イラク自衛隊派兵違憲訴訟  
『訴状』
2004年3月29日
東京地方裁判所 御中
 
原 告 北 沢 洋 子
(戸籍名:佐藤洋子)
〒223−0065 神奈川県横浜市港北区高田東1丁目30番の3号
電話045−531−1932 ファクス045−541−8204

       原 告    北 沢 洋 子

〒100−8977    東京都千代田区霞が関1丁目1番1号 

        被 告    国
       
        上記代表者 法務大臣 野 沢 太 三

違憲行為差止、イラク特措法違憲確認及び損害賠償請求事件

 訴訟物の価格  金 960,000円
 貼用印紙額   金  10,000円


請求の趣旨

1. 被告は「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保

支援活動の実施に関する特別措置法」(以下「イラク特措法」という)により自衛隊をイラク及びその周辺地域並びに周辺海域に派遣してはならない。

2. 被告がイラク特措法により自衛隊をイラク及びその周辺地域に派遣したことは違憲であり、同時に国際法に違反する不法行為であることを確認する。

3.自衛隊をイラク及びその周辺地域に派遣することを決定し、さらにそれを実施した日本国小泉首相以下その閣僚が自衛隊のイラク派遣に費やした費用のすべてを不法行為の賠償として国庫に返済するよう求める。

4. 被告は原告に対し金1万円及び本訴状送達の翌日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

5. 訴訟費用は被告の負担とする。
との判決並びに第4項につき仮執行の宣言を求める。

請求の原因   

第1 当事者
1. 原告
 私の職業は、著述業であり、南北問題を専門とする国際問題の評論活動を行っている。私は、1959年9月から1967年9月までの8年間、日本アジア・アフリカ連帯委員会の代表として、エジプトの首都カイロに設置されたアジア・アフリカ人民連帯機構(AAPSO)の国際事務局に常駐し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの民族解放運動の支援に携わってきた。この間、私は国際事務局の一員として、ヨーロッパの植民地宗主国がアジア、アフリカ、ラテンアメリカの植民地に行ってきた様々な不法行為について国際法の分野で数え切れないほどの法的闘争を経験した。
1974年8月、私は世界キリスト教会協議会(WCC)の委託を受けて南アフリカに赴き、同国に進出している日本企業が「人道に対する犯罪」であるアパルトヘイトの強化に加担している実態を調査した。その結果を、私はWCCの請願者として、同年9月、ニューヨークの国際連合総会に報告した。以後、1978年6月、ニューヨークの国連本部で開かれた国連ナミビア理事会、さらに1980年9月には国連アパルトヘイト委員会がそれぞれ開催した公聴会において、証人として日本企業が南アフリカのナミビアの不法占領、並びに「人道に対する犯罪」である南アフリカのアパルトヘイトにその経済活動を通じて加担している事実を証言した。
 とくに日本の電力産業が英国多国籍企業リオティントジンク社とナミビアのウラン(イエロー・ケーキ)購入契約を締結した事実が国連ナミビア理事会の「国連法令第1号」に違反する国際的不法行為であるとして、国連ナミビア理事会が日本企業を告訴する作業に私は参画した。
私は社会発展日本NGO(非政府組織)フォーラムの代表として、1994〜95年、ニューヨークの国連本部で開催された国連社会開発サミットの3回にわたる準備会議に参加し、さらに、1995年3月、デンマークの首都コペンハーゲンで開催された国連社会開発サミットでは、日本政府代表団の一員として参加した。このほか、私は、国連が1990年代に開催したグローバルな課題についてのサミット・クラスの会議のほとんどにNGOとして参加した。
私は2001年から2003年までの2年間日本平和学会の会長を務め、現在は日本学術会議の平和問題研究連絡会の委員を務めている。
以上のような国際政治の分野でのこれまでのキャリアを踏まえた上で、私は今回の日本国政府が行った自衛隊のイラク派遣を、憲法に違反するものであるばかりでなく、とくに国際法に違反するものであるとして、この日本国政府の不法行為を告訴する。 
私は国際問題評論家として、そもそも今日の自衛隊のイラク派遣という日本国政府の不法行為を引き起こすに至った根源であるアメリカ合衆国(以下「米国」という)のイラク戦争の不当性、国際法違反について、さらにさかのぼって、米国がイラク戦争を起こすに至った経緯について述べる十分な資格があると考える。
 
2. 被告
(1)被告は、2003年7月26日、第156回国会においてイラク特措法を成立させ、8月1日に公布、施行した。
 同法は、2003年3月20日に始まる米英の武力行使によってフセイン政権が崩壊した後、国際連合安全保障理事会決議第1483号を踏まえて、自衛隊を中心に人道復興支援活動及び安全確保支援活動を行い、「イラク国家の再建を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の確保に資する」ことを目的とする4年間の時限立法である。
(2)政府は、同年12月8日、「イラク特措法に基づく対応措置に関する基本計画」(以下「基本計画」という)を閣議決定した。
(3)同年12月18日、防衛庁は、「イラク特措法における実施要領」(以下「実施要領」という)を策定した。
(4)同年同月19日、防衛庁長官は、航空自衛隊に準備命令・同先遣隊に派遣命令を発し、陸上自衛隊及び海上自衛隊に準備命令を発した。
 上記命令に基づき、航空自衛隊先遣隊がイラク周辺国であるクウエート、カタールにそれぞれ派遣された。
(5)2004年1月9日、防衛庁長官は、航空自衛隊輸送部隊及び陸上自衛隊先遣隊に派遣命令を発した。
(6)同年1月26日、防衛庁長官は、陸上自衛隊本隊、海上自衛隊に派遣命令を発した。
(7)同年2月20日、防衛庁長官命令を受けて、陸上自衛隊の本隊・先遣隊約80人中の約60人がイラク南部のサマワに到着した。
(8)同年2月20日、防衛庁長官命令を受けて、海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」、護衛艦「むらさめ」がイラクに向けて出航した。
(9)同年2月21日、防衛庁長官命令を受けて、陸上自衛隊本隊、主力部隊第1陣約140人がクウエートに向けて出発した。同隊は同国内の米軍キャンプにて訓練を受けた後、イラク南部サマワに入った。

第2 憲法、イラク特措法、さらに国際法に反する自衛隊の活動

1. 憲法に違反し、さらに自衛隊法にも違反
 被告がさせている上記陸・海・空の自衛隊の活動は、後に記述するように、「われらは全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」と憲法前文に規定された「平和的生存権」に反し、武力の不保持、交戦権の否認を規定し、そして従来の政府見解によってすら「集団的自衛権」の行使を認めていない憲法第9条に違反するものである。のみならず「自衛隊はわが国の独立と平和を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し、わが国を防衛することを主たる任務とし」と自衛隊の存在目的を規定した自衛隊法第3条第1項にも違反するものである。

2.イラク特措法にも違反する自衛隊の活動
 被告は、イラク特措法は自衛隊の活動地域を「非戦闘地域」に限定しているので憲法に抵触しない、と主張する。私はこの見解を到底容認出来ない。だが、今この点はひとまず置くとして、被告の言う「非戦闘地域」に限って論じてみる。
 米兵らに対する攻撃が止まないイラクの状況 ―「イラクのどこが戦闘地域かどうかなど判るわけがない」、「自衛隊員でも襲われたら殺される可能性があるかも知れない。相手を殺す場合もないとは言えない」(小泉首相) ―からすれば、やがて派遣された自衛隊員の中に死傷者が出ること、或いは逆に自衛隊員が発砲して死傷者が出ることは不可避であろう。
 被告である国家の最高責任者である首相が「戦闘地域」、「非戦闘地域」の区別は意味がないと公言しているのである。ところでこの「非戦闘地域」の定義については、周辺事態法のときの「後方地域支援」という造語の「手品」があったと同じように、言葉の「手品」が施されている。
 イラク特措法第2条は、「戦闘地域」とは「現に戦闘行為が行われておらず、かつそこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる」場所であるとしている。そして「戦闘行為」とは「国際的な武力紛争の一環として行われる、人を殺傷し、又は物を破壊する行為」としている。ところがこの「国際的な武力紛争」の解釈として、被告は「国または国に準ずる組織の間において生ずる、一国の国内問題にとどまらない武力を用いた争い」と答弁している。ここに言葉の「手品」がある。
 つまりイラクのサマワで活動する自衛隊に対して武力攻撃があり、自衛隊がこれに応戦しても、その攻撃が国もしくはそれに準ずる組織でないとされれば、イラク特措法に言う「戦闘行為」でなく、「戦闘地域」でなくなってしまう。とくに「ゲリラ」の攻撃などはいかようにも解釈できることになってしまう。「イラクのどこが戦闘地域かどうかなどわかるわけがない」という小泉首相の答弁は、いかなる事態が生じようともイラク特措法の「解釈」によっていかようにも合法性を主張出来るという考え方に立っているのである。

