくる民兵組織「マフディ軍」と思われる。シーア派による一連の反米デモが起きた直接のきっかけは,3月28日,CPAがサドル師系の週刊誌アルハウザを60日間の発行禁止にしたことにある。それ以降,バグダッドとナジャフでは,サドル師の支持者が「発禁命令撤回」を求めて連日,抗議運動を続けていた。2日には,バグダッドで,信者1万人以上が占領に抗議する金曜礼拝を行っていた。

(3) 5日,CPAブレマー代表は,「サドル指揮下のグル−プは無法者だ。我々は容赦しない」と強く非難し,同セノー報道官は,記者会見でサドル師に対して「イラクの裁判官が逮捕状を発行している」と明らかにした。昨年4月にシーア派の穏健派の宗教指導者アルホエイ師が暗殺された事件に関する容疑で,逮捕状が発行されたのは数か月前だと説明した(4月6日付各紙)。

米軍は,5日夜,サドル師が立てこもっているとみられるクーファに進軍し,包囲する形をとった。駐留米軍報道担当のキミット准将は「サドル師が平和的に投降するかどうか,状況は同師の判断にかかっている」と語り,これに対しサドル師側は,数百人の民兵で町を固め,抗戦の構えをとった。

同師は,6日,立てこもっていたモスクを出て,近隣のナジャフに移り,声明で改めて米国を非難し,徹底抗戦の姿勢を示した。

(4) こうして,米軍は,イスラム教スンニ派に加えて,シーア派とも武力衝突に突入し,二正面作戦となった。米軍は,圧政者からの解放を掲げて介入しながら,開戦1年後に,本来解放するはずの地元勢力と決定的かつ全面的に対立することになったのである。

シーア派は,イラク戦争で米軍がフセイン体制を打倒したことを歓迎し,戦後も旧体制の復活を恐れて,米占領に協調姿勢をとってきた。しかし,反フセイン=親米ではないし,もともとシーア派はイスラムの伝統重視の傾向が強く,欧米部隊に占領されていることに対する反発はスンニ派の支配地域以上に強かった。これに「ファルージャの流血」が加わり,結果的に「反米」「反占領」でスンニ派と足並みを揃えることになった。

日本政府はシーア派の支配地域であるサマーワを治安の安定した「非戦闘地域」として自衛隊の宿営地に定めたのだった。ところが,今やサマーワ周辺は,米軍・占領軍とシーア派との衝突の真ん中に位置し,自衛隊は宿営地からほとんど出られない状態が続いている(朝日新聞4月8日付朝刊より)。

5 「ファルージャの流血」をめぐるイラク情勢

前述までは,日本における報道に基づいて事実を整理したものである。しかし,事態の経過と本質をより正確に理解するためには,現地に詳しい立場からイラク社会の実情や民衆の心情を含めて具体的に論ぜられる必要がある。この点では,バグダッド大学教授で政治学博士のサアド・ジャワード氏による,4月16日付リポートが詳しいので(訳=山下史/世界no.727),以下に引用する。

「<事態の背景は何か>
(中略)
米軍の占領開始後の最初の衝突は,米軍が住民の感情を一切無視して家屋,女性の捜索を強行しようとしたことから起きた。イスラム教徒は総じて,外国人と家族との接触,とくに女性との接触を嫌う。外国人が女性に話しかけることを嫌い,体にさわるなどもってのほかである。だが占領軍は捜索を強行しようとし,これが対決に発展した(昨年4月28日,米軍が発砲し15名が死亡した)。米軍がファルージャの人々を押さえつけようとすればするほど,住民は戦闘的になった。ファルージャは,米軍補給ルートである幹線高速道路上にあるので,米軍の車両や装甲車攻撃が容易で,抵抗勢力には有利だった。

占領軍がおかしたもう一つの大きな過ちは,バグダッド陥落後,イラク軍のキャンプや兵舎の収容に無関心だったことだ。ファルージャのすぐ近くには,巨大な軍事キャンプがあるので,人々はいとも簡単に軽火器,重火器を手に入れることができた。

ファルージャの人々は,問題を平和的に解決しようと務め,米軍に対して,ファルージャの町への介入をやめ,彼らの家や家族の勝手な捜索をやめるよう申し入れた。占領軍はこれを拒否し,彼らの傲慢な,そしてファルージャの人々にとって屈辱的な政策を実行すると言い張った。米軍はまた,罪状も明らかにせず,宗教指導者や部族指導者を投獄した。このうち何人かは,イスラム教徒にとっては神聖な場所であるモスクのなかで逮捕された。イラクの治安と安定が悪化するに連れ,両者の緊張は高まっていった。イラク国民の支持のまったくない統治評議会の設立やイラク軍の解体も緊張の高まりに拍車をかけた。

こうした一連の過ちの結果,バグダッド周辺のいくつかの地域には,占領に反対する勢力が集結し始めた。ファルージャも,とくに突出していたわけではないが,その地域の一つであった。現在のファルージャには,抵抗勢力の圧倒的多数を構成する土着のイスラム教抵抗勢力に加えて,旧イラク軍のメンバー,若干のアラブ人戦闘員が参加していると思われ,ファルージャのあるイラク人研究者がまとめた統計は示唆的である。それによれば,戦闘による死者の80%は,以前からファルージャに住んでいるイスラム教徒であり,13%が民族主義者,2%が旧バース党員となっている。これらは,現在の攻防勃発以前の数字である。

<殺害された4名の米国人>
ファルージャでの最近の武力衝突の引き金となったのは,(3月末に)4名の米国市民(軍の下請け業者)が残酷に殺され,その遺体が切断された事件であった。ファルージャの宗教者・非宗教者のリーダーはこぞって,この行為を非難したのだが,在イラク連合国暫定当局は,町全体を処罰すると主張した。

この事件とその原因については,矛盾する報告がなされている。ファルージャの抵抗勢力は,そもそもこの4名は,ビジネスマンではなく,「ブラックウォーター」と呼ばれる米国の警備会社のメンバーであり,同社は在イラク連合国暫定当局(CPA)のトップのブレマー氏の護衛も引き受けていたと主張している。彼らはまた,今回の殺害は,ファルージャの人々とその家族に対して行われた残虐行為への報復であると主張した。彼らはまた,25名のファルージャの女性が恣意的に逮捕され,辱めを受け,同時に,何人かの市民がアメリカの戦車にひき殺されたと述べている。さらに,自分たちの仲間の遺体が切断されたとも語っている。他方,これらの行為はよそ者がやったことであり,ファルージャの人々は一切無関係だという人々もいる。

米占領軍は,これらの主張のほとんどを拒否した。米軍の言い分は,ある女性が抵抗運動に参加しているのが目撃されたので,彼女への逮捕命令が出されたのであり,逮捕は,容疑者を拘束するためだったというものである。彼らはまた,米軍の行動は,米軍にかけられた攻撃への報復にすぎないと主張した。

ブレマー氏は,ファルージャの人々の申し立てを拒否し,4名の米国人への攻撃はきわめて周到に計画され実行されたものであるとして報復を誓った。彼は,殺害の責任者を引き渡すよう,ファルージャの人々に最後通牒をつきつけた。ファルージャの人々はこれを拒絶し,住民側の要求を提出した。そのなかには,同市民の殺害に責任のある海兵隊の引き渡しと米軍のファルージャからの撤退が含まれていた。

<モスクまで爆破された>
その結果,大規模で激しい軍事作戦がファルージャにかけられた。まず町を包囲し,町に入るすべての道路を封鎖したうえで,アパッチ・ヘリコプターによる攻撃が始まった。実際,援助物資を運ぶ車すら町には入れなかった。あるテレビでは,米海兵隊員が食料援助物資の袋を取り上げて,土嚢代わりに使っている様子が放映されていた。そしてアメリカ人のスナイパ−が町の周囲の家々の屋根に陣取り,少しでも動きがあったり,家から出ようとしたら,すぐに狙い撃ちしてきた。

ファルージャの人々は,これまでにまして高い戦闘性を発揮した。彼らは壮絶にファルージャの町を守り,少なくとも3機のアパッチ・ヘリを撃墜し,強力な海兵隊の部隊を窮地に追い込んだ。海兵隊は,攻撃をさらにエスレートさせ,F16戦闘爆撃機を参加させて攻撃を強化した。民間人の住む地域も建物も容赦はなかった。町の2つの病院も,モスクも,学校もその他公共の建物も爆撃された。医師や医療スタッフは,別の医療センター(彼らはこれを代用病院と呼んでいた)をつくって人々を助ける以外に方法はなかった。墓地は町の外にあり,包囲している米軍は市民が墓地に行くことを許可しなかったので,町の中央にあるスタジアムを代用墓地として死者を埋葬せねばならなかった。

攻撃開始から数日の間に,この代用病院が記録した死者は600名以上,負傷者はその倍に及んだ。この数に含まれるのは,「病院」に運ばれた人々だけだと医師たちは語っている。この他に「病院」に運ぶこともできず,家の庭に埋められた人々も多くいるという。空と陸からの爆撃で,家族全員が殺されたケースもある。犠牲者の70%以上は子どもと女性であった。25名の家族全員が殺されたケースもあり,より少人数の家族全滅のケースは珍しくない。

ファルージャ攻略の失敗,さらには,同時期,南部の町クーファから若手シーア派聖職者のムクタダ・サドル師が主導して衝突が起き,これが瞬く間にバグダッドをはじめ各地に広がったことで,米当局は窮地に陥った。衛星生放送を通じて流されるファルージャでの虐殺の推移をテレビで見ることのできた全国のイラク人は,海兵隊の残忍な虐殺に恐怖し,嘆き悲しんだ。何の行動もとらず,ただ沈黙しているイラク統治評議会に対しては,非難がいっそう強まった。実際,統治評議会は米軍の片棒をかついでいると非難した人も多い。統治評議会の何人かのメンバーが,6月30日の彼らへの政権移譲の前に,自分たちにとってのあらゆる脅威を排除するために米軍をして強硬手段をとるよう働きかけたというのである。

ファルージャの人々の激烈な戦い(これにより,米軍側の犠牲者も増え,死者約70名,負傷者多数にのぼった)とともに,イラク国内でもまた国際的にも圧力が強まり,米軍は停戦に応じざるをえなくなった。この停戦は今も続いているのだが,数回にわたって違反があり,双方が相手を非難した。ブレマー氏の攻撃中止の発表は,彼が今後一層激しいファルージャ攻撃をもくろんでいると考えざるをえないような内容であった。発表にあたりブレマー氏は,戦闘を中断するのは,町を去る者にその猶予をあたえるためだと語った。彼は,この包囲された町には,人も,人道支援も,医療品も一切入れないと主張した。

ファルージャの抵抗は,再びその戦闘性を高めた。人々は,子どもと女性を町の外に出し,自らは町の中にとどまって,死ぬまで,そして町の包囲が解かれるまで戦うことを誓った。彼らはまた,戦闘中止に条件をつけた。彼らは破壊された町の再建と市民への損害賠償を要求した。
これが今現在のファルージャの状況である。」

