DebtNet通信 (vol.1 #40)  
ザンビアのPRSP作成について
2001年8月30日


ザンビアのPRSP作成について

ワシントンにあるIMF・世銀問題についてのロビイ団体「Bread for the World Institute」は、米議会に対して「債務と開発資料」を発行しているが、そのシリーズ第5号「債務救済の影響と貧困削減戦略ペーパー(PRSP)−ザンビアのケース・スタディ」を発表した。

PRSPについては、Jubilee Southが「悪名高い構造調整プログラム(SAP)と同一であり、市民社会の参加などというのはまやかし」と批判している。この論文は、PRSP の作成過程など興味深い記述があるので、紹介する。以下はその抄訳である。

はじめに

今日ザンビアは、11月に、総選挙を控えており、政治的に微妙な時期にある。
IMF・世銀は、2000年末、ザンビアを拡大HIPCsイニシアティブによる債務救済対象国と認定した。だが、救済を受けた以後、より多くの額の債務返済をしなければならないという、とんでもない事態に追い込まれた。

ザンビアのMbewe大蔵経済開発相は、昨年12月、ルサカで開催された「債務戦略会議」で、2001〜3年間に債務の75%が削減されるが、一方では「HIPCsイニシアティブが実施された結果、2001〜5年の返済額は、1億7,000万ドル、1億6,000万ドル、2億2,000万ドル、2億1,000万ドルと増えていく」と語った。

このように返済額が増えるのは、1995年にザンビアがIMFから融資を受けた分の5年間の返済猶予期間が2000年に終るからである。ザンビアの債務救済額は、1999年12月31日の時点の債務状況をもとにして決定された。またIMFとザンビア政府は、救済後にはザンビアの経済が復活すると予測したが、実際には、そうはならなかった。

1970年代、銅価格が値下がりしたため、ザンビア政府は外国から借り入れ始めた。その結果、1980年代、ザンビアは債務危機に陥った。IMF・世銀の救済融資を受け、構造調整プログラムを導入した。独立以来続いていたカウンダ政権は、1980年代後半、独自の改革プログラムを試みたが、債務が増大し、経済危機が深まり、最後はIMF・世銀の構造調整政策を受け入れざるをえなくなった。これは大きな犠牲を人びとにもたらした。例えば、とうもろこしに対する補助金を廃止したことによって、主食価格が700%急騰した。ルサカと銅鉱山ベルト地帯で暴動が発生した。カウンダに続くチルダ政権も、構造調整政策を執行したが、経済は回復しなかった。 

世銀は、カウンダ政権が構造調整政策を不必要なものと考えていた、さらにチルバ政権も積極的に推進しなかったことが、経済に失敗と貧困の増大をもたらしたのだ、と言う。市民社会は、構造調整政策こそが、非効果的であり、貧困をもたらしたと言う。

今日では、世銀は、ザンビア政府が、世銀の構造調整融資に対して受動的に対応し、多くの人びとが参加していないことが、失敗の原因だった、と言い始めた。

ここで、債務国のオーナーシップと市民社会の参加を条件とするPRSPが登場してくる。

ザンビアは、拡大HIPCsイニシアティブによる債務救済を受ける条件として、PRSPを策定しなければならない。市民社会の参加だけでなく、透明性とアカウンタビリティが要求される。しかし、市民社会の中には、腐敗が一掃されない限り、債務帳消しをすべきでないという意見もある。一方では、市民社会は、PRSPプロセスが腐敗一掃できるチャンスだと考えている。

2000年7月、大蔵省が暫定PRSP(債務救済の交渉に入ることができる)を策定した。その中の貧困削減目標や経済政策一般は、IMFの資料のコピイしたものであった。そもそもPRSPは、市民社会の参加をもって策定されるべきである。そこで、市民社会側は、政府指導の諮問プロセスに参加するために、急遽組織化をしなければならなかった。Jesuit Center for Theological Reflection(JCTR)が中心的な役割をはたした。PRSPは8月に完成する予定である。

ザンビアの債務危機の根源

独立以来、ザンビアは、内戦になやまされることはなかった。したがって、静かな(構造的)危機と言える。人口970万人中、貧困層の数はその73%を占める。ザンビアの危機は、他のアフリカの重債務最貧国と同様、一次産品の価格の下落、対外債務の累積、構造調整政策、そしてハリケーンのように社会をなぎ倒しているHIV/AIDSなどによる。

1964年の独立以後の10年間、国家が経済を大きく支え、また銅の国際価格の好調が幸いして、社会部門に多くの予算が充当された。政府は農村開発を重視し、クレジット・プログラム、再定住プログラムを発足させ、さらに小農民に対して、肥料補助金を出し、農業技術を支援した。

