アート・アクティヴィズム33 北原恵 恐ろしいのは、映像が嘘をつくことではない。映像が真実だと思い込み疑おうとしないことである。 一月三〇日にNHKで放映された「ETV2001シリーズ戦争をどう裁くか」特集の第二回「問われる戦時性暴力」が、右翼や政治権力の介入によって、スタジオ収録時とは全く異なった形で放映された問題をめぐって、これまでにすでに出演者からの抗議・申し入れや国会での答弁が行なわれ、さまざまな議論が起こっているのは周知の通りである。 1. フィクショナルな"時間"と"空間" まず、番組の冒頭のスタジオ部分を見てみよう。 番組はオープニングのVTRから始まり、タイトル表示(1)のあと、スタジオでの町永アナウンサーのワンショット(2)におりる。アナウンサーが出演者を紹介するあいだ、映像は出演者三人全員を写したロングショット(3)のあと、高橋哲哉のワンショット(4)に変わり、そのまま向かって右にパンしながら米山リサのワンショットに移る(5)。そして再びカットで町永アナウンサーのワンショット(6)に切り替わり、カットで高橋のワンショット(7)になる。 なぜ、こんなにクドクドと説明したかというと、編集によってどのように時間と空間の捏造ができるかを明らかにしたかったからである。この冒頭のスタジオ部分を見た視聴者は、当然のことながら、米山リサも含めた三人がその場に、同時に存在すると思うにちがいない。 だが、画面をよく見ると、人道の罪について説明を始めた高橋(7)は、出演者紹介時の高橋(4)とは異なっている。上着もシャツも同じものを着ているが、彼の髪の毛が、突然、伸びるのである。(4)では完全に見えていた向かって左の耳たぶが、(7)になると半分以上髪の毛に覆われている。出演者紹介のときの高橋と米山のワンショットはカットでつながれたのではなく、パンで移動して映されていることから、二人がスタジオに揃って収録されたときの映像であることが確実である。そして、高橋の髪の毛が一センチほど伸びていることを考えると、十二月のスタジオ収録から約一ヵ月後に、再びスタジオでの撮り直しが行なわれたと推測できよう。 事実、この推測は、高橋自身が『週刊金曜日』で述べているコメントと一致している(竹内一晴「消えゆくNHKのジャーナリズム」三月三〇日、三五七号)。それによると、急遽送られてきた新しい台本でも「女性国際戦犯法廷の紹介部分は残っており、番組本来のメッセージは視聴者に伝わると判断して、私は[一月]二八日午前中に、二ヵ所のコメント新撮に応じた」ということである。だが実際に放映された番組では、「VTR部分にあるはずの加害兵士の証言、日本軍性奴隷制を人道に対する罪として、軍最高司令官であった昭和天皇の責任、日本政府の国家責任を認定した判決のシーンなどがなくなって」いたという。 二八日に行なわれた高橋の新撮コメントがどの部分であったかについては、彼の髪の毛が番組中、伸びたり短くなったりするので、その長さに注目すればかなり正確に特定することができる。画面から推測できるのは、人道に対する罪について説明した冒頭のコメントと、海外メディアの反応に関するVTRのあとの、最後のスタジオ部分のコメントが二回目の収録によって付け加えられた部分だということである。このように冒頭とシメという番組の性格と構成を決定づける最も重要な部分に新撮が使われたのである。 もちろん、スタジオ収録を撮り直すということ自体が間違いなのではない。収録時の発言の訂正や企画意図の変更によって再収録・再編集が行なわれることは珍しくなく、出演者の了解があれば、彼らのあいだの問題はないだろう。だが、VTRがはさまれる場合、スタジオ収録後のVTR内容の削除・追加など主旨に関わる大きな変更は、スタジオ出演者に告げ了解を得るべきである。なぜなら、スタジオでのそれぞれの発言は、出演者が放映されたVTRを見た上でなされているという前提のもとに、番組が制作されているからである。秦郁彦のインタビューがVTRで流れたあと、スタジオの出演者がこれについて反論やコメントを何もしないままであるならば、視聴者には、出演者が秦郁彦の発言を肯定したと映るだろう。 