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大岡昇平の戦争文学を読む



 

 

1)『俘虜記』

 大岡昇平著『俘虜記』(新潮文庫)を読んだ。これから読む予定の大岡昇平の本の1冊目だ。『俘虜記』の最初は「捉まるまで」で、ジャグルで捕虜になるまでの敗走記であり、これは短い(これに関連して、この後の作品『野火』は前に読んでいるが、再読してみようと思った)。このなかで圧巻は「米兵をなぜ射たなかったか」という問いと考察である。続いて、「米軍野戦病院」での病院生活、さらに「俘虜収容所」の集団生活が活写される。収容所での日本人の「社会」「行動」が詳細に記されるが、読んでいて、収容所生活は「日本社会の縮図」と思った。著者は「俘虜収容所の事実を藉りて、占領下の社会を風刺する」(「あとがき」)とその意図を説明するが、なるほどと思った。その後、敗戦によって、俘虜に一種の「堕落」「俘虜の戦後」が始まったことが辛辣な筆致で描かれる(「新しき俘虜と古き俘虜」から「帰還」まで)。この本を読み始めた最初は、描かれている「時代」になかなか入りきれず(僕が生まれて1年後から2年後の時代だ!)、なかなか読み進めなかったが、途中からぐんぐんと引き込まれ、後は一気に読み終わった。最後の「附 西矢隊始末記」は、漢文調(漢字とカタカナで表記)で無駄なものをそぎ落とした、簡潔明瞭な「戦記」で、その文章力に感嘆した。続けて、『野火』を再読するつもりである。
*『俘虜記』のなかで大変驚いた箇所がある。なんということだろう!「彼はセブの山中で初めて女を知っていた。部隊と行動を共にした従軍看護婦が、兵隊を慰安した、一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。彼女達は(中略)一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。山中に士気の維持が口実であった。応じなければ食糧が与えられないのである。」(446ページ)

2)『野火』
 大岡昇平著『野火』(新潮文庫)を読んだ。この本を以前に読んだつもりだったのだが、読み始めて「読んでいない」ことに気がついた。なぜ読んだと思ったのかというと、昔(1983年秋)、映画館を借り切って友人たちと映画会をやっていたのだが、そのとき「野火」(市川崑)をやったことがあり、その頃に読んだと勘違いをしていたのだ。(当時の手帳で読んでいないことが確認できた。)この本は薄いものだが、中身が濃く、また透明感あふれる文章で、感嘆しながら読んだ。レイテ島で生死の間を彷徨う田村が無人の教会に入ると「デ・プロフンディス」(われ深き淵より汝を呼べり)とい言葉が響き渡る。それはその後フィリピンの女を銃で殺すことや、飢えのなかでの人肉食の禁忌との葛藤の伏線となり、身震いを感じた。出会った将校が死に、その屍体を食べようするとき、剣を持つ右手首を左手が握り、制止する箇所(「左手は私の肉体の中で、私の最も自負している部分である。」)、生還して帰国後、精神病院に入院し、それは拒食症として現れる。失われた記憶を復元するなかで辿り着いた結論が、「思い出した。(中略)殺しはしたけれど、食べなかった。殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志では食べなかった。」であった。それは一種の「救い」である。作者は、戦場の極限=人肉嗜食に踏み切らなかったのはなぜかと問い、そこに「神」を想定する。それが救いになるかは私には分からないが、戦争の極限状態を突きつめた作者の力業に深い感銘を受けた。今後(2月には余裕ができるので)、同じ作者の『レイテ戦記1~3』(中央公論社)に挑戦しようと思う。また、可能ならば、ずっと昔に買っている同著者の『堺港攘夷始末』(中央公論社)も読んでみたい。

3)『ミンドロ島ふたたび』

 前に「『レイテ戦記』の私の読後感はいささか短兵急であった」と書いたが、あれ以来、大岡昇平の著作を読みなおそうと思っている。(やはり大岡の「特攻」への一定の評価には今も抵抗があるが。)それで大岡昇平著『ミンドロ島ふたたび』(中公文庫)を読んだ。この本を読んで、大岡の生年と戦死した父の生年が同じであることに気がついた。今までそういう視角で大岡の本を見たことはなかた。大岡も私の父も1909年(明治42年)に生まれている。大岡はミンドロ島で生き残り、父は中国で戦死した。「とにかく二五年前の兵隊の時のことを思い出すと、いつも涙が出て来るのである。(略)そういう中で、あいつはあの時、あんな笑い方をしたとか、こんなことを言ったとか、日常的な生活の細目の記憶に残っていて、それを思い出すと涙が出て来るのである。(略)思い出すだけで、まるで実在しているかのように、働きかけて来る。死者がいつまでも生きているように感じられ時、生きている者は、涙を流すほかないらしいのである。サンホセ警備隊六十余名の死者はそのように私には生きている。」そうか大岡は生き残った者の痛みを抱え続け、死者を悼み続けてきたのだ。私の父も大岡に悼まれる側にいたのだった。著者は『レイテ戦記』を書き始めた時に「ミンドロ島再訪」を行い、『レイテ戦記』を足かけ3年かけて書き終えた後、この『ミンドロ島ふたたび』を書いた。大岡はミンドロ島の地に立ち、「木の繁みを廻ったところの草原に、ルタイ高地の方に向かって座り、叩頭した。(略)戦後二五年、おれの俘虜の経験はほとんど死んだが、きみたちといっしょにした戦場の経験は生きている。それれがおれを導いてここまで連れて来た。(略)私がここで戦友になにを約束したかはいいたくない。やるまではなにもいわないのが私の主義である。二五年の後、私をここまで導いた運命を、私は受け入れるつもりである。」このように戦友に対して抱いた痛恨の思い、そして「戦争経験」の対象化・形象化の生涯かけての達成に感銘を深く覚えた。なお、この本は表題作の他に「比島に着いた補充兵」「忘れ得ぬ人々」「ユー・アー・ヘヴィ」「改訂・西矢隊始末記」をおさめ、解説は中野孝次である。

