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ジャンニ・ロダーリの本からから村田栄一、向井吉人の「ことば遊び」の本まで

松岡 勲


 

 

<はじめに>

 私はエッセイストで小説家の内田洋子の本が好きで、そのほとんど(旧作から新作まで)読んできた。そうした中で、内田洋子訳のジャンニ・ロダーリの『パパの電話を待ちながら』にたどり着いた。そこから今回の本の旅が始まった。 

1)『パパの電話を待ちながら』(ジャンニ・ロダーリ、内田洋子訳)

 ジャンニ・ロダーリ著(内田洋子訳)『パパの電話を待ちながら』(講談社文庫)を読んだ。この本はイタリアの児童文学者ジャンニ・ロダーリの本だ。なぜ買って、読んだかというと、エッセイスト・内田洋子さんの訳だったから、「どんな本かな?」と思ったためだ。入手して分かったのは、児童文学として有名な『チポリーノの冒険』の作者だった。ロダーリは1920年まれで、1980年に亡くなっている。レジスタンス期を経て(ロダーリの兄弟が強制収容所に入れられている。)、戦後イタリアの高揚した民主主義の闘いの時期に児童文学の作家として活動した人だ。(私が大学生の時、この時期のイタリアに憧憬を抱いたものだ。映画でいえば、イタリアン・レアリズムの時代、ヨーロッパ最強だったイタリア共産党の時代だ。)この本は、出先の父が娘に毎晩電話で聞かせた話を集めた構成になっている。短い56編のお話がつまっていて、大変おもしろい。たとえば、どこにもつながっていないとされる道を「つながっていない道はない」とこだわって進み、幸せをつかむマルティーノの話、身体のなかや心がすけて見えるクリスタル少年・ジャコモが独裁者の支配を破る話、いつも人間に操られることを拒否し、逃げたマリオネットのブルチネッラの話など、ロダーリの物語世界はいつも抵抗と人間の尊厳に満ちた豊かな世界が描かれている。名前だけは知っていたが、読んだことのないロダーリの『チポリーノの冒険』(岩波少年少女文庫)を読んでみようと思う。 

2)『チポリーノの冒険』(ジャンニ・ロダーリ、関口英子訳)

 ジャンニ・ロダーリ著(関口英子訳)『チポリーノの冒険』(岩波少年少女文庫)を読んだ。この本の主人公は玉ねぎ坊やのチポリーノで、レモン大公やトマト騎士らの圧政に抗して、さくらんぼ坊ややズッキーニじいさんらの仲間と闘い、支配者を倒す話で、登場人物が野菜や果物、動物であることが愉快だ。この本にイタリアの民衆が抱いた戦後革命の「理想」が児童文学として結実していると感じた。最後のロダーリの文章にそれを感じたので引いておく。「これでチポリーノの物語はほんとうにおしまいです。この広い世界には、レモン大公のほかにも悪い君主がいて、お城をかまえています。ですが、そのうちに一人、また一人と姿を消していき、君主がふんぞりかえっていたお城で子どもたちが楽しそうに遊ぶすがたが見られるようになるでしょう。きっとそうなると信じています。」だが、そうはならなかったのが戦後の歴史だったろう。ちなみに、『チポリーノの冒険』の旧版の訳者は杉浦明平であったとのことである。(「訳者あとがき」)今回の翻訳は著者没後30年での新訳、同著者の『青矢号/おもちゃの夜行列車』(岩波少年少女文庫)も新訳で出ている。



3)『青矢号/おもちゃの夜行列車』(ジャンニ・ロダーリ、関口英子訳)

 ジャンニ・ロダーリ著(関口英子訳)『青矢号/おもちゃの夜行列車』(岩波少年少女文庫)を読んだ。ジャンニ・ロダーリの本の3冊目だ。『チポリーノの冒険』(1951年刊)より後の1954年の作品である。イタリアでは、1月6日はカトリックの<公現祭>(東方の三博士が幼子イエスを訪問したことを祝う日)であり、その前夜、魔女<ベファーナ>がそのトレードマークの古ぼけたほうきに乗って、プレゼントを持って子どもたちを訪ねるという<ベファーナのお祭り>がある。だが、家庭が貧しくて、親がプレゼントのためのお金が用意できず、プレゼントをベファーナに届けてもらえない子どもたちがいる。それを知った<おもちゃ>たちが、そのひとりのフランチェスコをおもちゃの小犬<コイン>を先頭におもちゃの夜行列車<青矢号>に乗って、後を追う。やがて、プレゼントをもらえない子どもたちが他にもいることが分かり、ひとりひとりを訪ね、<おもちゃ>たちはそれぞれの子どもたちの所で降りていく。この物語は、食べるものや着るもの、娯楽(マンガ・絵本・本など)が手に入らなかった戦後の貧しかった時代を思い起こさせ、そして、そのプレゼントをもらえた時のあたたかさが身体に伝わってくる感じがした。同じ著者の『ファンタジーの文法』(ちくま文庫)を読んでみたくなった。

