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長崎県内の研究者によるコメント
【専門分野の研究者による扶桑社公民教科書の分析】

 以下のつくる会−扶桑社の「新しい公民教科書」へのコメントは、長崎県内の各分野の研究者に寄せていただいたものです。

 政治学   法学(二名)  経済学   教育学

 の研究者の方からコメントをいただきました。文章の記述スタイルなどは整理せず、基本的にいただいたそのままの形で掲載しています。
 これらの文章は、7月16日の声明文への添付資料として県教育委員会、県内各市町村教育委員会へ送付しています。 
           (by ながさき子どもと教科書ネット21 事務局 )

政治学研究者から:
1.全体的に、「個人」ないしは「私」よりも「国家」ないしは「公」を重んじる姿勢に貫かれている。人権保障について言及はしているものの、それが「公の利益」あるいは「国益」としての「公共の福祉」によって容易に制限されうる点を強調。結果として、「基本的人権」を不当に過小評価してしまっている。ちなみに、「公共の福祉」は現在、他者の人権尊重をこそ意味するとされ、安易に「公益」や「国益」という意味に捉えてはならないというのが学説上の通説。また、個々の人権を具体的に取り上げながらも、その意義を矮小化する傾向がみられるとともに、それぞれの権利よりも義務の履行の重要性を強調する姿勢が目立つ。とりわけ選挙権については、これを人権と捉えず義務と捉え、選挙権を棄権する行為を公然と非難するなど、国民主権原理に直結する重要な人権である参政権における国民の自由を否定している点は、非常に問題と思われる。

2.愛国心の強調。たとえば105頁の国旗・国歌の項目で,国旗・国歌の尊重こそが他国の理解を促すという記述は国内の国旗国歌を巡る議論を無視するものであり、偏った価値の押し付けといってよい。

3.現在の日本の状況が先人・先輩の努力の賜物だとする日本の過去に対する礼讃。翻って、日本の負の部分には少しも触れていない。

4.国際社会における日本の経済的貢献を称えるとともに、日本の憲法政治を巡る最大の問題である自衛隊とその軍事的役割について、一応、自衛隊合憲論と違憲論の両論がある点に言及しつつも、あきらかに合憲論を正しいものとして、それに則った形でこれからの日本の国際貢献について語っている。

5.コラムで扱っている話題の選択それ自体が、公民教科書の真のねらい――強くすばらしい国である日本という認識の醸成とそうした国家に奉仕すべき国民の育成――を如実にあらわすものとなっている。その意味では、この教科書はかつての教育勅語の焼き直しといってもあながち間違いではないと思われる。なかでも、「死刑廃止問題」「少年法改正問題」「憲法論議と第9条」「北朝鮮による日本人拉致問題」などは、安易に価値判断をすべき事柄ではなく、実際にも議論が分かれている事柄であって、これらの取り上げ方やその語り口に見過ごすことにできない問題があると思われる。さらに「北朝鮮拉致問題」についていえば、これは不当に外国からの脅威をあおるものであり、生徒に対して今後の日本の防衛政略を正当化するという思考を誘導するものとなると考えられる。

6.その他、一方的な価値、とりわけ時代錯誤的な価値の押し付けが目立つ。男女の役割分担論の肯定や家族愛の強調。福祉政策における老人の自助努力の必要性の強調など。

法学研究者から(1)
 「民主主義は、(中略)「私」の事がらよりも「公」の事がらを優先させる公民がいて初めて実現されるのである」(36頁)という記述に端的に表されているように、国民の権利よりも国家中心主義の思想に貫かれた教科書である。また、具体的にも、「憲法から」プライバシー権・知的所有権・環境権等の「新しい権利を導き出す最近の傾向には、憲法に明記された権利自体の価値を相対的に低下させるのではないか」との批判もあるという記述(74頁を婉曲的に加えることにより国民の権利を「公」を理由に制限しようとする姿勢を垣間見ことができるし、そもそも記述そのものの意味が不明である。
 さらに「日本人は「戸籍に記載されて初めて国民の一員として認められたことになる」(83〜84頁)という記述は、日本国民の要件を定めた国籍法を理解していない誤った文章である。例えば、出生の時に父または母が日本国民であれば出生によりその子は日本国民たる資格を取得するのであり、戸籍に記載されてはじめて国民になるのではない。
 また、国旗・国歌について、我が国で1999年に国旗・国歌法が制定されたことの補足説明(106・107頁)の中で、「多くの国々では国旗・国歌を特別に保護し、尊重することを憲法や法で定め」ていると述べているが、これだけでは生徒が我が国の国旗・国歌法にもその旨の定めがあると誤解するおそれがある。にもかかわらず、「日章旗を国旗とする」「君が代を国家とする」と定めただけの同法の内容については一言も説明がなく、ただ国旗・国歌の尊重を国民に一方的に求める歪曲に充ちた文章であるといえる。