3. 憲法第9条と自衛隊の関係
 前述したように、憲法第9条「戦争の放棄」は、国家の交戦権の否認と戦力の不所持を宣言している。
 にもかかわらず、1950年6月、朝鮮戦争を契機として連合国軍総司令官マッカーサー将軍の指令により、警察予備隊が設立されて以降、その後の名称変更を経て年々自衛隊はその装備、人員を拡大し、今では世界第3位とも言われるほどの軍事力を有する巨大な軍隊になった。
 マッカーサー指令によって自衛隊の前身である警察予備隊が設立されて以来、戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を宣言した憲法第9条との整合性について歴代政府は、
@ 警察予備隊であって軍隊ではない。
A 近代戦争を遂行する能力を有していないから憲法が禁ず
る戦力にあたらない。
B 必要最小限度の実力組織であり憲法上許される。
C 専守防衛、すなわち国内においてのみ活動し海外に派兵
しないから憲法違反ではない。
D 国連決議の下に海外に出て行くのであるから憲法違反で
はない。
等々、その場限りの説明や強引な拡大解釈を繰り返してきた。
 そして、今日では「日米同盟」を理由にしている。後述するようにこの言葉にはすべての思考を停止させる効用をもっている。
 ここに現実の自衛隊の活動と憲法第9条との関係についての歴代政府のその場限りの説明をもってしても、どうしても超えられない壁があった。それは集団的自衛権の壁である。日本の防衛に直接関係のない事態に対し、自衛隊が出動することは憲法第9条をどのように拡大解釈しようともかなわぬことであった。前述したように、自衛隊法第3条が自衛隊の目的について「わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し、わが国を防衛することを主たる任務とし」と規定しているからである。
 ところが1999年夏に成立した周辺事態法は、日本に対する攻撃がない場合でも「後方地域支援」の名の下に、日本が米軍の支援活動を認めることが出来るとし、集団的自衛権の行使を認めないとしてきた歴代政府の解釈の壁をいとも簡単に乗り越えてしまった。もはや憲法の空洞化の段階から、憲法の破壊に至ったのであった。
 そして米国の9・11事件を契機として成立させられたテロ対策特措法は、“周辺事態”という制約すらかなぐり捨て、米国が「テロとの戦争」を行う場合には、武器弾薬の提供以外なら、世界中どこでも、いかなる「後方支援」も可能であるとした。もっともこの「後方支援」は戦闘区域では許されないと説明されたが、ミサイル発射中の米軍艦に給油等の「後方支援」をしても、ミサイルが敵に到着しない間は戦闘地域とは見なされないから、許されるなどという内閣法制局長官の珍答弁 ―後日になって彼は、あれは恥ずかしい答弁であったと述懐した ―も出る始末であった。
 その後もインド洋、アラビア海に派遣中の海上自衛隊の補給艦がイラク攻撃に向かう米空母キティーホークに間接的に燃料補給をなしたとの事実も明らかにされている。
 深刻なことは、このような憲法の根幹を揺るがすような法案がまともな憲法議論もなされないままに「日米同盟」の呪縛の下にすべての思考が停止され、小泉首相の言う「常識」と没理論で議会の多数派によって簡単に成立させられていることである。そして2003年5月、また有事法制3法案が、これまた小泉首相の「備えあれば憂いなし」という没理論で成立させられた。
 「備えあれば憂いなし」というのは、本来自然災害に対しての文言であり、それを軍事に対して使うところに物事の混乱がある。日本に対して、一体どこの国が侵略して来ると言うのか。

4. 自衛隊は何処で誰と一緒に何をしてきたか
 1950年朝鮮戦争を契機にマッカーサー指令によって創設された自衛隊(警察予備隊)の規模、そして活動の変化についてはすでに述べてきたとおりである。
 すでに述べたように、1999年の周辺事態法は曲がり角であった。以後これを自衛隊の具体的な活動で見れば、2001年秋、米国の9・11事件を契機として成立されたテロ対策特措法によるインド洋における海上自衛隊の米英軍等に対する給油活動、或いはイージス艦による情報処理等の活動がある。同法に基づく海上自衛艦による米英軍等の艦船への給油は、2001年12月2日から2003年9月8日までの時点で291回、合計約32万キロリットル(約120億円分)を洋上で無償給油している。この間に米海軍が消費した燃料の約4割は日本が提供したのだという。
 また海上自衛隊の艦船は、2003年9月までに計21隻(延べ25隻)が派遣され、これを人員の面で見ると約4,259人が派遣された。その後も補給艦「はまな」、イージス艦「こんごう」、護衛艦「ありあけ」の3隻、約600人が活動中である。
 2003年3月までの海上自衛隊の活動経費総数は、229億円に上っている。政府は時限立法であるテロ対策特措法を再々延長した。
 勿論その理由は米軍からの要請によるものである。2003年2月25日、海上自衛隊の補給艦「ときわ」がオマーン湾で米軍の補給艦に燃料約83万キロリットルを洋上給油した。その数時間後、同じ米補給艦が米空母キティーホークに給油した。この空母キティーホークがイラク攻撃に使用された。海上自衛隊が洋上給油した燃料は、イラク攻撃に使用されたのであった。
 このように海上自衛隊のインド洋での活動は、米軍の戦闘行動と一体である。自衛隊は米軍のイラク攻撃に参戦しているのである。
 2001年9月4日付『朝日新聞』朝刊によれば、すでに1984年の「日米シーレーン防衛行動訓練」で、海上自衛隊の護衛艦やP3C対哨戒機が米空母機動部隊の一部を構成し、空母護衛の役割を担ったという。そして米軍のアフガニスタン空爆が始まると、海上自衛隊の艦船がインド洋で作戦行動中の米軍に対して給油等の後方支援をした。日米が共同して具体的に軍事行動を行ったのであった。まさに米軍支援のための海上自衛隊である。
 米軍がアフガニスタンやイラク攻撃の際に新型核兵器ともいうべき劣化ウラン弾を使用し、空爆による被害は勿論のことだが、その後も人体に深刻な被害を与え続けていることはNGOなどの様々な活動によって報告されているとおりである。これは「人道に対する犯罪」にあたる。
 そのイラクに、日本政府は前述したように、2003年7月26日、自衛隊を派遣する特別立法「イラク特措法」を成立させ、自衛隊を派遣した。
 米国からの要請があればすべて従うというのが被告の安全保障政策であると言わざるをえない。

5.国連憲章、国際法に違反する米軍の行動
 被告がさせている前記陸・海・空の自衛隊の活動は、2003年3月20日、米国が国連安保理での決議を経ることに失敗した後、イラクに対して行った先制攻撃に起因するものである。イラク攻撃によって人員的・財政的に苦境に陥っていた米国は、同盟諸国に対して人員(兵隊)の派遣と、占領費用の分担を求める外交的圧力をかけた。これに対して、小泉首相は1年間で15億ドル(約1,650億円)、2007年までに50億ドルを分担することを約束し、2003年内には陸上自衛隊をイラクに派遣することを約束した。
 イラクに対する米国の攻撃は、イラクによる米国に対する武力攻撃或いはその差し迫った危険のない状態で先制攻撃(予防攻撃)がなされたものであり、自衛のためとは到底言えず、国連憲章第51条に違反するものである。
 このような米国のイラクに対する先制攻撃は、国際社会が1928年パリ不戦条約以降、営々として積み重ねて来た戦争の違法化の試みを粉々に打ち砕くものである。
 国際問題評論家である私は、ここで米国がイラク戦争を起こすに至った経緯について述べたい。
 2003年3月20日、米国はイラクに対する軍事攻撃を開始した。ジョージ・W.・ブッシュ米大統領は、サダム・フセイン・イラク大統領が大量破壊兵器を所有し、これがアルカイダなどテロリスト組織に渡る危険性があるということを、イラク攻撃の理由として挙げた。これは、イラク攻撃の唯一の理由であった。これは、ブッシュ大統領が任命したイラクの大量破壊兵器調査団のケリー団長の議会証言によって覆された。今日では、ブッシュ大統領のイラク戦争の大義はもはや存在しない。
しかし、ブッシュ大統領のイラク戦争の「大義」とは、2001年9月11日、米国がニューヨーク、ワシントンにおいて、大規模な同時多発テロ攻撃を受け、その犯人たちの組織が、当時アフガニスタンにあったオサマ・ビンラディン率いる組織アルカイダである、ということから由来していた。
つまり、ブッシュ大統領にとっては、アルカイダこそは米国の安全保障にとって最大の脅威である、ということになる。
 したがって私は、そもそもこの9.11事件の真実を明らかにすることから始めなければならない。