銅の輸出は、輸出総額の75%にのぼっていた。しかし、1970年代の銅の値下がりによって、経済は衰退し、1976〜86年、ザンビアは5回にわたるIMF融資を受けた。

安定化と構造調整

1986〜87年、カウンダ政権は、政治的な圧力に答えて、自由化政策を中止した。しかし、1989年には、IMFの軍門にくだり、再び、自由化プログラムを遂行することになった。しかしIMFはカウンダ政権を信用しなかった。そして、1991年選挙では、カウンダはチルバに敗北した。
 チルバ政権は、即座にIMFと、Rights Accumulation Programme(RAP、権利蓄積プログラム)交渉に入った。RAPとは、経済指標を設定し、これを達成すれば、その度ごとにIMFが融資を供与するという、構造調整プログラムであった。1995年末、IMFは、ザンビアがRAPの下で十分に構造改革、とくに市場の自由化と政府の統制の廃止、を達成したとの判断を下し、融資した。一方では、IMFは、貧困が増大していることを認めざるを得なかった。さらに、2000年には、IMF融資の5年間の返済猶予期間が切れ、ザンビアの債務返済額は急増したのであった。

1991年にザンビア政府が着手したRAP(構造改革)は、大規模なものであった。(1)農産物の価格統制の廃止ととうもろこし市場の自由化、(2)金利の統制撤廃、(3)為替取引きの統制廃止とクワチャのフロート、(4)銀行部門の自由化、(5)輸出入の規制を廃止し、貿易の自由化などを行った。

これは、予想より行きすぎた改革であった。さすがにIMFは、独立の専門家による評価機間を設けて、ザンビアを始め7ヶ国に対するIMFの拡大構造調整融資(ESAF)について評価を行った。1998年に発表された報告書には、「インフレ対策として、過度の社会部門に対する支出を削減した。1991〜93年の削減額がGDPの50%に達した」と述べられていた。

にもかかわらず、ザンビアでは構造調整プログラムが実施されつづけた。今日までに、250の国営企業が民営化され、農業に対する補助金は廃止され、貿易は自由化された。ザンビアは2000年10月、東・南部アフリカ自由貿易協定に署名した。

構造調整プログラムによる犠牲は大きかった。1992〜96年、ザンビアのGDPは22%低下した。1996年には、経済の回復が見られ、GDP成長率は94年比10%を記録した。97年には6%であった。これは、輸入代替産業を農産物加工産業に転換させ、とうもろこし(主食)の作付けを綿花、落花生、カッサバといった換金作物に転換したことによってもたらされた。一方、ザンビアの農業一般は、1993年の旱魃によって打撃を受けた。

構造調整政策とHIV/AIDSに社会的影響

構造調整政策に加えて、ザンビアの社会部門は、HIV/AIDSによる打撃を受けた。とくに女性と子どもに対する影響は大きかった。UNICEFは、「一種の開発災害と呼べるもの」であったと呼んだ。成人の識字率は76%、小学校の就学率は72.4%、中学校の就学率は42%、予防注射の接種率は70%、幼児死亡率は1,000人中192人、HIV感染率は人口の20%、平均寿命あ43歳、人口1,000人当たり医者の数は0.1人という状況である。ザンビアの98年年人間開発指標(HDI)は、75年に比較して、低下している。一方、同じ期間、他の貧困国100カ国では、HDIは伸びている。

ザンビアの食糧安全保障状況も悪化している。「栄養失調撲滅プログラム」の調査によると、年間20万トンの食糧が不足しており、人びとは1日3食取れず、必要なカロリーの60%しか摂取していない。栄養失調の子どもは、1991年には41%であったものが、1999年には53%にのぼっている。

1991〜97年、政府の保健と教育費は増えているが、サービス量は減っている。これは、この間、物価の値上がりで、コストが増大したからである。

ザンビア政府は、1990年、「ザンビア社会基金(ZSF)」を設立して、構造調整政策による社会部門の悪化に対応しようとした。1996年、世銀はZSFの評価を行った。その結果、世銀、EU、フィンランド、ノルウエイ、スエーデン政府とザンビア政府がZSFに資金を拠出した。

まず、コミュニティが小学校や保健センターなどの建設、修復、さらに住民の労働力の提供といった、社会開発プロジェクトを作成する。ZSFがそのプロジェクトに資金を出す。