4)『兵士のハーモニカ/ロダーリ童話集』(ジャンニ・ロダーリ、関口英子訳)

 ジャンニ・ロダーリ著(関口英子訳)『兵士のハーモニカ/ロダーリ童話集』(岩波少年文庫)を読んだ。ジャンニ・ロダーリの短編が18編収められている(原著は21編、1963年から69年にかけての作品)。表題の「兵士のハーモニカ」他(私の印象に残った作品をあげると)「きこり王子」「アレグラ姫」「ニーノとニーナ」「レオ十世の戴冠式」「目の見えない王子さま」等。思った以上に「現代的」なのに驚いた。読んだ後、もう1冊持っているロダーリの『ファンタジーの文法』(ちくま文庫)の「訳者あとがき」をぱらぱらめくっていると、ロダーリはイタリアの現場教員の運動である「教育協同運動」と接点があったとのことだ。偶然の一致に驚いたが、私は、以前、村田栄一さんの企画の「飛ぶ教室」のツアーで「教育協同運動」の教員がいる学校に2度ほど訪問しているのだった。また、村田栄一さんの『ことばのびっくりばこ』(さえら書房)の実践が「ロダーリとは無関係にロダーリと共通点の多い仕事」と評価されていることだった。それで『ファンタジーの文法』『ことばのびっくりばこ』を読むことにした。

5)『ファンタジーの文法/物語創作方法入門』(ジャンニ・ロダーリ、窪田富男訳)

 ジャンニ・ロダーリ著(窪田富男訳)『ファンタジーの文法/物語創作方法入門』(ちくま文庫)を読んだ。実に興味深い本だった。ロダーリは<日本の読者のみなさんへ>で、「ファンタジーは、芸術家や詩人のような、ごく少数の選ばれた人びとにだけ与えられた天与の才ではありません。男でも女でも、この世に生まれたすべての人びの精神や人格をつくりあげている特質なのです。」とし、「だれでも、見たり、聞いたり、手を使ったりすることができるように、だれでも創造することができるのです。子どもは単なる消費者ではなく、かれらなりに、文化や、価値や、批判精神や、詩の、創造者であり生産者です。このような子どもを育てることは学校から始まらなければなりません。」と言う。そして、この本はそのためのファンタジー論、言語論、音韻論、民話論、物語論等のさまざまな考察、事例、実践例が書き綴られている浩瀚な本だった。読んでいて驚いたのは、ロダーリの方法論の根底にある、言葉の<異化効果>をもたらす<ファンタジーの二項式>(「4」に詳しい)は、フランスの児童心理学者のアンリー・ワロン(『子どもの思考の起源』『行動から思考へ』等の著書がある。)の<思考は対で形成される>という考えに基づいていることだった。これが一大発見だった。実は私は大学生時代に「ワロン研究会」をやっていて、ワロンの本の輪読会で邦訳はすべて読んでいる。もうひとつ、ロダーリは元小学校教員で、作家となった後もイタリアの現場教員の実践運動の<教育協同運動>と深く関わっていることが分かることだ。(「44」に詳しい)各所でその現場教師の実践を引用し、また、その実践の思想が教育思想・方法の革新を志向したセレスタン・フレネと深い関わりがあることが感じられた。これが私にとってのもうひとつの発見だった。現職の教員の時代にロダーリの本と出会っていたらよかったのにとあらためて思った。

6)『ことばのびっくりばこ』(村田栄一)