1)9.11の真実
 9.11事件は、謎の多い事件である。2001年9月11日朝、2機のジャンボ・ジェット機がハイジャックされ、ニューヨークの世界貿易センターのツイン・ビルにそれぞれ突入したということは事実である。また、同じ日、もう1機がハイジャックされ、ニュージャージー州に墜落した。これも事実である。しかし、米国政府が発表したハイジャック犯のプロフィルを含めて、すべて謎に包まれている。同じ日にワシントンの米国防総省(ペンタゴン)に突入した4機目のハイジャック機については、後に述べるように、はたして突入事件があったかさえも謎である。
 以下、9.11事件をめぐる謎について、いくつか述べよう。 
(1)ブッシュ大統領は9.11事件を事前に知っていた
2002年4月12日、シンシア・ マッキンニー連邦下院議員(民主党・ジョージア州選出)は、「ブッシュ大統領と閣僚たちが9月11日のテロ攻撃を事前に知っていながら、何ら阻止する方策をとらなかった」、「これは、米国の新しい戦争で巨額の利潤を得ることが出来る人びとが、ブッシュ政権に近いところにいるからだ」として議会に調査委員会を設けることを要求した。そして議会は、9月11日事件について調査委員会を設立し、調査を始めたが、今日にいたるまで結論が出ていない。
 一方、米国のマスメディアは、2002年5〜6月頃、しきりに「2001年8月の段階で、すでに米中央情報局(CIA)はアルカイダのメンバーが米国内で航空機をハイジャックし、それを武器にしてテロ攻撃をするという情報を掴んでいた」と報道していた。たとえば、2002年5月28日付の『ニューヨークタイムズ』紙は、「この情報を、2001年8月6日、テキサスの牧場で夏休み中のブッシュ大統領にCIAがブリーフィングした」、しかし、「通常、このような重大な情報をブリーフィングするのはCIA長官の役目だが、なぜかこのときは下級職員を派遣した。そして、大統領は気にも留めなかった」と書いている。同紙は、さらに、2002年6月4日付けで、「CIAは、米国内で、ハイジャック犯人の1人であったアルカイダのメンバーを、事件の1年も前からつきとめていたことを記録した秘密文書を議会に提出した」と報じている。
 今年に入って、上記の報道を裏付ける証言が、ブッシュ政権内、或いは近い人物たちから次々となされた。
 これらの報道によって、CIAとブッシュ政権が、事件が起きることを事前に知りながら、何も手を打たなかったことが明らかになった。これが単なる誤りであったのか、あるいは意図的なものであったかは、議会の調査委員会の結果を待たねばならない。
(2)9.11がアルカイダの犯行であるという証拠はない
 ブッシュ大統領は、9.11事件が起こった当日、アルカイダの犯行であると発表した。
しかし、今日にいたるまで、9.11事件の犯行声明はない。米国政府が発表した証拠は、アルカイダのリーダーとされるオサマ・ビンラディンが9月11日の1ヵ月前にシリア
の母親に「これから当分連絡できないことになる」と電話した盗聴記録のみである。これは必ずしも9.11事件の予告とは言えない。したがって証拠にならない。
 9.11事件の犯行に関しては、アルカイダとそのリーダーであるオサマ・ビンラディン、さらにアルカイダをその領土内に匿っていた当時のアフガニスタンのタリバン政権の最高指導者であったオマル師も認めていない。
 米国政府は事件直後いち早くハイジャック犯19人の名前と顔写真を発表した。これはハイジャックされた航空機の残骸から回収したものであると説明した。ここでニューヨークの世界貿易センターのツイン・ビルに突入した航空機2機を例にとってみよう。
 通常航空機に搭載されているブラック・ボックスは2000度の高温に耐えるように設計されているのだが、これはついに同ビルの瓦礫の中から発見されなかった。にもかかわらず、なぜパスポートという燃えやすい物体が同じ場所で発見されたのであろうか。
 ハイジャック犯の主犯はモハメッド・アタであったと米国政府は発表した。その理由は積み残された荷物と駐車場に残されたレンタカーにあった証拠に基づくという。しかし、なぜ、彼の荷物とレンタカーだけが残されたのであろうか?これらは、事件の証拠として成立するのだろうか。9.11事件はアルカイダの犯行だとする説が定着しているが、これには明確な証拠はない。
(3)ハイジャック機はレーダーで誘導されていた?
2002年2月25日付け『ニューヨークタイムズ』紙によると、2001年9月11日朝、ハイジャックされた2機が世界貿易センタービルに突入したビデオを専門家が分析した結果、「最初に北ビルに突入したAA11号機の飛行速度は毎時494マイル、16分後に南ビルに突入したUA175号機は586マイルであった。その結果、南ビルの崩壊が、先に攻撃された北ビルより早かったのだ」と報じた。さらに同紙は、「このスピードでは、ほとんど海抜ゼロ・メートルの飛行は無理だ」と結論づけた。ではどうして突入が起こったのだろうか。
 米連邦捜査局(FBI)によると、ハイジャック犯の中でパイロットの役目をしたのは自家用機の運転を教えるマイアミの航空学校を卒業した人物たちとされる。しかし、彼らがハイジャックしたのは自家用機ではなく、何万マイルも練習飛行を終えたパイロットしか操縦できない大型のジャンボ・ジェット機であった。明らかに、航空機の外部からレーダーで誘導されなければ、突入は不可能であった。では、誰が誘導したのか、それは謎だ。
 一方、ワシントンのペンタゴン(3階建て)に突入したAA77機はどうしたのか。この事件を撮影したビデオはない。 
専門家は、ペンタゴンの1階に突入した点を重視している。なぜなら、ジャンボ・ジェット機が、地上すれすれに飛行するのはほとんど不可能だからだ。「ミサイルによる攻撃だった」という説もある。では、ハイジャックされたAA77は何処に行ったのか、代わりにミサイルを発射したのは誰か、これも謎である。
 ではなぜ米国がテロ攻撃のターゲットになったのか。
 冷戦後、米国は唯一の超大国となった。
一方、市場経済のグローバリゼーションによって、世界大に格差が拡大し、貧困層が増大した。世界銀行の調査によると、1日1ドルという絶対的貧困層の数は13億人を超えている。これは世界人口の5人に1人という割合である。今日、これら絶対的貧困層の存在は、80カ国に及んでいる武力紛争と頻発するテロリズムの温床となっている。そして紛争とテロは憎悪の悪循環を生み出している。その憎悪の矛先が、唯一の超大国である米国に向けられるのは、いわば当然のことである。
 したがって、紛争とテロをなくすることは、その根源である貧困をなくすることである。このことをなおざりにして、テロを力でもって鎮圧することは不可能である。
米国では、30年前のケネディ大統領暗殺事件の謎も解明されていない。1960年代、ベトナム戦争をエスカレートさせ北爆のきっかけを作った「トンキン湾事件」の謎も解明されていない。このような事例は枚挙にいとまがない。米国は実に陰謀の多い国である。
これまで述べたように、9.11事件についても同様である。唯一明確な事実は、9.11事件で最も得をしたのは誰かということである。それはブッシュ大統領にほかならない。