法学研究者から(2): 問題点を含む記述とそれについての意見

2頁「守るべき文化とはなんだろうか」
4頁「多くの被災者の力になったのは、まぎれもなく自衛隊員だった。」(下線引用者)
5頁「国境は決然と守っていくものなのである。」(下線引用者)
9頁「大国日本の役割」
*ナショナリズムが強く、軍隊(自衛隊)が強調されている。下線部の記述は情緒的。

7頁「『私』と『公』の二分法にたって、公を中心に市民を見たときこれを『公民』と呼ぶ。「近代社会では、『私』の権利や『私』の利益追求が強く唱えられ、『市民』が『公民』から分離する傾向がある。」(注:「ポリス」の市民は防衛義務を負っていた。)
*「市民」と「公民」を分けることが問題。「市民」で十分。「公」は「私」の集合以外ではなく、「私」のほかに「公」があるのではない。防衛義務の強調。

17頁「高度な近代化に『国』はどうかかわるのか」
*「国」ではなく、「国民」であるべきだ。

18頁「例えば、日本が自衛隊を充実・強化する場合でも、アメリカやアジアの反応を無視することはできない。」
*軍国主義的傾向が指摘できる。

36頁「『民主主義の基礎としての公民』は、『私』の事がらよりも『公』の事がらを優先させる公民がいてはじめて実現されるのである。」
*滅私奉公の傾向が指摘できる。

「では、そのような公民をいかにしてつくるか、私たちはどのようにしたら公民になれるのか。それを解決する手がかりは、私たちの国の歴史の中にあるといってよいだろう。……父祖たちはさまざまな知恵を出し、残してくれた。私たちは、そうした父祖の知恵、歴史の知恵に学ぶことができるし、学ばなければならない。」
*具体的な例が明示されていない。国民の歴史を学ぶことで十分。

55頁「五箇条の御誓文では、民主主義的な国家運営、身分制度の否定、……などの近代的政治理念がわが国の伝統に沿った形で示された。」
*「上下心ヲ一ニシテ」、「官武一途庶民ニ至ルマデ」、「大ニ皇基ヲ振起スヘシ」といった内容は、民主主義でも身分制の否定でもない。

59−60頁「天皇と政治」「天皇は日本国を代表し、日本国民を統合している。」
*象徴=代表ではない。天皇は、日本国民を統合する存在ではない。

「(国事行為は)いずれも儀礼的なものであるが、この儀礼が国家の行為に尊厳を与えている。」
*天皇の半神格化といえる。

64頁「男女平等」「今日では……男女の性別に基づく役割分担をこえて、能力に応じて自己をいかす傾向がみられる。しかし、同時に男女の生理的・肉体的な差異などに基づく役割の違いにも配慮しなければならない。」
*「男女平等」の理念が理解されていない。

73頁「各国の憲法に記載された国防の義務」「これらの国の憲法では国民の崇高な義務として国防の義務が定められている。」
*防衛義務、国防義務の強調
「しかし、憲法の理念に沿って国民生活を営むということは、この三つの義務を果たしてさえいればよいというわけではな
い。」
*義務の強調

79頁コラム「住民投票について考える」
*住民意思と地方自治の否定

105頁「国旗・国歌は国家を象徴するものであり、その国の歴史や理想をあらわしたものである。国を愛することは国旗・国歌を尊重することにつながる。また自分の国を愛することで初めて他の国を理解することもできる。私たちにはまずなにより、自国の国旗・国歌を尊重する態度が必要である。そして基本的な国際儀礼として、他の国の国旗・国歌をも尊重することが必要である。」
106−107頁「国旗・国歌に対する意識と態度」
日米の高校生の比較、青年海外協力隊員の話、サッカー元日本代表ラモスの話
*国旗・国歌の大宣伝。国旗・国歌の強調が大国主義と戦争を支える。国旗・国歌の法制化については、国民の半数が疑問視していたはずだ。国旗・国歌の歴史やアジアへの視線がない。

