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東琢磨の『ヒロシマ・ノワール』『ヒロシマ独立論』を読む

松岡 勲


 

 


1)『ヒロシマ・ノワール』

 東琢磨著『ヒロシマ・ノワール』(インパクト出版会)を読んだ。「ノワール」といえば「フイルム・ノワール」を連想するが、第一部では「フィルム・ノワール」をふくめた「パールハーバーからヒロシマのあだの映画、文化史」が詳細に展開されていて、映画好きにはたまらなく魅力的な内容だ。著者は「ヒロシマ・ノワール」とは、「黒いヒロシマ」といった謂いであるとし、外来者の「広島は白い」という「平和」イメージの反対概念とのことだ。「かって『怒りのヒロシマ』といわれた広島にあった襞は、のっぺりと引延ばされたかのように白い。」「ノワール、黒というイメージで現されてしまう感情は、第二部の『幽霊』にも第三部の災害や『復興』もかかわってくるはずだ。」(「あとがき」)この本の著者と知り合ったのは、フェイスブック上で広島の被爆者の語り部である佐伯敏子さんについてのやりとりだった。佐伯敏子さんと那須正幹・西村繁男著『絵で読む 広島の原爆』(福音館書店)との関係性が深いことを教えられた。そのことについて、103ページで詳しく書いていただき、「あとがき」でもふれていただいていて、大変うれしく感じた。先に書いた「広島の白いイメージ」対置した東さんの「ヒロシマ・ルノアール(黒)」は、「なぜ広島に幽霊が現れないないのか」の問いにつながっている。「ヒロシマには歳はないのです。」「広島はあの日のまま」という、亡くなった肉親や当時被爆した人々の姿を眼前に浮かべることができる佐伯さんの感性は、身近なひとりひとり記憶へ、「幽霊」の方へ向かう希有なものだと言える。著者が「広島に限らず幽霊は現れないのに、『(原発の)安全神話』が奇異に思われることなくこともなく存在続け、いったんの疑問の後には、またさっさと平然と甦るのはなぜなのか。そうした問いでもあるということだ。」(「あとがき」)との問いは、第三部の「広島から3・11後の東北へ」との旅へと続く。実におもしろい本だった。

2)『ヒロシマ独立論』

 東琢磨著『ヒロシマ独立論』(青土社)を読んだ。先に同著者の『ヒロシマノアール』(インパクト出版会)を読んだ後、東さんと連絡がつき、この8月6日に広島でお会いした。帰阪後、アマゾンでこの本(2007年刊行)を入手し、一気に読んだ。非常におもしろい本だった。まず最初に引き寄せられたのは、「帰郷 甦る広島」のところだった。東さんは広島生まれで、学生時代に東京に出られ、卒業後は東京住まいが続いた。その後、2005年から広島に戻られ(「17年ぶり」とのことだ)、再度ヒロシマを辿られる本だった。「家族の壊滅は、私がの生まれる前に私の家族を既に襲っている。原爆被爆である。数年前に立て続けに父方の祖母と母方の祖母が亡くなり、その時、母が祖母ふたりの話をしてくれた。その話が、自分が逃げていたものに引きずり戻される経験ともなった。」「それ以降は、母や二人の祖母、姉といった女性たちの語りのなかで過ごしてきた。」そこから東さんは家族史を遡行され、それは植民地時代の台湾へ、被爆後の広島での家族

(「祖母は壊滅した家族の家長となる。」)の生活の闘いという話へと続く。その話の展開は大変中味が濃く、それは、私が戦死した父のことと寡婦として戦後私を育ててくれた母のことに遡行し、靖国神社合祀取消訴訟まで辿りついた経過とも重なった。さらに著者は、軍都/呉・広を歩く、廃墟/基町を歩く、復興/広島市民球場周辺を歩く、産業/旧市街を宇品港へ歩く、移民/海田を歩く、安全/矢野を歩く、教育/ふたたび旧市街を歩く、映画/比治山を歩く。そして東京南部へ、音楽/海をわたり南へ旅する、死者/平和公園を歩くとフィールドワークされていく。話は広島から沖縄、そして私の好きなラテンアメリカまで広がり、読んでいて、実に心が躍る文章群だった。そのなかで一つ私の記憶にスパークした箇所を書いておきたい。「映画」の章で1953年に完成した映画「ひろしま」(関川秀雄)について書かれている。私の小学校高学年頃(1954年~1955頃)に学校の集団映画鑑賞で映画館で原爆の映画を見たことがある。卒業後、当時の担任の先生から「松岡君は上映中に泣いて泣いて、それが止まらず大変やったのよ。」と聞いたことがあった。その映画を「原爆の子」(新藤兼人、1952年)と思っていたが、この章を読んで、「もしかして、「ひろしま」かも知れないな」と思った。私も記憶の確認作業をしてみようと思った。著者は、最後に「正義と平和のための独立空間ヒロシマ/独立宣言及び憲法私試案」を提示される。「実のところ、こちらは大真面目なのだが、宣言や憲法案について「遊べる」本として受け止めてほしいと思っている。」(「あとがき」)と東さんは書く。「平和公園」を独立させるという発想がとてもユニーくでおもしろい。「沖縄独立論」はあっても「ヒロシマ独立論」は他にない。『ヒロシマノアール』とともに私の愛読書としたい。 

