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渡辺清の『戦艦武蔵の最後』『私の天皇観』等を読む 

松岡 勲


 

 

<はじめに>
 大岡昇平著『レイテ戦記』(全3巻)を読んだ後、渡辺清の本を読もうと思った。渡辺清は1941年に16歳で海軍に志願し、1942年に戦艦武蔵に乗りこみ、マリアナ、レイテ沖海戦に参加する。武蔵撃沈の際に遭難し、奇跡的に生還した。帰国後はその体験をとらえ返すなかから、終生「天皇の戦争責任」の追究を自らの課題とした。1970年から日本戦没学生記念会(「わだつみ会」)事務局長を勤め、著書に『戦艦武蔵の最後』『海の城/海軍少年兵の手記』『砕かれた神/ある復員兵の手記』『私の天皇観』がある。1981年に56歳で亡くなる。 

1)『戦艦武蔵の最後』
 渡辺清著『戦艦武蔵の最後』(朝日選書)を読んだ。『戦艦武蔵』は小説である。戦艦武蔵はブルネイ湾を出港してまもなく、米軍機の爆撃にあって、船団のうち旗艦の愛宕他2鑑を撃沈、大破された。その後、米軍の制空圏内に入り、これからまさに激しい攻撃にあおうとする寸前で、読むのが止まった。なぜそうなったのか、気がついた。この先を読むのが怖かったのだ。大岡昇平の『レイテ戦記』が「レイテ戦の戦闘について、私が事実と判断したものを出来るだけ詳しく書く」全体小説で、一種の抽象画を連想させるとするならば、渡辺清の『戦艦武蔵の最後』は彼の同僚の最後の瞬間を「肉と血」とで描いた具象画の世界だった。ほんとうに読み進めるのが怖かった。「私はこれを書いている間も何度かいやな戦場の夢にうなされた。ある時は烈しい火焔と水柱をあび、血まみれの死体にふれ、母親を呼んでいる少年兵の金切り声をきき、ときにはひっくり返った艦底を総毛だって駆けずりまわっている自分の姿をそこに見た。そんなとき私はきまってわき腹にじっとり寝汗をかいて眼をさまし、息をのんで床に起きなおっては、あわてて部屋のなかを見まわしたりした。“ここは艦じゃない、おれはもうとっくに陸に上がっているんだ。”と納得してみても、それからはもう寝つけない。私は夜、床ににつくのが恐ろしかった。そしてそういう夜が幾晩もつづいた。本書はそのような鬱屈した内的葛藤の中でようやくまとめ上げたものである。」(「あとがき」)
 それと読み終わって特に印象に残ったのは、19歳の海軍志願兵だった渡辺が同年兵の無残な死の瞬間を描く時、その彼らの社会的出身とその生活背景を詳細に描きこみ、その死の無念さに思いをはせていることであった。(それは上官の兵士の死に対しても同様である。)これは実に見事というほかない。いくつかそれを上げてみると、「堀川は福島の阿武隈川沿いの農家の四男だが、彼の話によると、まとめて七反ほどの田圃や畠も全部が小作で、うちの暮らしむきはひどかったようだ。(中略)これが全部うちの米だったらどんなにいいだろうと思ってね・・やっと秋になって米を俵に入れてもそんなわけでしょう。あとうちの食いぶちはいくらも残らないんですよ。」「彼(星野)は志願兵ならたいてい志願する砲術学校や水雷学校の試験を一度も受けなかった。だからおれたち同年兵のなかでも無章兵は彼だけだった。学校へいけば進級が早いかわりに勤務年限がのびる。彼はそれを避けていたのである。」「おれはもう海軍にゃなんの未練もなないんだから、志願兵の五年の満期がきたら早くうちへ帰るんだ。みんな待っているからなあ、とくにばあさんがよ。おふくろはおれを生んだあと、肺尖カタルになって、ずいぶん寝こんでいたもんで、その間おれはばあさんの手で育てられたんだ。だからばあさんは、おれが可愛くて、志願したときも泣いて反対したっけ・・・。」「おれが武蔵に転勤になったとき、分隊の同年兵は、星野、杉本、稲葉、石巻、山口のおれと六人だった。そのうち山口は去年、休暇でくにもとに帰って自殺してしまったが、それからおれたち五人はずっと一緒だった。(中略)だが、石巻も死んだとなれば、これで生き残ったのはおれ一人だ。(中略)みんなが死んで、自分だけがおめおめと生き残ったことに納得がいかないのだ。おれは死ぬべきであった。死ななければいけなかったと思う。」死者を悼む思いとこの「生き残りの呵責と羞恥」が渡辺の戦後の生き方の基底にあったと思う。(鶴見俊輔の解説「鑑底の牡蠣殻」の分析は的確だ。)
 「空母、飛行機の前には歯が立たなかった」戦艦大和・武蔵に代表される「大艦巨砲主義」の政策の間違いが多くの将兵の犠牲を生んだ。(戦艦武蔵は「艦長以下千数百名の乗員」の犠牲)当時その政策を決定した政府・海軍の責任者はその失敗の責任を取らなかった。それにしても、戦後も同様に原発事故に代表されように同じ構造を持つたままの日本の政治はいったい何だと思わされた。 

