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『こぺる』終刊に寄せて 子どもの揺れる心に伴走しながら

松岡 勲


 

 

 京都部落史研究所の「差別論研究会」に参加したのが1979年9月末でしたから、新旧の『こぺる』とのつきあいは33年になります。私が「同和教育推進校」、いわゆる同和校に勤務したのは、高槻市立富田小学校が1972年からの10年間、同第四中学校が1986年からの4年間でした。
 小学校での最初の部落問題学習(1973)で、部落の子どもたちは「部落から逃げたい」「差別する人より差別されている人の方があたたかい」「もう一度生まれ変われるとしたら、部落に生まれたい」などとさまざまな発言をしました。私は「部落から逃げたい」というMの言葉を聞き、「そうだろうな。辛かろうな」と思い、決して遅れた意識だとは考えませんでした。そして、それらをどう受けとめるかで揺れる部落外の子どもの心が手に取るように分かりました。それは私の心の揺れでもあったからです。
 その頃の部落の子どもらと24年ぶりに再会した時のことを新『こぺる』(71号、99・2)で次のように書きました。
 「Mは当時担任した子だった。6年生の時、さまざまな折りに『部落から出たい、逃げたい。』と言っていたことを思い出す。私はなぜかその心根に共感していたものだ」「Mはしたたかに生きている。消防署員になった後、救急救命士の資格を取り、救急隊員としての仕事を生きいきと語る。週に1回、看護学校にも救命法を教えに行っているとのことだ」。
 学校での「部落民宣言」は人生の一大事ではありません。大事なのは部落の子どもと部落外の子どものとの関係であり、その関係をどう開いていくかです。
 その後、私は中学校に転勤しましたが、当時の中学校は部落の生徒を中心に部落外の生徒も結びつき、暴力支配やいじめがはびこり、学校が荒れていました。荒れる部落の生徒をかばう同和校の体質は、部落の生徒を惰眠化させ、部落外の生徒に「恨み・つらみ・ねたみ」などの逆差別意識を沈潜させていました。
 その頃の中学生で、社会人となっていた部落外の卒業生と会い、当時のことを聞き、『こぺる』(44号、96・11)に書いています。さまざまな苦労をした後、大学検定試験に合格して、大学を受験する直前であったSは「できるものなら、もう一度、中学生にもどり、部落の彼らに思っていることを言ってみたい、今なら言える」と語っていました。

 元来、差別には社会的関係において、強者が弱者に対し一方的に「切り札」を切る関係があります。ところが、部落解放運動の長い努力が特別措置法を制定させ、部落問題の解決が「国民的課題」となった後の体制は関係の逆転を引き起こしました。特に行政・学校関係者と部落解放同盟との関係には、「切り札」を同盟側が握る傾向ができあがっていました。
 藤田敬一さんが『同和はこわい考』で「両側から超える」ことを提示され、それに私が深く共感したのは、以上のような同和校での私の体験があったからです。『同和はこわい考』や『こぺる』を介してつながってきた人々は、この「切り札」をあえて使わない決断をした人たちでした。「スペードのエース」を持とうとしない人たちとの交遊は心地よいものでした。だから、長く関係が続いたのだと思います。「両側から超える」とは、差別・被差別の両者の対等な対話を通して、新たな共同関係を創ろうとする志向だと思います。なかなか困難な試みですが。
 中学校を定年退職後、私は週2コマだけ、大学で教職課程の授業を教えています。若い学生に接するときに、学生それぞれの事情を「複眼で見る」ことに心がけています。昨年、印象深い学生がいました。いつもひとり静かに座って聞いているR君でした。彼は日本生まれなのですが、「両親が台湾人」で、小学校2年の頃には台湾に住んでいたこと、18歳で日本国籍を取得したことを教えてくれました。彼が書いてくれたレポートには、「親が日本語を身につける前に生まれたので、幼稚園に入るまで、私は日本語が話せなかったらしいです」とあり、彼はその後、台湾、日本と引越し、5年生の終わり頃には「学校嫌いが極限に達し、不登校」になります。しかし、その後、大学検定試験を受けて資格を取り、A大学に入学し、現在にいたっています。彼は「多数派から外れた事により、常識などいわゆる多数派の意見に対して懐疑的になっている事は間違いないと思います。」と書いていました。このような彼ら若い世代に伴走するのが、今も私の仕事です。
(「こぺる」238号2013.1) 

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