『週刊鉄亀』2000年7月17日号

●7月10日(月)
 石井政之氏のウェブ週刊誌『週刊石猿』を読む。彼は、新しく知り合った編集者にはこれまでの仕事を紹介した資料を渡すようにしているという。「私も来月で35歳ですから。勢い、若さ、やる気、人間性というようなあいまいなファクターで仕事を取る時代は終わったんです」と彼は言う。僕は31歳だが、まったく同感である。編集者にとって参考となるのは実績、つまり過去の仕事の質と量だけなのだ。
 石井氏の言葉にあえて僕がつけ加えれるとすれば、「コネ」に頼れる時代ももう終わりだという気がする。誤解されないように書いておくが、僕も人間関係は大切にしている。人から仕事を回してもらうこともあるし、人に仕事を回すこともある。ただし、僕がただある人の知り合いの若いライターであるという理由で、仕事をまわしてもらえるという時代はもう終わったし、自分でも終わりにしたい。もちろん、「カユカワさんは○○について詳しいから……」という理由で仕事を回してもらえるなら、大歓迎である。僕が(同世代以上の)同業者に仕事を紹介するときも同じだ。
 夕方、小川町のPARC(アジア太平洋資料センター)にて、ホームページ作成講座。最終回。自分のデザインセンスのなさを痛感。ホームページ公開が遠のく(涙)。
 連れ合いが、どこからともなく「移入ザル」についての資料を入手してきた。移入ザル? 外来種のサルが房総半島で繁殖しているらしい。取材しろ、ということか? いちおうオレも千葉県民だし、調べてみるか。何せT社の編集者Sさんが、歯ぎしりして僕の原稿を待っているのだ……。

●7月11日(火)
 午前中、某週刊誌の再校チェック。引き続き原稿。
 某誌から原稿の催促。

●7月12日(水)
 原稿。某経済誌編集部にメールで入稿

●7月13日(木)
 午前中、原稿。某科学技術雑誌編集部にメールで入稿。
 午後、某NPOの会議に顔を出す。「リーフレットをつくろう」という話が出る。「絵を多用して、文字を少なくしてわかりやすく……」。本が売れないはずである。日本はそんなに文盲率が高い国だったのか? はあーっとため息が出る。
 全国的な遺伝子組み換えイネ反対運動の展開されるそうだ。まことに結構。誰かが「Aさんの講演キャラバンをしなきゃ」と言ったとき、Aさんはケンソンして「カユカワ君とかもいるから……」とか言っていたけど、いままで経験からして、まず僕のところに講師依頼は来ないだろう。(でもなぜか英語力だけはすぐにあてにされる。)この問題を追い続けて20年のAさんは別格としても、実力が正当に評価されず、権威主義と年功序列がNPOにまで横行している現状はまことに嘆かわしい。著名度や年齢を気にせず実力だけで人を評価し、つねに新しい人材を求め、仕事をふってくれる野心的な編集者だけが僕の味方であると実感。はあーっとため息が出る。
 夜、『週刊T』の編集者から電話があり、「ヒトゲノムについてコメントしてくれないか」という依頼。しかも取材は翌日(笑)。お世話になっている、というか、いまは迷惑をかけているT社のSさんの紹介だというので、なんとかスケジュールを調節する。
 