2)『海の城/海軍少年兵の手記』
 渡辺清著『海の城/海軍少年兵の手記』(朝日選書)を読んだ。これは渡辺清の最初の著作で小説である。この後に『戦艦武蔵の最後』が書かれた。この本も最初読むのにつまった。なかなか読み進まなかったのは、海軍内の少年兵に対する制裁(リンチ)の凄惨さがつらかったからだ。18歳の主人公北野信次は、トラック島基地で、戦艦「播磨」(このモデルは「武蔵」)に乗りこむ。同期の上等水兵6人の若い兵隊としての共同の主人公の視点から戦闘に入るまでの軍艦の日常生活が描かれる。分隊内(陸軍でいえば「内務班」に相当する)では制裁が熾烈を極め、その恐怖、肉体的・精神的苦痛が描かれる。この小説で繰り返し出てくるのは「甲板行列」である。分隊の下士官、兵長らが若い兵隊に、渡し3尺ぐらいの樫の棍棒(これを「軍人精神注入棒」と言った)、そのほか木刀、グランジパイプ(消防蛇管の筒先)、チェーン、ストッパー(わざと海水につけて固くした太い麻縄)などを使って行われる暴力である。(「甲板整列というのは、だからいってみれば軍艦の精神であり、教義であり、紀律であり、矜恃であり、意志であり、感情であり、要するに軍艦を内側から守るための一切である。」)この中で江南一等水平は殴り殺され、山岸上等水兵は休暇帰省中に自殺して艦に戻らなかった。このほかにさまざまな制裁(「不動の姿勢、敬礼、整列、かけ足、罵倒、殴打、うぐいすの谷渡り、食卓のおみこし、ミンミン岬、電気風呂など卑劣きわまる罰直だ。」)が日常化していたのが海軍の実態であった。最後の場面では、山岸上水の自殺にからんでの制裁で我慢の極限を越えた北野はついに上官への反抗にいたる。この場面には、実際にはできなかった「抵抗」への著者の歯噛みする思いがこめられていると思った。「あとがき」には、「私は十六歳のとき、自ら志願して戦争に参加したひとりであるが、それだけに戦後はその無知と屈辱と罪責にさいなまれ、(中略)戦争は私にとって何だったのか、どんな傷痕を残したのか・・私はもう一度、過去の自分を赤裸々に再現してみることで、主体的にとらえなおしてみようと思った。」とある。全巻で385ページに及ぶ力作であった。今後、機会を見つけて、陸軍の内部班の実態を描き、それへのの抵抗の論理を組み立てた大西巨人著『神聖喜劇』を読みたいと思っている。 