2)オサマ・ビンラディンは誰か
 オサマ・ビンラディンは、CIAの申し子である。したがって、米国は、自らが製造したフランケンシュタインの影に脅かされていることになる。このような例を俗に自業自得と呼ぶ。
(1)ソ連のアフガニスタン侵攻と米CIAの工作
 1979年、ソ連軍がアフガニスタンを侵略した。78年4月以来、アフガニスタンには、人民民主党と親ソ派将校が連立したタラキ政権があった。タラキ政権は、ソ連と友好条約を結び、国内では、急進的な土地改革を行っていた。これが、旧封建勢力との衝突を生み、すでにイスラムの反政府ゲリラが活動していた。このような社会不安に乗じて、タラキ大統領の下にいたアミン首相がクーデタで政権を奪った。アミンの外交政策に不安を感じたソ連が、軍事介入を行い、親ソ派のバラク・カマルを政権の座につけた。
 アフガニスタンは、内陸の山岳地帯で、可耕地は国土の5%でしかなく、人口の90%は遊牧民という貧しい低開発国である。しかし、中央アジア諸国、イラン、パキスタンと国境を接しており、地政学的には重要な地位を占める。ソ連軍の侵略に脅威を感じた米国は、CIAを使って直ちに史上最大規模の大諜報作戦を開始した。
 CIAの作戦は、パキスタンの軍情報機関(ISI)を通じて行われた。ISIは、イスラム諸国の若者に、ソ連の侵略に抵抗するアフガニスタンの「ジハード(聖戦)」を呼びかけた。1982〜92年、イスラム圏の40カ国から、35,000人のジハード志願兵「ムジャヒディーン」がパキスタンのISIの施設でゲリラの訓練を受けて、アフガニスタンに送り込まれた。この費用を支払ったのはCIAだが、その総額は20億ドルといわれる。この中に、サウジアラビアから参加した20歳のオサマ・ビンラディンがいた。
 一方、ISIは、CIAと共謀して、パキスタンに流れ込んだアフガニスタン難民の若者に、マドラッサと呼ばれるイスラムの神学校に学ぶ機会を与えた。ここでは、イスラム原理主義の教義とともに、テロの訓練も施された。この卒業生は、タリバンと呼ばれ、対ソ連ジハード戦のムジャヒディーンの主力勢力となった。ソ連崩壊によって、92年4月、ソ連軍が撤退した。94年、タリバンがパキスタンから進撃し、たちまちアフガニスタンの実効支配者となった。やがて、マドラッサもまた、イスラム諸国の若者に門戸を開き、その結果、イスラム諸国から10万人の若者が、ここを卒業した。その中にはタリバン政権に参加した者もいるが、多くは、出身国に戻り、イスラム原理主義の勢力の中核になっている。
 CIAの援助は、パキスタンのISIを通じた「ムジャヒディーン」の養成にとどまらなかった。85年、レーガン大統領の直接指示により、対ソ連ジハード戦に年間65,000トンの武器が供与された。武器援助にともなって、CIAとペンタゴンの要員がパキスタンに派遣された。彼らは、ラワルピンジのISI本部で、ジハードの作戦を練ったといわれる。
(2)CIAの麻薬作戦
 CIAの大諜報作戦の知られざる第三の任務は、麻薬栽培であった。ソ連のアフガニスタン侵略以前に、パキスタンとアフガニスタンにはすでに、阿片の原料であるけしの栽培が行われていた。しかし、それは少量であり、地域の市場に出回るだけで、ヘロインに精製されることはなかった。CIAの作戦が始まって2年も経たないうちに、この地帯は世界最大のヘロイン生産地となり、米国のヘロイン市場の60%を供給するまでになった。パキスタン国内でも、麻薬中毒者は急増し、85年には、120万人に上った。
 アフガニスタンでは、ムジャヒディーンがゲリラ地域を拡大するたびに、農民に「革命税」と称して、一定のけしの栽培を義務づけた。パキスタン側の国境沿いには、麻薬シンジケートとISIが数百カ所のヘロイン精製工場を経営した。米本国から麻薬取締り官が派遣されても、CIAによって、必ず捜査活動が阻まれた。米国内の麻薬問題は、対ソ戦略に従属させられたのであった。
 この麻薬取引は、年間2,000億ドルに上ったといわれる。この額は世界の麻薬取引の3分の1を占めた。もし、これが真実ならば、CIAの20億ドルの資金援助や武器援助はとるに足らない額である。CIAは支払った額のものよりはるかに多くを麻薬取引から得たことになる。
 オサマ・ビンラディンや他のムジャヒディーンは、CIAのこの大諜報作戦を知らないかも知れない。しかし、彼がCIAに養成され、やがてフランケンシュタインにまで成長したことは間違いのないところである。
(3)イスラム原理主義とは
 イスラムは一神教の宗教の中で、最も寛容な宗教である。ユダヤ人を「ディアスポラ(離散)の民」にしたのは、ローマであって、イスラムではない。長い間、イスラムはユダヤ人と共存してきた。また、イスラムは女性を差別する宗教ではない。預言者マホメッドは、未亡人と結婚し、幸福な夫婦生活を送った。女性、子ども、動物にやさしい人であった。現在タリバンが女性の教育、労働をはじめとするあらゆる権利を奪っているのは、イスラムの教義でもなければ、コーランにもとづくものでもない。
 今日のイスラム原理主義は、イスラム諸国の政府の腐敗、イスラム教指導者の無能さに対する人びとの不満と怒りに根ざしたものである。民主主義と市民社会がある程度成熟していれば、このような不満や怒りは、正しい政治的な解決の方向に向かうのだが、イスラム諸国には、残念ながらそれは望めない。
 したがって、イスラム原理主義は、一方では、人びとの敵に対しては、「テロ」、あるいは「自爆テロ」を行い、他方では、人びとに対しては、カネを貸したり、アラビア語を教えたり、医療活動をしたり、食糧や住居を提供したりしている。これはNGOと同じような活動である。ただし、NGOと異なる点は、NGOは貧困の撲滅と貧困者のエンパワーメントを目的とするが、原理主義は新しい原理主義者を育成することを目的としているところにある。その結果、原理主義は貧しい人びとの間では、一定の支持を得ている。
 ブッシュ大統領は、オサマ・ビンラディンとアルカイダの壊滅を叫び、これを軍事的に封じ込めようとしている。しかし、アルカイダは伝統的なピラミッド型の組織ではない。「反西欧」という漠然とした合言葉をもつ独立した単位の無数の組織からなる緩やかなネットワークであろう。この様なネットワークを壊滅させることはとうてい不可能である。モグラ叩きのような無益な行為である。
(4)「テロ」とは何か。
 これまで、国連や先進主要国首脳会議(G8サミット)などにおいて、テロ問題は常に重要な議論のテーマとなってきた。そして、多くの国際条約の締結やG8サミット宣言がなされてきた。 
 しかし、国際政治の場では、テロの定義についての合意はない。 
このことを踏まえた上で、「テロ」とは何かを考えてみよう。
まず私は「テロ」と「ゲリラ」との違いを問題にしたい。
 歴史的には、「政治的な暗殺」を「テロ」と呼んできた。幕末の井伊大老の暗殺、第一次世界大戦の引き金になったオーストリアの皇太子暗殺などは歴史を変えたテロ事件であった。一般的には、テロは、支配階級が衰退、腐敗していながら、変革しようとする勢力がいまだに弱体である時に起きる。いわば、テロは社会の弱さの表現である。
 また、テロとゲリラは、目的の正当性では共通しているが、その手段や戦略は根本的に異なるものである。ゲリラは、対独レジスタンスや、毛沢東の解放戦争、アルジェリアの対仏独立戦争、ベトナム戦争の民族解放戦線のように、支配者や占領者の正規軍に対して、軍事力では劣る解放勢力の闘争手段であり、圧倒的な人びとの参加、ないし支持がある。その点では、ゲリラは、社会の強さを表わしている。
 イスラム原理主義による「自爆テロ」は、古典的な意味の「テロ」ではない。つまり「政治的な暗殺」ではない。これは、「無差別テロ」と呼ぶべきものである。そして、9.11の「自爆テロ」は、否定的、破壊的な役割を演じている、許しがたい行為である。
 2000年9月28日、当時極右リクード党首シャロン(現在はイスラエル首相)が、東エルサレムのアル・アクサ・モスクに1,000人の武装警官を引き連れて侵入した。当時、オスロ合意に基づくパレスチナのPLOとイスラエル政府間の和平交渉は行き詰まっていた。パレスチナ人の間には、イスラエルが交渉の場に出したパレスチナ自治区の最終地図が、西岸とガザの総面積の僅か13%にすぎないことを知り、怒りが充満していた。
 アル・アクサ事件が引き金となって、パレスチナ人のインティファーダが再発した。インティファーダとは、パレスチナ人の「非暴力の暴力」とも呼ぶべき闘争形態である。イスラエル占領軍に対して、パレスチナの子どもが石を投げる、女性がイスラエル商品をボイコットする、パレスチナ人労働者がイスラエル企業に対してストをする、といった占領地のパレスチナ人社会総ぐるみの抵抗闘争である。これに対して、イスラエル軍が発砲し、パレスチナの子どもが死ぬ。パレスチナ人のインティファーダは一層激しくなり、一方、イスラエルは、世界中から非難を浴びる。これが繰り返され、1987年12月に始まった第一次インティファーダは、93年9月のオスロ合意をもたらした最大の要因となった。
 2000年9月、第二次インティファーダが始まった。ところが、2001年5月、イスラム原理主義による「自爆テロ」が始まった。これに対して、イスラエル軍がパレスチナ自治区を空爆する、また、自治区をイスラエル軍戦車が蹂躪するなどの報復が始まった。こうしてパレスチナの「自爆テロ」対「イスラエルの国家テロ」という構図が生まれ、パレスチナ人のインティファーダは陰に追いやられてしまった。
 ブッシュ大統領が、中東和平に無関心になり、イスラエルの国家テロを支持しても、国際世論は動かなかった。PLOが、「国際監視団を派遣して、パレスチナ自治区を守ってほしい」と、悲鳴に近いアピールをしても、国際世論はこれを無視した。また、オスロ合意にもとづいて最初のパレスチナ自治区となったジェリコの町をイスラエル軍の戦車が占領し、パレスチナ住民を無差別殺戮しても、国際社会は動かなかった。このように、イスラム原理主義の「自爆テロ」は、パレスチナ人の正当な闘いであるインティファーダに対して否定的、破壊的な役割を演じてきたのであった。