113−115頁「わが国の平和と防衛」、コラム「憲法論議と第9条」
117頁「核兵器の廃絶は人類共通の願いではあるが、このような国際情勢の中で、各国の防衛のあり方が議論を呼んでいる。」
215頁「核兵器の廃絶という理想を考える」
*「反核」といった思想性がない。




経済学研究者から
 この本は、はじめに、「時代のあり方を根本的に決めるのは「価値」(4頁)」であるという基本的認識(この立場の論拠については、この単純な宣言以外には、なんら説明も証明も与えられていない)に基づいて、日本の近代化プロセスのなかで西欧から近代的な価値観が無批判的に受け入れられてきた結果、現代社会のさまざまな問題が発生してきたと断罪する(序章)。そして、その克服のために、「次世代の公共心を涵養(V頁)」し、「歴史的良識(211頁)」(一応、この概念自体は、「その国の歴史の中で形づくられ、そして国民によっておおよそ共有されている常識(211頁)」として定義はされているが、その存在の論証も、また、その例示さえ与えられていない。
 要するに、歴史的・地理的な体制の構成原理の相違に基づく、その社会に特有なイデオロギーのことか?)と「秩序感覚(213頁)」(全体主義・国家主義?)をもつ、「ナショナルな感覚(213頁)」(国粋主義?)に目覚めさせる。その結果、手始めに「家族の一体感(180頁)」(封建主義?)の回復、これを通じて究極的には、「家族、地域社会そして国民国家といった共同体的な人間関係を再び築きあげようとする(213頁)」ことを意図して執筆されたものであり、いわば、執筆者たちのお気に召さないゲゼルシャフト社会をやり玉に挙げて、過度に美化された懐古的なゲマインシャフト社会への回帰を求めるといった意味で、歴史的に逆行する性格をもっているともいえる。
 しかも、あらかじめ設定したこの既定路線を進めるためには、「事実にかんする根拠と思想についての論拠がほぼ過不足なく提供されている(V頁)」という自負心も空手形のままにして、「日本の近代化(14頁)」を評価するさい、いわゆる「文明開化(14頁)」に代表される明治時代の西洋化の流れから、いきなり、戦後のGHQ「指導(15頁)」の近代化へと飛躍する。日本の軍国化、周辺諸国への侵略、思想や言論の統制・弾圧、人々の生活の窮乏、戦争による人的・物的・文化的な犠牲、そして敗戦、といった歴史が、すっぽりと抜け落ちている。「自国の歴史的な国柄を確認したいという動機(209頁)」から「「国民の歴史」を振り返る(214頁)」と標榜しているのにもかかわらず…。しかも、この抜け落ちた歴史こそ、欧米の価値観を拒絶し、日本固有の伝統・文化や価値が強調され、個人の共同体内部への包摂・埋没が達成された時代なのである。
 このように、執筆方針の客観的根拠も提示しないばかりか、かえって、クサいものにはフタとでもいうのか、自分たちに不利な歴史的事実を隠蔽する内容には、もはや、教科書以前に、一般書としても、空想非科学小説以上の域を出ないものと断言できよう。ところが、小説ならば、笑ってすまされるかもしれないが、かりにこの本が教科書として採用され、不幸なことに、執筆者たちの意図どおりに、「良識」と「秩序感覚」や「ナショナルな感覚」をもった「次世代の公共心」が「涵養」されたときに、ふたたび、あの暗い戦争の時代を繰り返さないという保証が、どこにあるであろうか?
 経済分野に関しては、内容が粗雑で、概念上の不統一も目立つ。たとえば、一方では、財やサービスを購入する主体として「家計」という大分類をおき、さらに、その「所得」を、「勤労所得」・「個人業主所得」・「財産所得」に大別し、所得の源泉の違いという、正確な規定を与えている(129頁)。ところが、別の箇所では(137頁)、家計が受け取る「所得」は、「賃金所得」という名目で一括されている。「賃金所得」というのは、「常識」的に考えても、さきに紹介された「勤労所得」だけを指す用語としか解釈できない。そうすると、用語上の不統一という形式的な問題とは別に、残りの「個人業主所得」や「財産所得」は、すっぽりと抜け落ちてしまう。かりに、これら3つのカテゴリーを包括した「家計」の「所得」であると強弁しても、この場合には、資本主義経済の構成員が、すべて、「賃金所得」を得る雇われ手であるというイメージを与えることになり、雇い手のいない雇われ手だけからなる社会という形容矛盾に陥る。