6 相次ぐイラクからの撤退

上記のような泥沼化するイラク情勢とテロ攻撃を受け,下記のとおり,各国はイラクからの撤退を進めている。
[5月5日付平和新聞より,情報は4月26日現在]
〈主な派遣国の態度〉
(○は撤退もしくは撤退開始,△は撤退を決定もしくは示唆,●は続行)
● スペイン1400人4月19日撤退開始
● ホンジュラス368人6月中の撤退を決定
● ドミニカ300人早期撤退を表明
● シンガポール200人撤退を完了
● ニカラグア115人撤退を完了
● ニュージーランド61人首相が9月撤退を表明
● ポルトガル2400人状況により撤退も
● ポーランド2400人新首相が表明する予定
● ウクライナ2000人戦闘には参加しない意向
● タイ473人繰り上げ撤退の方針
● ブルガリア470人米軍主導なら撤退も
● フィリピン270人状況により撤退も
● ノルウェー150人外相が撤退を示唆
● アメリカ135000人なお増派を検討
● イギリス9000人
● イタリア2600人
● オランダ1100人
● オーストラリア870人最大野党は早期撤退を主張
● 韓国600人増派を決定
● 日本550人撤退考慮せず
(日本はサマーワ駐留の陸自のみ算入,空自,海自を加えると千数百人規模=情報は4月26日現在)

さらに,このあと,フィリピンのアロヨ政権は,本年7月19日にイラク駐留部隊を完全撤退させることを決めた。これは,イラク中部ファルージャで民間人が拉致された事件をきっかけに,人質救出を対米追随に優先した結果である。

また,ニュージーランド政府は9月16日,人道支援活動のためイラク南部のバスラに展開していた自国軍の61人全員が月内に撤退すると発表した。同国は2003年9月,半年間の予定で部隊を派遣,今年3月に半年間延長し,水道施設の整備や警察署の建設などにあたってきた。しかし最近の治安悪化を受け,ここ1か月以上は宿営地にとどまっており,具体的な活動には携わっていなかった。

さらに,タイは,8月27日,イラクに派遣していた同国軍兵士451人を撤退させた。タイ政府は昨年9月の派兵開始の際,「暫定政府が成立するまでの約1年間」という派兵期限を定めていた。タイ政府は今後,航空機を使っての医療物資の輸送などの人道支援を検討する。

また,コスタリカ最高裁の憲法法廷は8日,米英など多国籍軍によるイラク戦争を政府が支持するのは,常備軍を禁じ戦争を放棄する同国の49年憲法に違反するとの決定を7判事の全会一致で下した。これを受け,同国のトバル外相は9日,米政府に対し,現在49カ国で構成される「有志連合」からコスタリカを外すよう要請した。

このように圧倒的に多くの国が当初の派兵方針を変更し,撤退ないし撤退決定を行なっているのである。

7 日本人人質事件の発生と問題の本質

(1) 日本人人質事件の発生
米軍の攻撃,とりわけファルージャ掃討作戦に対する抵抗として,外国の民間人を標的とする人質事件が頻発した。その多くが,米軍を厳しく非難し,占領軍の撤退を求めるものであり,無差別に攻撃し殺害するというものではなかった。(朝日新聞4月18日朝刊)

日本人も7日,3人(フリーライター今井紀明氏,フリーカメラマン郡山総一郎氏,ボランティア高遠菜穂子さん)が,アンマンからバグダッドに向かう途中で誘拐され,15日に解放された。

米軍のファルージャ掃討作戦に対する抵抗であり,自衛隊派遣を米軍・占領軍と同視していることが,犯人らの声明文から明らかだった。

<4月8日犯行時の声明文(要旨)>
日本の友人たちへ。日本の国民はイラク国民の友人だ。我々,イスラム教のイラク国民は,あなたたちと友好関係にあり,尊敬もしている。しかし,あなたたちにはこの友好関係に対し,敵意を返してきた。

米軍は我々の土地に侵略したり,子どもを殺したり,いろいろとひどいことをしているのに,あなたたちはその米軍に協力した。

今,あなたたちの国民3人は,我々の手の中にいる。そして,あなたがたは二者択一をしなければならない。自衛隊が我々の国から撤退するか,それとも彼ら(3人)を殺害するかだ。

ファルージャでやった以上のことを3人にもやるだろう。
このビデオを放映してから要求を実行するために3日間の時間を与える。

<4月15日解放時の声明文(要旨)>
日本人と世界の人々へ。日本の市民が行ったデモと,神をたたえたことを評価する。(イラクに駐留する自衛隊の)部隊の撤退を強く求め,とどまることを主張し続ける日本政府の政策を拒否するという道義的な立場に立つ日本人に共感する。我々は,人質3人の解放を決断した。これを機に,日本人が政府に対し,その部隊の撤退とともに,イラクへの敵対行為に加担している残りの(外国軍の)部隊も立ち去るよう,圧力をかけることを呼びかける。

(2) 日本政府の対応の誤り
解放に至る過程で,日本政府は幾つもの過ちを犯した。要所要所で見事に事態の本質をはずし,よく裏目に出なかったものだと安堵したというのが,率直な思いである。
以下には,政府の対応あるいは国民に対する説明の中で,法的な観点から看過できない問題点を指摘する。なぜならば,人質となった国民の解放が広汎な外交権限を有する政府の政治的判断事項であるにせよ,法治国家である以上,当然に国際法や国内法に則って対処されなければならないからである。

 政府が,直ちに「自衛隊撤退はありえない」と断言したこと
政府は,自衛隊の撤退を求めた犯人の要求に対して,人質の状況や情勢の見定めも出来ていないうちから「自衛隊撤退はありえない」と断言した。自衛隊を撤退させるか否かの二者択一しかなく,撤退したら人道復興支援はできなくなるという論旨である。
しかし,イラク特措法が定める活動内容(3条)は,人道復興支援と安全確保支援の2つであり,その実施主体は,自衛隊とイラク復興支援職員の二つの系統に分けられる。後者の活動は専ら自衛隊が行うことを想定しているものの,前者の活動は自衛隊が唯一でもなければ,第一義的でもない。現在までイラク復興支援職員による人道復支援活動の実績が全くないのは,自衛隊に偏重した政府の政策の故であって,法本来の趣旨ではない。

しかも,仮に自衛隊の活動を前提にしたとしても,自衛隊の対応については,「一時休止」や「避難」「中断」といった柔軟な対処方法が明記されている(同法第8条)。
「防衛庁長官は,実施区域の全部又は一部がこの法律又は基本計画に定められた要件を満たさないものとなった場合には,速やかに,その指定を変更し,又はそこで実施されている活動の中断を命じなければならない。」(4項)

「・・・当該活動を実施している場所の近傍において,戦闘行為が行われるに至った場合又は付近の状況等に照らして戦闘行為が行われることが予測される場合には,当該活動の実施を一時休止し又は避難するなどして当該戦闘行為による危険を回避しつつ,前項の規定による措置をとるものとする。」(5項)

現に,当時のサマーワの部隊は,自衛隊を狙った迫撃砲攻撃が,事実上宿営地内に避難し,任務を一時休止していた。

従って,自衛隊を撤退させるか否かの二者択一しかなく,撤退したら人道復興支援は出来なくなるかのように言う政府の対応は,法解釈を歪め,国民世論を誤導するものである。

ところで,政府が「自衛隊撤退はありえない」とした理由は,「いま撤退したら国際社会の笑い者になり,信用を失う」「テロに屈しない」というものだった。

しかし,イラク情勢の悪化の下で,軍隊派遣各国は,4月以降相次いで撤退を決定し,あるいはその検討を開始している。日本は,いつからこれらの国を「笑い者」にし,「信用しない」傲慢な国になったのだろうか。アメリカでさえ,「ソマリアの悪夢」の時には撤退したというのに。

 小泉首相が,当初から犯人たちを「テロリスト」と呼んだこと
これが,犯人をひどく刺激し,当初約束した期限での解放が遅れた原因の一つだとされる(イスラム聖職者協会のメンバーの発言)。

文民(戦闘に加わっていない民間人)を人質に取ることは,国際法で明確に禁止され(ジュネーブ条約第4条約34条),卑劣で非人道的な行為とされている。しかし,文民に対する攻撃をひとくくりにテロと呼ぶならば,自国政府あるいは他国政府が文民を攻撃することもテロ行為であり,それは「国家テロ」あるいは「国家的テロ」と呼ばれることがある。犯人たちは,ファルージャ掃討作戦など米軍の行為‐町に通じる道路を全て封鎖し,陸と空の両方から爆撃。それにより犠牲者の70%以上が女性と子どもだったという‐をいわば国家テロだとし,あらゆる手段を駆使して抵抗していたと考えることができる。

国際法上,無防備の都市に対しては,無差別の砲爆撃は禁止され,軍事目標に対する攻撃のみが許される(軍事目標主義/ハーグ陸戦規則25条,ジュネーブ条約第1議定書52条条以下など)。また,正規兵と不正規兵の区別はなされておらず,組織された武装の軍隊,集団及び団体等を一括して,同一の要件で捕虜資格を認めている(ジュネーブ第3条約)。民兵隊とか義勇隊,群民兵,組織的抵抗運動団体といった概念が,そうである。

かようなイラク情勢と国際法の理解を前提にしたとき,少なくともわが国が非交戦国(中立国)の地位を保持しようとするならば,犯人たちをいきなり「テロリスト」と呼ぶことはないし,あってはならないことである。もしアメリカに交戦法規違反が認められるならば,それを厳しく批判し,是正させることこそ最も大事な「人道的活動」である。

これは,イラク特措法とも直結する。なぜならば,日本が自衛隊を派遣するのは,人道復興支援によってイラクと平和友好関係を築くためであって,米国と同じ立場に立ち「敵」として征伐することではないからである。

 川口外相が自衛隊も人質3人と同じ目的だと言ったこと
4月10日収録とされる川口外相による犯人たちへのビデオメッセージは,人質にされた3人がイラクの人々を思い,その支援のためにイラクに行ったのだと訴えた。しかし,それに続けて,自衛隊も同じ目的のために派遣されたのだとする旨が加えられていた。

解放時の犯人たちの声明文及びイスラム聖職者協会の説明によれば,3人が自衛隊と立場が違うことが確認されたことが決定的だったことがわかる。

川口外相のメッセージは,国連をはじめとする国際社会が築き上げてきた人道支援の基本理念と,国際的に確立されてきた活動原則に対して無理解であり,自衛隊派遣による「人道復興支援」なるものの欺瞞性を浮かび上がらせることとなった。

8 さらなる人質事件

4月14日午前11時ごろ,武装勢力の取材のためバグダッド西方に向かっていた渡辺修孝氏と安田純平氏が,バグダッドの西約20キロのアブグレイブ地区で武装グループに拉致されるという事件が起きた。