<追記>
 私が小学校時に見た映画について、この文章をフェィスブックに載せた後、友人の新田晴男をさんから以下のご教示をいただき、映画は「ひろしま」(関川秀雄)であることが確認できました。
(新田)【資料】映画「原爆の子」をめぐって[新藤兼人(2005)『原爆を撮る』、新日本出版社]pp.14-15
撮影の準備中のあるエピソードを話しておこう。わたしたち以外にも、ある独立プロが原爆映画を企画していて、日教組の後援でやる手はずをととのえていた。[関川秀雄監督(1953)「ひろしま」、日教組と北星映画共同の「日教組プロ」のことか−引用者]/そこで、その独立プロはわたしを呼んで、撮影をやめてくれといってきたが、すでにわたしたちの準備は整って広島へ出発するばかりになっていたので、かれらの求めに応じるわけにいかなかった。/そうしたとき、日教組の幹部が会見を申し込んできた。銀座の喫茶店で会った。先方は二人、地方から選ばれて上京して執行部にいるとのことだった。こちらはわたしと絲屋[当時の近代映画協会の社長、絲屋寿雄(としお)]君。先方の言い分は、この企画をやめてくれ、とかなり高飛車だった。わたしはむっとしたが、おだやかにやめられないと答えた。/すると声を荒げて「日教組五十万を以て潰して見せるぞ」と鋭く言い放った。/わたしは、なんだ、こいつらゴロツキじゃないか、と思った。当時鬼とも怖れられる日教組といわれていたが、わたしは腐った内面を見た。人も組織も権力を握るとこうなるのか。こいつらは学校で何を教えているのだろう。/両者は席を立って別れたが、日教組に背を向けられたことは痛かった。広島のロケでは多くの子どもたちに出演してもらわなければならないのだ。/だが杞憂はとけた。現地広島へはいったとき、まっさきに広教祖を訪ね、事情を話すと、日教組は日教組、広教祖は広教祖、応援しましょうと力強い言葉をいただいた。わたしが広島の人間だということでみんな肩をたたいてくれた。(以下略) 

・ということで、松岡さんが学校の集団鑑賞で見たのは、どちらなのかを暗示する資料でしたが、話の展開がまるで違うので、見れば分かるかと思い動画を探しました。英語版の動画がこれです。ちなみに、「ATOM-BOMBED CHILDREN of HIROSIMA」と紹介されてますが、映像では「CHILDREN in HIROSIMA」となっています。参考までに。(松岡)
https://www.youtube.com/watch?v=TzEQ8aH6A5U(リンク切れ)

・新田さんの検索力はすごいですね。以前に「ひろしま」ではないかと教えてもらったことがありましたね。新藤の「原爆の子」は何度も見ているのですが、「ひろしま」は未見です。(子どもの時に見ていたら「2度目は」ですが)先日、大学時代の友人から「ひろしま」の上映運動(フイルムの修復カンパを呼びかけているそうです)があり、見たと手紙がありました。当時の担任の先生は健在なのですが、施設に入っておられて痴呆も出ています。一度お見舞いがてら行ってこようかなと思っています。
・YouTubeで「ひろしま」(予告編)がありましたので、見ましたが、小学校時代に見たのはこちらでした。被爆後の医者の診察場面で、女性の髪の毛がごそっと抜ける箇所、ラストシーンの川(多分太田川)のなかの死者が立ち上がる箇所等記憶にありました。そうだったんだ。記憶の確認ができました。
https://www.youtube.com/watch?v=y28tMyJjlns 

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