 このような議論は、重箱の隅をつつくようなものに見えるかもしれないが、そう単純にもすまされない。というのも、所得の源泉に基づく分類をあいまいにしたまま、単純に所得水準の高低だけの差異しか認めない同質な「家計」が想定されることになれば、この極度に単純化されたミスリーディングなイメージが、随所で、容易に、執筆者たちの思惑どおりの方向に議論を進めるための触媒となりうるからである。たとえば、「租税負担の公平」と題した箇所では、「高所得者に対して、一方的に高い税率をかけることは、公正に反するという意見も無視できない(156頁)」、さらに、「間接税は、同じ商品を買った人は同じ額の税金を支払う点で、公平と考えられる(156頁)」と断言する論陣に読者を引きずり込もうとする布石にもなりうる。そうなると、これは、単純に、ケアレス・ミスに起因する瑕疵というよりも、むしろ、確信犯的な意図さえにおわせる。
 用語上の不統一は、それだけではない。「貯蓄」という用語は、一方では、「経済の循環」と題する節では、「所得から消費とともに貯蓄がなされる(130頁)」として、所得のうち消費されなかった部分というケインズ経済学流の定義を採用し、この定義に応じて、その後、金融機関の機能の説明でも、「家計は企業から賃金所得(!?)を獲得し、その資金の余裕が貯蓄であり、それは金融機関を通じて企業の投資資金となる(137頁)」という箇所では、有効需要の原理を想定したフロー(一定期間の流量)の関係として貯蓄・投資バランスが説明されてる。これにたいして、同じ「貯蓄」という用語が、しかも、他の話題を説明するときだけではなく、まさに「経済の循環」と題する同じ節で、貯金残高というストック(一定時点の残高)として捉えられている。じっさい、「私たちは…さまざまな理由から貯蓄を行う…高齢化が進めば、貯蓄を切り崩して生活する(130頁)」という説明は、まさに、貯金残高という把握に他ならない。しかも、ご丁寧にも、知ってか知らずか、この節の冒頭には、所得の構成比というフローのグラフと、「貯蓄」の構成比というストックのグラフとを並列して掲げ、混乱に輪をかけている。なお、社会保障を話題にする別の箇所では、「…このような事態に備えて人々は貯蓄をし、個人ごとに年金保険や生命保険に加入しようとする…そのような不安から、いっそう貯蓄に励む(158頁)」として、貯金残高の意味でストックとして捉えられている。専門用語を借りていえば、この本の「貯蓄」という概念はまさに、フローとストックとの寄せ木細工、いや、むしろ、マクロ的なケインズ経済学とミクロ的な新古典派経済学との呉越同舟とでもいうべきか?奇妙な双頭の鷲の様相を呈している。
 また、「自由経済」という用語で、「何をどれだけ生産するかは企業が自由に決定し、何をどれだけ消費するかは個人が自由に決める(141頁)」経済を定義するらしいが、これと、つぎに示す「市場経済」の定義とは、どれほどの相違があるのであろうか?すなわち、「私たちの経済は、主として商店を通じて、人々が互いに販売し購入することから成り立っている。これを市場経済という。市場経済においては、人々は自分の消費する量、生産する量を自由に決めることができる。(125頁)」という定義と比較して?なるほど、形式的に考えれば、純粋な思考上の産物としてなら、「市場経済」をその真部分集合として含む、より大きな集合として「自由経済」を考えることはできるかもしれない。たとえば、ただひとりの構成員からなるロビンソン・クルーソー経済や、原始的な家族共同体など…。しかし、ここで話題となっているのは、現実の経済なのである。しかも、この本の「自由経済」の定義には、ご丁寧にも、「企業」という「市場経済」を特徴づけるような用語さえ用いられているのである。このように、実質上同一の概念を、わざわざ、「自由経済」という名称を採用して言い換えているのには、なにか隠された意図があるはずである。それは、おそらく、「社会全体の消費と生産を計画によって決めるような経済を計画経済という。…私たちの経済を計画によって運営することは不可能という以外にない(125頁)」という記述と対比させることによって、「市場経済」の優位性と正当性を読者にインプリンティングするポジティブなイメージを与える用語として、やすやすと、しかし、周到な計画をもって、採用されたにちがいないと思われる。