1996年の世銀の評価では、ZSFは社会資本の整備に貢献し、貧しい住民が恩恵を受けていると報告している。

学校が建設された村では、子どもの就学率が増え、また子どもはその年齢通りの学級に通っている。家族はその収入のより多くを教育に支出するようになった。学校が整備されると、良い教師が集まってくる。

保健センターの改善によって、人びとは高い病院に通わなくても済み、子どもの予防注射の接種率が上昇した。人びとの健康に対する関心が向上した。

PRSPの作成プロセス

2000年6月、ザンビアの暫定PRSP(IMFのSAPをもとに政府が単独で作成する)が作成された。これを基礎として、大蔵経済開発相は、市民社会との諮問プロセスを開始した。この時、大臣は、債務救済を早く受けるために、やむを得ず、市民社会に諮問せずに、PRSP−I(暫定PRSP)を提出したのだと説明した。正式のPRSPの提出期限は、2001年8月である。それぞれ、政府、市民社会、企業の代表で構成される8つの諮問グループが設けられた。政府はマクロ経済、農業、観光、産業、鉱山業、保健、教育、ガバナンスの8部門を提起し、市民社会はこれに、雇用、持続可能な生計プロジェクト、青年と雇用、食糧安保、HIV/AIDS,ジェンダー、環境の6つを加えるよう提案した。政府はこの6つを8部門にそれぞれ含めることに同意した。これには、市民社会の中には、不満を表明するものがあった。

市民社会では、それぞれ8部門に代表を送るNGOを選出した。別に、市民社会諮問委員会が設立され、8部門のNGO代表は、議論の模様を常に報告する。委員会は、8つの部門全体についての市民社会のペーパーを作成し、政府に提案する。つまり、諮問プロセスは、個々の部門で政府と市民社会の間の討論と、政府と市民社会諮問委員会との間の総合的な議論が並行して進められる。

8つの部門をすべて含むのが「マクロ経済部門」である。ここには、ザンビアのJubilee2000組織であったJesuit Center for Theological Reflection(JCTR)が選出された。2000年夏、JCTRは全国8箇所でマクロ経済についての住民集会を組織した。これはJCTRにとっても、ルサカ中心の活動から地方に活動を広げる良い結果となった。

この諮問プロセスの中で、NGOの間に1つのジレンマが生じた。それは、このプロセスを通じて、真に参加型のPRSPが作成されるが、一方で、PRSPを正統化してしまうことになる。しかし、もしあるNGOが参加を拒否しても、他のNGOが参加するのであり、結局、重要なプロセスに影響を与えるチャンスを失う。これは、PRSPのめぐって、途上国の市民社会が直面している共通のジレンマである。最後にNGOはすべてプロセスに参加を決め、UNDPから資金を得た。


PRSPの問題点―プロセスと内容

暫定PRSPによれば、プロセスは、執行委員会、技術委員会、技術事務局、フォーカル・ポイントの4層からなる。

執行委員会は、社会・経済大臣によって構成され、政策の指針と高度の政治的意思決定をはかる。技術委員会は、大蔵経済開発省とコミュニティ開発社会サービス省が市民社会からの提案を入れて、PRSPを準備する。技術事務局は、8部門の諮問プロセスを組織する。フォーカル・ポイントとは、関連した省からの予算スタッフによりPRSP作成の資料を準備し、日常業務を行う。

市民社会側は、技術委員会にNGO代表を入れることを要求した。しかし、政府は、柔軟性と透明性を持ってはいるが、この点については、明確ではない。

また、ザンビア固有の問題として、「アパルトヘイト関連の債務」がある。ザンビアは、南アフリカがアパルトヘイト時代、前線国家として、アパルトヘイトの多大な犠牲を受けた。ザンビアは、内陸国である。ジンバブエがローデシア時代、ザンビアが国連の経済制裁をとった時、報復措置として、ローデシアはザンビアとの国境を封鎖した。その上、隣国のアンゴラとモザンビークへの鉄道を遮断された。南アフリカが、この2国の反政府ゲリラを支援していたからである。これらのことは、ザンビアの銅の輸出コストを高めたばかりでなく、ザンビアが銅依存の経済を多角化するのを妨げた。また、ザンビアは、高い防衛費を支払わされた。

ザンビアは、過去において、南アフリカのANCなどアフリカ解放運動の根拠地となり、今日ではアンゴラ内戦や、コンゴ紛争などにおいて平和の仲介者として大きな役割を務めている。ザンビアは、これまでに、常に、15〜22万人の難民を受け入れてきた。これは人口の2%に上る。ザンビア政府は「平和の配当」を受け取る、つまり、アパルトヘイト関連の債務の帳消しを受ける権利があると主張している。