第二次裁判原告の喜びの声 
米海軍横須賀基地石綿じん肺第二次訴訟で、和解解決した原告の皆さんに喜びを語ってもらいました。

A,K(83)(板金)
 和解を迎えられたこと、心から嬉しく思います。古川弁護士先生、名取先生、春田先生、各団体、支援者、皆様達にも、感謝の気持ちで一杯です。本当に、有り難う御座いました。

A.H(75)(船大工)
 私は石綿じん肺ベース裁判第2次原告として参加しました。2002年より16回の手続き、2年6ヶ月がすぎました。我々の訴訟は本当に短時間で、和解解決の運びとなりました。これひとえに古川先生他関係所属団体、組合の役員の方々の御支援による賜物と深く感謝し、厚く御礼申し上げます。後に続くベース3次・住友2次裁判訴訟早期和解を目指し、共に頑張りましょう。

I.T(76)(ボイラ)
思い起こせば、2年半前2002年5月30日に、じん肺・アスベスト被災者22名の1員として、ベース裁判第2次訴訟に参加することになりました。裁判などと言う言葉からして、私達には始めてのことなにもわからず、古川弁護士の言われる通りに対応してきました。健康に付いては春田、名取両医師の元看護士の皆様方、それに安元さんを始めとする事務局の皆さん、更には、全駐労横須賀支部、横須賀じん肺被災者の会等、皆様方の御支援・ご協力を賜りましてやっとの思いで「和解成立」になりました。厚く御礼申し上げます。
 私達ベース第2次原告一同、健康には充分注意する所存ですが、皆々様におかれましても、向寒の折、更にベース第3次と住友2次と続きますので、くれぐれも健康に留意され、尚一層の御盡力の程、ひとえにお願い致します。 

I.K(73)(ボイラ)
  新潟中越地震で大変な被害になり又、亡くなられた方々も多くいて心からお見舞いと同時にお悔やみ申し上げます。
 さて、本日11月1日にアスベストの和解になるとの事で大変嬉しく思ってます。心からお礼申し上げます。
 第1次の裁判から第2次の和解の判決まで長い様で、短い様な気持ちです。その間大勢の関係者の皆々様に大変お世話になり、厚くお礼申し上げます。原告団のご家族の方々も、今日の日を心待ちにしていたと思います。私を始め皆様高齢者で、一日も早く解決されることを祈ってました。本当に迎えられたのは、関係者の皆々様のお陰です。有り難う御座いました。第3次の方々を一日も早く解決されますように、祈ってます。 尚じん肺の被害者はまだ沢山います。私の町内にも数件鉄工所があります。マスクなどしていません。注意をしましたら、支給されないと言ってました。じん肺の苦しみを知らないから、のん気な事を言ってるのです。一日も早くじん肺の被害者が、早くなくなります様お願い致します。心から、お礼申し上げます。

K.K(82)(ボイラ)  色々とご尽力頂き、今回和解になった事は、誠に有難く思っております。今後とも、宜しくお願い申し上げます。

O.Y(82)(設計)  横須賀基地の艦船修理部に勤務しており、私の職務は基地に入港する中型の艦船の修理全般にわたり、監督する立場であり、20年間与えられた職務に対して、米海軍及び日本政府のために誠実に対応し、担当した艦船の艦長より数々の感謝状を受けるなど、自分にとしては誇りに思っていました。しかし、その時すでにアスベストによるじん肺に罹災していたことを思うと残念でなりません。
 今回第1次裁判で判決が出た通り、裁判所は前例にならい国の責任を認め、和解案を提示したわけですので、国に於いては早く対応すべきであったと思います。
 現在第3次裁判が行われているので、当然国に於いては前例にならい責任を認め、早期解決をすべきであると思います。