 なお、この本の後半部分では、「自由」のポジティブなイメージにも、やや、かげりがみえる。終章で、個人の「自由」は、「「国柄」に基づく秩序」から逸脱しない範囲内にかぎって、尊重されるとされ、しかも、その秩序は、「例えば親孝行に価値を置くことによって家族制度が維持されやすくなるというように、守るべき価値を特定する(208頁)」ときに確固たる礎となるようである。このような立場の執筆者たちは、同じ箇所で、「一様な価値が国家によって指定されたり、特定の考えがマスコミによって流されたりすることになり、それに基づいて管理体制が敷かれ自由が抑圧される(208頁)」と断罪する姿勢に自家撞着を感じないのだろうか?さらにいえば、一部の出版社(マスコミ)によって、「国柄」や「歴史的良識」といった「特定の価値」を押し頂いた本を、教科書として「指定」(国からのお墨付き)を受け、かれらの基本的認識や姿勢をひろく人々に流布しようという姿勢は、いかがなものであろうか?ともあれ、企業活動には、基本的には、無制限の「自由」を保証するが、一般国民には、「歴史的良識」をもって、「「国柄」に基づく秩序」に従うときにかぎって、「自由」を与えるという考えなのであろう。
 このような市場万能主義とでもいうか、「市場経済」への妄信は、「私企業と公企業の民営化」という項目にも顔をあらわす。「公企業の領域は、市場競争が制約されているために、その運営はともすれば非効率となりがちとなる。そこで、公企業を私企業とする(民営化)ことにより、その経営の効率がはかられる(136頁)」と述べているが、その直前には、「私企業は利潤をあげるのを目的とするのに対して、公企業は利潤をあげることが困難な事業を行う(136頁)」という棲み分けを宣言しているのであるから、そもそも、「公企業」が担当する事業は、「私企業」にとっては、本来、ちっともうまみがない領域であるはずであろう。それを無理して「民営化」するためには、「私企業」にとって十分満足がいくような補償がなされないと納得が得られない。そのためには、財政からの赤字補填になるか、または、「独立採算」の大義名分のもと、もうかる部門だけ切り売りされ、残りは切り捨てられるのが落ちであろう。いずれにしても、前者は、財政出動というかたちで国民全体に負担がかかるし、後者の場合でも、存続する部門での料金値上げあるいは実質的なサービス低下、廃止部門でのサービスの供給停止といった方向で、利用者の負担になることは火を見るよりも明らかであろう。かれらにも、この矛盾は隠しきれず、「民営化によって料金や価格が安くなる場合もあれば、利潤を得るために、料金や価格が高くなることもある(136頁)」と吐露するところもあるが、既定路線である「民営化を進める必要がある(136頁)」という方針は変わらない。なぜなら、企業活動の「自由」は、かれらにとって、「守るべき価値」のひとつなのであろうから。
 なお、「市場の働きがうまくいかない場合(146頁)」として紹介される「市場の失敗」という項目では、「例えば、道路や公園、公衆衛生や上下水道、警察や消防など、人々が共同で使用できる財やサービスは、一人ひとりの個人が希望して購入できるものではない。あるいは一人ひとりから料金を徴収することが困難な場合には、その財やサービスは私企業によっては購入されない。図書館や美術館などは、それ自体に価値があるものとして、積極的に供給されることが望ましい。そこで、このような性質をもつ財やサービスに関しては、私企業にかわって国や地方自治体が供給することになる。このような財やサービスを公共財という。(146頁)」とし、また、社会資本の建設」という項目では、「市場で購入できる財やサービス(私的財)の消費だけから、生活の豊かさが得られるわけではない。公共財である学校や図書館、公園や病院などが充実していることによって、生活は真に豊かなものとなる。(154頁)」とされる。これらの記述は、さきの「民営化」路線と、どうやったら両立できるのであろうか?明らかに、かれらが大上段に振りかざした「民営化」=正義という大前提のもとでは、二律背反を露呈するだけに終わろう。