3)テロ行為は法によって裁かれるべきである
 私は、今日にいたるまで国際社会はテロの規定をめぐって合意してはいない、と述べた。にもかかわらず、国連ではこれまで11のテロ防止・禁止の国際条約が制定されており、その内、10の条約がすでに発効している。
 9・11事件は、2001年5月に発効した「テロリストの爆撃抑止条約」が該当する。米国はこの条約に署名したが、まだ批准をしていない。一方、米国のアフガニスタン爆撃やイラク攻撃はこの条約に違反している。したがって、米国はテロ国家ということになる。
 2000年に制定されたテロ資金抑止条約はまだ発効にいたっていない。米国も批准していない。しかし、ブッシュ大統領は、一方的に世界に対してオサマ・ビンラディンとアルカイダ組織の資金の凍結を要求している。
 9・11の無差別テロ事件は「国際的犯罪」である。したがって、このような国際的な条約によって裁かれなければならない。
 9.11事件が「国際的犯罪」であるとしたら、その容疑者を裁くのは、中立の国際司法機関でなければならない。なかでも2002年7月にオランダのハーグに設立された国際刑事裁判所で裁くべきだという意見が多い。しかし、国際刑事裁判所設立条約第11条によれば、同裁判所は同条約締結以前の犯罪を裁くことが出来ない。
だが一方では別の見解もある。1968年、国連は「戦争犯罪と人道に対する罪については、法の制限不該当条約」(総会決議第2391号)を制定した。人道に対する罪には時効はないのだ。この条約によると、9・11事件の容疑者は「人道に対する罪」で告発され、国際刑事裁判所で裁かれる。
 国際刑事裁判所の設立条約は、1998年、イタリアのローマで締結された。米国は、この条約の起草に積極的に関与したにもかかわらず、現在では、先進国のなかで唯一国際刑事裁判所に反対している。さらに米議会は「ローマ設立条約を批准した国に対する軍事援助と米国の国連PKO参加を禁止する法」を採択している。
 また国際刑事裁判所の創設以前でも、暫定国際法廷を設けて容疑者を裁くことができる。第2次世界大戦後、戦犯を裁いたニュールンベルグ法廷や東京法廷もローマ設立条約のようなものはなく、いわば暫定的に設置されたものであった。旧ユーゴとルアンダについての国連のハーグ法廷も暫定的国際戦犯法廷である。9・11事件についても同じような暫定国際テロ犯罪法廷を設けて容疑者を裁くことができる。
 
4)テロの報復としてのアフガニスタン戦争は不法
 そもそも、ブッシュ氏は、米国の半分の大統領であった。2001年1月、ブッシュ氏が大統領に就任した時点では、彼は民主党候補のアル・ゴア氏との勝敗を決していなかった。しかし、9.11で文句なく80%の支持率を集めた。ブッシュ氏にとって、9.11が“神風”であったことは確かである。
 ブッシュ大統領は9.11テロ事件を「戦争だ」と叫び、いち早く、CIAの申し子であったオサマ・ビンラディン氏をテロの主犯と決め付けた。そして「テロの犯人を匿ったタリバン政権も敵だ」として、アフガニスタン戦争を始めた。この時点では、「米国が攻撃されれば、報復戦争をする」戦略であった。
(1)アフガニスタン戦争と国際法              
 米国のアフガニスタン戦争は国際法違反の不法行為である。米国自らが作成に参画し、批准している国連憲章は、国際紛争を平和的に解決する義務を明記してある。
 2001年10月7日、米国はアフガニスタンに対して、空爆と特殊部隊による攻撃を行った。ブッシュ大統領のアフガニスタン戦争は、国際法に違反している不法行為である。
 ブッシュ大統領は、これを「戦争」だと宣言したが、これは政治家の単なるレトリックにすぎない。9・11事件は無差別テロである。したがって、これは「戦争」ではなく「犯罪」である。多数の民間人を殺戮したという点で「人道に対する犯罪」である。
 さらに、ブッシュ大統領は9・11事件の主犯としてオサマ・ビンラディンの名を挙げ、彼を匿っているアフガニスタンのタリバン政権に対して、「引き渡すか、さもなければ報復攻撃をする」と宣言した。
 これは、すべて国際法に違反している。
 1945年、米国は国連を創設した連合国のリーダーであった。第2次世界大戦では、戦闘員よりもはるかに多くの民間人が犠牲になったことを反省して「国際間の紛争を平和的手段で解決する」ために国連が創設された。それは国連憲章の第2条に加盟国の義務として明記されている。米国はこの憲章を起草し、成立に指導的役割をはたした。
 しかし、朝鮮戦争、ベトナム戦争など「共産主義の脅威から民主主義を守る」ためという口実でこの国際法を破り続けて来た。冷戦後は湾岸戦争を皮切りにリビア、イラク、スーダン、旧ユーゴなどに対して不法な軍事攻撃を繰り返してきた。このように米国は一貫して国際法に違反してきた。
 9・11の無差別テロに対しても、米国は国連憲章第2条の原則を守る義務がある。さらに、いかなる国際法でも報復のための戦争を認めていない。
(2)国家の自衛権は限定的
 ブッシュ大統領は、アフガニスタン戦争を「自衛権の発動」であると宣言した。確かに、国連憲章第51条には、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」が認められている。しかし、この自衛権は限定的なものである。51条のはじめに、自衛権の発動を認められるのは、「安保理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」と明確に書かれている。
 さらに、2001年10月4日、NATOは創設以来はじめて第5条を発動させ、米国のアフガニスタン戦争への参戦を決定した。しかし、NATO条約も、国連憲章の枠の中にある。したがって、NATOの集団的自衛権も安保理事会が平和的解決をはかるまでの期間に限定される。
(3)軍事力で政権転覆は不法
 いかなる国際法も軍事力をもって他国の政権を転覆することは許されない。しかし、冷戦時代、共産主義の脅威を理由に、米国はCIAを使って第三世界の政権を転覆してきた。1953年、イランのモザデグ政権、1960年、コンゴのルムンバ政権、1973年、チリのアジェンダ左翼政権の転覆など枚挙にいとまがない。
 アフガニスタン戦争は、オサマ・ビンラディンとアルカイダを匿っているとしてタリバン政権を打倒した。これは国際法上重大な不法行為である。
(4)民間人攻撃はジュネーブ条約違反
 1949年のジュネーブ条約の第1議定書は無差別攻撃を禁止している。この無差別攻撃の対象には民間人ばかりでなく、軍事目標も含まれる。民間人を報復の対象にすること、食糧、収穫物、家畜、飲み水、灌漑施設など民間人の生存に不可欠な目標を破壊することは、厳密に、絶対的に禁止している。
 米国はこの議定書を批准している。したがって、アフガニスタン戦争で起こっていることはすべてジュネーブ条約に違反している。そして、これらすべてのことは、米国のイラク戦争にも当てはまる。