K.H(83)(機械)
 私の人生に於いて、始めての、そして最後であろう、じん肺ベース第2次裁判被災者原告団として、裁判、新聞、テレビニュースなどで各種の事件を読み、見て、おぼろげながら裁判のことは、少しばかり知識はありましたが、私が渦中の人になろうとは、夢にも思っていませんでした。私が、中央診療所の診察を受け、じん肺と言う、言葉すら知らなかった私が、じん肺患者と認定され、同志と共に古川弁護士先生のご指導により国への訴訟、そして裁判と、今日まで場所をも知らなかった、横浜地裁、横須賀支部の原告団の椅子に腰かけた時は、我々じん肺患者の苦悩を国側に理解してもらい、早く解決してもらいたい一心でした。
 月日のたつのは早いものですが、今回和解案が出る迄の月日は、私にとっては長い年月に感じられました。和解にこぎつける迄の古川先生のご努力、そして、各団体の皆様の御支援により、和解になりました事を心より、御礼申し上げます。有り難う御座いました。今後も宜しくお願い申し上げます。

E.T(75)(板金)
  生まれて初めての裁判なので、卒直に言ってどうなるかと当時の気持ちでした。月日が立つにつれ、今日では長かった様な短い様な、複雑な気持ちです。何はともあれ和解との事、これも先人達の皆様方及び各団体の皆様方の御陰様で厚く御礼を申し上げます。

K.M(75)(船大工)
  私達が提訴して以来、2年6ヶ月で和解となり、早期に解決できたことは、弁護士の先生方、支援していただいた皆様の、ご尽力のおかげと、感謝しております。
 しかし、1名の原告が時効10年のため裁判取り下げとなり、喜びを分かち合えないのが、残念でなりません。

S.K(86)(機械)
 結論として関係者の方々のお骨折りを心より感謝いたします。古川先生を始め諸先生のお骨折り、名取先生、春田先生、中央診療所の事務局、看護士さん等の方々の御支援いただき、その他じん肺基金の事務局長さん、職業病センターの方々、それに多くの関係者の並々ならぬご努力とご指導のお陰と、深く感謝する次第です。有り難うございました。

S.M(76)(板金)
  第2次裁判和解、とても嬉しく思います。弁護士、診療所の先生方又、御支援して下さいました皆様に感謝致しております。又第一次の皆様のご苦労御骨折があったからこそ早期解決が出来た事と思います。主人は裁判についての説明会に酸素ボンベを引き、目も不自由でしたので手を取り合って出席しましたが、その後一度も皆様にお逢いする事もなく、私が代理人として裁判の傍聴、原告団会議に参加してまいりましたが、昨年八月に他界しました。その後を引き継ぎ、私が皆さんのお仲間となり大変お世話になりました事を心より感謝しております。 さっそく墓前に報告に行き共に喜びたいと思います。ご協力、御支援有り難うございました。

S.T(86)(板金)
  ベース「米海軍横須賀基地」に入ったのは、昭和22年「一九四七」年1月7日でした。マスクも何もなく、粉じんが舞う中で働いて、これでいいのかなと思ったこともありました。タオルをまいたけれど、粉じんを吸っていたのですね。平成11「2000」年・83歳の時に「じん肺」と言われた時は、とてもショックを受けがっかりしました。88歳となった今、じん肺は今のところ進行していないようでホッとしていますが、息切れがするようになりました。それでも毎日の薬は欠かせない日々を過ごしています。
 裁判もずいぶん長くかかりましたが、これからも一日でも長生きしたいと思います。

S.T(75)(ボイラ)
  平成16年11月1、早期和解に当たりまして、本当に良かったと思います。弁護士、中央診療所の先生、職員の方々、御支援下さった方々に、心より御礼申し上げます。今後もいろいろお世話になると思いますが、宜しくお願い致します。