教育学研究者から
1.公民教科書は、検定意見が99カ所つき、その修正の結果、検定合格となっているが、その修正数はかつてないほど多い。しかも、修正の内容は記述の本質的な内容の変更ではなく、「バランスのとれた記述」への変更といったものが多くを占めている。うがった見方をすれば、何とかこの教科書を検定通過させたいという意向のもとに検定が行われたという印象すらある。

2.検定意見がついていないが問題だと見なされる箇所も多い。
  第1に、写真について。自衛隊の写真が頻出している。明らかに視覚的に自衛隊の必要性を強調する意図である。自衛隊の存在を知らせるだけならば、これほど多くの写真は必要ない。国旗についてもスポーツの国際大会とからめた写真がでている。
  第2に、出典が明記されていない円グラフ化された統計資料が5カ所掲載されている(74頁、78頁、113頁、213頁、214頁)。すべて、1996年または平成8年総理府調査と記されているが、調べてみたところ、74頁、113頁のグラフは、1997年2月の「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」であり、調査年も誤っている。その他は、1996年12月の「社会意識に関する世論調査」である。このうち213頁のグラフは、円グラフの数字が原調査とも明らかに誤っており、全部足しても100にならない。こうしたミスは、粗製濫造を疑わせる。出典が総理府調査であるには違いないが、こうしたずさんな引用には、調査の出典を意図的に隠蔽しようとしたのではないかという疑いさえ起こる。ひとつの教科書に同一調査から多数のデータの引用をし、しかも内容は自衛権の強調や愛国心の強調に結びつく内容ばかりである。調査そのものが20歳以上を対象としたものであることも明記されていない。中学生がこのデータを見たときに、そのような説明がないのであるから、中学生の意識調査と思いこんでも不思議はないのではないか。
  第3に「国旗・国歌に対する意識と態度」(106−7頁)によって、愛国心を強調している。他のコラムについては、現代の社会問題を取り上げ、編集趣意書を見る限りでは関心を引くような内容がならんでいる。しかし、実際の教科書の記述では、憲法9条の否定、住民投票の否定、核廃絶論の否定など問題が感じられる一面的な記述がならんでいる。

3.他の教科書会社の公民教科書と比較すると、最も異なる特徴は、現代社会のみを記述の対象としたのではなく、「公民」の概念を説明するために、歴史的な記述から始めている点である。
  その歴史認識は、前近代→近代→未来という区分である。現代は市民革命後のいわゆる近代社会として位置づけられている。そこで「市民」「公民」の概念規定を試みているが、古代のポリスなどの例を出し、市民は防衛の義務を負った公的存在であり、「市民」と「公民」が本来重なるものであるとしている。しかし、我が国において「公民」概念をどう解釈するかは、戦前の教育における「公民」観を抜きにしては考えられない。「公民」という用語自体は、日本に合った「公民」という言葉にヨーロッパ流の「市民」概念を移入・接合したものであるとみられるが、日本の近代(明治期以来)においてその内実は、「皇国民」であったことが語られていない。また、「市民」「市民社会」概念をどうとらえるかということは、学問的には非常に高度な内容であって、中学生の発達段階にふさわしいとはいえない。中学生の段階で「公民」という名の下に行われるべきは、現代社会に生きる主権者としての、あるいは個々人が公の存在という側面を持つことを教えることであろう。
  さらに、この教科書の最大の特徴は、フランス革命などの市民革命以降の「近代」的価値を否定していることである。いわゆる近代批判であるとか、ポストモダニズムの論調に重なる内容である。否定的にとらえているのは、民主主義、基本的人権、平和主義、個人主義、産業主義、科学主義などであり、しかも、これらの内容を同列に扱って否定している。民主主義、基本的人権の尊重、平和主義といった内容は日本国憲法の精神にも重なるが、これらは決して相対的な価値なのではなく、人類史の中で苦い経験と共に確かめてきた人類史的価値であるといえる。また、基本的人権に関しては、特に近代市民革命や自然法の否定といった形で、先験的なものではないというスタンスで記述している。
 ちなみに、執筆者の主張は以下のようなものである。
 ・これまでの公民教科書の欠陥=基本的人権、民主主義、平和主義がアプリオリに打ち出されているという主張。
 ・啓蒙主義思想が何の批判もなく教え込まれる。外から人権や民主主義がやってきたという教え方。日本式の理念があったはずなのに。
 ・戦後日本は悪しき純粋近代主義に染められてきた。
 要するに、ひとことでいえば、ポストモダニズムを装った復古主義・歴史修正主義の教科書であるということになろう。