スタジオ収録時にVTR部分が間に合わず、「見た」という仮定の上でスタジオ出演者が発言することもあるが、それは、出演者の了解のもとになされるのが通常である。今回のように、実際に見たVTRが、了解もなく削除され、先にVTRに基づいて行なった発言が、そのまま別の文脈で使われることは、「改竄」ではなく「捏造」と言えるのではないか。また、もし仮に米山が第二回目の改変を知らされずに、新たに収録された町田アナウンサーと高橋との発言部分に、存在しないはずの彼女の映像がインサートされているとすれば、これも、通常の編集作業におけるインサートとはまったく性格の異なる「捏造」だと言えるのではないだろうか。 2.周縁化された<女> では、もうひとりの出演者であった米山リサはどのように番組で表象されているのか。 また、米山が口を開くのは、冒頭での出演者紹介での「よろしくお願いします」という挨拶を除くと、番組開始後18分43秒あたりから始まるコメントが、最初である。つまり、番組中盤まで、彼女は沈黙させられているのである。しかも、米山に発言を求める町永アナウンサーの「米山さんはこの意味合いはどんな風にお考えでしょうか」という科白と、口の動きが合っていない。別の文脈で求めた発言を無理やり18分あたりに入れるために、科白と口が合わないなどという恥ずかしい編集にならざるをえなかったのではないだろうか。米山は、この発言のなかで、20世紀後半のフェミニズム思想が、植民地主義、経済侵略、レイシズム、民族差別などの歴史を踏まえて、加害/支配側の女たちと、受けた側の女たちがどのような関係を結んでいけるのかということが大きな問題となっていること、そして女性国際戦犯法廷を支えてきた思想が、加害側の女性がどのように応えるのかというひとつの姿勢を示した、と述べ評価している。だが、スリーショット(三人が映っているロングの場面)のインサートを被せられた部分では、突然科白が曖昧になることから、おそらく、彼女の発言をズタズタに切った音編集がこの場面で行なわれものと考えられる。これらの無残な編集からは、放映が迫り慌しい時間のなかでの、制作担当者の切羽詰った状況が伝わってくる。 第二の特徴は、放映された番組ではスタジオの空間が、本人の意図に関係なく町永アナウンサーと高橋哲哉という二人の男性によって徹底して独占され、ジェンダー化されていることである。向かって左から、「町永―高橋―米山」の順に座っている三人の映像は、基本的に高橋を中心化するように構成されている。だが、それは、単に三人が並んだ位置のみが原因なのではなく、町永は高橋を見る、高橋は町永か正面を見る、米山は町永か高橋の方向を見ているという三人の視線の方向によってもさらに強調されている。 この視線の意味については、ニュース番組における男女のキャスターの視線を考えてみればよく分かるだろう。たいていの場合、女性よりも年老いた男性キャスターは、女性がニュースを読んだりコメントをしているとき、いちいち相手を見ながら頷いて賛同を示すことはせず、カメラを真っ直ぐに見据えることによって、場の支配権を確立しようとすることが多い。 さらに、新しく収録されたスタジオには、町永と高橋の二人しか居ないのであるから、カメラの動きも、町永と高橋の二人のあいだを移動するだけに終わらざるをえない。町永から右にパンしたカメラは、高橋をワンショットでとらえるとそこで動きをピタッと止める。その結果、スタジオの空間はこれらの男性二人によって完結してしまうのである。 @秦の映像が二回合わせて三分三〇秒流れたのに対して、内海の映像は一分十五秒だけであり、発言時間の格差が大きすぎること。(しかし、問題は時間の長さだけではなく、発言内容の選択、構成のされ方、映像の作られ方である。)