S.T(75)(断熱) 
 横須賀じん肺被災者の皆様より、多大なる裁判資金を寄付していただき、又支援団体の皆々様が、防衛施設庁へ裁判の早期解決を申し入れて下され、古川弁護士及び外の弁護士の方々のご協力により、提訴してから2年6ヶ月の早さで民事裁判が終わるとは思ってもみませんでした。これも皆第1次原告団や皆々様の御尽力の賜物と思っています。有り難う御座いました。

S.I(79)(船大工)
  ベース第2次原告の一人です。この度11月1日に上積補償裁判も短期間に勝ち取る事が出来、原告者一同喜びに堪えません。この喜びも先生、弁護士さん、又各支部組合又事務局の皆様方の応援又お骨折りの賜と深く感謝致します。
 考えて見ますに短い様で永く、永い様で短かった、2年半でした。この間1名は時効、1名はこの朗報も聞かず他界昇天致しましたが、誠に残念です。心からお悔やみ申し上げます。アスベストと言う物は原子爆弾と同じ人間が作った物で、じん肺と言うのは天災ではなく人災だと思います。それ故これからもじん肺撲滅、又ベース第3次、住友第2次の裁判も有ります。お互いに理解し、一致協力して闘わねばならないと思います。これからも身体に気を付け頑張りましょう。今後共御支援の程宜しくお願い致します。

T.K(78)(船大工)
 皆様のおかげで、この日がむかえられました。1次の勝訴があればこその和解だと思います。古川先生、仲間達、支援の方々に深く感謝致します。有り難う御座いました。今後私達は、十分に身体に気をつけて頑張って人生を送りたいと思います。3次の裁判も良い方向に進めばと思います。

T.N(76)(塗装)
 弁護士の方々始め、各団体の役員の方々のお陰にて、和解に至ったことを、心より感謝致しております。これからもよろしくお願い申し上げます。

H.H(75)(機械)
 第1次そして、第2次と勝訴。医師・弁護士さん始め事務局救済基金・御支援下さいました皆様、本当に有り難う御座いました。第3次そして、住友宜しく御支援下さいます様お願い申し上げます。

M.K(64)(断熱)
 定年になり、じん肺被災者の会に出会う事が出来ました。
 次なるは裁判、弁護士さんとか、口にする事すら、自分には考えられなかった、遠い国の単語の話し位いに思ってました。とにかく裁判をということで、弁護士さんから、話しがある、集合しなさい。最初の裁判の話をきいたのはが、2002年の5月だったかな。
 東京まで何回か行動した、裁判所にも、何回か、弁護士さんの話しも、何回か聞き、現在に至っては、65歳以上80歳代の自分達が、国を相手にこの様な、大きな裁判を勝ち取れた事は、後ろに大きな団体の組織があるからだ。 原告の皆さん、その家族も大きな喜びですよね。その一部を何に使うと言う事ではなく、第1次・第2次・原告団か被災者の会で、管理する様にカンパと言う名目でお金を集めたいと思います。1人・20万円位、もうこの様な大きなお金の動く裁判など、二度とありませんよね。被災者の会と言う、この様な大きな組織を、維持して行く上でも楽しく、面白く、年齢的にも、仲良くやっていけたらと、思います。

Y.Y(74)(溶接)
 秋も深まり、紅葉の季節となりました。長いようで短かった四年間、2次の裁判を早期解決にもっていった古川弁護士先生方、診療所の名取・春田両先生の医師団、また支援団体労職センターの西田・池田さん達の並々ならぬご尽力、ご指導の努力のたまものだと思います。ありがとうございました。心よりお礼申し上げます。

Y.T(76)(機械)
 今回の判決は私達の原告にとって大変な喜びです。1次の裁判の方は3年以上の全面勝訴は長かった様に思いますが、2次の裁判は早かったと思います。
 これはひとえに弁護団や診療所の先生原告団を支援して下さった皆々様のお陰と感謝致しております。今後も私達も身体に十分気をつけて頑張ってまいりますので皆様御支援、ご協力の程宜しくお願いいたします。