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(書評)『「七人の侍」と現代』(四方田犬彦) 


 

 

 四方田犬彦著『「七人の侍」と現代』(岩波新書)を読んだ。黒澤明の「七人の侍」は小学校6年生時に見た。映画館は満員で、大人の人垣を掻き分けて、スクリーンが見えた時は、「シェーン」のラスト・シーンで、「シェーン、カムバック・ツゥ・ミー」という子どもの声が聞こえていた。そして、休憩後、「七人の侍」が始まった。子ども心に強烈な印象を残した映画だった。
 四方田は、黒澤の後期作品(「乱」以降、「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」まで。)には「違和感」を感ずるが(私も当時久方ぶりの黒澤の新作であった「乱」を見たが、まったく期待はずれだった記憶がある。)、初期作品、特に「七人の侍」はディアスポラに生きる現代世界の人々に何度も見られ続け、いまなお現代的なテーマとして受容され、その影響を受けた作品の発表が続くと、「七人の侍」の特異な位置に注目する。その作品の反響の例をパレスチナ、旧ユーゴスラビアの作品にあげ、その魅力の源泉は何かと問う。 また、「七人の侍」が制作された1954時の時代的背景(占領から「独立」へ、原水爆実験の脅威、自衛隊の創設等)、戦争・引き揚げの記憶の問題等を俎上にあげ、当時人々はどのようにこの映画を見たかを考える。後半は、侍の表象、百姓の表象、野伏せと敵についての表象等の詳細な作品分析を展開し、この映画の核心は「敗北と服喪の儀礼」であると結論づけ、その「七人の侍」の核心部分が世界の人々を今も引きつける源泉であるとする。以下は結論部分での著者の象徴的な言葉である。「『七人の侍』というフイルムにもし最適の注釈が存在するとすれば、それは同じ年に同じ東宝で本多猪四郎が撮った『ゴジラ』である。どちらのフイルムにおいても死者の追悼儀礼の頭目を演じているのが志村喬であることは、けっして偶然ではない。」
 この本は、「七人の侍」で描かれた戦国の状況と、内戦やディアスポラで苦しむ現代の状況とを重ね合わせる視点を持った映画論であり、実におもしろかった。久しぶりに「七人の侍」をDVDで見ようと思った。

<目次>
プロローグ
第1章 黒澤明、ふたたび
第2章 映画ジャンルと化した「七人の侍」
第3章 1954年という年
第4章 構想と制作
第5章 時代劇映画と黒澤明
第6章 侍の表象
第7章 百姓、そして菊千代
第8章 敵ははたして敵か?
第9章 敗北と服喪
第10章 栄光の神話と孤立
あとがき 

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