渡辺氏らは,ファルージャ近郊において,米軍の攻撃でイラク人が大勢死傷している状況をリポートするために取材に赴き,その際,乗用車から降りてきた5人の男に「墜落した米軍ヘリがあるから見に行かないか」と持ちかけられ,同行後15人くらいの武装グループに拘束された。その後,17日午前11時ころ,2人は拘束から3日ぶりに解放された。

当初,渡辺氏らは,武装勢力から戦闘地域に入ってきたスパイであると疑われており「お前はアメリカと一緒に働いているのか。それなら殺す」と銃を突きつけられながら脅され,また「お前を殺した場合に日本の首相は責任をとるか」とも聞かれたという。当時の様子について,安田氏は「私は銃を持っていなかったので助かった。殺害された人質はみな銃を持っていたようだ」と語っている。

身柄拘束されたことについて,渡辺氏は,「イラクの人々のためにやってきていても,自衛隊を派遣しているだけで同じ日本人とみられ,こういう目に遭うのは複雑な気持ちだ」と話している。

このように自衛隊のイラク派兵によって,日本人というだけで多くの民間人が命を狙われる事態が発生しているのである。

9 日本人ジャーナリスト2人死亡

激しい戦闘が続くイラクで,再び日本人が襲われた。フリージャーナリストの橋田信介氏と甥の小川功太郎氏が乗っていた4人乗りの車両が,5月27日夕方(現地時間),バグダッド南方約30キロのマフムーディーヤ付近の国道を走行中に銃撃され,炎上。日本人2人とイラク人通訳1人が死亡した。遂に,最悪の事態が来てしまった。

今回の事件は,4月に起きた日本人5人の人質事件と異なり,日本人を標的にし,初めから殺害を目的としたものである。米軍・占領軍との組織的衝突に加え,無差別テロも拡大していることがはっきりと窺える。

新聞報道によれば,日本大使館が事件の連絡を受けたのが27日午後8時半頃で,2人の遺体を病院が確認したのが28日午前10時頃で,13時間以上を要したという。それは,病院には,夜明けを待って,大使館と契約している民間警備会社の小銃などを携行するイラク人警備員を同行したからだという。「丸腰の日本人の外交官がうかつに近づけば,新たな事件に巻き込まれかねない」(外務省幹部)からだという。
イラク全土が戦争状態にあり,外交官もジャーナリストもまともに活動できない劣悪な治安状況にあることは,かかる経緯一つ見ても明らになっている。

10 自衛隊の活動と宿営地サマーワの情勢悪化

イラクの全体的な情勢については,前述したとおりであるので,以下には,自宿営地のあるサマーワの情勢及び自衛隊に対する武力攻撃などの推移について整理しておく。
イラク全土の情勢悪化のために,サマーワからは,新聞社・通信社などのスタッフが避難し,現在はほとんどいない状態である。このような中で,現地の情勢判断や活動方針を誰がどのように決定し,チェックしているのだろうか。自衛隊に対するシビリアンコントロールが働かない状態にあることが懸念される。また,自衛隊の活動内容や現地の情勢が正しく伝えられているのか危惧される。

1)3月27日,陸自第2師団(旭川市)を中心とするイラク派遣約530人のサマーワ展開が完了。宿営地防御や宿営地以外に出る復興支援任務隊を守る警備専門職員が全体の3割を占め,戦闘技術を身につけたレンジャ−課程修了者を大量に配置した。隊員に一時のためらいが出る可能性があるとして,上司は武器使用を命ずるだけでなく,使用の場合も率先することを明言(北海道新聞3月26日付朝刊)。

2)3月27日,サマーワの約100キロ南の路上で,イラクの民間業者のトレーラー3台が,何者かに爆撃され,イラク人1人が死亡,1人が負傷した。トレーラーは計34台で走行し,クウェートからサマーワまで陸上自衛隊の宿営地の周囲に設置するコンクリート壁を輸送していた。

3)4月3日ころ? サマーワ周辺で自衛隊の移動中,地元住民数人から駐留に抗議する投石を受けた。陸上自衛隊は,防衛庁に報告を挙げていなかったという(7日に,数日前のこととして報道)。

4)4月4日,政府は,イラクの治安悪化を受けて,サマーワでの陸上自衛隊の宿営地外での支援活動を当面休止することを決めた。

5)4月5日,サマーワの部族長らが会合を開き,市内で強硬派が「暴徒化」するのを食い止めるよう住民に求めた。警察当局は,検問を強化。陸上自衛隊は,宿営地周辺の警戒態勢を強めた。

6)4月6日,サドル師支持者を代表するカディム・アルワディ師が「いつまでも沈黙するわけにはいかない」と,7日にもサマーワで「占領軍」の撤退と主権の早期委譲を求めるデモを行うことを明らかにした(4月7日朝日新聞朝刊稲田信司記者報告)。

7)4月7日午後11時13分ころ,追撃砲によると見られる砲弾が3発撃たれ,陸自宿営地の北側数百メートルの地点に2発着弾,爆発した。直径約30センチ,深さ約10センチの穴が空いた。

宿営している約550名の隊員は,無事を確認した後,テントから出て,退避壕や装輪装甲車などに避難した。

8)4月8日,派遣部隊は,未明から宿営地周辺を車輌で巡回するなど,これまで実施していなかった警戒活動を開始。サマーワの治安を担当するオランダ軍も,その外側地域の警戒に入った。未明にオランダ軍宿営地周辺でも破裂音があったとの未確認情報もあり,陸上自衛隊部隊とオランダ軍を狙った連続テロとの見方も出ている。

9)4月8日,外務省,「今後も日本人や日本の関連施設がテロの標的となる可能性がある」として,イラクへの渡航を見合わせ,イラク滞在者には直ちに退避するよう改めて呼びかける渡航情報を出した。

10)4月8日,航空自衛隊トップの津曲義光航空幕僚長が,クウェートで記者会見を行う。C130輸送機によるクウェート・イラク間の米兵や連合軍関係者の輸送を実施していたことを初めて明らかにした。
輸送した米兵が小銃など軽火気類を携行していたことも認めた。

11)4月8日,午後10時,CPA事務所の建物から200メートルほど離れた駐車場付近に,小型ロケット弾が撃ち込まれた。陸自宿営地から4〜5キロ離れた場所で,爆発音は5回。
陸自宿営地でも爆発音2回と断続的な銃声が聞こえた。

12)4月9日,陸自宿営地に,サマーワ市街地の東側に追撃砲が設置されているとの通報がオランダ軍経由であり,派遣部隊は午後4時過ぎに警報を出し,約530人の隊員と宿営地に避難中の邦人記者ら約20人を待避壕などに避難させた。オランダ軍が捜索したが見つからず,40分後に警報を解除した。

13)4月9日,イスラム教シーア派サドル師の支持者ら約300人が,サマーワに駐屯するオランダ軍へ撤退などを求めデモを行った。

14)4月10日,サマーワに駐留するオランダ軍が,宿営地近くで武器を積んだ車に乗っていた4人を拘束したと発表した。4人の国籍は不明。車からは,追撃砲5門と手投げ弾5個などが見つかった。

15)4月12日,元米陸軍軍医のアサフ・ドラコビッチ博士が,東京の市民集会で報告。昨年4月から8月にかけ,オランダ軍に引き継ぐまでサマーワで警備任務などに就いていた軍曹(37)ら9人が,慢性的な頭痛,吐き気,腎不全,免疫障害などに悩まされ,同博士が設立したウラニウム医療研究センター(UMRC)に相談。
昨年12月に9人から採尿して分析した結果,9人中7人から自然界では存在しないウラン236が,うち4人から他の劣化ウランの同位体が検出されたという。

16)4月13日,陸上自衛隊は,4日から中断していた宿営地外での活動を9日ぶりに再開することを決めた。

17)4月14日外務省,イラクで取材活動をしている日本の報道各社に,記者を直ちにイラクから退避させるよう「改めて強く勧告する」とした文書を発表した。

18)4月14日,同日午前,外国人の駐留に反対するデモがあった。主催者は,サマーワ工科専門学校と教育大学の学生約200名。「オランダ軍と自衛隊に告ぐ。占領軍の犯罪行為は(イラク)市民への敵対行為だ」などと書いたビラを配りながら,市内約4キロを行進した。サマーワでのデモが自衛隊に言及したのは初めて。

19)4月15日,政府は,サマーワで陸上自衛隊派遣部隊の取材にあたっていた邦人記者を国外に退避させるため,クウェートで活動中の空自のC130輸送機をイラク南部タリル飛行場に派遣。報道関係者10人をクウェートまで空輸した。サマーワから同飛行場までは,陸上自衛隊部隊が輸送と護衛にあたった。自衛隊が,自衛隊法に基づく邦人輸送をしたのは初めて。

20)4月15日,イラク国内の戦況や,治安の悪化を受け,日本国際ボランティアセンターは15日,バグダットに駐留させていた日本人スタッフを隣国のヨルダン・アンマンに一時退避させることを決めた。紛争地や災害地に医師・看護師を派遣しているフランスの「メドゥサン・デュ・モンド」(世界の医療団)も同日までに,イラクに派遣していたスペインとフランスの支援チームが国外に退去,残るギリシャチームの医師も近く退去する。

21)4月17日,サマーワで,オランダ軍とイラク人グループの間で銃撃戦があり,イラク人1人が負傷した(オランダ国防省発表)。

22)4月20日,月2回程度発行されるサマーワの地元紙「アル・サマーワ」の同日付紙面が,3月29日から4月7日にかけて,18歳以上の男女2000人を対象に聞き取り調査をした結果を公表した。
それによると,陸上自衛隊駐留については,「支持」49%,「不支持」47%,「日本部隊(陸上自衛隊)の派遣はサマーワの利益になるか」については,「いいえ」が51%,「はい」は43%だった。1月の調査では,派遣に賛成が90%を超えていたが,実際に駐留が始まり,半数以下となった。

23)4月20日午前3時ころ,陸自宿営地の南東約7キロにあるオランダ軍宿営地に追撃弾らしきものが撃ち込まれた。オランダ軍側から連絡を受けた陸自派遣部隊は,隊員を宿営地内の金属製コンテナ内などへ退避させた。

24)4月20日,サマーワの警察当局によると,午前2時半頃,サマーワのCPA事務所付近に追撃弾3発が撃ち込まれた。

25)4月25日午前3時15分ころ,サマーワのオランダ軍宿営地近くに,追撃弾3発が着弾した。

26)4月25日午後10時ころ,サマーワの東約30キロの検問所で,停止命令を無視して進もうとした自動車に向けて,オランダ軍の兵士が発砲,車の中にいた7人の男性のうち,1人が死亡した。