●7月14日(金)
 というわけで、夕方、飯田橋で、生まれて初めて週刊誌からのコメント取材を受ける。「おいおい」といいたくなるような基本的な質問ばかりだったが、別に気にしない。それよりも、僕もライターなのに、ライターに取材されるというのは、なんとなくこそばゆい。しかも同じ年ぐらいの人だった。編集者とライターだけだったので油断していたのだが、やっぱり顔写真を撮られてしまった(^^;)。使われないことを祈る。
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 夜、某会の事務局会議に参加。ニュースレターの発送などに精を出す。
 そのままメンバーで近くのベトナム料理屋へ。話が映画監督の熊井啓におよんだとき、僕が彼と論争した武田徹とその著作『「隔離」という病』(講談社選書メチエ)のことを話し出すと、ある女性が「『「隔離」という病』って?」……。その女性は本誌の読者のはずである。おいおい、先週号でハンセン病についての長いコラムを書いただろ……。本誌の影響力のなさを痛感する。はあーっとため息が出る。
 その場で話がベトナム戦争におよんだとき、僕が生井英考の『ジャングルクルーズにうってつけの日』(ちくま文庫、三省堂からも新版)や新作『負けた戦争の記憶』(三省堂)を話題に出すと、誰も知らなかった(後者は僕もまだ読んでいないが、あちこちの書評で取り上げられているし、書店でも平積になっているはずだぜ)。本は読まれないのだ。はあーっとため息が出る。
 同席していた「メディア論を勉強している」という大学院生が、「私もエディター・スクールに行っているんですよ。ライターで喰えていますか?」と失礼なことを聞いてきた。そういう質問は、僕の仕事の実績----これまでの仕事の質と量----を知ってからしてほしい。怒鳴りつけようかと思ったけども、世間知らずの学生には酷かと思い、「相当の努力は必要だよ」とだけ答えておく。「へえ、文字媒体にも興味があるんですか? あなたは月に何冊の本を読みますか? どんな本を読みますか?」と聞けばよかった。はあーっとため息が出る。
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 同席していた若い----といっても僕より4、5歳若いだけなのだが----ビデオ作家の一人から、「ビデオジャーナリスト」の肩書きの入った名刺をもらった。彼は野宿者(いわゆるホームレス)のドキュメントなどを撮っており、なかなかの逸材なのだが(そして数少ない本誌の支持者なのだが)、最近、ある映像関係の会社に就職したらしい。「ビデオジャーナリスト」として。僕はイジワルにも「あなたにとってジャーナリストとは何だ?」と試しに聞いてみると、彼はちょっと苦い顔をした。彼は、僕が「ジャーナリスト」とか「ジャーナリズム」という言葉の定義についてしつこいほどこだわっていることを知っているからだ。僕はそれ以上は追及しなかった。彼は自分でジャーナリストと名乗っているわけではなく、会社の名刺にそう書いてあるだけだし、彼自身で考えればいいことだからだ。そして野宿者を撮った作品は、ジャーナリズムというより自己表現としてつくったものなのだと思う。
 ただ、映像の世界でも活字の世界でも、無意味に「ジャーナリスト」という言葉が乱用されていると思う。僕は、ただ取材対象に接して、その言葉をそのまま文章にしたり、その様子をそのまま映像にすることがジャーナリズムだとはまったく思っていない。問題告発や状況分析ができていない番組や記事なんて、ただの「遠足番組」「遠足ルポ」にすぎない。そんなものがテレビや雑誌で使われただけで「ジャーナリスト」と名乗っているヤツが多すぎやしないか?
 もっと言えば、確かアジア・プレス・インターナショナルの代表の人(氏名を失念)が言っていたことだと思うが、「たとえカメラを持った経験がなくても、すでにジャーナリストであれば、ビデオジャーナリストには数日でなれる」のだ。なお僕自身が初めて経験したカメラ取材は、ある市民団体から依頼されて、小さなデジタル・ビデオ・カメラを一台持ち、一人でイギリスとデンマークをまわって、研究者、行政関係者、運動団体関係者、合計10数人を取材する、というものだった。現地の協力者に電話でアポイントを取ってもらった以外は、たった一人でインタビューと撮影をこなした。いくらカメラの扱いがうまくても、深い予備知識と問題意識を持つ者でなければできない仕事であったと自負している。(なお、そのとき僕が撮った映像を一部に使ってつくられた作品は、僕とはまったく別の意思のもとで作品化されている。それが「ジャーナリズム」であるかどうかは自信がないが、ここでは取材段階だけを問題にする。)
 僕の言いたいこと、わかってほしいぜBaby。
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 帰宅すると、『週刊金曜日』7月14日号が届いていた。今回は「人権侵す「ヒトゲノム」ビジネス」という小特集で、天笠啓祐氏が「治療よりも企業の利益を優先」という記事を、僕が「国家主導で進むプライバシー侵害」という記事を書いた。僕の記事は、いわゆる「ミレニアム・プロジェクト」におけるゲノム解析研究の意味、それを実行するためにつくられた指針の問題点などを指摘した。
 この号にはゲノム特集ではないが、「狙われるあなたの個人情報」とか「エシュロン計画の日本の盗聴法への疑問点」など、プライバシー関連の記事が偶然にも集中している。
 なお天笠氏の記事は3ページ、僕の記事は2ページ。「狙われる〜」も「エシュロン」も3ページずつである。最初、僕も3ページと依頼されて書いていたのだが、原稿を入れてしばらくしてから「2ページ分に短くしてくれ」という指示があり、仕方なく短くした。またもや権威主義と年功序列に負けてしまった。連戦連敗である。はあーっとため息が出る。
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 知り合いで、ちょっと元気をなくしてしまっていた人がいたのだが、最近あるマンガを読んでいるうちに少し元気になったと聞き、ちょっと安心した。いいことだ。僕もそのマンガ作品は楽しく読んだ記憶がある。僕はその人の話を聞きながら、ヴィム・ベンダース監督『夢の涯てまでも』という映画の中で、心を病んだ主人公の女性が、恋人である小説家が古いタイプライターで書いた小説を読んで快復するというシーンを思い出した。
 しかし実際のところ、マンガや映画、テレビなどビジュアル媒体全盛のこの時代に、小説やノンフィクションという文字媒体は、人の心にどれだけの影響をおよぼすことができるのだろうか? ただでさえ人々は本を読まなくなっているのだ。ビジュアル媒体にどうやったら勝てるのか? そもそも僕自身にはそんな力があるのか? どうしようもない無力感を感じる。はあーっとため息が出る。