5)米国のイラク戦争は国際法に違反している
 ブッシュ大統領は、2002年1月の年頭教書で、「イラク、イラン、北朝鮮を悪の枢軸」と呼び、報復戦争を宣言した。その理由として、これら3カ国が核、生物、化学兵器という大量殺戮兵器を製造、所有していることを挙げた。この大量殺戮兵器は、米国の安全保障に対する脅威である、とした。
 さらに2002年5月30日、ブッシュ大統領は、ウエストポイント陸軍士官学校の卒業式に臨席して、「新戦略」を発表した。それまでは、「米国がテロ攻撃を受ければ、テロ犯人を匿っている国を攻撃する」という戦略であった。これはすでに「やられたら、やり返す」という無法世界の掟にすぎず、法治国家のルールではない。
ブッシュ大統領は、それをさらに、世界中のテロのネットワークを、「先制攻撃する」新戦略に代えた。これは、米国の単独行動主義として、国際的な批判を呼んだところであった。
さらにブッシュ大統領は「アルカイダのネットワークは60カ国に及んでいる」と付け足した。つまり、米国は世界中で約3分の1に近い国に対して「戦争をしかける」ことを宣言したのであった。これは国連憲章に違反しており、明らかな国際法違反である。
 ブッシュ大統領の米国は、自ら名づけた「ならずもの国家」に成り下がったのであった。
 しかも、2002年1月の年頭教書では3カ国が大量破壊兵器を所有していることを先制攻撃の理由に挙げ、その数ヵ月後には、テロリストを匿う国として60カ国を先制攻撃の対象国に挙げた。このようにブッシュ大統領の米国の戦略には一貫性も、整合性もない。
 2002年9月、9.11事件の1周年記念日になると、ブッシュ大統領は、イラクに的を絞って先制攻撃戦略の発動を示唆するようになった。その理由は、イラクのサダム・フセイン政権が大量殺戮兵器を製造し、所有しており、これをアルカイダに渡す危険がある。これは、米国の安全保障に対する重大な脅威であるとした。これがブッシュ大統領のイラクに対する軍事攻撃の理由づけであった。
 しかしアルカイダとイラクのフセイン政権の仲が悪いことは、古くから国際的に知られていた。また、米国CIAも、フセイン政権とアルカイダのテロ組織との関係を証明することができなかった。
 国連のブリックス査察団はイラク国内で大量殺戮兵器の査察を再開していた。そしてこれを続行すべきであるという答申をだしていた。この段階では、イラクに大量殺戮兵器が存在するという証明はなされていなかった。
 ブッシュ大統領は、2003年1月の年頭教書であらためて「悪の枢軸」としてイラクを名指したが、これは事実上の「戦争宣言」であった。
実は2002年5月、ウエストポイントの士官学校の卒業式で、ブッシュ大統領が「先制攻撃戦略」を発表した時には、米国はすでに対イラクの実戦準備を完了していたのであった。その1カ月後には、ペンタゴンは、イラクを25万人の兵力をもって北、南、西の3方面から攻撃するという軍事計画を発表した。イラク戦争は2003年3月20日以前からすでに始まっていた。 
 ただし、ブッシュ氏の誤算は米議会の民主党の抵抗と、ヨーロッパの首脳たちが非協力だったことである。したがって、米国は国連安保理での決議採択とイラクへの国連の査察団派遣という余計な“儀式”を経ざるをえなくなり、Dデーは1年近く遅れてしまった。  
ブッシュ大統領がこのような余計な“儀式”を取らざるをえなかった背景の1つに草の根の反戦運動があった。
 米議会の抵抗は、言うまでもなく個々の民主党議員の信念もあったのだろうが、その背景には、米国内の反戦世論の高まりがあった。
 たしかに、9.11直後には、米国の世論はテロ反対一色に塗りつぶされた。その1カ月後、アフガニスタン戦争開始の際には議会で反対票を投じたのはサンフランシスコ選出の下院民主党バーバラ・リー女史1人だった。彼女の選挙区であるバークレイは、全米で最もリベラルな町と呼ばれている。
 しかし、2002年に入ると状況に変化が見られた。9.11で逼塞させられた反グローバリゼーション派が復活した。2002年4月20日土曜日の午後ワシントンで開かれたIMF・世銀の春季会議に対して全米から10万人以上の人びとが集まり抗議デモを行った。
 このデモは、「途上国の債務帳消し」や「多国籍企業の不正行為を糾弾する」ものなど、多様な要求を掲げていたが、中でも多かったのは、「イラク戦争反対」「パレスチナに連帯」と書かれた横断幕やプラカードであった。これは、ベトナム戦争当時を思い起こさせる風景であった。
 さらに、2002年10月26日にはブッシュのイラク戦争に反対する大規模なデモが全米各地で行われた。これを組織したのは、「戦争と人種差別をストップするために今行動しよう(A.N.S.W.E.R)」であった。 
 「A.N.S.W.E.R」は、米国最大労組のAFL-CIOをはじめ、キリスト教会、公民権運動、女性団体、NGOなどが参加している幅広い、緩やかな連合体である。ラムゼイ・クラーク元司法長官がスポークスマン的な役割を担っている。
 このイラク反戦デーには、首都ワシントンに20万人が集まった。サンフランシスコでは10万人、その他の都市では数千人が参加し、全米で50万人を超えた。ベトナム戦争以来、最大規模の反戦デモとなった。ワシントンのデモはあまりにも巨大であったため、最前列がホワイトハウスに到着し、取り囲んだ時には、最後尾はまだ出発さえできず30分も待たねばならなかった。
 デモは“議会は戦争に投票した”“我々は反戦に投票する”と叫んで歩いた。そして、ほとんどの人が「人びとの反戦投票所」と記されたテーブルの前で立ち止まり、署名した。
 この反戦投票戦術は、米国のマスコミが「アメリカ人の多数がイラク戦争に賛成している」と報じていることに対抗するもので、この「コンセンサス(合意)」の偽神話を暴露することにある。ブッシュの要求にゴム印を押した議会とマスコミの目を覚まさせることにある。
 2002年11月25日付けの米週刊誌『タイム』は、全米の大学で、学生がイラク戦争についての熱いディベートを繰り広げているという記事を載せた。中でも、キャンパス人口5万人という米国最大のテキサス州立大学では、学生自治会の指導部が20対17という投票結果で「イラク戦争反対」の決議を採択した。この大学にはブッシュ大統領の娘ジェンナが通っている。この決議文を起草したのは、9.11以後、全米の大学に組織された「平和と正義のためのキャンパス連合」という反戦組織である。これに対抗する右派は「保守派青年」に集まっている。しかし圧倒的に反戦派が優勢であるテキサス州立大学では、「保守派青年」が反戦決議をリコールしたため、全学生投票に掛けられたが、再び反戦派の勝利に終わった。
 一方、ヨーロッパでは9.11以後も変わらず大規模な反グローバリゼーションのデモが続いてきた。
 そして、2002年11月9日の土曜日には、イタリアのフィレンツェで100万人という大規模なイラク反戦デモがあった。これは、11月8〜10日、同じフィレンツェで開かれた「ヨーロッパ社会フォーラム」の主催者によって呼び掛けられ、イタリアをはじめフランス、スペイン、ギリシア、イギリス,さらにポーランド、ハンガリアなどの東欧からも参加した。そのメーンなスローガンは、「グローバルな戦争をやめろ」「ブッシュを追い落とせ、爆弾を落とすな」などであった。後者は、ブッシュと爆弾を「Drop(落とす)」に引っ掛けたものである。また、「ブッシュは1人だ。我々は100万人だ」という横断幕もあった。
 このデモに先だって、10月、ブレア首相のお膝元ロンドンでは40万人がイラク戦争反対のデモをした。
 そして、2003年2月15日、世界各地で同時にイラク反戦のグローバルなデモが起こった。デモ参加者の数は延べ1,200万から2,000万人に達した。ロンドン市内を埋め尽くした200万人を皮切りに、ローマで100万人、マドリッドで100万人、そして、大西洋を渡って、ニューヨークで50万人、サンフランシスコで50万人、そして太平洋を渡ってメルボルンで100万人と、地球を一周した。インターネットの恩恵で、世界の人びとが同時に超大国である米国の先制攻撃戦略に対して、「ノー」の声をあげたのは、歴史的にないことであった。同年2月18日に『ニューヨークタイムズ』紙は、「今日の世界には米国という超大国に対して、国際世論というもう1つの超大勢力が存在する」と書いた。またロンドンのデモの参加者は、「これはもはや単なるデモではない。歴史的事件である」と叫んだ。
2003年3月、ブッシュ米大統領は、イラクに対して軍事攻撃を開始した。当時これを支持し、軍隊を派遣したのはイギリス1国だけであった。
 米国のイラク攻撃は、国際法違反である。なぜなら、米国はこの問題を国連安保理に提起したのだが、安保理15カ国の中で、米国を支持したのは常任理事国ではイギリス1国、非常任理事国ではブルガリアとスペインの2カ国のみであった。常任理事国のフランス、ロシア、中国が反対した。そして、反対した非常任理事国の中には米国の隣国カナダとメキシコがいた。カナダとメキシコは米国と北米自由貿易協定を結んでおり、米国との関係は日本などとは比べようもなく深い。したがって、この2国の反対は政治的に重要な意味を持っている。米国は安保理の決議採決に必要な9カ国の賛成が得られなかった。
冷戦後、米国は唯一の超大国となり、国連安保理を仕切ってきた。しかし、国際社会は米国のイラク攻撃には「大義がない」として採決を拒んだのであった。このような事態は安保理始まって以来の出来事であった。国連決議の中で加盟国に拘束力を持つのは安保理決議だけである。その安保理が「ノー」と言ったのである。したがって、米国のイラク攻撃は国際法違反である。

