NHK・ETV2001
『問われる戦時性暴力』
改変にみる「編集権」とは何か〈上〉
竹内一晴(フリーライター)
今年1月30日放送のNHK教育テレビ「シリーズ 戦争をどう裁くか−問われる戦時性暴力』という番組が改竄された。視聴率は0・5%(ビデオリサーチ調べ)にすぎなかった。しかし、この事件が日本のジャーナリズムに残した爪痕と、改竃によって起こったさまざまな人権侵害を考えるとき、私は真相究明の重要性を痛感せざるをえない。
この問題は国会でも取り上げられた。3月16日の衆議院総務委員会で民主党・大出彰議員が、外部の圧力によって「NHKの報道の自由が、あるいは企画担当者の表現の自由、NHKの編集権の独立が侵害されたのではないかという観点」から質問をした。答弁に立ったNHK海老沢勝二会長は、「制作の過程、プロセスにはいろいろと編集権の問題があり」、「我々はコメントする立場にありません」と応じた。「編集権」が守られたかと尋ねられ、「編集権」の問題があって答えられないと答弁した。
珍妙なやりとりの中に徘徊する「編集権」とはいったいどんなものなのか。
本稿では、改竄問題をめぐって飛び交っている「編集権」というキーワードに注目し、その意味と編集権行使によって起こった人権侵害について論じたい。まず@事件をご存知ない読者のために、経過を丁寧に振り返り、その後のマスコミの報道と噴出した抗議へのNHKの対応などについて述べる。次にANHKが弁明において持ち出した「編集権」について、戦後日本における「編集権」概念の形成史をなぞり、その日本的特殊性について言及する。そしてB「編集権」行使による番組改竄でなされた権利侵害について考えた後、C事件の教訓を今後のNHK放送のあり方にどう生かすかに触れたいと思う。なお紙幅の関係上、BとCについては論点を提示するに止め、次号で法と放送制度について詳しく調べた上で、十全な論を展開することとしたい。
一、事件の経緯
国内メディア及び腰の中で
昨年12月、「日水軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」(=以下法廷)というイベントが東京・九段会館で開催された。太平洋戦時下に日本軍によって作られた「慰安婦」制度の真相究明をし、人道に対する罪としてその責任者を処罰するという「民間法廷」(法的拘束力はない)だった。加害国・日本と被害国・アジア地域の女性たちによって運営され、七〇人余の元「慰安婦」が証言をした。判事・検事団は権威ある国際法の専門家が担当し、「判決」では昭和天皇と日本国家の有資性が認定されるという「画期的」なものだった。
この法廷は約一五〇社のメディアによって報道されたが、うち三分の二が海外のメディアだった。国内メディアの報道姿勢が及び腰になったのは、昭和天皇の戦争責任と「慰安婦」問題が取り上げられていたことが大きな原因だったと思われる。
その中で、NHKの取材班=制作会社ドキュメンタリー・ジャパン(9以下DJ)のクルーは法廷に密着した意欲的な取材を行い、四夜連続のシリーズ中の第二夜「日水軍の戦時性暴力」(タイトルは後日変更)と第三夜「いまも続く戦時性暴力」を制作(正式にはNHK、NHKエンタープライズ21=以下NEP、との共同制作)し、NHKに納品することになっていた。ちなみに第一夜「人道に対する罪」と第四夜「和解は可能か」の制作は、NHK本体(報道局ヨーロッパ総局と番組制作局教養番組部の共同制作)が行った。
この企画自体は、当初はDJ制作部分の二夜のみの予定で、DJからNEPを介してNHKに提案されていた。「女性国際戦犯法廷の過程をつぶさに追」うと企画書にあったという。そもそもDJが「法廷のドキュメントを撮ろう」と思ったところから、このシリーズの企画が立ち上がっていたのだ。
右翼、街宣車連ねて