4)『ある補充兵の戦い』

 大岡昇平著『ある補充兵の戦い』(岩波現代文庫)を読んだ。「出征」から「復員」までの大岡昇平の戦争体験を描いた短編のアンソロジーだ。『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』の長編にこの短編のアンソロジーで大岡の戦争文学の大きな流れを読み取ることができる。(絶版の中編『ミンドロ島ふたたび』を古書で入手して読めば、ほぼその全てをとらえることができる。)これ以外に語り下ろしの『戦争』、埴谷雄高との対談『二つの同時代史』を入れると、より複合的な視界が開かれる。ここでは『ある補充兵の戦い』の冒頭の「出征」を取り上げてみる。大岡は品川駅で妻子と最後の面会をする。その時の様子を次のように書く。「妻は白い単衣に下の男の子を紐で背負い、上の女の子の手を引いて歩道に立っていた。髪と衣服の汚れと乱れは、十間以上離れてもよく見てとれた。私はこの妻の姿に私が死んだ後の彼女の姿を見たと思った。同時に妻の方では変わり果てた私の姿に、「死」を見たといっている。」私の父が出征する時、臨月の母は、今にも生まれるかも知れない私をお腹に抱えて、里の両親によってリヤカーに乗せられ、高槻の工兵隊に面会に行ったと聞く。さぞかしこのような状況だったのだろうと想像した。最後の「わが復員」の箇所では、「もし帰って来なんだら、どないするつもりやった」「そりゃ、ひとりで子供育ててくつもりやったけど、一度だけ好きな人こしらえて、抱いて貰うつもりやった」「危険思想やな」とあり、「我々は笑った」としめくくられている。私の父は帰ることは出来なかったが、大岡が帰ってこられたのはほんとうによかったと思う。なお、この本の解説は川本三郎である。続けて、『戦争』『二つの同時代史』を読むつもりだ。

<大岡昇平の「冷徹な観察眼」と「感情の湧出」>
 大岡昇平の『ある補充兵の戦い』のなかからその冷徹な観察眼をいくつか引いてみる。「私が何故品川で妻が与えた千人針を投げる気になったか不明である。いずれこれは私の好まぬ迷信的持物であったが、何か記憶に残らない発作にあったのであろう。強いていえば私は前線で一人死ぬのに、私の愛する者の影響を蒙りたくなかったといえようか。国家がその暴力の手先に男子のみを必要とする以上、これは純然たる私一個の問題であって、家族のあずかり知るところではない。」(「出征」)
「(小林衛生兵の遺骸を迎えて)私が感動したなどと思わないで貰いたい。私は兵士となって以来、自分と同じ原因によって死ぬ人に動かされたことはない。私は衛兵勤務を楯に通夜にも告別式にも出なかった。」(「襲撃」)
「(敗走の)準備をしながら、私がにやにや笑っていたのを僚友の一人が注意している。この中隊で笑っていたのは、彼の見た限り中隊長と私の二人だけだったそうである。彼は後に山中で彼の所見を私に伝えながら、私を悪魔的と評した。(略)私は兼ねて自分が予想していたことが来てしまったのがおかしかったのである。(略)自分に一番大切なことは、いつも最悪の事態を予め考えておくのが私の癖である。そしてその最悪が到来した時私は笑う。ベルグソンの「機械的」笑いの一例に、私の場合も入れて貰ってもいい。」(「敗走紀行」)
「人は金輪際私を信用しないで戴きたい。そこで私は銃を捨てた。行軍の列の斑らになった時を見すまして、横手の林中に入り、木の根方の草にほどよくわが廃銃を横たえた。」(「敗走紀行」)
 このような冷徹な凝視とその生き方が大岡を生きのびさせ、生き残らせたのだと思う。しかし、大岡は「偶然だ」という。それも真実だ。
「彼(安田一等兵)より遙かに重態で旧陣地に止った私が助かったのは、無数の偶然の結果であるが、最大の偶然は米動哨が私の倒れていた場所を通りかかったことである。」(「女中の子」)
 大岡の「戦記」に一貫して貫徹される「冷徹な観察眼」は、25年ぶりに再訪したミンドロ島で亡くなった戦友を思うとき、容易に鎮まりがたい「感情の湧出」に変わる。そのことは『ミンドロ島ふたたび』の感想で書いた通りである。ここに大岡が生涯かけて取り組んだ仕事の意味が浮かび上がってくる。