第3 思考を停止させる「日米同盟」について
 日本は、「日米同盟」という呪文によって立憲主義を破壊し、米国のイラク侵略を支え、イラク市民、とくに女性や子どもの殺戮に加担した。さらに日本は、ブッシュ米大統領の求めに応じて、憲法の平和主義を踏みにじって、戦後初めて、陸上自衛隊を戦場であるイラクに、しかも米占領軍を支援するために派遣した。
 国の基本法である憲法を超え、かつまた国連憲章も超え、問答無用とばかりにすべての議論を封殺する「日米同盟」とは一体何であろうか。
 日米安保条約は日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約とセットで結ばれ、同講和条約発効後も占領軍としての米軍が「在日米軍」と名を変えて引き続き日本(本土)の占領状態を継続するための法、いわば「占領継続法」としての性質を有するものである。戦後の日本は法体系的には戦争を放棄した憲法と米軍と共同して戦争を行う日米安保体制という二つの相容れない法体系が奇妙に同居しており、後者による前者の空洞化の歴史であった。「日米同盟」の「呪縛」は、この出自に由来するところが大きい。
 日米安保条約はその前文において「日本国及びアメリカ合衆国は、両国の間に伝統的に存在する平和及び友好の関係を強化し、並びに民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し、また、両国の間の一層緊密な経済的協力を促進し、並びにそれぞれの国における経済的安定及び福祉の条件を助長することを希望し、国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、・・・両国が極東における国際の平和及び安全の維持に共通の関心を有することを考慮し、・・・」と述べ、国連憲章に定めるところに従い、民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配の擁護、「国際紛争を平和的手段によって」解決(同第一条)することを高らかに謳っている。ところが、近年世界で唯一の超大国となった米国には、地球温暖化防止のための京都議定書からの離脱、オランダのハーグに設立された国際刑事裁判所(ICC)への不参加など、国際協調、国連憲章、法の支配を軽視する傾向が見られる。とりわけ、ブッシュ大統領は、@ 先制攻撃戦略、A 単独行動主義(ユニラテラリズム)政策を打ち出した。これらは、「殺される前に殺せ」という無法時代への回帰であり、国連、すなわち国際協調主義の否定である。しかもブッシュ大統領のいう「先制攻撃戦略」は、米国に対する差し迫った侵害、つまり「急迫不正な侵害」がない場合にも行うというのであるから、それは言葉の正しい意味での「先制攻撃」ではなく、正しくは「予防攻撃」と呼ぶべきものである。
 そして「自由が失われ、人権が侵害されたという連中はテロリストの見方だ」(アシュクロフト米司法長官)という発言に見られるように「敵か味方か」という言語の一元化が急速に進められている。米国に対する無批判な従属でなく、言葉の正しい意味における「同盟」つまり対等な関係であるならば、ブッシュ大統領の行っている無法行為について、その非を諭し、その中止を求めるべきである。イラクを攻撃したブッシュ大統領に対して異を唱え、「査察」の継続を主張したフランス、ドイツもまた米国とは「同盟」という強い絆で結ばれていることを理解すべきである。
 「日本には日米安保条約がある。イラク問題では、米国に協力して“貸し”を作り、北朝鮮危機の時に“貸し”を米国から返してもらえばいい」(佐々淳行元内閣安全保障室長・2003年2月28日付『毎日新聞』朝刊)。
 或いは、「しょうがないじゃないの、日本は米国の何番目かの州みたいなものだから」(久間章生元防衛庁長官・2003年2月14日『朝日新聞』朝刊)等々と述べ、米国のイラク攻撃を支持すべきだとする主張があった。小泉首相も基本的には同じであった。これらの主張は「同盟の本質」を理解せず、敗戦コンプレックスから抜け出せない「自虐的国家観」に基づいたものである。
 ブッシュ大統領が国際法、国連憲章を無視してイラクを軍事攻撃したことは、日本と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との間にも重大な影響を与えることになる。当然のこととして北朝鮮の金正日政権は「イラクの次は自分達だ」と考えるであろう。
 北朝鮮外務省は、2003年4月6日、「国際世論も国連憲章もイラク攻撃を防げなかった。強力な軍事抑止力を備えてこそ、戦争を防ぎ、国と民族の安全を守れるというのがイラク戦争の教訓である」と声明し、さらに同年6月18日付『労働新聞』は「我々にも核抑止力を備える権利がある」などと「核抑止力」を公言している(『東京新聞』2003年8月28日)。
 米国が北朝鮮に対して「先制攻撃」を行った場合、日本が米国に無批判に追従するであろうことは、これまでの経緯から見てすでに実証済みである。では北朝鮮はどう反応するか。その対策として「核開発」による防衛の強化と日本に対する不信感の増幅であろう。その結果、日朝の溝はますます広がり、北東アジアの緊張は高まることになる。行き着く先は、有事法制の発動、日本の軍事化のエスカレーションであり、核武装化への道である。
 「我々の選択肢は、米国かイラクかである」(内閣参与・岡本行夫)というように米国追随は日本の「国益」のためにやむをえないとする論が盛んだが、真実はむしろ逆であることを理解すべきである。
 日米関係は軍事的なものだけでなく、経済、文化と多岐にわたるものであり、またブッシュ大統領1人との同盟ではなく、その国を構成する人びととの間のものでなくてはならない。
 米国は日本にとって重要な同盟国である。しかし、唯一の同盟国ではない。米国は軍事力では超大国であるかも知れないが、政治、経済、文化、社会発展、人口など複数の要因を考慮すると、中国、ヨーロッパ連合(EU)というもう2つの極が存在する。日本は、米国一辺倒ではなく、中国、EUとも対等な同盟関係を持つべきである。