ところが、昨年12月27日にコメンテーター(=高橋哲哉・東京大学助教授と米山リサ・カリフォルニア大学準教授)によるスタジオ収録を終え、年明けのオフライン(仮)編集に入るころになると、NHKに対する右翼の抗議活動が激しさを増していった。1月20日に吉岡民夫・教養番組部長宛に抗議書簡が届いた頃からエスカレートし、シリーズ全体の制作統括をした永田浩三チーフ・プロデューサーの自宅にも抗議や脅迫の電話が殺到したという。放送を危惧したDJ関係者と思われる人物の書いた、番組への支援を呼びかける痛切なメールがインターネットの掲示板で公開された。
東京・渋谷のNHK放送センターに現れた(他の地方局にも街宣車が来た)右翼の抗議行動の概略は次のようなものだった。
1月27日午前10時過ぎ、「NHKの『反日・偏向』を是正する国民会議」を名乗る団体(維新政党・新風の西村修平氏が呼びかけたもの)約三〇人が、NHK四階正面玄関に押し寄せた。彼らは「二回目に放送が予定されている『日本軍の戦時性暴力』は、昭和天皇を戦争犯罪人と決め付けるおぞましい番組である。NHKの目的は、戦争犯罪をデッチあげる反日洗脳だ」などと主張し、「放送を中止せよ。担当者を出せ」と、応対に出た視聴者ふれあいセンターの担当者に詰め寄った。
15時頃になると今度は大日本愛国党の街宣車六、七台が西口ゲートを突破して玄関まで乗りつけてきた。制服の党員二〇人ほどが建物の中まで入り、警察官が見守る中、一時間にわたって抗議した。同時間帯にNHKの建物の表と裏の入りロが挟撃されるという異常な事態。
翌28日の午前10時半ごろにも、再び「NHKの「反日・偏向」を是正する国民会議」のメンバーらは番組中止を求める「要望書」を持ってやってきたという。
無残な改変の傷痕
このような苛烈極まる事前の抗議行動と呼応したかのように、放送された番組は誰が見ても不自然かつ支離滅裂な内容になっていた。放送直前の再編集で無理をしたためか、テクニカルな欠陥すら見受けられた。以下に列挙してみる。【放送時間の短縮】
シリーズ全四回のうち、ほかの回はすべて四四分だったが当該番組だけ四〇分。NHK関係者によれば「異常なこと。四〇分以上の番組が短縮された話は、自分は一度も聞いたことがない」
【構成が前後の回の内容と重複】当該番組の冒頭だけが前日放送された第一回の内容の要約だった。他の回はすべてその回の内容を要約していた。また番組後半で、第三回で取り上げる内容が既に出てきてしまっていた。カットした部分を補うための苦肉の策だったと思われる。
【タイトル変更】当初の番組タイトルは「日本軍の戦時性暴力」だった。1月24日の段階で「問われる戦時性暴力」に変更された。タイトルから「日本軍」の文字が消えたことは注目に値する。
【ネガティブなコメントの挿入】法廷に対して疑義を連ねた秦郁彦・日本大学教授のコメントを二度、計約三分三〇秒も使っているが、それを受けてのコメンテーターの解説がないため、法廷の主張との矛盾をどう考えたらよいのか視聴者にわからず、齟齬をきたした内容となっている。秦氏に取材したのは放送二日前で、諸々の収録の最後になったため処置できなかったのだ。
【加害兵士の証言カット】元日本軍加害兵士が法廷で述べた、「慰安所」と強姦の実態のリアルな証言がカットされていた。放送二、三日前に映像使用の許諾を求める電話があったというが……。
【テクニカルな欠陥】 番組の終わり近くで短いカット割りが続く部分がある。そのうちのあるカットの頭の音が欠けていて、一瞬だが完全に無音になっているところがあった。ドタバタの改変劇の過程で起こったトラブルと思われる。
内容的にいっても、法廷の最大眼目である「責任者処罰」への言及がまったくないことは不思議である。法廷のことを取材しているのに、「被告人」と「判決」に触れないとは首を傾げざるをえない。さらにコメンテーターが法廷の意義を論評しているところが削られただけでなく、「法廷」ということばさえ周到に消されていったようだ(この点に関しては「世界」5月号で、高橋哲哉氏が事前の台本と照らし合わせて詳細に論じている)。
法廷が「人道に対する罪」である日本軍戦時性暴力の責任者として、昭和天皇と旧日本軍の高官らを訴追し、判決(天皇有罪、国家責任)を下したという事実を避ける意図のもとに、系統的な削除と差し替えが行われたことは疑う余地がない。