4.いくつかのキーワードについてその特色をみてみると、
 民主主義――「政治的な用語としてだけではなく、きわめて広く日常的な意味で使われるようになっている」(28頁)とし、それを自然の成り行きであるかのように記述している。これは、民主主義の価値の形骸化を助長するような主張であろう。
 主権在民――「多数者の専制」(46頁)による政治が衆愚政治に陥る危険を訴える論調になっている。しかも、その理由としては、繰り返し「マスメディアによる価値観の画一化」(47頁)があげられる。そして、民主主義の理念を生かすために「公民」の原点に立ち返るべきであると主張されるのであるが、こうした論調は、簡単に愚民思想に反転するであろう。すなわち、賢明な指導者・支配者(=天皇)の存在の必要性を主張せんがための、主権在民の原則の否定に結びつく。
 平和主義――自衛権、自衛隊について、写真・総理府調査などを駆使して強調している。また、北朝鮮の拉致疑惑問題などを大きく取り上げ、自衛の必要性を強調している。憲法9条については、さすがに検定意見がついたが、検定後も自衛隊との関係で憲法9条が「論議の中心的テーマである」(115頁)としている。核兵器廃絶の否定については、明らかに核抑止論を支持する記述となっている。
 基本的人権――「福祉国家の意義と限界」(39頁)を強調し、自助努力の必要性を述べ、また、「近代以前の福祉活動」(40頁)に目を向けるべきだとしている。これが意味するものは、「家族や地域住民自身による相互扶助などが組み合わされて、現代の社会保障や社会福祉に当たる活動が行われていた。」「そこに見られる特徴の1つは、個人の自由や利益より家族や村落や社会などの集団の存続や安定の方を優先させるという考え方である。」(40頁)という。「福祉」という概念は近代的な基本的人権の尊重の精神から生まれたものであるから、ここでは恣意的な解釈を通して、共同体的社会
への回帰を描いている。
 家族――――「家族の一体感」「コミュニティ」の重視、「家事は無償の労働」ではなく家族を支える行為であるといった「家族」の強調、性別役割分業の正当化を通じて、家父長制の維持を目的としていると思える記述である。また、「家族」の強調は、家族国家観を媒介として国家主義へと拡大していく危険性がある。

5.「つくる会」教科書の「公民」概念規定は、「本来、『市民』と『公民』は別のものではなく、重なり合うはずのものである。そこに『公民』ということの意味がある」(7頁)、「『公民』の『公』とは、『私』に対して、社会や共同体全体のことに関与したり、義務を負ったりすることを意味している」(22頁)というものである。
 ごく常識的に(現代の共通感覚として)とらえれば、「公民」とは政治に参与する者ということであると考えられるし、政治制度を持った社会に生きる主体としての個人を指すと考えて差し支えないのではないか。それを、ことさらに「私」との対比でとらえるところに、恣意性があるように思われる。
 「市民社会」の概念は、歴史的に変遷し、また国によってその変遷のありようも若干異なるが、「<市民社会>と<国家>とはまさしく相対立する」ものとしてとらえられてきた経過がある。しかも、自由主義的でない国の方が、両者の対立は大きいものであった。ドイツや日本はこうしたタイプに分類することができる。「つくる会」が、自分の国に誇りを持てと主張していることの中身は、戦後日本の「自虐性」=「戦前日本への反省」にある。「戦前の日本」を反省するなという主張は、まさしく戦前の国家主義思想と重なり、近代市民社会を批判し退けることと重なる。
 そこで、「公」「公共の精神」が強調される。公民教科書で書かれていることは、滅私奉「公」である。戦前の公民教育について、おおまかに述べれば、エリートには「法制及経済」という科目として、下層勤労青年に対しては職業道徳と結びついた「公民教育」として、実施された経緯がある。「公共心」「公共の精神」こそが、下層民衆に対する「公民教育」の主要な眼目であった。その意味で、下層民衆を対象にした「公民教育」は「道徳教育」でもあった。ここには、エリートには学問的真理を下層民衆には支配のための教育を、という森有礼文政以来の「学問と教育の分離」の仕組みが働いている。

 結局、「つくる会」の教科書は、「公民」教科書とはいえず、「公共道徳」を説く、独善的な「道徳」教科書であるといわざるを得ない。「つくる会」の教科書が義務教育である中学校に向けられたものであるということ、ことさらに衆愚政治の危機を訴えることにも、国民道徳の涵養という意図が見え隠れしているように思われる。


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