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被爆ピアノコンサートを開く中学校の同窓生のこと



 

 

 昨年、私の中学校三年生時のクラスの同窓会を48年ぶりに行いましたが、その同窓生に被爆ピアノコンサートを取り組む汐谷恵美子さんがいます。被爆ピアノといいますのは、広島で被爆したピアノを広島在住の調律師矢川光則さんが丹念に修復をほどこし、美しい音色を甦らせたものです。矢川さんはこの被爆ピアノを全国のコンサート会場に自ら運転して運びます。この矢川さんの活動に共鳴して、東京在住の汐谷さんはさまざまなコンサートを開いてきました。事前に関連する資料を送ってもらい、帰阪された折に詳しい話をお聞きするために会いました。汐谷さんはこれまで幾度も被爆ピアノコンサートを開いてきていて、2010年と2012年には東京都夢の島の第5福竜丸展示館でコンサートを開きました。広島の被爆ピアノと第五福竜丸との出会いというすばらしい企画です。「どんな風に実現こぎつけたのですか」と質問しますと、「あらゆる機会をとらまえて、相手方に飛びこんでいきます。」との答えでした。東北大震災を契機に岩手県陸前高田市の方々と縁ができて、ピアノコンサートが実現しています。また、送ってもらったDVD(明治学院大学国際平和研究所主催の「紡ぐコンサート 祈り・広島被爆ピアノコンサート」)を見ましたが、すばらしいものでした。特に特別ゲストのベアンテ・ボーマンさんのチェロ演奏は大変よかったです。

 汐谷さんの話で私が非常に興味をもったことがあります。汐谷さんは第二次世界大戦中に名古屋市で生まれ、疎開先の松本市で敗戦を迎えました。お父さんは零戦の設計師でした。お父さんも含めた零戦設計技師の取材をもとに作られたNHKの番組「その時歴史は動いた 零戦設計者が見た悲劇/マリアナ海戦への道」(2006年3月9日放映)があるとのことで、後日、DVDをお借りして見ました。なんとこの番組が放送された当時に見ていたのでした。番組によると海軍の要求が「格闘戦性能/スピードと航続距離」という矛盾したもので、同時にふたつの要求を見たさなければならないものでした。そこから「軽量化による強度の不足」が生まれ、飛行士の生命の安全が無視されて、後の250キログラムの爆弾を抱えての特攻への道に進んでいったのでした。燃料タンク担当だった汐谷さんのお父さんの田中正太郎さんは「最初から防弾はしないことになっていた。防弾したら重くって零戦は成り立たなかった。零戦には防弾は無理だったのです。」と語ります。また、「零戦が特攻に使われるのはいい気持ちがしない。残念だった。優秀な人を一機に一人ずつ殺していくのです。私と同じ年配の方たちを。でもだめだとはいえなかった。」と悲痛な面持ちで話すのです。以前にこの番組を見たとき、この言葉が強く印象に残っていました。まさかこの言葉が汐谷さんのお父さんの言葉だったとは思いもよりませんでした。あらてめて第二次世界大戦での人命無視とその無謀さに怒りを覚えました。被爆ピアノの話から戦争そのもの問題へループした思いでした。今後、汐谷さんの被爆ピアノコンサートに協力することを約束して別れました。

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