土壇場の再改変
度重なる再編集の末に起こった放送直前の改竄(注1)とは、次のようなものだった。
局への抗議が強まってきた1月中旬あたりから、番組内容に対するNHK側の入念なチェックが行われるようになった。「取材対象との距離が近すぎる」という懸念がNHK側にはあったという。数次の再編集要求がDJに出されていたようだ。そして1月24日には、とうとうDJのディレクターは外され、吉岡民夫・教養番組部長の指揮のもと、シリーズ全体の制作統括をした永田浩三チーフ・プロデューサー(以下永田CP)自らが編集の任にあたるようになった。これ以降はNHK職員の手によって編集がなされたのであり、生じた問題は完全にNHK本体の責任だといえる。
そして、永田CPは、NHK的な「公平性」(注2)に留意するため、不本意ながらも秦氏にコメント撮りの申し込みをした。他方で、番組の基本趣旨は守る路線で書き直した修正版台本を高橋哲哉氏に提示し、「新撮」への協力を求め、了解を得た。妥協の産物となったこの修正版台本をもとに編集されたものは一分短い四三分版だったと思われる。そして会長側近で自民党とのパイプ役の野島直樹総合企画室局長や放送の最高責任者である松尾武放送総局長のための「異例の試写」があった。「バランスがとれた」ということで、松尾、野島両氏のOKが出たという。放送の二日前だ。
最も重要なことは、このNHK最上層部が一応納得した内容について、放送開始三時間ほど前に、さらに三分削るべしとの指示が出たことだ。現場は反発したようだが、「業務命令」が発せられたという。
指示を出したのは、一旦OKを出した松尾武放送総局長だった。・同じ人物が再び自分の意志でカットを命じることがあるだろうか。海老沢会長から直接指示があったとしか思えない。国会での予算の承認を控えた、NHKが政治に対してもっとも弱い時期に起きたことを考えると、右翼の圧力よりも、与党政治家からの要請にもとづいたものか、あるいは過剰に彼らの意向を意識した結果の処置だったのかもしれない。
主催団体、出演者も文書で
放送後、法廷の主催者で番組の制作に全面協力した「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(=VAWW−NETジャパン、以下VAWW、代表・松井やより)はNHKに対し、主催団体の名前すら出ない放送内容を不服とした公開質問状を出した。番組出演者である高橋、米山両氏他二名も、放映された内容が不自然だとして、「申し入れ書」を送達。これらへの回答は既になされているが、内容は当事者たちに納得されていない。さらに抗議の署名活動などが続けられている状態である。
この間のメディアおよび当事者へのNHKの対応は、ほぼ次のように要約できる。「外部からの圧力による、内容の変更はー切ない。番組は、当初の企画意図と編集方針に基づいて、予定どおりに放送できた。我々の仕事は「出たもの」が全てであるから、放送された番組内容に関するご意見は真摯に承る。しかし、編集過程で起こったことへの質問は、編集権の問題があるので、答えられない。また、報道された、タイトルの変更、放送時間の短縮、直前再編集、局長試写などは異例ではなく、よくあることだ」
こういった回答は、現場担当者、広報からトップに至るまで、いずれも同じであり、内部での見解統一を入念に図っているようだ。NHKは「伝家の宝刀」のように「編集権」を待ち出し、キメラのごとき番組が放送されてしまった事情を全く明らかにしようとしない。いったい「編集権」とは何なのだろうか。
二、日本的「編集権」
メディアが国家から干渉されることなくジャーナリズム機能を発揮し、政府を批判・監視して健全な民主主義の維持に貢献するためには、表現の自由が保障されなければならない。メディアの表現の自由は、二ュースの取捨選択、表現の仕方を決める編集が他の外部権力の影響から独立していなければ到底、おぼつかない(メディアの外部的自由)。しかし、現代のメディアはほとんどが大きな組織によって運営されており、経営者、編集者、総務担当、営業などの分業によって成り立っている。このため「編集権」は誰に帰属するのかが問題となることがある。