●7月15日(土)
 終日、雑務。
『週刊T』から、ファクスでコメントの内容確認。山ほど赤を入れて送り返す。やっぱり顔写真は使われてしまった(^^;)。来週水曜日発売だそうである。
 
●7月16日(日)
 新聞記事を整理していたら、7月11日付『朝日新聞』の論壇で、社会学者の小笠原祐子氏が書いた「「何でもあり個人主義」の退廃」という文章を見つけた。「「人それぞれ」で「何でもあり」となれば、社会問題の大半が個人の好みと選択の問題に矮小化されてしまう」、「個人の行為は必ず周囲へ影響するが、その波及効果に思いをめぐらすことなく個人主義を追求すれば、単なる自分主義に終わってしまう」……同感である。そういえば、7月6日付『朝日新聞』によると、警視庁によるアンケート調査で、ナイフなど凶器を持つことは、一般少年の23%が「本人の自由」と答えたそうだ。小笠原氏のような説得力のある個人主義批判を読むと少しだけ安心する。「自分の時代」はもう終わりにしないか? はあーっとため息が出る。
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 午後2時、いま東京に来ているという地方の出版社の人から電話があり、医療関係の企画で書き手を捜しているというので、とりあえず5時に市ヶ谷で会う。同業者のNさんの紹介だという。現場で、フリー編集者のWさんと出くわしてびっくり。話をよく聞いてみると、スケジュール的に無理な話だったので、残念ながら断るが、数人の同業者を紹介しておく。
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 ここは日本なのだ。コネ社会である。権威主義と年功序列が幅を利かせている。対話がない。そのわりに米国産の個人主義が蔓延し、人々は社会に目を向けず、自分のことにしか興味がない。だから本なんて読みもしない。散文を追って理論的に物事を考えるよりも、絵や映像や短い韻文で直感的に感じることのほうが好まれる。だから権力者には都合がいい。その自覚が市民派にすらない。はあーっとため息が出る。
 来週もまた、愚直なジャーナリストの孤独な戦いは続く。(つづく)

※今週は、あまりに失望することが多く、意気消沈してしまったのでコラムはお休みします。
 


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