A「秦―内海―秦」の順序でインタビューが構成されているため、秦の発言に一層説得力が増すこと、B秦が、静かな室内で書棚(=知のメタファー)を背景に映されているのに対して、内海は、人々の行き交うざわめいた会場で撮られているため、結果として秦の発言が強調されること、C秦を映したカメラアングルが、向かって左手下方からアオリで見上げるように撮られているために、秦に権威が生じるのに対して、内海の場合は、右手上方から見下げるように撮られて、秦と対照化されているために、映像に弱さを生み出している。(もっとも、カメラが俯瞰で人物をとらえた時、常に「弱さ」を感じさせるというわけではない。米山は、十二月のスタジオ収録時には、内海のインタビューは最後のVTR部分で締めくくりとして使われていたと述べているが、もしそうであったならば、法廷が終わったあとの会場のざわめきは、「慰安婦」制度について日本国家の責任を認め、昭和天皇に有罪判決を導き出した今回の大きな仕事を終えた後の、緊張と充実感を表現した美しい映像であっただろうと想像できるし、上方から撮られた内海の姿も「弱さ」を印象付けるものではなかったはずだ。) 放映された番組におけるこのような米山と内海の周縁化は、法廷の主催者VAWW‐NETや松井やよりの抹消、天皇の有罪判決の削除と見事に一致している。だが、番組の「公正さ」をアッピールするためには、完全に<女>の姿を消すわけにはいかない。その結果、徴(*ルビ:トークン)として利用された彼女たちの映像があのようになったのだろう。 だが、以上の分析は、あくまで一月三〇日に放映された映像の主にスタジオ部分に留まっている。おそらく、出演者たちがすでに公表しているように、VTRの内容や番組の流れ・構成にも大幅な変更があったものと考えられるが、十二月末と一月二八日段階での台本が明らかにされれば、実際に放映された番組の改竄・捏造個所や歪曲が一層明らかになるにちがいない。 さらに今回の場合、ジェンダーの差異は、番組の中だけでなく、番組制作の構造にも表われているように思う。NHKで働く女性の数は、全体の9.1%であり(二〇〇〇年度)、まだまだ送り手としての女性の数が少ないことが分かる。私自身が民間の制作プロダクションで番組やCMの制作に携わっていた一九八〇年代半ば頃を思い返してみると、当時、民間放送局では三〇代から四〇代にかけての中堅の女性正社員の制作者はほとんどいなかった。(女性社員の平均年齢が五〇代という放送局もあった。)テレビ草創期に入社した年配の女性が少数いたが、その後女性の採用が長く途絶えたために、放送局に女性は正社員として採用されることがほとんどなかったからである。そのかわり、賃金が放送局の何分の一という労働条件の制作プロダクションでは、まだ女性が活躍する場があった。今回、第二回目を担当したドキュメンタリージャパンの制作者たちと、NHKの担当者たちとの関係には、受注者/発注者のヒエラルキーに、ジェンダー化された構造がかぶさって見えてくる。問題の生じそうな番組は外部のプロダクションに受注し、事が起これば切り捨てて、内部を守ろうとする構造。 沈黙させられた番組制作担当者たち、沈黙させられ周縁化された米山リサと内海愛子、完全に抹消された松井やよりとVAWW‐NET、消された日本国家の責任と天皇の有罪判決シーン、日本軍の性奴隷制が人道の罪としての戦時性暴力であることの隠蔽――、まさに、「女性国際戦犯法廷」が明らかにし責任をただそうとした同じ構造が、今回の番組改変のなかで、またしてもくり返されたのである。 [付記]天皇の有罪判決のVTRやコメントは番組から消されたが、海外メディアの報道を伝えるVTRのなかで、韓国KBSニュースが数秒間紹介されている。そこに「日 天皇有罪判決」の文字がはっきりと映っていることを友人が教えてくれた。消そうとしても消しきれなかった問題の根幹が、ハングルを通してのみ伝えられた。 (初出) 『インパクション』124号、2001年4月(インパクト出版会) (注)
ウェブ上への転載に際しまして、著者である北原恵さんとインパクト出版会から快諾をいただきました。この場を借りて感謝します。なお、「改変」は初出時には「改編」でしたが、著者の意向により「改変」としました。無断転載、本ページへの直リンクはご遠慮ください。 |