 ジャンニ・ロダーリから村田栄一の『ことばのびっくりばこ』(さえら書房)に飛び、読んだ。この本は1980年の出版だ。この年の春に村田さんは教員を辞め(45歳だった)、スペイン(バルセローナ)に遊学された。その時期に村田さんが書かれた本だ。(この後、『教室のドンキホーテ/ぼくの戦後教育誌』(筑摩書房)を出されている。)おとなのための「あとがき」に「ことば遊びの復権」をかかげられる。「『ことば』から、遊びの面が排除されると、どういうことになるでしょうか。それは、ただちに、想像力の欠如にかかわってくる、とぼくは思います。遊びやゆとりや、しなやかさを欠いたことば(それを頭脳と言いかえてもいい)は、一種の貧血と言ってもよいでしょう。ことば遊びは、ことばを活性化させるビタミンのようだと思います。」この本では、「名まえのうた」「名まえのなかになにがある」「ことばのびっくりばこ」「火花を散らすことば」(アクロスティック、アナグラム等)とことば遊びの世界へと誘われていく。非常に楽しい本だ。私は小学校と中学校の教員を経験しているが、小学校で1年生を担任したのは一度きりで、こういうことば遊びの実践とは縁遠い教師だった。今頃そのおもしろさに気がついた次第だ。村田さんはこの後スペインやイタリアの現代学校改革運動と関わりをもたれた。この時期の村田さんの仕事は『シエスタの夢/私のスペイン』(理論社)に詳しく、大変素敵な本だった。その後、村田さんは日本の教育運動の革新を志向され、「現代学校運動JAPAN」を創設された。また、第22回フレネ教育者国際集会(1998・7・22~7・31)を東京の自由の森学園で開催されたが(私もこの国際集会に参加している)、2年前に急逝された。誠に残念な人を亡くしたものだ。

7)『素敵にことば遊び/子どもごころのリフレッシュ』(向井吉人)

 向井吉人著『素敵にことば遊び/子どもごころのリフレッシュ』(学芸書林)読んだ。なぜこの本を読んだかと言うと、「ジャンニ・ロダーリ 村田栄一」とネットで検索すると、西口正文氏(椙山女子学園大学)の向井吉人『素敵にことば遊び』、村田栄一『ことばのびっくりばこ』、ジャンニ・ロダーリ『ファンタジーの文法』を比較検討した論考がヒットしたからだ。向井さんは以前から知っていた方で別の会議で年に数度お会いしていた時があったので、その奇遇に驚いた。ことば遊びの実践をされていたことは聞いていたが、その詳細を知らなかったので、こんなすごい本を書かれていたと知って、大変驚いた。その「技法篇」を取り出すと、「アクロスティックの」「音数遊びの」「アナグラムの」「しゃれの」「連想遊びの」「漢字遊びの」系譜と続く。その理論編(試行錯誤篇)を見ると、単なる技術論ではない、深い「学校論」「教師論」がその背後にあることが分かる。その考えの一部分であるが、引用してみる。「あえて、教室にヴィジョンを与えるとすれば、子どもにとっても教員にとっても、いごこちのよい空間としていくことであろう。教育的なことばを自己解体させながら、固有のことばを紡いでいくこと、それがことばを遊ばせるということであろうし、教室のおけることば遊びがひらきうる可能性でなかろうか。(中略)子どもが自分を『児童』に限定=自閉させず、また、教員が『教師』に自己規制せず、自分の固有のありようを表出していける空間になりうるかも知れない。(「制度化された教室をみすえて」)また、この本を読んでみて、向井さんの書物を渉猟される、書誌的な徹底さに感動した。内田洋子訳のジャンニ・ロダーリの本から入り、ジャンニ・ロダーリの本たちに出会い、村田栄一から向井吉人への「ことば遊び」の世界を経めぐって、円環を閉じる幸せな読書体験だった。この機会に以前にもらった向井さんの冊子「ことばっちの冒険」(2003年7月)を読んでおこうと思う。

<おわりに>

 今回の読書で村田栄一さんの『ことばのびっくりばこ』を読んだが、ひとつ確かめたくなったのは、村田栄一さんがこの本を書いたときにジャンニ・ロダーリの影響があったのかどうかである。(ジャンニ・ロダーリは1980年に亡くなっている。村田さんのこの本が出たのも同年。)その後、村田さんとイタリアの「教育協同運動」との交流があったことは分かっている。そのことについて書かれた村田さんの著書『シエスタの夢/私のスペイン』(理論社)『教室からの解放/フレネ教育運動の試み』(雲母書房)を探したが見つからないので、アマゾンの古書で注文した。また、イタリアの「教育協同運動」の指導者、マリオ・ローディの『わたしたちの小さな世界の問題/新しい教育のために』(晶文社)は見つかったので、いずれ読んでみようと思う。

(2014・4・30)

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