27)4月29日午前2時ころ,陸自宿営地近くに,追撃弾2発が着弾した。施設に被害はなかったが,隊員らは宿営地内の壕やコンテナなどに一時退避した。

28)4月30日午前2時30分ころ,オランダ軍宿営地に,追撃弾3発が打ち込まれ,2発は宿営地の敷地内で爆発した。けが人は無かったが,車1台が損傷した。

29)5月10日,警備中のオランダ軍兵士4人に対して,バイクから手投げ弾を投げつける攻撃があり,兵士1人が死亡,1人が重症を負った。
シーア派最高権威シスターニ師のサマーワでの代理人を務めるアルメヤリ師は,6日夕の礼拝時の説教で「悪い行いを改めよ」と呼びかけた。「悪い行い」とは,オランダ軍部隊が市内の女子高生の前で止まって女性をじろじろ見たり,市場を巡回して人々を監視したりするような行為だとし,「改めねばデモをかける」と警告した。

30)5月14日夕方,サドル師支持の民兵組織マフディ軍が市中心部のサドル派事務所に集合,15日にオランダ軍が包囲。銃撃戦の末に事務所から同軍団を排除した。その後もイラク警察に銃撃して交戦となり,軍団側1人が死亡,警察2人も負傷した。軍団は小型ロケット砲も使い,中心部では爆発音が響きわたっていた。
イラク戦争後,初めてのこと。

31)5月18日午後9時30分ころ,警察筋の情報として,自衛隊宿営地の西方約500メートルの道路で対戦車地雷が発見され,イラク保安部隊の爆弾処理班が除去した。地雷は,新しく埋設されたものらしく,現場は自衛隊やオランダ軍のパトロール車も通過する道路で,その車輌を狙った可能性もあるという。

32)5月20日午前,サマーワから約100キロ南方のタリル飛行場付近に,砲弾が着弾した。追撃弾数発が打ち込まれたが,滑走路などの施設に大きな損傷は出ていないという。クウェートに派遣された航空自衛隊のC130輸送機が,物資や陸上自衛隊員の輸送に使っている。

33)5月27日午前2時すぎ,サマーワで,迫撃砲弾による3回の爆発音があった。爆発音は陸自派遣部隊の隊員も確認した。宿営地から約7キロ北方の市街地の方向で爆発があったとみられる。暫定占領当局(CPA)事務所や警察署などからほぼ500メートル離れた場所で,2発の着弾が確認されており,CPAか警察署を狙った攻撃とみて捜査を進めている。この攻撃で住民1人が足を負傷した。迫撃砲弾は,着弾地点から1キロ離れた住宅街から発射された可能性が高い。

34)5月31日午前9時半ころ,サマーワ南部の国道8号沿いに止まっていた韓国製の小型バスが爆発した。近くにいた男性が,爆発で割れたガラスで負傷し病院に運ばれた。爆発は米軍車両十数台が通過した直後で,米軍を狙った可能性がある。サマーワで宿営する陸上自衛隊の車列も,爆発から十数分後にこの地点を通過した。
オランダ軍などが爆発現場を封鎖,TNT火薬約30キロが見つかり,うち7キロ分が爆発していなかったという。

35)7月5日午前8時すぎ,サマーワ中心から北約4キロの地点で,道路に仕掛けられた爆弾が爆発,近くにいたイラク人1人が負傷した。米軍輸送車両が通過した直後に爆発したといい,武装勢力による反米テロの可能性がある。自衛隊宿営地からは約10キロの地点。

36)7月17日,サマーワを県都とするムサンナ県のアハメド・マルゾク県評議会議長は,日本外務省サマーワ事務所側との会談で,陸自を含む日本側の支援が,県側の当初の期待をはるかに下回っていると述べ,失望感を表明した。

37)7月20日,フィリピン人を人質にしていた武装組織「ハリド・ビン・アルワリド旅団」が,インターネットのイスラム系アラビア語サイトで「日本政府もフィリピンと同様の措置をとれ」と自衛隊の撤退を求めた。

38)8月3日,サマーワで活動するフランスの非政府組織(NGO)「ACTED」のイラク人メンバー4人が殺害された。このNGOは昨年5月からサマーワで活動。多国籍軍が資金援助する疾病予防のプロジェクトなどを進めていた。

39)8月4日,サマーワの郊外で,駐留オランダ軍の宿営地キャンプ・スミッティに向けられたロケット弾と発射装置が発見された。ロケット弾は発射準備が完了していた。宿営地を標的にした攻撃直前だったとみられ,情報はオランダ軍当局にも伝えられた。

40)8月7日未明,サマーワ近郊のヒドルで,オランダ軍宿営地から約2キロの幹線道路沿いなどに迫撃弾が着弾した。宿営地を狙ったとみられ,負傷者はなかった。ムサンナ県警察当局者によると,オランダ軍宿営地の北側にある畑の中から発射された。

41)8月10日,サマーワの陸上自衛隊宿営地付近で爆発音がした事件で,陸自隊員が現場捜索した結果,迫撃砲弾の着弾点が3カ所見つかった。また,尾翼の部分や破片も多数発見された。同宿営地を狙ったものとされる砲撃事件は4月の2回に続いて3度目だが,「今回の着弾点が最も近い」(政府筋)という。防衛庁によると,今回の発射地点はほぼ特定され,着弾点3カ所はさほど離れていないという。

42)8月14日,オランダ国防省によると,サマーワ近郊で,オランダ軍の車両が銃撃を受け,兵士1人が死亡,5人が負傷した。

43)8月21日午後11時35分ころ,サマーワの陸上自衛隊宿営地付近に,砲弾1発が着弾した。着弾地点は宿営地から約2キロ南方とみられる。宿営地の北方から発射された砲弾が,宿営地付近の上空を通過し,南方に着弾するのを派遣部隊の隊員が目撃したという。陸自宿営地を狙った攻撃と見られる。
サマーワでは,陸自宿営地を狙ったとみられる迫撃砲による攻撃が3件発生しているが,今回はこれまでで最も近い場所から発射されたとみられるという。

44)8月23日午前1時40分ころ,サマーワの陸上自衛隊宿営地付近で,数回の爆発音がした。宿営地から北西に数百メートル離れた場所に砲弾が着弾したとみられる。

45)8月24日午前3時10分ころ,サマーワの陸上自衛隊宿営地付近で爆発音がした。宿営地の北数キロの地点に砲弾1発が着弾したとみられる。

46)8月25日,3日続けて陸上自衛隊を狙ったとみられるロケット弾などによる攻撃があったことについて,ムサンナ州知事や州警察本部長らが,謝罪のために陸自宿営地を訪れた。

47) 9月7日夜,在イラク日本大使館の公用車を運んでいたトラックが,バクダッド南20キロ(橋田,小川両ジャーナリストが襲われた付近)で武装集団に襲撃され公用車を強奪された。外務省サマーワ事務所で使用していた防弾車のトヨタ四輪駆動車を整備修理のためバクダッドへ搬送中であった。

48)9月11日午後9時ころ,サマーワで,中心部の商店街をパトロール中のオランダ軍の車両に何者かが手りゅう弾を投げ付け逃走した。手りゅう弾は車内に投げ込まれたが爆発せず,同軍兵士に被害はなかった。

11 アブグレイブ刑務所におけるイラク人虐待
(1)
米軍は,アブグレイブ刑務所におけるイラク人虐待について,今年1月の内部告発に基づいて内部調査を行い,3月に兵士6名を起訴していた。これを4月28日,米CBSが同報告中の証拠写真を放映し,同じ写真が30日,英BBCやアルジャジーラ,アルアラビアでも流れ,アラブ連盟は同日直ちに「人権侵害の野蛮な行為」と避難した。
アブグレイブ刑務所は,バグダッド中心部から西約30キロに1960年代後半に建設された。旧フセイン時代には,情報期間の管理下で拷問や処刑が行なわれ国民におそれられたもので,米軍・占領軍の占領後は,犯罪者や武装勢力メンバーなど約8千人がイラク各地の施設に収容されていた。その大多数がアブグレイブ刑務所にいると言われている。

以下には,米軍の調査報告書に関する米ニューヨーカー(電子版)の記事の要旨を掲載する(5月3日付朝日新聞朝刊に掲載)。
アブグレイブ刑務所は,犯罪者ら数千人を収容。昨年6月から,陸軍のカーピンスキー予備役准将が責任者になったが,刑務所の管理経験はなかった。今年1月,准将は停職処分となり,駐留米軍のサンチェス司令官の了解を得て調査が行われた。2月下旬に53頁の内部調査報告書をまとめ,刑務所システムの欠陥は重大であると結論した。昨年10月から12月の間に「サディスト的で露骨,不当な犯罪的虐待」が集中。こうした組織的な虐待は,第372憲兵中隊の兵士と米情報機関関係者らが行っていたという。

報告書には,リンを含む液体をかけた,裸にして冷水を浴びせた,ほうきの柄やいすで殴打した,レイプするぞと脅した,ほうきの柄などで性的暴行を加えた,軍用犬を使って脅し,実際に噛みついた例もあったなどと虐待内容が記されている。虐待には,目撃証言や写真などの証拠があり,一部の写真は米BBCテレビで放送された。虐待に関与したとされる兵士6人は訴追され,もう1人は妊娠のため,米国内に移動となった。写真には,頭から袋をかぶせられた裸のイラク人の性器を女性兵士が指さしているものや,裸のイラク人7人でつくった人間ピラミッドのそばで女性兵士が笑っているものなどがあった。

同中隊による虐待は,日常的に行われ,自慰行為をさせている場面を目撃したという証言もある。同中隊は,03年春にイラク入りし,交通などを担当。10月から同刑務所を受け持った。だが,兵士らは,この任務の教育訓練を受けなかったという。ある兵士は,家族にあてた電子メールの中で,「トイレや水道,窓もない独房に裸で押し込め,3日間放置するよう軍の情報担当者に指示された」「いい結果や情報が得られ『よくやった』と称賛された」と記述。米中央情報局(CIA)など情報機関関係者らの関与に触れている。CIA関係者らの尋問がもとで死亡したイラク人もいるという。別の兵士は,調査に対し,情報担当者らが「楽にさせてやれ」「いやな夜にしてやれ」「ちゃんともてなしてやれ」と虐待するよう示唆したと話し,「彼らが虐待を認めていると思った」という。報告書では,情報担当者らが「尋問にふさわしいように(イラク人の)体力や精神状態を整えるよう積極的に要請した」と断定。情報部隊の大佐や中佐ら4人について,「虐待に直接的,間接的な責任がある疑い」を指摘している。

同刑務所には問題が数多くあり,改善命令が出されていた。だが,カーピンスキー准将のもとでは,十分に実行されなかった。

(2) 上記アブグレイブ刑務所での虐待問題については,赤十字国際委員会(ICRC)が昨年10月から,戦争捕虜の待遇を定めたジュネーブ条約に違反するとして虐待を中止するよう要求してきたが,何の変化もなかったという。

この問題は,米軍の戦争遂行,占領政策の合法性に関わる重大な問題であると同時に,「人道支援」を標榜する日本が,このような非人道的行為を行なっている米軍・占領軍に対して如何なる態度を取るべきかが問われる。

