「神奈川県犯罪のない安全・安心まちづくり推進条例」案の制定に反対する法学者声明


 神奈川県は、12月2日開会の神奈川県議会12月定例会に「神奈川県犯罪のない安全・安心まちづくり推進条例」(以下、「県条例」とする)案を提出しました。これは、2004年6月に「神奈川県安全・安心まちづくり有識者懇談会」を設置し、わずか3回の審議の結果をまとめた2004年9月の「神奈川県安全・安心まちづくり有識者懇談会報告書」(以下、「報告書」とする)の提案に基づくものです。この中では、昨今の「犯罪の増加」に対して、「行政、県民、警察が一体となった取組み」を実行して「安全で安心なまちづくり」のために県条例の制定が必要であるとしています。しかし、この県条例案については、以下の理由から問題があると考えるため、私たちはこれに強く反対するものであります。

1 説得力に欠ける制定理由

 第1の理由は、県条例の制定が必要であるとした報告書の内容が説得力に欠けるという点です。
 まず、報告書では、県内の過去10年間の犯罪情勢データを使用して「刑法犯認知件数が増加」しているとします。しかし、誰も正確には知ることのできない犯罪実数と異なり、この「警察が犯罪として認知した件数」の「増加」の背景には、1999年以降の神奈川県警をはじめとする一連の警察の不祥事に対する警察不信を払拭するために、警察が従来適正に対処しなかった軽微な犯罪にも対処するようになったことや、ストーカー規制法・DV防止法などによる新たな犯罪類型の創出、これまで被害にあっても泣き寝入りしていたような人々が声をあげるなどの被害者意識の変化によるものもあります。また、戦後約60年の期間で犯罪動向を分析したものではなく、ここ数年の以上のような変化を説明もなく資料として出すことは、統計の恣意的利用の側面が強いものでもあります。
 また、報告書は、「犯罪発生の増加、治安悪化の背景」として、「地域コミュニティ機能の低下」「社会への無関心と規範意識の低下」「犯罪を誘発しやすい生活環境」「情報化社会の進展による犯罪を誘発しやすい環境の創出」をあげます。しかし、報告書によれば、県内の刑法犯認知件数の7割弱は街頭犯罪等であり、これらは財産犯です。いつの時代でもどこの国でも財産犯はまず景気の変動にも左右されますが、昨今の構造改革や新自由主義改革による景気の悪化・構造不況、それらによる解雇・リストラ、失業率の増大等の与える影響は何ら検討されていません。そればかりか報告書の発想は、犯罪が引き起こされた原因を調査し犯罪を防ぐのではなく、人は機会さえあれば誰もが犯罪者になりうるとの「県民皆犯罪者予備軍」ともいう発想に立つものであり、だからこそ県民には「個人の意識を変える(規範意識の醸成を図る)」「地域コミュニティを変える(地域での防犯活動が活発になるようにする)」という意識改革と相互監視を呼びかけるのです。  したがって、報告書の内容は、最近のデータを恣意的に活用し県民に「不安感」与える一方で、真の「治安悪化」の要因を隠蔽するものであり、なぜ犯罪対策に県条例の制定が必要なのかを十分に立証できていないずさんなものといえます。

2 近代立憲主義に反する発想

 第2の理由は、市民革命後、世界で確立された近代立憲主義を否定する発想がある点です。
 報告書では「行政、県民、警察が一体となった取組み」を要請し、県条例案でも第7条をはじめ県及び県民等の相互協力を求めています。また、県条例案では、第3章で住宅、道路・公園等、商業施設等、繁華街の防犯性向上のために、第4章で学校等における児童等の安全の確保等のために、県と公安委員会が指針を策定したり、当事者が警察署長の意見を求めることを要請しています。しかし、そもそも警察権力を含む公権力と市民とは建前上緊張関係にあり、公権力の恣意的な発動により市民の基本的人権が侵害されないように、市民が公権力をチェックするために近代立憲主義が確立されましたが、県条例案にはこのような発想が希薄です。さらに、第3条で県民に自主的防犯活動を責務とし、第9条で「安全・安心まちづくり推進団体」を県が支援するということは、公権力主導で「自警団」づくりを進め、県民あげて防犯活動に動員する「総動員体制」づくり、県民が公権力の目となり耳となる「密告社会」「相互監視社会」へと地域社会を変質させる重大な危険性を有しています。
 また、県条例案では第27条で「児童等の健全育成」として、県が「児童等の規範意識を向上させ、児童等が社会の一員として健全な生活を営むことができるように、その育成に努めるものとする」としています。しかし、「個人の尊重」(憲法第13条)を基本原理とする近代立憲主義の下では、子どもについても権利意識を育むことが重要です。それに対して、県条例案は子どもを「規範意識」の名の下に締め付けてしまい、公権力が子どもの心の中にまで介入する危険性があります。確かに、「児童等の安全の確保」自体は検討しなければならない問題ですが、学校等における安全対策に入るであろう校内等での監視カメラの設置は子どもたちを監視するものでもあります。「児童等の健全育成」と併せて考えるならば、県条例案の基本的発想は子どもたちを「少年犯罪者予備軍」と見なし、日常的に子どもを監視、さらには特定の価値観を注入しようとするものです。
 したがって、県条例案は近代立憲主義を否定する発想がある点で危険なものといえ、条例案提出の前にまずは県が近代立憲主義を学び直すことが必要と思われます。

