JANN アフガニスタン入門書

 

Section 1. 初めに

 

1.1 歴史的背景

(BAAG Briefing Pack 2003 p.7)

アフガニスタン紛争のルーツは、新しい知性運動が保守的な部族や宗教分子からの抵抗にあった20世紀初頭に遡る。1978年4月のPDPA(共産主義政党)クーデターと1979年12月のソ連侵略という結果に及んだ政変が、この政治的およびイデオロギー的闘争過程のクライマックスである。

ソ連占領の10年間と、それに続きソ連に支持された政府が政権の座にあり続けた3年間は、米国、サウジアラビア、その他諸国から抵抗運動への武器提供があり、イスラム組織の発展にも寄与した。1992年4月にソ連に支持された政権が崩壊した時、様々なムジャヒディン(Mujahidin:イスラム聖戦士)抵抗グループは始めから適切な勢力範囲について調整合意ができず、それぞれが軍事的手段によって目的を達成させようと、彼らの間で戦いが起こった。タリバンがカブールを獲得する前の4年間、首都の多くの地域は瓦礫となった(タリバンもまた支配権を築き上げるときから崩壊まで破壊をつくした)。

1994年10月のタリバンの出現はカブール(Kabul)やアフガニスタン南部の大部分に広まっていた無政府状態に対する反応として見ることができる。彼等はカンダハル(Kandahar)近くに住み、その地域を統制していた軍司令官等の行動に道徳上の理由で反対していた生徒達の小さなグループに起源をもっていた。これらの生徒(すなわちタリバン)が軍司令官等に対して暴力という手段を使った時、パキスタン内にいた分子がある種の戦略(タリバンの支援を通して政治的・経済的目的)を達成する機会を見出した。そしてこれはシャリア法(Shari’a Law)に基づいたイスラム国家を造ることを目的として、彼等へ軍事行動に従事するための資金を与えた。

当初、彼等の信念は自由主義概念を導入した20世紀の様々な改革運動以前に主流であった倫理的価値体系として彼等が考えていたものを復活させたいという願いに基づいており、そしてこれが極端な形を取った。この信念の過激主義は戦争に疲れた人々に確信を与えたが、人々に対する押し付けは彼等が新地(特にアフガニスタン北部の非パシュトゥン[non-Pushtun]地域)の征服した際に、様々な反応として現れた。1998年〜2001年の期間に渡って、彼等は北部での軍事的敗北や、1998年8月の米国による空爆や、それに続く国連による制裁措置に応じて、次第により強硬路線を取るようになり、同時に他のイスラム世界における一部の過激派への影響力を増大した。

米国主導の軍事介入の結果として起こった2001年11月のタリバン崩壊は、2001年のボン合意をもたらした。国際社会が強い権限を持ったこの合意は、国政選挙と民主的に選ばれたアフガニスタン国家の再建を導く段階的なプロセスを提供した。

 

1.2 地理

(BAAG Briefing Pack 2003 p.8-9)

概してアフガニスタンは山の多い砂漠として特徴付けられる。孤立した谷間とオアシスがあり、そこでは川と泉が灌漑農業や天水農業の成功を可能にしている。イラン高原の東端からヒマラヤ山地の西端まで伸びている山脈によって、北部は南部から分離されている。最北東では、タジキスタンとパキスタンを隔てているワハン回廊(Wakhan corridor)の山々が7,470mにのぼる。北部平原は概して低木地であり、マザリシャリフ(Mazar-i-Sharif)を最大とする主要な人口集中地の周りに耕作地帯がある。アフガニスタン南西部は全くの砂漠であり、高い砂丘がヘルマンド川(Helmand)渓谷沿いの定住と耕作を絶えず難しくしている。首都からジャララバード(Jalalabad)を通ってパキスタン国境を越えるカブール川渓谷は(カブール北部のかつてのショマリ谷[Shomali Valley]のように)特に肥沃である。他の場所では、土の肥沃さは丘・山・土壌のタイプに応じて非常に変わりやすい。