12 小括

これまで見てきたとおり,イラクでは,全土がいまだに戦闘状態であり,自衛隊の駐屯しているサマーワもまた例外ではない。自衛隊の活動は現地の市民に受け入れられていないばかりか自衛隊を狙った攻撃も繰り返し行なわれている。日本人を狙った人質事件とその声明文に端的に示されているとおり,日本の自衛隊は,イラクにおいては米軍と一体となってイラクを占領する軍隊であるとみなされている。各国が撤退ないし撤退準備を進める中,日本政府は米軍と同様,占領政策を省みることを知らない。
イラクには,もはやどこにも「非戦闘地域」(イラク特措法2条3項)は存しないのである。

第2章 イラク戦争,イラク占領の国際法上の違法性

第1 米英軍のイラク攻撃

1 イラク攻撃の実行
2003年3月20日未明,米英軍はイラクに対する爆撃を開始し,イラク戦争が始まった。米国のブッシュ大統領は,米軍の最高司令官として,米国陸海空軍,海兵隊に対し,イラクに対する武力攻撃を指示し,主要都市への空爆,攻略,イラク軍との戦闘などによる戦争を遂行させた。

英国のブレア首相も,19日,緊急閣議でイラクに武力行使を加えることを決定し,3月20日,英国軍に対して米軍と共にイラクに対する武力攻撃をするように指示し,ブッシュ大統領と同様に戦争を遂行させた。

3月30日,米英軍はバスラ,バグダッドを連日空爆した。米英軍の空爆により,罪もないイラクの人々1万人が犠牲になった。市民生活は破壊され,幸せな家庭は崩壊し,イラクの首都バグダットでは,親を失った子供たち,子供を失った親たちの嘆きがあちこちで聞かれた。

4月7日に,米英軍の地上軍はバグダッドに突入し,同月9日,米英軍はついにバグダッドを制圧し,フセイン政権を崩壊させた。それから,今日に至るまで,途中で多国籍軍との呼称への変化があったが,米英軍による事実上のイラク占領が続いている。

2 戦争違法化の歴史と武力攻撃が認められる国際法上の例外
中世・近世ヨーロッパでは,戦争は正当な理由がある場合に限り許されるという正戦論が採られてきた。しかし,三十年戦争終了後,近代主権国家が成立しキリスト教会の権威が衰退すると,戦争の正・不正の判断が不可能となり無差別戦争観が採られるようになった。

そこでは,戦争原因の違法性が問題とされず戦争が合法化された反面,戦争手段についての法的規制=戦争法は交戦国双方に平等に適用されなければなれないとされて発展した。

しかし,総力戦だった第1次世界大戦はかつてない惨禍を生じ,世界の人々は,それまでの戦争手段についての規制だけでは足りない,戦争自体を違法として規制しなければ,と考えるようになった。

そこで,1919年の国際連盟規約は,全ての国際紛争を裁判や理事会の審査に付することを連盟国に義務づけ,1928年のパリ不戦条約第1条は,「国家間の紛争の解決のために戦争に訴えることを非とし,かつ彼ら相互間の関係において,国家政策の手段としての戦争を放棄する」と宣言した。それが第2次世界大戦の痛苦の体験を経て国連憲章に結実したのである。

1945年,国際連合憲章は,以下のように規定し,武力行使を違法として禁じた。
前文:我ら連合国の人民は,我らの一生のうちに2度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い,・・・・国際の平和および安全を維持するために我らの力を合わせ・・・ることを決意し・・・我らの努力を結集することを決定した。

第1条【目的】
1 国際の平和および安全を維持すること。そのために,平和に対する脅威の防止および除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争または事態の調整または解決を平和的手段によってかつ正義および国際法の原則に従って実現すること。
第2条【原則】
4 全ての加盟国は,その国際関係において,武力による威嚇または武力の行使を,いかなる国の領土保全または政治的独立に対するものも,また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
上記国際連合憲章は,国際連合の目的のひとつに平和に対する脅威の防止と除去をあげているが,その手段は,平和的であることと正義および国際法の原則に従うこととしている(第1条第1項,第2条第3項など)。また,加盟国の主権の平等を行動原則とし(第2条第1項),いかなる国の政治的独立に対する武力による威嚇または武力の行使を禁止している(第2条第4項)。
例外的に,軍事的措置が認められるのは,安全保障理事会が平和と安全の維持または回復のために,非軍事的措置だけでは不十分と認めた場合(第42条)と国連加盟国に対する武力攻撃が発生した場合の個別的または集団的な自衛権の行使(第51条)だけである。

3 イラク攻撃は国連憲章上認められるか

(1) イラク攻撃の理由とその変遷
それでは,米英軍によるイラク攻撃は,上記国連憲章に照らして認められるものであったのだろうか。

 対テロ戦争という理由
まず,ブッシュ大統領は,イラク戦争を正当化する理由として「対テロ戦争」を掲げた。米国は,2001年の9・11事件後,「対テロ戦争」を行うと称してアフガニスタンを攻撃したが,その対象はアフガニスタンにとどまらなかった。「この戦争は,世界に手を広げる全てのテロ集団が発見され,阻止され,そしてうち負かされるまで続くであろう」と公言していた(2001年9月20日両院合同会議でのブッシュ大統領の演説)。

 大量破壊兵器保持という理由
そのあと,2002年1月29日の一般教書演説で,ブッシュ大統領はイラクなどを「大量破壊兵器を保持し,世界に脅威を与える『悪の枢軸』である」と非難して,対テロ戦争の対象としてイラクを名指しするとともに,大量破壊兵器保持を攻撃の理由に加えた。
2002年9月,米国は国家安全保障戦略(いわゆる「ブッシュ・ドクトリン」)を発表し「米国は,グローバル規模のテロリストと戦っている」と表明し,「ならず者国家およびテロリストが,我々を攻撃する場合,通常の手段でそれを試みはしない」「これらの敵はテロ行為を手段としており,また大量破壊兵器を使用することもあり得る」と述べて,対テロ戦争と大量破壊兵器問題を結合させるようになった。

9月12日の国連総会では「サダム・フセインは大量破壊兵器を開発し続けている。サダム・フセインの存在は,国連の権威・世界の平和に対する脅威である」と演説した。
そして,米英は9月からイラク攻撃を容認する安保理決議の採択を求めたが,世界的な反戦の世論が盛り上がる中,なかなか決議は採択されなかった。結局11月8日,米国の求めたものとは異なり,イラクの大量破壊兵器の開発と保有の禁止義務違反を認定するとともにイラクに対して大量破壊兵器に関する査察・情報公開について全面的な協力を求め,更なる査察を続けるべきとの安保理決議1441が全会一致で採択された。

しかし,この決議1441には,米国の要求も反映された。決議は,イラクに対し「即時,無妨害,無条件,無制限」の査察を要求するもので,フセインにとって実に厳しいものだった。このような条件を付けること自体,イラク政府を挑発し,戦争の口実を作ろうとするためだったのではないかと疑われる。

● 安保理決議1441
国連憲章第7章に基づき,2002年11月8日に全会一致で採択された決議である。その内容は,
@ イラクは,大量破壊兵器の廃棄等を定めた決議687を含む関連安保理決議に違反している。
A イラク政府はイラク問題に関する国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)と国際原子力機関(IAEA)および安保理に対して,30日以内に,化学,生物および核兵器,弾道ミサイルおよび他の運搬手段の開発計画に関するすべての面における完全な申告を提出すること。
B イラクは,UNMOVICとIAEAに即時,無条件,無制限の査察をさせなければいけない。
などイラク政府にとって屈辱的なものだったが,一方で,
C この問題に引き続き取り組むことを決定する。
と規定している。それゆえ,安保理決議1441は,即時の武力行使を認めたものではないと解されている。
2002年11月13日,フセインは「ひどい内容であるが」と断った上で国連決議受託を受け入れた。イラクはむしろ平和的解決を望んだといえる。これに対し,米国は,イラクが決議1441に違反しているから攻撃を加えると言うようになった。
2002年12月7日,イラクが大量破壊兵器について大量の「申告書」を提出しているにも関わらず,パウエル国務長官は,イラクが「重大な違反」を継続していると主張した。ブッシュ大統領は,2004年1月28日の一般教書演説で,「イラクの独裁者は武装を解除していない。それどころか我々を欺いている!」と非難し,イラクが核兵器開発のためにウランを入手しようとした,と述べた。

 イラク国民の解放という理由
上記演説の中で,ブッシュ大統領は,フセイン政権がイラク国民に対しどれだけ残虐な行為をしているかについても述べ,その打倒のためには武力行使も辞さないという姿勢を明らかにした。この段階にいたって,イラク国民の解放が戦争の大義名分に加えられたのである。

 攻撃理由の重点が変わったこと
1月31日の米英首脳会談でも,ブッシュ大統領は,イラクは武装解除をしていないと決めつけ,米英単独でもイラクを攻撃できると宣言した。

2月5日,パウエル国務長官は,安保理外相級会合で,衛星写真,録音テープ等,イラクが大量破壊兵器を保持している決議違反の「証拠」を開示した。そして,その翌日,ブッシュ大統領は,この「証拠」に基づき,イラク攻撃を容認する新たな国連決議を要求した。この「証拠」と称するものは,後に述べるとおり,実にいい加減なものであった。
それにも拘わらず,ブッシュ大統領は,2003年3月17日,テレビ演説で「イラクが引き続き危険な兵器を保持し隠しているのは疑いがない」と,イラクの安保理決議1441,678,687違反を指摘して,フセイン大統領と息子たちに48時間以内の亡命を要求し,これを拒否すれば攻撃を開始するとの最後通牒を発した。

この演説でブッシュ大統領は,イラクの脅威は明白だとし,米国は自国の安全保障のために武力を行使する主権を有する,と述べ,自衛権を主張した。

さらに,ブッシュ大統領は「イラクの人々よ。暴君は間もなくいなくなる。あなた達の解放の日は近い。」と述べ,イラク解放を重要な理由としたのであった。
このように,イラク攻撃の理由は,対テロ戦争からイラクの大量破壊兵器保持に,そしてイラクの民主化が付け加わり,攻撃の理由の重点が少しずつ変わってきた。
なぜ,イラク攻撃理由の重点は少しずつ変わっていくのだろうか。それは,イラク攻撃が最初から既定の路線だからである。したがって,イラクに大量破壊兵器がないことが分かれば,攻撃「理由」の重点を変えてでも,イラク攻撃を実行しようとしたのである。
以下では,イラク攻撃の理由付けが正しいものであるかについて,個別に検討していく。
(2) イラクに査察協力を義務づけた決議1441は理由となるか