3)『砕かれた神/ある復員兵の手記』
 渡辺清著『砕かれた神/ある復員兵の手記』(岩波現代文庫)を読んだ。(この本の解説は、渡辺清の死後に「わだつみ会」の事務局長をされている、おつれあいの渡辺総子さんが書かれている)敗戦後、渡辺は富士山麓にある故郷に帰還し、厳しい農作業に明け暮れながら、今時戦争をとらえ返し、天皇の戦争責任を考え、問いつめていく。この本は1945年9月から翌年の4月末までの日記である。(この後、渡辺は上京する。)
 渡辺は天皇のマッカーサー訪問(45年9月27日)に大変な衝撃を受ける。「二人で仲よくカメラに収まったりして、恬として恥ずるところもなさそうだ。(中略)敵の膝下にだらしなく手をついてしまったのだ。それを思うと残念でならぬ。天皇に対する泡だつような怒りをおさえることができない。」その後、渡辺は天皇の戦争責任についての考え、天皇制批判を深化させていく。「一億総懺悔」に関して、「敗戦の懺悔と言うならば、天皇をはじめ戦争を起こした直接の責任者や指導者たちが国民に向かって懺悔するのが本当だろう。(中略)責任を一億みんなのせいにしてしまうのは、あまりにも卑劣だとおれは思う。」(45年10月11日)また、「新憲法草案」の発表に関して、「『神』から『人間』になったと思ったら、こんどは『象徴』になるという。(中略)『人間』が人間の象徴になるというのはおかしい。(中略)それによって天皇を『国民統合』の象徴に仕立てるとなると話が別だ。これは明らかに欺瞞だ。スリカエだ。」(46年3月8日)さらに上京の直前に海軍にいる間に「天皇から受け取った金品」返納する趣旨を書いた手紙と為替を天皇宛に送りつける。その明細が最後の日記に載っているが、俸給・食費代・被服代・下賜品(タバコ)代等総計4282円。(45年4月20日)ほんとうにすごい人だと思った。
 先の『戦艦武蔵の最後』でも感じたことだが、『砕かれた神』では、級友たちの軍隊から帰京後の生活について詳細な記述があり、級友たちへの深い思いやりを感じた。たとえば、予科練帰りの邦夫のすさんだ生活、満蒙開拓青少年義勇軍に志願し、満州で肺病を罹患し、闘病する誠一等へのやさしい視線。もう一つ感じたのは、富士山麓の自然に抱かれ、農作業に没頭するなかで、戦争で心身ともに深く傷ついた渡辺が癒やされているのではないかと思ったことだ。上京後、渡辺が人生をどのように辿り、天皇制批判をさら鋭いものにしていったのか知りたいと思う。次に渡辺の『私の天皇観』を読む。 

4)『私の天皇観』
 渡辺清著『私の天皇観』(辺境社)を読んだ。この本は渡辺清の最後の作品であり、「わだつみ会」の事務局長としての活動のなか、天皇の戦争責任を問い、天皇制を自身の問題として追究し続けた渡辺の思考の軌跡がまとめられている。第1部は、これまでの著作(『戦艦大和の最後』『砕かれた神』『海の城』)の総括的な文章である「少年兵における戦後史の落丁」や「天皇裕仁氏への公開状」、その他諸雑誌には発表された文章がおさめられている。第2部は、吉田満・安田武との対談(「戦艦大和の上官と武蔵の兵」)や加納実紀代との対談(「戦争の中の日常性」)、その他インタビュー等で構成されている。第3部は「私の天皇観/天皇に関する日録」(1961年11月~1981年4月)が載せられていて、記憶が曖昧となっていた天皇に関わる様々な事項を思いださせてくれる。たとえば、奥崎謙三の「ヤマザキ、天皇を撃て」事件(69年1月)、大岡昇平の芸術院会員辞退(71年11月)、天皇の戦争責任に関して「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないのでよくわかりません」という有名な天皇の発言(75年10月)等である。この本を通して、渡辺が生涯をかけた天皇観・戦争観(「天皇ぬきにして戦争を語ることはできないし、戦争をぬきにして天皇を語ることができない。」)をじっくりとらえ返すことができる。
 渡辺清はこの本を出版した直後、癌で亡くなった。この「日録」の最後は、「もし、(手術が)だめだった場合は、そこで僕の三十七年間の「復員休暇」は終わる。」と書き、次の様に続ける。さぞかし、無念だっただろうと思う。
「そのときは静かに海へ還ろう。
 戦友の眠る南の海へ。
 だがその前に、結果はどうあろうとも。
 ここまできて、八十歳の天皇より先に死ぬわけにいかぬ。
 生き残りの意地にかけても、
 どうしても先に死ぬわけにはいかぬ。」

<おわりに>
 先に書いたように大西巨人の『神聖喜劇』を今後読んで見ようと思っているが、『レイテ戦記』(全3巻)、渡辺清の本(4冊)を読むのにそれぞれ1週間ほどかかっているので、『神聖喜劇』(全5巻)はすぐ取りかかれないだろう。いずれは時間をとって読もうと思う。もうひとつ考えているのは、『レイテ戦記』の私の読後感はいささか短兵急であったと反省しているので、大岡昇平の著作を読みなおそうと思っている。具体的には『ミンドロ島ふたたび』『ある補充兵の戦い』、埴谷雄高との対談『二つの同時代史』である。ぼちぼち読み進めていこうと思う。


(2013・7・18) 

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