日本における「編集権」の概念は、1948年3月16日に日本新聞協会が出した「新聞の編集権の確保に関する声明」によって確立された。この声明は、編集権を「新聞の編集方針を決定施行し報道の真実、評価の公正ならびに公表方法の適正を維持するなど新聞編集に必要な一切の管理を行う権能」と定義し、その権限は専一的に「経営管理者及びその委託を受けた編集管理者」に属し、「外部たると内部たるとを問わず」編集内容を理由とする妨害者から編集権を守る義務があるとした。
またその「解説」では、「編集権は所有権、経営権に由来するものである」と明記され、「編集権に参与することを目的とする団体交渉や争議行為は認められない」とされた。ここには、「読売争議」などに見られた尖鋭的な労組の力を排除する目的が色濃く出ている。軍国主義の排除から共産主義の排除へとGHQの新聞政策が転換したことが背景にあった。その意味では、この日本独特の独占的、排他的「編集権」概念には歴史性、政治性が染み込んだものといえるが、新聞事業における労使関係の基本原理として現在に至っている。新聞界で生まれた「編集権」概念は放送界にも受け継がれ(放送では「編成権」という場合が多い)、現在でも折に触れて問題とされている(注3)。
編集権を経営者側の絶対的ともいえる広範な管理機能と認める考え方は、メディア労働者の労働基本権さえも制限する可能性があり(注4)、現場の記者・編集者の精神的自由・表現(メディアの内部的自由)が干渉されかねない点が懸念され、批判も多いようだ。
ところで、「メディアの内部的自由」とは、主にドイツで「プレス内部の自由」と呼ばれ、発達してきた考え方である。経営者に対する記者・編集者の自由を意味し、「新聞紙面の編集・作成についての経営者と記者・編集者の権限の範囲を確定すること」に重点が置かれ、60年代末から70年代初めにかけて「編集綱領運動」として展開した。日本でも77年に、毎日新聞の「編集綱領」などが似たような趣旨で作られている。
「プレス内部の自由」を確保することは、多様な言論を活性化させ、記者・編集者の労働条件の改善によってジャーナリズム活動も活発になり、協議権の拡大は、社会政策の文脈上、社会の民主化につながるなどの意義を持つとされる(ホフマン・リーム)。ジャーナリストの良心の自由を保障することが、市民社会の利益につながるという発想は、日本型「編集権」を是正していくうえで、示唆に富むものだ。
三、「編集権」行使で何がなされたか
海老沢会長は経営者としての判断から、最終的に改竄を松尾放送総局長に指示したと私は推測する。編集権の裏づけを持つ改竄指示は、「業務命令」のかたちで現場に下りたと考えるのが妥当だ。私は今回の海老沢会長の編集権行使による改竄によって、いくつかの権利侵害が起こったと考える(注5)。
@アクセス権阻害
国際的な市民の連帯によって運営され、成功を収めた女性国際戦犯法廷は、前述のようにユニークかつ先進的な試みであったが、会場のキャパシティによる制約から入場できなかった人が多数いた。主催者VAWWは、NHKの取材を応諾することで入場できなかった人を含む多くの人々に対し、意見を伝達する権利(アクセス権)を獲得していたと考えることができる。
この考え方は、海老沢会長が昨年の国会で大出議員の質問に対して答弁した、「いろいろな意見があるものはそのまま伝えて、できるだけ視聴者国民の判断の材料にする」ことを基本とする彼の所信にも合致するものだ。「そのまま伝え」ずに、特定の意図にもとづく改変をしたことによって、アクセス権阻害が起こったものといえよう。
A人格権侵害
コメンテーター、とりわけ米山リサ氏の発言は「文脈を無視して大幅なカット」がなされたため、「誤解にもとづく批判にさらされかねない状況」にあった。文化人類学、フェミニズムなど、自らの専門研究の蓄積をもとに意見を述べた彼女の言説が切り刻まれて放送された結果、学問的な資質を疑われる事態が一部で生じてしまった。これは著しい名誉毀損であり、人格権の侵害といえる。