 決議1441は武力行使を認めていない
米英は決議1441違反をイラク攻撃の理由としているが,これはイラク攻撃の理由になるだろうか。 
この決議はその最後に「この問題に引き続き取り組むことを決定する」となっており,武力行使の決定は行われていない。
だからこそ,米英は武力行使を容認する新たな決議を求めたのである。
そもそも,イラクの大量破壊兵器保有や査察に応じないこと自体は,武力攻撃を認める理由とはならない。前述の国連憲章の武力行使禁止原則からすれば,具体的にイラクが他国を攻撃しなければイラクを武力で制裁することはおよそ認められないのである。
 大量破壊兵器は有ったか
しかも,イラクが大量破壊兵器を有していたとする証拠はなく,イラクの決議違反自体が存在しなかった。
(ア) 査察団の調査報告
2002年11月27日,イラクは,決議1441にもとづく査察を受け入れた。国際原子力機関 (IAEA) のボット査察官やイラク問題に関する国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)のペリコス査察官は,査察に対するイラクの協力を評価し,「イラクはこちらが見たいという物をすべて見せた」とその成果を強調した。そして,2003年1月9日,査察団のブリクス委員長によって査察の中間報告が行われた。その報告は,イラクの提出した申告書は世界の疑念に答えるものではなく,なお時間が必要であるとするものであったが,一方で,大量破壊兵器の決定的証拠はないというものであった。そして,1月27日に行われた最終報告でも,大量破壊兵器の決定的な証拠は見つからなかったという結論に変わりはなかった。
しかも,イラクのアジス副大統領は,査察が延長されれば積極的に協力すると言明していた。
(イ) 嘘の情報,裏付けのない証拠
イラクが核兵器開発のためにウランを入手しようとした,とブッシュ大統領は非難したが,ブッシュ大統領政権は当時既にこの情報の誤りを知っていたことが元米国大使により明らかにされている。
2月5日にパウエル国務長官が安保理に提出した「証拠」も内容の分からない通信傍受テープや裏付けのない偵察衛星の写真にすぎなかった(「ニューズウィーク」6月9日号)。
(ウ) 米国高官による暴露
2003年7月9日に行われた上院軍事委員会公聴会でラムズフェルド長官は「開戦前には,イラクの大量破壊兵器について新たな証拠は持っていなかった」と証言した。2004年1月28日,米国上院軍事委員会で,米国政府調査団ケイ前団長は,大量破壊兵器は無かったと明確に証言している。2月5日,テネットCIA長官は,核兵器について「サダムの計画の進行を過大評価していたかもしれない」と述べ,また化学兵器についても「発見にいたって」おらず,生物兵器に至っては生産を開始したことすら「確認していない」と述べている。ブッシュ大統領自身,同じ日にサウスカロライナ州で行った演説において,「イラクにあると思っていた備蓄兵器はなお発見に至っていない」と述べている。
(エ) あいつぐ大量破壊兵器なしの報告
2004年7月9日には,アメリカ上院情報特別委員会が報告書を発表し,「大量破壊兵器があるというCIAの報告は,合理性に欠け,入手した情報に照らしても到底証明できない」「大部分は過大評価されていた」と述べた。
また,7月14日には,イギリス調査委員会でも,「情報に深刻な欠陥があった」と結論付けている。
さらに,これに先立つ1月11日には,オニール前アメリカ財務長官は,「在任中,一度も大量破壊兵器の証拠を見たことがない」と言い,同月28日は,デビット・ケイ前アメリカ調査団長は,アメリカ議会で「大量破壊兵器はなかった」と述べている。
イラクには大量破壊兵器はなかったのである。

(3) 湾岸戦争時の安保理決議は理由となるか
米英政府は,たとえ決議1441が武力行使を容認していなくても,湾岸戦争に際しての武力行使を容認した安保理決議678(1990年),イラクの武装解除を湾岸戦争停戦の条件とした安保理決議687(1991年)によってイラク攻撃は正当化されると主張している(2004年3月14日のホワイトハウス報道官アリ・フライシャーによる米国政府の公式な法的立場を明らかにした声明)
 決議678は理由になるか
たしかに,決議678は「その地域における国の平和と安全を回復するために,必要なあらゆる手段をとる権限を与える」と規定されてはいる。しかし,そもそも決議678はイラクのクウェート侵攻のもとで「クウェート政府に協力している加盟国に対して」権限を与えたものなので,クウェートの国境が回復した後は,前提となる状況が異なっている。
● 安保理決議678
1991年3月2日に採択された,イラクのクウェートからの撤退と,地域の平和と安全の回復のため,イラクに対する武力行使を認めた決議。
 決議687は理由になるか
また,決議687により,イラクは核兵器,生物兵器,化学兵器などの大量破壊兵器の開発と保有を禁止されたが,その違反があれば10年以上たった今日でも停戦が解除され湾岸戦争が再開されると考えるのは無理がある。この決議によれば,違反があっても安保理が追加措置を講じられるだけである。
それに,2003年にイラクは武器査察に応じ,大量破壊兵器は発見されなかったのであるから,これらの決議をイラク攻撃の根拠とすることはできないのである。
l 国連安保理決議687
1991年4月3日に採択された停戦決議で,その大まかな内容は下記のとおりである。
@ イラクは,あらゆる「核・生物兵器,生物・化学剤のすべての在庫や,あらゆる研究・開発・支援・製造施設を,国際的監視の下で破壊,除去,または無力化することを無条件に受け入れること。
A イラクは,核兵器または核兵器に使用できる材料や研究・開発・製造施設を入手または開発しないことに,無条件で同意すること
B イラクは,いかなる大量破壊兵器をも使用,開発,建造,または入手しないこと。
C イラクは,大量破壊兵器計画の全容を明らかにすること。
D イラクは,テロを実行または支援したり,テロ組織がイラク国内で活動することを許してはならないこと。

(4) 対テロ戦争はイラク攻撃の目的となるか
 「対テロ戦争」という正当化
米国は,イラク攻撃について,9・11事件のようなテロ攻撃から米国と世界の安全を守るための対テロ戦争だとも主張している。
 「対テロ戦争」は口実に過ぎない
しかし,その前提となるイラクとアルカイダとが結びついているとの主張は当初から根拠が薄弱だった。米国の高官だったオニールは,9・11事件以前から米国はイラク攻撃を計画しており,テロとの闘いというのが口実に過ぎなかったことを暴露している。
また,9・11独立調査委員会の結論も「アルカイダとイラクとの間に何らの協力関係もない」というものであった。
 イラク攻撃はブッシュ大統領政権の既定路線だった
1996年6月新保守主義の頭脳集団「PNAC(米国新世紀プロジェクト)」が共和党内に設立され,現在のラムズフェルド国防長官,チェイニー副大統領,ウォルフォウィッツ国防次官らが設立趣意書賛同人になった。そして,既に1997年1月,PNACはクリントン政権にイラク攻撃とフセイン政権打倒を勧告していたのだった。
2001年1月20日,ブッシュ大統領が大統領に就任し,その政権内にPNACのメンバーが多くはいると,直ちにイラク軍事攻撃の検討が開始されたのです。米国のイラク攻撃は,9・11事件の有無にかかわらず既定路線だったといえる。
 9・11事件への根本的な疑問
ところで,ブッシュ大統領の対テロ戦争のきっかけとなった9・11事件について,そもそも「テロ」であったのかについて根本的な疑問が呈されている。
まず,ペンタゴン(国防総省)に衝突したとされるアメリカン航空77便についてであるが,衝突したとされる旅客機の残骸がどこにも見つかっていない。また,ペンタゴンの壁を貫通した時に残された穴はわずか4.8メートルに過ぎず,巨大な旅客機が衝突したにしては穴が小さすぎるのである。
また,崩壊した世界貿易センタービルに旅客機が衝突する直前に,同ビルの北棟と南棟から爆発が原因と見られる閃光が発している。また,同センターの第7ビルは,旅客機が衝突してもいないのになぜか崩壊しているのである。
さらに,世界貿易センタービルに激突した旅客機(ユナイテッド航空175便)の機体について,FOXテレビのレポーターが「飛行機には窓がありませんでした。貨物機か何かでしょうか。空港では見たことがない機体でした」とコメントしている。
以上のように,一般的に信じられている「テロ」事件とは,矛盾する映像や証言が現れてきており,9・11事件が,イラクへの対テロ戦争に利用された可能性がある。
オ 戦争によりテロをなくすことは不可能
そもそも,戦争でテロはなくすことはできない。
テロとは何かという定義も定まっていないが,中東ではイラク戦争によってますます反米感情が高まり,イラクでも市民を巻き込む「自爆テロ」と呼ばれる行為が頻発し,6月19日にも,サウジアラビアでアルカイダが米国人を拉致して公開処刑するなどの事件が起きている。
なお,イラク民主化がイラク攻撃を正当化する理由となるかについては,占領に関する部分で詳しく述べることとする。

(5) 先制攻撃は「自衛」として認められるか
ア 先制攻撃による自衛という米国の論理 
しかも,米国は自国がテロリストに攻撃される前に攻撃すると言っている。「国防のためには予防行動と,時によっては先制攻撃が必要である。あらゆる種類の脅威から,あらゆる場所において,あらゆる時に米国を防衛するのは不可能である。敵に対する戦争こそが唯一の防衛手段である。よき攻撃こそが最良の防衛なのである。」という論理である(「国防報告」2002年8月15日)。
2002年9月の国家安全保障戦略では「脅威が我々の国境に到達する前に特定し破壊する。米国は,国際社会の支持を得るために努力を継続する一方,必要であれば,単独行動をためらわず,先制攻撃を行う形で自衛権を行使する」と明言された。
 先制攻撃は「自衛」ではない
しかし,そもそも先制攻撃は「自衛」とは認められない。
もし,先制的自衛を認めれば,結局本件のように嘘の理由で恣意的に他国を攻撃することを許すことになってしまい,世界の平和の秩序が崩壊してしまうからである。実際,イラク攻撃後早くもインドの高官がパキスタンに対する軍事行動も正当だと述べ,米国はシリア,イランにも脅しをかけている。
前述のとおり,国連憲章は武力行使を原則として禁止している。例外的に武力行使が認められるのは,安保理決議に基づく強制措置の場合(42条)と,自衛権行使の場合(51条)に限られる。
国連憲章51条は,武力行使禁止原則の例外なので,限定して解釈されねばならず,先制的自衛権は認められない。
イラクは未だ米国を攻撃していないのであるから,イラク攻撃は「自衛権行使」とは認められず,国連憲章に違反する。
「先制的自衛権」を認めた過去の例もあるが,それも「差し迫った危険がある」場合に認められるとするものである。ブッシュ大統領のドクトリンでは「我々は,差し迫った危険の概念を改めなければならない」と述べているので,ブッシュ大統領自身,米国のイラク攻撃は過去の例に当てはまらない「新しい自衛権」だと認めていると言える。
アナン国連事務総長は,2003年9月23日,国連総会で,この米国の「新しい自衛権」について演説し「この論理は,世界の平和と安定を,完全とは言えないまでも58年間保ってきた国連憲章の原則に対する根本的な挑戦だ。これが先例となり,大義名分の有無に係わらず,単独行動主義と法を逸脱した武力行使の拡散を招くことを懸念する。」と厳しく批判している。

