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(報告)靖国神社遺児参拝文集が出てきました。 


 

 

 6月10日の朝、靖国神社合祀取消訴訟の意見書も書いていただいた関千枝子著『広島第二県女二年西組/原爆で死んだ級友たち』を探そうと、現職時代に広島・長崎の修学旅行で集めた本と資料の山を崩しました。その資料の山の一番下から私の中学校3年生当時(1958年)の靖国神社遺児参拝文集が出てきました。その横に小学校勤務時の「広島修学旅行文集」(1981年度)があり、そこに被爆者の方々と出会ったことで「私の母から、戦死した父のことで、36年たって、はじめて聞けた話がありました。母に対するまなざしの変化が、私の中にもおこったことから聞けたのだと思います。」と私の前書きが載っていることから(このことは私の陳述書で述べました)、中学校勤務に変わって、長崎の修学旅行関係の取り組みを始めたころにどこか別に場所にあった靖国神社遺児参拝文集をその位置に置きかえたのだろうと思います。多分今から20年以上前のことでしょう。そして、それは忘却の淵に沈みました。2007年に靖国神社合祀取消訴訟に1年遅れで合流する前に、訴訟の陳述書を書き、父の戦死に関わっての私の記憶を必死によみがえらせようとしました。その際、中学校時代に靖国神社参拝の感想文を書かされたことを思い出し、もしかして文集のようなものがあったかも知れないと、探してみましたが出てきませんでした。また、大阪府の社会援護課恩給援護グループと大阪府遺族連合会に問い合わせましたが、「今から50年も前のことで、資料はなにも残っていない」との返事でした。そして、それが今回出てきたのです。背筋に寒気が走りました。多分顔が真っ青になっていただろうと思います。
 私の感想のタイトルは「もう一度行こう靖国へ」となっています。それは靖国神社本殿での宮司の言葉を記録しています。(本殿に昇殿したこと自体完全に記憶から消えていますから、宮司の言葉も記憶がありませんが)「この靖国神社は、お国のためになくなられたあなた方のお父さんや、お兄さんの英霊がお祀りしてあります。此国がある限り、あなた方のお父さんの名は後々まで残るでありましょう。今日も大きくなられた人々が“お父さん、こんなに大きくなりました。”と報告に来られています。皆さんも、もう一度やって来て下さい。」と。それを受けて、「私はなんとなく父は立派な死に方をしたんだなあと思った。」と書いています。「そうではないか、現在色々な人が馬鹿な死に方をしている。それと違って父の名は後の世まで、この本殿とともに残るではないか。」と。戦死した父の「死の意味づけ」を求める子の気持ちをこのように戦後も靖国神社は利用し続けてきたのだとつくづく思わされました。戦死した父を「英霊」として祀られ、その死の意味づけを遺児たちは教えられ、遺児たちもまた次の戦争に動員されようとする「靖国教化」の姿を靖国神社遺児参拝と文集に見ました。私は戦後版「少国民」にされていたのです。帰阪したときのことを書いた箇所で、靴みがきの少年を見て、「君たちもガンバレ」と呼びかける「上から目線」には「いやな奴」と思いました。
 文集のタイトルは「靖国の父を訪ねて 第十二集」で、1958年度(昭和33年度)の靖国神社遺児参拝文集です。2ページ分でA4版の大きさになり、総ページ数は500ぺージになる膨大なものです。発行は大阪府遺族会です。(連絡先が大阪府民生部世話課内とあることからも官民一体の取り組みだったことが分かります。)文集に第十三次遺児参拝(第十二集)とありますから、発行されていない1回分があると思われます。(その後の調査で、靖国神社遺児参拝は1952年から始まり、私の参加した参拝は1958年の夏で、1957年までは春秋の年2回参拝が行われ、1958年から年1回に変わったと分かりました。いつ終了したかは不明です。第1回参拝の文集は作られていません。)参拝中学生は「975人」というすごい数です。私も「大変な人数」だったと記憶しています。集合場所の天王寺公園では見送りの家族、行政・学校関係者等で立錐の余地がありませんでした。また、文集掲載の写真の最初に「霊爾奉安の勅使参進」(昭和三十三年秋季靖国神社)が掲載されており、文集が始まる冒頭に「本書は第一集より毎集 天皇陛下・皇后陛下に上納 皇太子殿下にも第三集より上納 叡覧の光栄を得ております。」とあり、靖国神社遺児参拝が天皇制を下支えする目的で行われていたことが明らかです。