3 法的に問題のある内容

 第3の理由は、法的に問題のある規定が多々あるという点です。
 まず、「犯罪の防止等」のような「等」の多用や、「安心」「規範意識」などの抽象的で主観的概念の多用は、行政の恣意的解釈・運用が横行する可能性があります。特に後者の「安心」も「規範意識」も共に主観的概念であり、捉え方は人により様々です。そして一概に規定しようがない概念ですが、この条例案により多種多様な価値観を公権力が一方的に規定し、それを県民に押し付けることになりかねません。また、これにより、公権力を法によって縛る「法の支配」は否定され、「人の支配」による「行政の暴走」を引き起こしかねません。
 次に、第3章各規定の「防犯性の向上」でいう「犯罪の防止に配慮した設備」の具体的内容が不明確ですが、ここで想定されていることの一つには監視カメラの設置がありえます。しかし、不特定多数の人物を対象に、当事者の同意なくカメラ撮影を行うことになれば、当事者の憲法第13条で保障されたプライヴァシー権や肖像権を侵害することにもなりかねないのに、このような人権侵害に配慮するような姿勢は一切ありません。ということは、県条例案が「プライヴァシー権・肖像権侵害促進条例」になりかねません。
 また、第20条の「犯罪の防止に配慮した店舗等に関する指針の策定」でいう「犯罪の防止に配慮した管理方法」の具体的内容が不明確ですが、ここで想定されていることの一つには深夜商業施設での夜間複数店員配置がありえます。しかし、先の監視カメラ設置やこの複数店員配置は、それぞれの事業者の判断で行うべき問題であって、公権力がとやかく言うべき問題ではありません。そればかりか、指針の策定や警察署長の介入の仕方によっては、事業者の憲法第22条・29条で保障された営業の自由・財産権を侵害することにもなりかねません。
 さらに、そもそも県条例案は、松沢知事や県の部局独自の発想で制定が準備されたものではなく、1994年以降、警察庁生活安全局主導の下、全国約1500自治体で制定が進む「生活安全条例」の一つにすぎず、県の独自性があるわけではありません。第11条の「安全・安心まちづくり旬間」の規定も県独自のものではなく、警察庁を先頭に毎年行っている「全国地域安全運動」に合わせたものにすぎません。このような警察主導の流れの中で制定準備が行われてきたことは、県自ら憲法第8章で保障された地方自治を放棄しかねない行為です。また、第7条により、「安全・安心まちづくり」の推進体制は警察署の管轄区域等で県民及び市町村と連携して整備するとしていますが、市町村の「生活安全条例」の有無に関係なく県主導で推進体制を構築することは、県条例により市町村の自治を否定することにもなりかねません。
 したがって、県条例案には様々な法的問題、憲法上問題、とりわけ県民の権利・自由に関わる問題がありながら、それらに配慮する姿勢は全くなく、「行政暴走条例」「憲法無視条例」「人権侵害促進条例」となる危険性があります。

4 今、求められていること

 以上のことからすると、今回の県条例案は「治安の悪化」の原因を真摯に検証せず、「県民皆犯罪者論」に基づき、警察主導の下、監視カメラと市民相互監視により警察権限の拡大と人権の侵害を促進しかねない条例案といえます。特に神奈川県では、これまで県警が1986年に違法な政党幹部宅盗聴事件を引き起こしながらいまだに謝罪もせず、1999年以降の一連の警察不祥事を引き起こし、一時は「警察官犯罪の巣窟」のような体質を有していたところです。昨今、「犯罪の増加」と共に「検挙率の低下」がいわれていますが、この背景には一連の警察の不祥事による警察官の士気低下と県民の信頼低下もあるはずです。確かに県民の犯罪に対する「不安感」があるのも事実とはいえ、漠然とした県民感情で安易に警察の権限拡大を行うことは、特に神奈川県においては危険ともいえます。今、求められていることは、「犯罪の増加」、とりわけ財産犯の増加をもたらしている景気の回復や社会保障の拡充などの社会構造の転換や適切な社会政策の実施です。また、「検挙率の低下」をもたらしている県民の警察への不信と警察官の士気の低下の改善であり、警察活動の適正化です。
 したがって、私たち法学者は、ずさんな制定理由に基づき、近代立憲主義と市民の権利・自由への挑戦ともいえる今回の県条例案の制定には反対であり、条例案の撤回を強く要請します。

2004年12月13日

呼びかけ人
石埼 学(亜細亜大学・憲法)
北川善英(横浜国立大学・憲法)
清水雅彦(明治大学・憲法)

賛同者
穐山守夫(明治大学・憲法)、石川裕一郎(早稲田大学・フランス法)、岩佐卓也(神戸大学・法社会学)、植村勝慶(國學院大學・憲法)、緒方章宏(日本体育大学・憲法)、岡田行雄(九州国際大学・刑事訴訟法)、岡本篤尚(神戸学院大学・憲法)、小澤隆一(静岡大学・憲法)、上脇博之(神戸学院大学・憲法)、川崎英明(関西学院大学・刑事法)、木下智史(関西大学・憲法)、小松 浩(神戸学院大学・憲法)、佐々木光明(神戸学院大学・刑事法)、笹沼弘志(静岡大学・憲法)、新屋達之(大宮法科大学院大学・刑事法)、高橋利安(広島修道大学・憲法)、高村学人(東京都立大学・法社会学)、多田一路(大分大学・憲法)、塚田哲之(福井大学・憲法)、豊崎七絵(龍谷大学・刑事法)、内藤光博(専修大学・憲法)、成澤孝人(三重短期大学・憲法)、新倉 修(青山学院大学・刑法)、根森 健(新潟大学・憲法)、東澤 靖(明治学院大学・憲法)、三島 聡(大阪市立大学・刑事法)、宮本弘典(関東学院大学・刑法)、三輪 隆(埼玉大学・憲法)、本 秀紀(名古屋大学・憲法)、山崎英壽(日本体育大学・憲法)、横田 力(都留文科大学・憲法)、李 泰一(朝鮮大学校・憲法)

呼びかけ人3名、賛同者32名、計35名

声明事務局 清水雅彦