4 国際社会はイラク攻撃を認めていない

国際社会は米英軍のイラクへの武力行使を認めていただろうか。
米国・英国ははっきりと武力行使を容認する決議を求めたが,2月15日には反戦運動の波が世界を覆い,日本を含む世界400を超える都市で1000万人規模の反戦行動が起き,フランス・中国・ロシアの3常任理事国は査察継続を求めた。その結果,新たな安保理決議は採択されなかったのである。
それにもかかわらず,米国は飛行禁止区域での空爆を繰り返したため,3月10日,国連のアナン事務総長が「安保理の承認のない攻撃は国際法への侮辱であり,国連憲章に合致しない」という警告までなした。
3月26日,安保理公開協議の場で,非同盟諸国やアラブ連名諸国の代表はイラク攻撃を国際法違反と非難し,フランスのドヴィルパン外相のイラク攻撃に反対する演説は満場の拍手を受けた。
米国は国連の承認をとりつけようと,途上国の理事国に対し,援助の約束や援助打ち切りの脅しをかけたが,国際社会の意思は変わらなかった。
国連のアナン事務総長も,9月15日,BBC放送の記者のインタビューに答えた際,「イギリスとアメリカが去年3月,国連安保理の許可を得ず,イラク戦争を起こした。これは国連憲章の原則に違反する行為で,違法だった」と指摘している。また,同月21日午前,第59回国連総会の一般演説の中でも,イラクにおける米兵による虐待問題に触れ,「あまりに多くの場所で,憎しみや腐敗,暴力と排斥の行為が何のとがめを受けることもなく横行している。弱者は効果的に救済を求める手段もなく,一方で強者は権力を維持し財産を増やすために法をねじ曲げている。時には,テロリズムに対する必要な戦いさえ,市民権を不要に侵している」と述べ,間接的にせよ,イラク戦争へと突き進み,対テロ戦争遂行のために国内の市民権を脅かしているブッシュ政権を批判している。
このように,国際社会は,一貫して米英のイラク攻撃に反対してきたのであって,米英のイラク攻撃は国際社会の世論に背を向けるものだった。

5 米国のイラク攻撃の真の目的はなにか
米国はさまざまな理由をつけてイラクを攻撃した。しかし,米国の「本音」(つまり,イラク攻撃の真の目的)は米国の主張とは別のところにあった。

(1) 石油の利権
米国は現在も世界の石油消費量の25%以上を占める最大の石油消費国であり,米国にとって石油はエネルギー源であるとともに重要な工業原料である。
50年代から,中東の油井の管理に「同盟国,欧州と日本に関する拒否権行使力」という役割を割り当て「これを手放さないことが極めて重要」だと言われてきた(ジョージ・ケナン)。1992年,米国国務省は,中東の石油を「とてつもない戦略的資源,世界史上最大の物理的報酬」と位置づけた。
今回の戦争でも,米英軍がまず攻略したのは南部の油田地帯に近いバスラだった。北部の油田があるキルクークに対して同盟軍のクルド人が侵攻しようとすると,米国は誤爆と称してこれを攻撃した。
ブッシュ大統領政権は石油産業との関連が深く,2001年の大統領就任は,石油コンツェルンの寄付に依存した選挙戦を展開した結果であった。また,石油やエネルギー産業に関わる要人がブッシュ大統領政権の中枢部に名前を連ねている。
ブッシュ大統領政権は「買いやすい石油」という経済戦略を打ち出し,石油確保を重視している。また,米国に化石エネルギーの消費削減を義務づけた京都議定書から脱退をした。
このようなブッシュ大統領政権の性質からしても,石油利権の確保・保持がイラク戦争の真の目的の1つだったと言える。

(2) パレスチナとイスラエル 
米国は,イスラエルを米国の中東戦略の足場と位置づけ,イスラエル建国以来,経済・軍事両面の支援を行ってきた。そこで,イスラエルと紛争関係にあるパレスチナを米国の影響下に組み入れ,イスラエルを支援することも,イラク攻撃の目的と考えられる。
実際,ブッシュ大統領自身,こう語っている。「イラクでの民主化の成功は,中東和平の新たな段階の始まりであり,パレスチナの真の民主化も進めるだろう。・・・パレスチナは,テロ行為を永遠に放棄する平和な地になるに違いない。一方,イスラエルの新政権は,テロの脅威が改善されて安定化し,実現可能なパレスチナ国家樹立を支援し,できる限り早期にパレスチナの最終合意へと働きかけるだろう。・・・イラク現政権の終結は,こうした機会を創り出すことだろう。」(2003年3月26日の演説)。
これは,イラク民衆を無視したあまりに身勝手な論理である。

(3) 米国の軍事世界戦略
1991年のソ連崩壊後,米国は国際社会において「一極」「一超大国」という位置を占めることとなった。しかし,その一方でレーガン政権時代の大軍拡路線によって米国自身の経済も破綻し未曾有の経済危機に直面していた。この中でクリントン政権は経済再建を最優先課題とし,軍縮と軍事力の効率化を進めつつ,金融資本,ハイテク資本を重視し,米国系企業の海外進出拡大,国際金融機関の安定化−グローバリゼーションを進めてきた。
これに対し,軍産複合体は生き残りを図るべく買収・合併を推し進め,急速な寡占化・独占化が進んだ。 

第2 イラク占領

1 CPA,CJTF7を通じた米英軍によるイラク占領

(1) 米英軍によるイラク占領
2003年4月9日,米軍がバグダッドを制圧し,米英軍はイラクの大部分をその支配下におき,同月14日,米海兵隊がティクリートを制圧したことによって,米英軍はイラク全土を制圧した。
同年5月1日,ブッシュ大統領は,主要な戦闘の終結を宣言した。
ここに「占領」とは,「事実上敵軍の権力内に帰したるとき」をいうが(陸戦の法規慣例に関する条約42条),同年4月14日以降,(たとえフセイン元大統領の身柄は拘束されていなくても)上記のように,イラク全土は米英軍等が中心の権力内に帰しているので,同日以降,イラク全土は米英軍等による「占領」が開始されたことになる。

(2) 米英軍によるイラク統治
そして,戦闘終結宣言後もイラクを違法に侵略した米英軍がイラクを占領して居座り続けている。
すなわち,戦闘終結宣言後,ORHA(US Office of Reconstruction And Humanitarian Assistance)がイラクを統治し,その後CPAがORHAから引き継いでイラクを統治した。CPAとは,正式名称をCoalition Provision Authority (連合国暫定施政当局)といい,代表は米国のブレマー文民行政官である。代表が米国人であることからもわかるように,CPAは米英が主導権を握っている組織である。
同時に行政組織としてのCPAと併存する形で,CJTF7(Coalition Joint Task Force7,第7連合統合任務軍)が米英軍としてイラク全土で活動を続けた。連合軍には米英を中心に,イタリア,スペイン,ブルガリア,デンマーク,タイ,ポーランド,リトアニア等が参加した。
このように,CPAやCJTF7は,イラク人による自治のための組織ではない。国連も,CPAやCJTF7には全く関与していない。
2003年5月22日,安保理決議1483が採択されたが,この決議は米英軍としての米国と英国の特別の権限を認識し,「当局」(米国と英国の統合された司令部)は国際的に承認された代表政府がイラク国民により樹立され,「当局」の責務を引き継ぐまでの間,権限を行使するとした。
これを受けて,連合暫定施政当局(CPA)が同決議に言及している「当局」を構成する機関として活動した。
その後,2003年7月13日,CPAの主導によってイラク統治評議会(IGC)が設立されたが,統治評議会はCPAの下部組織にあたり,CPAの指示・指導に基づいて立法と行政を行うものにすぎない。
よって,実質的には,米英軍等が統治している状態であった。
したがって,統治評議会が設立された後も,「占領」が継続していることには変わりはないのである。

● 安保理決議1483の概要
米英の「当局」としての位置づけ,A国連事務総長特別代表の任命とその任務,Bイラクに対するいわゆる経済制裁の解除,Cイラク開発基金の設置,Dオイル・フォー・フード(OFF)計画の6か月延長,の他,「イラクの主権及び領土保全の再確認」や「大量破壊兵器の武装解除及び武装解除の確認」,「文化財の保護」などについて言及されている。

2 米英軍の義務の不履行

(1) 米英軍の責任・義務
上記1で述べたように,米英軍による「占領」が開始され,文民の保護について規定するジュネーブ第4条約・同第1追加議定書などが適用される。
これは,上記安保理決議1483でも,米英「両国が統一司令部を持つ占領国群として,関連国際法に規定される権限,責任および義務を持つ」と明確に規定されている。
(2) 米英軍が占領に伴う責任・義務を果たしていないこと
占領国は,食糧及び医薬品の供給を確保し,また必要に応じてそれらを提供しなければならない(ジュネーブ第4条約55条,第1議定書69条2項)。
2003年5月,国連は,「イラク戦争以前は約4%の人々が重大な栄養失調の状態にあったが,現在は3分の2の人々が食料援助に完全に依存し,そのうちの40%の人々が栄養失調の状態にある」と発表した。
このように,米英軍は食糧確保の責任を果たしていない。
医薬品の供給も極めて不十分で,多くの命が失われている。
また,占領国は,伝染病および疾病の流行に対処するのに必要な予防的手段を採るにあたって,利用できる手段を最大限に活用しなければならない(同条約56条)
この点については,2003年5月南部バスラにおいてコレラが発生するなど,民間人数百万人が病気にさらされた。この被害は,米英軍の直接的な攻撃によるものではない。しかし,米英軍は,発電施設を破壊し,それによって民生用の水道供給が途絶するなど,イラクの人々の生存の条件を脅かしたにもかかわらず,その復旧に尽力していない。
イラクの人々の多くは,水道施設が破壊されたため,汚染された水を摂取し,その結果命を落とす人も少なくない。米英軍のイラク攻撃,そしてそれに続く違法・不当な占領行政さえなければ,多くの人は衛生上の理由により命を失うことはなかった。
米英軍は,利用できる手段を最大限に活用するどころか,不作為によってコレラ等の伝染拡大に手を貸し,イラク国民の生命を危機に陥れている。