主な人口集中地は首都のカブール、南部のカンダハール、西部のヘラート(Herat)、北部のマザリシャリフ、東部のジャララバートである。カブールは1996年から2001年まで、国家基盤の崩壊と中央アジアおよびそのルートを通るアフガニスタン北部からの貿易の事実上停止のため、経済的僻地であった。2002年上旬より、貿易経済は復興し、首都もまた援助機関・大使館・メディアで勤務する大規模な外国人流入から利益を得た。しかしこの流入は住宅市場における劇的なインフレを刺激するというマイナスの副作用があり、また政府官僚が専門スタッフを目指して国際集団と競争することを不可能にさせた。ヘラートは伝統的にペルシャ湾、中央アジア、インド亜大陸の貿易を結ぶ十字路に立つ豊かなオアシスである。従来、ヘラートはアフガニスタンの文化の中心であり、美しい歴史的建物や音楽の伝統、細密画、絵画を有する。カンダハールとジャララバードは重要な貿易センターである。マザリシャリフはアリー(イスラムの第4代カリフ)の神社がある所であり、アフガニスタン人にとって宗教的・文化的な重要性を持っている。マザリシャリフもまたタリバン期に中央アジアとの貿易崩壊による経済的な損害を受けたが、その後復興している。

主要な交通経路はトルクメニスタン国境のトルグンディ(Torghundi)からヘラード−カンダハール−カブール−マザリシャリフ−シバルガン(Shibarghan)を通る高速道路である。この道路からの分岐は以下の主要な支道である:ヘラートからイラン国境のイスラム・クラ(Islam Qala)、カンダハールからパキスタン国境のチャマン(Chaman)、カブールからパキスタン国境のトルカム(Torkham)、プリクムリ(Pul-i-Khumri)からクンドゥズ(Kunduz)を通ってタジキスタン国境のシェルカンバンダル(Sher Khan Bandar)、そしてタシャウルガン(Tashaurghan)からウズベキスタン国境のハイラトン(Hairaton)である。

地図

(A more detailed general map can be downloaded from the UN Cartographic Section website)

 

1.3 人口と民族

(BAAG Briefing Pack p.8から編集)

アフガニスタンは29,928,987人 の人口を有し、34州に居住している。民族アイデンティティーは過去3世紀に渡って支配権を得る決定要因となっている。アフガニスタン南部の大部分を領土としているパシュトゥン人は過半数には至らないが、最も大きなグループである。1747年から1992年までのアフガニスタンの支配者はパシュトゥン人であった(タジク民族が支配した1929年の1年未満の期間を除く)。また1992年から1996年までカブールを支配したムジャヒディン政府の中にも強力なタジク民族がいた。1994年からのタリバンの出現によって、パシュトゥン人は再び権力を得た。 パシュトゥン人の大部分がパシュトゥー語を話す一方で、他の民族グループの大部分はペルシャ語の方言であるダリー語を話す。両言語は政府の公用語となっている。民族グループの大半(人口の80%)はイスラム・スンニ派を信奉しており、主要な例外は人口の19%を占めるシーア派のハザラ人とイスマイル人である。ハザラ人は政治・経済的に取り残されがちであり、前世紀あるいはその前後に渡って多数の大虐殺の犠牲者となってきた。

 

民族比率 (Source: CIA World Factbook)

 

1.4 経済

(エミリー・パーキン)

アフガニスタン経済は紛争の年月の間に壊滅された。しかし最近、ドナーによって支援された再建活動は力強い経済成長の促進に寄与している(とはいえ、今のところ経済成長は所得、性別、地理的条件による不均衡をほとんど緩和していないけれども )。同時に、経済成長は一連の広範な問題によって影響を受けるため、中期から長期において経済がどのように進行するかを予測することは困難である。 アフガニスタンの経済状況に関する主要問題:

・ 干ばつと洪水:概して農業(すなわち小麦と家畜)を基盤としている経済として、アフガニスタンでは干ばつと洪水が主な経済的重要事項である。例えばこれは、2003年に終わった4年間の干ばつの壊滅的な影響によって示される。