また法廷に集まった元「慰安婦」に関するナレーションが、慰安婦とされた経緯は一般的に様々(強制的連行、自発的、親に売られたなどを列挙)であったとしたあと、「しかし、証言台に立った女性たちは自らの意思に反して性的被害を受けたと主張する人たちばかりです」となっていた。これは、厳密な調査のもとに法廷に参加した元「慰安婦」の中にも、「強制ではなかった人が、強制されたと偽って何人かは来ている」と言わんばかりの説明だ。被害女性たちの尊厳を傷つけるものだ。
B期待権侵害
VAWWはDJから提示された企画に賛同し、法廷の内容が「つぶさに」放送されることを信じたがゆえに、DJ=NHKクルーに重要資料の提供、建物内での撮影の便宜などをはかり、他のメディアに比べて優遇した(元「慰安婦」女性らの身の安全を図るため、メディアといえども会場内の行き来にはかなり制限があった)。特別の信頼関係のもとに取材協力したのだが、結果は法廷の趣旨が放送によって広く伝わるどころか、逆に「誤解と偏見をもたらすもの」になったという。信義に反する行為であり、期待権が侵害されたといえるだろう。
Cジヤーナリストの自由の侵害
まずDJの担当ディレクター、甲斐亜咲子氏が制作過程から外され、自ら手がけた作品を切り刻まれた。受注業者であるとはいえ、理不尽な注文やジャーナリストとしての良心まで引き裂く行為が発注者に許されるのだろうか。
「番組の趣旨を守ろう」と四三分版を編集した永田CPも、直前の改竄からは外されていた。上層部に談判を試みたが受け入れられなかったと聞く。四三分版は「修正台本」から推察するならば、「三方一両損」的な内容だったと思われる。出演者、VAWW、視聴者、制作者、右翼も含め、すべてに大なり小なりの不満が残るが、時間的な制約の中では「落としどころ」として妥当なものだっただろう。つまり四三分版で放映されていれば、列挙した四つの人権侵害は、DJの問題は残るもののほぼ回避でき、八方うまく収まったのではなかったか。
永田氏自身の編集作品も否定されることとなり、彼自身の表現とジャーナリストとしての良心の自由が潰された結果となった。さきに論じた「メディアの内部的自由」がNHKにおいて確立されていれば……と思わざるをえない(注6)。
四、NHKの「編集権」をどう考えるか
今回の事件は、現場や外部の意向を最終的には強大な編集権によってねじ伏せたことによって引き起こされたと思われる。確かに編集権の独立は、政財界、暴力的集団などの「外部」権力に対しては断固として守られるべきだ。
しかし、「内部」における権限の在り方や「外部」の番組協力者との関係については、より柔軟な形を摸索してもよいと思われる(注7)。現場と経営側が編集方針や人事を協議する委員会を設けるなどして、「権限の分有」を目指す等、考えられることはいろいろあるはずだ。
また、海老沢会長が編集過程も編集権によって明かせないとしている態度も、4月以降の情報公開の流れによって変更を迫られると思われる。00年5月17日の「特殊法人情報公開検討委員会第二二回会議」においてNHK担当者は、情報公開基準をつくり「基本的に、放送番組の編集権にかかわるものとそれ以外に分け、編集権にかかわること以外の情報は、個人情報などの不開示事項を除き、原則公開したいと考えている。編集権にかかわる情報も、編集権に基づく判断の枠内で決めて提供したいと考えている」と説明している。情報公開基準に基づく情報公開は7月1日から実施される。
98年8月号の「マスコミ市民」において渡辺武達・同志社大学教授は「編集権は市民の知る権利に帰属」し、「メディア事業者は国民・市民から「編集権」を委託されているだけである」と論じているが、私も全く同感である。受信料で成り立っている「みなさまのNHK」を会社にたとえれば、受信者は株主に擬することも可能ではなかろうか。編集権者として、受信者から放送内容に関する最終的権限を負託された人物は、自らの判断が招いた疑惑について、受信者への説明責任があるといえる。NHKは海老沢会長の個人的な表現の自由を体現するためのものではない。