3 イラク国民の生活破壊

米英軍は,義務を果たさず,ジュネーブ条約を遵守しないばかりか,イラク国民の生活を破壊している。
@ 米英軍は,何の補償もなく,フセイン元大統領の政権下におけるイラク軍と警察を解体したばかりでなく,大多数のバース党員の解雇を行った。
A ほとんどすべての政府,省庁,工場などの建物と活動が破壊されたため,大多数のイラクの公務員は仕事を失った。イラクでの失業率は,占領から1年以上経った今でも,未だに約70%にも及ぶと言われていた。
B イラクでは,フセイン元大統領の政権下において,法律上組合活動が禁止されていました。米英軍は,この法律を適用し続けるのみでなく,ブレマー文民行政官は,2003年6月,ストライキを教唆した者に対する罰則として,占領当局によって拘束され戦争犯罪人として取り扱うとの,「禁止活動」に関する規則を発表した。
C イラク失業者組合(UUI)は,2003年7月29日バグダッドにおいて,新しい国家は,被占領地域に福利を提供する米英軍の義務に関するジュネーブ条約に従って,イラク国民の社会的利益を保証しなければならない旨要求すると共に,ほとんど4か月給与が支払われていない医師,教員,看護婦,国家公務員への再補償を要求した。
これに対し,2003年8月2日,米軍は,同組合のカシム・ハディ及びその他54人の組合指導者と組合員を逮捕した。また,2004年1月10日,英軍と地方警察は,イラク南部の都市イマラにおいて行われた,仕事や食糧を要求する失業者の抗議行動に対して発砲し,イラク人6人を殺害し,8人を負傷させた。
以上のように,「自由と民主主義をもたらすため」イラクを攻撃した米英軍は,イラク国民に不自由を強い,民主的な権利を与えることについても拒否し続け,イラク国民の生活を破壊し続けている。

4 人道支援活動の阻害

以上のように,米英軍は,占領に伴う義務を果たさず,違法な行為を行い,イラク国民の生活を破壊している。
そこで,イラク国民の生命を守り,その生活を支えるため,NGOや国連等による人道支援活動が必要である。
しかし,米英軍への反発による治安の悪化などから,国連は実効的な援助ができていない。
アナン国連事務総長は,2003年12月10日,第2回イラク情勢報告において,要旨以下のとおり述べ,イラク全土の治安状況の悪化を明言している。
「8月にイラクの全般的治安状況が劇的に変化しました。イラクは新たな段階に入り,すべての外国組織や連合暫定当局に協力するイラク人が,意図的で直接的な敵対的攻撃の潜在的標的となりました。こうしたタイプの治安上の脅威は予想されていなかったものです。」
「委員会(イラクにおける国連要員の安全と治安に関する独立委員会)は10月20日に報告を提出しました。その結論は,イラクには危険が伴わない場所はありません」
「イラクにおける国連の今後の活動方法立案のために,イラクにおける国連活動の本質的な計画見直しの全体を通じて,治安状況に関して以下の想定を念頭におきました。
治安状況は短期・中期的に改善しそうにないし,さらに悪化するかもしれません。国連は,予見できる将来にわたって,イラクにおけるテロ活動の重要で衝撃度の大きな標的にされるでしょう。」
2003年8月19日,現実に,バグダッドの国連現地事務所が攻撃を受け,国連デモロ代表等が死亡した。
以上のように,米英軍の政策への反発による治安悪化は,国連などによる人道支援活動をも困難にしている。

5 資源の収奪

米国企業による「復興事業」の独占
イラク復興事業は米国際開発局(USAAID)が取り仕切っている。
その下で,ブッシュ大統領のイラク攻撃を強く支持していた,シュルツ元国務長官が役員を務めるなど,米国政権と極めてつながりの強い米プラント建設大手ベクテル社が以下のように「復興事業」を受注した。
@ イラクの電気,水道など社会資本復旧のための大規模事業を受注(空港・港湾などの大型事業を含めた事業規模 約816億円)。
A イラク戦後復興第2期事業(発電関連設備,上下水道,空港,港湾施設の再建や維持が内容)を受注(約722億円)。

6 主権の委譲と占領の継続

2004年6月8日,国連安保理決議1546が全会一致で採択された。
採択された決議は6月末に実施される米英占領当局(CPA)からイラク暫定政府への主権移譲に伴い,暫定政府に「完全主権」を保障するとともに,米英軍を中心とする多国籍軍の駐留継続を確認した。また,付属書簡で,大規模な軍事作戦にあたり,暫定政府の「国家安全保障委員会」で,イラク軍の参戦の是非を判断することなどを定めた。
● 安保理決議1546の概要
決議1546には,@6月末までの主権移譲の承認,A2005年12月末までの新憲法に基づく正式政府発足,B多国籍軍の駐留は正式政府発足またはイラク政府の要請により終了,C(石油収入をプールする)イラク開発基金はイラク政府が管理する,などが盛り込まれた上に,国連加盟国に対し,人道復興や国連イラク支援団(UNAMI)への支援を目的に多国籍軍への貢献を求める一文が付け加えられた。
そして,2004年6月28日,当初の計画を突如繰り上げ,米主導の占領機関である連合国暫定当局(CPA)からイラク暫定政府に対して,主権が委譲された。これにより暫定政府は一応「主権」国家の政府として扱われることになったが,駐留する米軍が軍事と治安の中枢を握っており,イラク国民への軍事攻撃を続ける下で暫定政府が広範な国民の支持を得られるにいたってはいない。
イラク暫定政府は,連合国暫定当局任命の統治評議会出身者が主要ポストを占めており,国連のブラヒミ事務総長特別顧問が目指した「専門的な知識と技術をもった非政治家の集団」という構想は後景に追いやられてしまった。
また,暫定政府の実権を握るアラウィ首相は就任前から米中央情報局(CIA)との深い関係を指摘され,就任後には米軍の駐留継続を繰り返し求めてきた。同首相は今月19日に米軍がイラク中部ファルージャの民家を爆撃し女性や子どもなど20人以上を殺害した際には「歓迎する」とまで表明している。イラク国民のなかには,占領終結への第一歩として,暫定政権に期待する人々もいたが,「これまでのイラク統治評議会と変わりなく合法的なものとはいえない」(イスラム教スンニ派の有力組織,イスラム聖職者協会)などと批判的な声が広がっていった。最大の問題は,イラク国民や抵抗勢力への残虐な弾圧や武力攻撃を続けている13万8000人の米軍が多国籍軍の中核として居座り続けることである。パウエル国務長官や多国籍軍のケーシー司令官も,反政府勢力への軍事攻撃を続けると述べている。
暫定政府の国防省には10人の米英人顧問が常駐するのをはじめ,各省庁でも同様の方針が実施されている。アラブでは「暫定政府の成立にしろ,主権移譲の式典にしろ,米国がつくりだした偽の写真以外の何物でもない」(カタールのアッシャルク紙)などの見方が広がっている。
イラク各地では警察などを標的とした爆弾攻撃がいっせいに発生し,死者百人以上,負傷者数百人となる混乱が続いている。イラク国民の間では,テロ批判の一方で,混乱の根本原因である米占領体制と,治安維持に有効な対策をとれない暫定政府への不満が高まっている。

7 侵略の罪該当性
米英のイラク攻撃及び占領行為は,それぞれ国際法上の侵略の罪に当たる。

(1) 占領は侵略行為
すなわち,侵略の罪を構成する武力行使とは,「他国の領土に対する武力による侵攻または攻撃,たとえ一時的なものであっても,当該侵攻から結果として生じた軍事的占領,他国またはその一部の領域の武力行使による併合」(1974年国連総会決議3314)であり,軍事占領を含む。

(2) 人民の自決権の侵害
また,侵略の罪は,人民の自決権を侵害する罪であるが,米英軍などによる軍事占領はまさに人民自決権の侵害にあたる。たとえある国の政府が,どんなにひどい政治をしていたとしても,それを外国の軍隊が侵略・転覆し,自らに都合の良い新たな政府を作ることは決して許されるものではない。
1966年に国連総会が採択した国際人権規約の共通第1条は,「すべての 人民は,自決の権利を有する。この権利に基づき,すべての人民は,その政治的地位を自由に決定し,ならびにその経済的,社会的及び文化的発展を自由に追求する」と規定した。自決権は集団としての人民の権利であって,人民を構成する個々人が人権と自由を享受する前提条件だとした。
いかにフセイン政権が圧制を敷いていようと,その政権を打倒するのはイラク人民の権利である。
米軍が,現在も軍事占領を続け,イラク人を誘拐,監禁,虐待,虐殺する行為は,イラク人民の自決権侵害にあたる。

(3) 安保理決議1483,1511との関係
ただし,CPAやCJTF7のイラク占領政策は,国連安保理決議第1483号及び同第1511号を根拠として遂行された。そこで,国連安保理が,CPAやCJTF7を通じた米国,英国軍などによるイラク占領を認めており,イラク占領は違法とならないのではないかが問題となる。
 1.で紹介した安保理決議1483は,米英軍としての米英の特別の権限を認識し,「当局」(米英の統合された司令部)は国際的に承認された代表政府がイラク国民により樹立され,「当局」(CPA)の責務を引き継ぐまでの間,権限を行使するとした。
 10月16日に採択された国連安保理決議1511は,暫定占領当局(CPA)を認めると共に,イラクの安全保障と安定維持のため,統一指揮下による多国籍軍の設置を認めるものである。
 しかし,決議1483は,米英軍に安保理決議1483が米英軍に権限を認めるのは,第5項で「あらゆる関係者に対し,1949年のジュネーブ条約及び1907年のハーグ協定をはじめとする国際法による義務を完全に果たすよう呼びかける」と規定し,占領者の国際法上の義務=公共の秩序及び生活を回復確保するためなし得る一切の手段を尽くす義務(1899年ハーグ陸戦規則43条)を果たさせるためである。これは,戦争自体の違法性と関わりなく適用される戦争手段についての法的規制に関する規程であるから,決議1483が米英主導の占領自体を適法だとしたものとは言えない。 
仮に,決議1483,1511が米英主導の占領枠組み自体を適法としたと考えても,同決議は「当局」に対し,安全で安定した状態の回復及びイラク国民が自らの政治的将来を自由に決定できる状態の創出に向けて努力することを含め,領土の実効的な施政を通じてイラク国民の生活を向上することを要請したものであるが,論じてきたようにCPAによる占領の実態は,この要請とはかけ離れているので,決議1483,1511にも違反し,違法である。

● 安保理決議1511
安保理決議1511の概要は以下の通りである。
1 イラク統治評議会は,イラクの主権を体現する暫定政権の重要な組織である。
2 米英の暫定占領当局(CPA)に対して,可能な限り早く統治権限をイラク国民に戻すよう求め,
3 評議会は,新憲法起草や民主選挙実施の日程を12月15日までに国連安保理に提示する。
4 国連はイラクでの人道支援や経済復興などの役割を強化する。
5 イラクの安定維持のため,統一指揮下の多国籍軍を設置,決議後1年以内に役割を見直す。

おわりに
これまで見てきたとおり,イラク戦争終了後,イラクにおける混乱はますます深まり,イラクの民衆だけではなく,占領軍に関しても犠牲者が増え続けていることが明らかとなった。また,イラク戦争は国際法上到底容認できない侵略戦争であり,イラク占領に際しても違法が横行していることもまた明らかとなった。
このような違法な戦争,占領に加担しているのが,日本の自衛隊である。日本政府は,繰り返し自衛隊派兵は「人道復興支援」であるといっているが,全土が戦闘状態であるイラクに派兵され,いまや多国籍軍に参加していることからすると,国際法を遵守し,日本国憲法を守るためには,即時の撤退しかありえないのである。