5)『戦争』

 大岡昇平著『戦争』(岩波現代文庫)を読んだ。大岡の戦争体験と戦争文学についての「語り下ろし」である。私は大岡の戦争文学をほぼ読んできたので、かえって「その前のこと」の章での小林秀雄との出会い(大岡は小林にフランス語を習っていたそうだ!)、大岡のスタンダール研究の話等がおもしろかった。また、編集者の聞き取りからできている本なので、大岡の著作の背景がよく分かるところ多々あり、興味深い。たとえば、『俘虜記』について次のように語る。「その時(米兵を)撃たなかったのが、前に撃つまいと考えてた結果なのかどうか、自分でも非常にわかりにくかったんですよねぇ。(略)ただ反射的に恐ろしかったのかもしれないし、気おくれということだけでいいのかもしれないんだ。(略)そこんとこの情景がなんともいえないんで、今度ミンドロ島にいった時、この草原へなんとかいこうと思ったんですけどね、駄目でした(行けなかった。)」さらに『レイテ戦記』に関しては次のようなことが語られる。「『レイテ戦記』では、戦争を上から見おろすように書こうとしたんだが、(略)するとやっぱり負けたくやしさがそこへ出てくるんだなあ。参謀だってよくやったんだってことになっちゃうんだ。これはまあ自分でも意外だったですけどもね。」「僕の『レイテ戦記』では、やっぱり、くやしさが先にたって、その前近代的なやり方でも、これだけのことはやったんだということになっちゃったけど。」と大岡は自分の叙述の傾斜について吐露する。「あとがき」では、1974年時点(石油危機直後)での大岡の「戦争への危機感」が述べられている。この本の解説は野村進である。

6)『二つの同時代史』(大岡昇平・埴谷雄高)

 大岡昇平と埴谷雄高の対談『二つの同時代史』(岩波現代文庫)を読み終わった。この対談は雑誌「世界」で24回にわたって連載されたもので(1983年12月号で完結)、すぐれた小説家で批評家である1909年生まれのふたりが70歳代半ばの時期に明治から昭和の現在までの文学史的営為を振り返った討論の書だ。(大岡昇平はこの対談の5年後に、埴谷雄高はその14年後に亡くなる。)討論の最後の方で埴谷は「大岡昇平と埴谷雄高二身合わせてやっと一身だとぼくは考えている。」「われわれの生きた二十世紀というのは、大げさにいうと、戦争と革命の時代であると言われているんだね。大岡昇平は戦争をつぶさに体験してきたから戦争について語る絶対的な資格を持っている。また事実、大岡昇平の代表的なものは戦争について書かれているわけだ。それに対してぼくは革命運動のほうにいた。(略)とにかく片一方は戦争で、他方は革命運動のはしに参与したということは、二十世紀の全体像をとにかく二つの同時代史で象徴的に語ったということなんだよ」と討論の総括する。また別の所で、大岡の『俘虜記』と埴谷の『死霊』ふれて、埴谷は「なぜ戦後、大岡昇平と埴谷雄高がこういう、それまでの文学とは違った文学を書くようになったのかということを考えるとね、大岡昇平は日本人が日本人の自己発見、あるいは国際性の発見をするために神がフィリピンにつかわされたごとく、埴谷雄高は刑務所の独房の中につかわされたのだ。」とも言い、大岡の文学的営為は『俘虜記』から出発するととらえ、大岡の『俘虜記』から『レイテ戦記』までいたる仕事の意味を浮き彫りにする。また、私があまり知らない事柄(小林秀雄、富永太郎と中原中也との出会い、「近代文学」と第一次戦後派等)が詳細に語られ、興味がつきない。文庫本で600ページ近い討論のなかには豊かな内容がつまっている。私は埴谷の1、2の評論は知っているが、『死霊』は勿論、埴谷の本を読んでいない。この本で埴谷の仕事に興味を持った。実に壮大で大変おもしろい対談だった。解説は樋口覚である。
*この対談では、『ある補充兵の戦い』所収の「出征」のなかの千人針の話は「フィクション」であることが明かされている。「『出征』の方は物理的に不可能だった。うちの奴が通知を受けたのは、出征二日前の夜、満員の記者に乗って東京へ来る、千人針作るひまはないんだ。」と。大岡は「ああ、あれはフィクションだよ。」「あれは三島由起夫に見破られた。」と言い、おもしろい。(260ページ)

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