第4 法的救済を求める原告の権利―被告法益
 私は被告に対して「イラク特措法」によるイラク及びその周辺地域並びに周辺海域における自衛隊の活動の差止とこれまでの自衛隊の活動に要した費用の国庫への返済を求め、かつ精神的苦痛としての慰謝料の支払いを求めるものである。
 イラク特措法による自衛隊のイラクに対する派遣は違憲、違法なものであることはすでに述べたとおりである。
 自衛隊のイラク派兵は当然のこととして日本国内の治安体制の強化となった。例えば、2004年2月27日、「立川自衛隊監視テント村」のメンバー男女3人が立川市内の自衛隊官舎の郵便受けにイラク派兵反対を訴えるチラシを入れたとして住居侵入の容疑で令状逮捕された。このような平和的、日常的、かつ合法的な市民の反戦活動に対して、「令状逮捕」し、拘留するという、民主主義の法治国家では考えられない警察の違法行為がまかりとおっている。
 テロに対しても、民主主義の法治国家であれば、あくまで法に基づいて対処しなければならない。しかし、米国のブッシュ政権が現在行っている「テロとの戦い」はすべての議論を封じ、超法規的な手段が許されるとしている。9・11事件以後、すでに数千人のアラブ系市民や居住者を逮捕状もなく、裁判もなしに長期不法拘留している。「テロリスト」に対しては刑事手続裁判も不要、戦時法規の適用も不要、しかも「テロリスト」は姿を隠していて、どこにいるかも判らない−どこにもいる−から個別的自衛権も集団的自衛権も関係ないというわけだ。そして「テロリスト」との戦いには、相手との交渉はなく、殲滅するまで続くから、何時終わるか判らない。アフガニスタンの次はイラク、北朝鮮、イラン、シリア等々終わりはない。「“テロリスト”との戦争とは実は敵を明示せず市民社会を不断の臨戦体制あるいは非常事態に置くための空前の発明なのである」(『テロとの戦争』とは何か―9・11以後の世界!・西谷修、以文社)。
貧困、富の配分の不公平というテロの根源に迫ることなく軍事的な対症療法に終始する限り、そしてこれまでのすべての国連決議を無視し、パレスチナの土地を占領・支配しているイスラエルに対する無策に見られるようなダブルスタンダードをとっている限り、米国が第2、第3の同時多発テロの恐怖から免れることはできない。
 米国に追随する日本も攻撃の対象から免れない。日本と同じく米国のイラク攻撃に賛成したスペインで起こった首都マドリッドの爆弾事件がその良い例である。
 2003年5月、ブッシュ大統領は、イラク戦争の勝利宣言を行った。彼はこれをもってイラク戦争を終了させたと信じたのであった。しかし、占領軍に対するイラク人の抵抗は、サダム・フセイン逮捕後も、連日のように続いている。米国は英国だけでなく、多国籍軍による占領という形式をとるために、同盟国に参戦するよう圧力をかけた。
 これに対して、日本の小泉首相は、いち早く「イラク戦争」を支持したばかりでなく、2003年末には、日本の自衛隊のイラクへの派兵を決定した。
まず第1に、今日のイラクはどのような状況にあるのだろうか。イラクのほとんど全土がゲリラ戦争の様相を呈している。毎日のように武装攻撃のニュースが流れているが、私にはフセイン派の残党や外国人アルカイダだけの仕業だとは、とうてい思えない。もし彼らだけの仕業だとすると、彼らは圧倒的多数のイラク人の支持を受けていることになる。それも大変なことだ。  
攻撃の中には、たしかに自爆テロもあるが、しかしほとんどは米占領軍や同盟国の支援部隊に対するゲリラ攻撃である。フセイン派も反フセイン派もともに戦っている。これをベトナム戦争になぞらえる人もいるが、むしろ私は、ナチの占領下のフランスのレジスタンス運動に似ていると思う。
ここで、自衛隊が「復興支援に来ました」とか「人道支援です」と言っても、イラク人には聞き入れられないだろう。米占領軍と同一に見なされて、ゲリラのターゲットになることは間違いない。イラク人から民族的レジスタンスを受けている米軍に自衛隊は参加することになる。つまり侵略戦争に加担するのである。したがって、これは明白な憲法違反である。
戦後、日本は戦争を放棄し、国連中心主義を唱え、途上国には多額の政府開発援助を行ってきた。巨額の対外資本投資も行ってきた。国内では、完全な農地改革を実施し、農村の貧困を根絶した。累進的な税制を持って、すべての人を中流化した。これらが、世界第2位の経済大国をもたらした。
現在日本は10年越しの不況下にある。デフレは進行し、失業も増えた。では、ここで日本は、戦前のような軍国主義の道をとるのか。それは全く解決にならないことを誰でも知っている。
日本の不況の克服の道は、国内を豊かにすることである。それは、米国に追従して、イラクに軍隊を送り、対米輸出を増やすことではない。この不況を輸出依存策で解決することはできない。
今、日本国内を歩くと、不況克服のために人びとが懸命な努力をしていることがわかる。都会では、あらゆる業種のNPO(非営利特定法人)が設立されつつある。とくに女性たちが少子高齢化対策や福祉の分野でNPOを立ち上げている。一方、地方では、自治体と住民が一体となって、伝統工芸の再発掘や地産地消の産業起こしに挑戦している。政治家たちがこの地域の潜在力を見ることが出来ないのが悲劇である。
私のように昭和1ケタ生まれにとっては、自衛隊のイラク派兵は、あの暗い戦争中の生活を思い起こさせるものである。あの道を2度と歩んではならない。

第5 東京地方裁判所に違憲立法審査権の発動を求める
 憲法第81条は、裁判所に「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する」と、いわゆる違憲立法審査権を認めている。
 しかし、違憲立法審査権の行使については、裁判所はこれまで謙抑的であり、とりわけ憲法第9条に関する事項については、1959年12月16日最高裁判所が砂川事件判決で、日米安保条約について「我が国の存立の基礎に極めて重要な関係をもつ高度の政治性を有するものであり」、それが「違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまず、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは裁判所の司法審査の範囲外のもの」と、いわゆる「統治行為論」を述べて、判断を回避して以来、その傾向が顕著になった。
 「統治行為論」に基づく違憲立法審査権の行使に消極的な見解の根拠として、三権分立、選挙権の行使としての間接的な議会制民主主義の制度が挙げられる。確かに市民の選挙権の行使を通じて選出された議員によって構成される議会で制定された立法が、市民の選挙による洗礼を受けていない裁判官によって簡単に否定されるというのは不都合だとする見解にも一理ないわけではない。しかし、立憲主義の下では、議会といえども万能の力を有するものではない。すなわち多数決原理によっても超えることの出来ない基本法(憲法)の制約というものがある。
 この基本法の制約を、その制約自体を改変することをせずに立法という手段で乗り越えることは許されない。それは法律という下位法によって基本法を変更しようとする法の下剋上であって許されないものである。多数決原理によってこれを強行するならば、それは議会の多数派による立憲主義否定のクーデターを意味する。
 もしそのような事態が発生したならば、裁判所はもはや「統治的行為論」によって違憲立法審査権の行使を躊躇してはならない。このような事態になってもなお裁判所が違憲立法審査権の行使を躊躇するならば、憲法第81条が規定する「憲法の番人」としての役割を放棄したことになる。
 すでに前記最高裁砂川判決から40余年、約半世紀近くが経過しようとしている。日本をめぐる国際情勢も大きく変化した。1989年には冷戦も終結した。グローバリゼーションによって、国家間の相互依存関係も比較にならないほど緊密になった。冷戦構造の最中にあった1959年当時はともかくとして、現在、日米安保条約が「我が国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するもの」ではないことは明らかである。
 また日米安保条約と極めて密接な関係を有する自衛隊の装備の拡充、そしてその活動、とりわけ米軍との共同行動は前記最高裁判決当時と比べて格段の違いを有するものであることは「一見極めて明白」である。
 前述したように、自衛隊の前身である警察予備隊が設立されて以来、憲法第9条との整合性について、政府はその場限りの説明を繰り返してきた。そして違憲立法審査権の行使に謙抑的な裁判所はこれを見逃し、放置してきた。裁判所のこのような消極的な姿勢が、この国での法に対する信頼を如何に損なって来たかを考える必要がある。イラク特措法による自衛隊のイラク派兵は、単に「政策」の問題であるだけでなく、すぐれて憲法的・法的問題であり、裁判所の職掌に属する。もはや裁判所は判断を回避してはならない。
 よって、原告は主権の行使の一環として裁判所に対し、憲法第81条の違憲立法審査権の発動を求め、請求の趣旨記載どおりの判決を求め、提訴する次第である。