この事件を契機に、NHKの「コーポレート・ガバナンス」の在り方についてより深く論じていきたい。(役職は事件当時)
(注1)
私がいう「改竄」とはこの四三分版の改変を指す。理由は@NHK職員であり、番組の責任者である永田CPが作り、A放送総責任者・松尾放送総局長が了承したもの、つまり局内でオーソライズされたものが、B合理的な理由の説明もないまま、C明らかに不自然な内容に変えられたからだ。
(注2)
立山紘毅氏は著書『現代メディア法研究』で「「NHK的公正さ」とは、ひとつの番組の中で「公平」を求めるものに属するのであろう」と指摘している。今回の四三分版が目指した「公平」さとは、まさにそれにあたるといえる。ただ、NHKが99年4月19日に出した「放送倫理の確立に向けて」という文書には「意見の対立する公共の問題を取り扱う番組では、個々の番組内、同一のシリーズ内または一定期間内の適切な場所でバランスをとる必要がある」とある。これは田島泰彦氏が『法学セミナー』93年12月号「テレビ朝日問題と放送の自由」の中で、放送法にある「公平」という文言が「初歩的な基準さえはっきりしていない」と指摘している現状を端的に示して,いる。
(注3)
『NHK番組基準ハンドブック2001』という局内向けの冊子に「編集権」の項はなかった。ある民放関係者によれば、「放送において編成権・編集権の問題がとりざたされることは少なく、放送法三条に規定された「番組編集の自由」がそれにあたり、放送事業者に編成権があるという程度の解釈しかない」ようだ。問題が起こったときだけ出てくる防御的権利という印象だ。クローズアップされた例としては、93年のテレピ朝日・椿発言問題のときに、ニュース番組で久米宏が「圧力、指導、示唆その他はいっさいなかった」と発言。同年10月24日付読売新聞社説は「放送免許は放送事業者に与えられたものであって、(中略)キャスター個人に放送免許を与えたのではない」とこの発言を批判した一件があった。
(注4)
山陽新聞事件(63年12月10日岡山地裁判決)では、企業経営や編集方針に対する労働者の批判は組合活動の範囲内であると認められた。絶対的編集権に対して、司法から疑問が呈せられた例として評価される。
(注5)
「日本放送協会番組基準」第1章第1項の1「人権を守り、人格を尊重する」、2「個人や団体の名誉を傷つけたり、信用をそこなうような放送はしない」とあり、第2項の2には「国際親善を妨げるような放送はしない」とある。今回の改竄では、第二夜以外では、他国の戦争犯罪への取り組みを紹介しながら、第二夜で扱うべき日本の戦争犯罪に関しては隠蔽する意図が見え隠れしており、被害国の対日感情の悪化だけでなく、他の諸国からの軽侮を受けることは必至かと思われる。
(注6)
NHKにも、職員・外部スタッフが良心に反する取材・制作を強要されそうになったときの「駆け込み寺」として、「放送現場活性化会議」が本部考査室に置かれている。しかし、開設以来、利用された例はないという。
(注7)
51年12月の日本新聞協会「新聞法制研究会討議要領」に、「実際に新聞が発行されているのは、多くの人々の協力が積み重なる綜合的労作に属するもので、協力者そのものの立場抜きに一元的に、割り切った編集権理論が構成できるものか否か、委員の間でもなお疑問が留保されていた」とある。
※挿入写真p.37
改変して放送された問題の番組p.36
国際戦犯法廷で証言するもと「慰安婦」p.40
放送の2日前に追加取材して…
※デジタル化に際し、傍点による強調は省いた。
(出典)『放送レポート』171、2001年7月、pp.36-41
注)
『放送レポート』の記事を本ホームページに転載することについて、執筆者である竹内一晴氏にご快諾いただきました。感謝いたします。なお、さらなる転載はご遠慮ください。本ホームページにリンクしていただくことはかまいませんが、その際はご連絡をいただければ幸いです。
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