 靖国神社参拝行は、1958年7月29日から8月1日までの3泊4日で、一行は男女あわせて1千人近く、付き添い人は約50人、旅行社の添乗員が10人の大所帯でした。それには膨大な公費が使われていたと思われます。(後の調査で、全額府費負担で、1人あたり2千円の予算であったことが分かりました。地方公務員の当時の初任給が6千5百円です。)行程は関西本線名古屋経由の夜行で上京し、2日目に靖国神社に昇殿参拝し、その後、東京観光をしています。3日目は都内観光後、夜行列車で帰路につき、4日目の午後に帰阪しています。感想文を書いた人数は825人です。当時、行政だけでなく、学校も靖国神社遺児参拝に協力していたと思われます。参拝者の事前の集まりは学校で行われましたし、遺児参拝のための世話や感想文作成に教員が協力していたようでした。
 私の文章、そして大勢の靖国神社参拝の感想文を読むと、戦死した父を思う悲しみ、寂しさは私と共通したものです。また、膨大な作文の背後に、母が再婚して祖父母に育てられている子ども、今はちがう父と暮らしている子ども、満州で父が戦死した子ども、フィリピンのレイテ島で父が戦死した子どもたち等、彼らの戦後の生活が見えてきます。しかし、靖国神社遺児参拝と靖国神社の存在は、その彼らの気持ちにつけこんで、「父の死の意味づけ」をすり込み、靖国神社と国家=天皇制と結びつける、巨大な教化装置であることが分かります。この文集が結審までに見つかり、書証に入れてもらえてよかったと思います。裁判の結審後、大阪府関係の靖国神社遺児参拝と文集について徹底的に調べようと大阪府立図書館や大阪府立公文書館等に通っています。大阪府の遺児参拝の概要が見えてきましたし、また、全国的にも同様の遺児参拝が行われていますので(文集のタイトルも同じ「靖国の父を訪ねて」!)、また別の機会に報告したいと思っています。
 最後に、この文集を読んでいて感動したことがあります。このような意図で為された参拝に「異議」をはっきり書いている女生徒がいたことです。少数ですが文集中に同様の意見が散見され、あの時代に「勇気ある発言」をしていた同世代がいたことを心強く思いました。(大阪市天王寺区、女子)
「犠牲の気持ち無くして死んでいった者に、結果からみて犠牲の名で呼ぶのはかえって侮辱になりはしないか。父は召集令状、赤紙一枚によって操り人形と化され、別れたくもない親、妻子、知人との別離を命ぜられ、且つ犠牲の美名のもとに死を命じられたのだ。私は靖国参拝を喜ばしい事とも、目出たい事とも思わぬ。こうした日を与えられた私を不幸と悲しむ。」
「「もう沢山」と叫びたいのを押えながら、すすり泣きの聞える中を、私は終わりまで神主さんの顔を凝視してやめなかった。「寒い凍れるような雪の中、夏は太陽の下で国の為に雄々しく戦い死んでいかれたあなた方のお父さま」。何と白々しい意志を持たぬ言葉だ。この飾りたてられた言葉が、幾千人の遺族に向って語られたことか。おそらく神主さんの頭の中にその文章は暗記され、明確に覚えこまれていることと思う。明日も明後日も、遺族に向かって語られるだろう。私はそんな安っぽい話なぞ聞きたくはない。私にとって父の死は、もっともっと厳粛な、そして寂しさと恐しさを持って存在するのだ。私の体の二分の一は父によって形造られたのだ。神主さんの話にすすり上げた人達は、話の何処に心ひかれたのか、私には理解し難い。本殿を下りながら、初めて私は悲しい気持ちになったのだ。このような反問の連続と、もろもろの感情を私に与えて靖国神社参拝は終わった。」
(2010・9・12) 

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