・ 麻薬経済:公式なGDP総額はアヘンの生産を含んでいないが、それは少なくとも正式なGDPの40%に等しいと推定されている (p. 10の囲み記事参照)。

・ 治安:治安の不安定は投資や経済発展にとって深刻な障害を残していると、しばしば認識されている。

・ 密貿易:アフガニスタンからパキスタンへの輸出の90%は、実際はもともとパキスタンから輸入された商品の不法な「再輸出」であると推定されている。

 

Box 1: アヘン

アヘンはアフガニスタン経済において非常に大きな割合を占める。それは、GDP(国内総生産)の半分に等しい歳入と考えられている。2004年、約230万人(人口の12から14%)がアヘン栽培にかかわっていた。

政府の国内薬物統制指針が、アフガニスタンにはびこった麻薬取引に取り組むための枠組みとして出された。しかし、それにもかかわらず、政策立案者は大きな問題に直面した。WardとByrd(2004)は、彼らの影響力の強い報告書’Drugs and Development in Afghanistan’において、以下にあげる鍵となる問題を明らかにした。

1) 政府には、敏速かつ明らかな結果を出さなければならないという圧力があり、これは、長期的に維持できる改善策を犠牲とすることとなるだろう。

2) 優先順位に関する問題と、禁制、アヘン栽培での生計に代わる生計と撲滅といった一連の実行上の問題がある。

3)政治、法的強制、司法と刑法の体制においてキャパシティービルディングの必要性が多大にある。

 

(エミリー・パーキン)

 

1.5 アフガニスタンにおけるイスラム教

(Jawed Ludin, BAAG Briefing Pack p. 22)

イスラムとは服従(つまり神の意志への服従)を意味する。ムスリムはイスラムと同じアラブの本質に基づき、神に服従する者(つまりイスラム教の信者)を意味する。イスラム教における「神」の概念はアッラー(またはダリーやパシュトゥーといったアフガニスタンでの言語ではコダ[Khoda]/コダイ[Khodai])が「至高の存在」、唯一神、であるという前提に基づいている。アッラーはユダヤ教徒やキリスト教徒によって崇拝されている神と同じ神である。アラビア語を話すキリスト教徒も神という意味でアッラーという言葉を使う。

「読むこと」あるいは「朗読」を意味するコーラン(QuranまたはKoranとも綴る)はアッラーによってムハンマド(Muhammad)に示された神聖な経典である。コーランは預言者ムハンマドを通して人類に向けられた神の直々の言葉である。全てのイスラム教徒は114章、計6,666節に編集されたコーランの全体性と完全性を信じている。コーランに加えて、神のメッセージはスンナ(Sunnah:「伝統」と言う意味。イデオロギー的事項と同様に実際的な事項にもおける預言者の指導力と案内に基づいている)という形でムハンマドを通して伝えられた。スンナはムハンマドが預言者としての能力において命令、禁止、実行、了解したものである。ムハンマドの格言や伝統はハディース(Hadith)と呼ばれている。ハディース録(預言者ムハンマドの言行記録を収録したもの)は最も重要な宗教の教科書と考えられている。

姉妹教義を持つキリスト教やユダヤ教からイスラム教を区別する主な要素は、崇拝の概念と慣行である。伝統と法律の偉大な組織にもかかわらず、イスラム教の慣行は根本的には(神と信者の間において)個人的である。アフガニスタン人は全てのイスラム教徒のように、崇拝は宗教儀式に限られず、基本的には人がアッラーの喜びのため行う全ての言動に及ぶと信じている。これはもちろん、信仰、社会活動、同胞に対する福祉への個人的貢献と同様に、儀式も含む。Sawab(「善行」の意)、Ajr(善行への褒美の意)、Gunah(罪または悪の意)といった用語はアフガニスタン人の間の日常会話において一般的である。

 

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Japan Afghan NGO Network (JANN) 日本アフガンNGOネットワーク(JANN) last update: 13.03.07