旅の記憶

フィリピンのスラムにて 

松岡勲「フィリピン体験学習から」(1985年11月30日)



 

 マニラの空港を降り、マニラの町をジブニー(乗合自動車)で走った時、マニラはロックの似合う町だと思った。キッチュな装飾のジブニーも気にいったが、ガンガンかかるロックのリズムが疾走するジブニーの揺れに心地よい。信号で車が止まると、なかには大人もまじっているが、たくさんの物売りの子どもたちが危険な車道に入ってくる。タバコのばら売り、新聞売り、菓子売り、そして、いい香りの白色のかわいい花の首飾りを売る子ども・・・・、どこに行っても、子どもたちがよく働いていた。

 マニラのスラム、レベリッサで泊めていただいたクアドゥラさん一家もタバコ売りに町角に立つ。お父さんのフランシスコさんは、「ミンダナオのスルガオからマニラに出てきたが、定職がなく、その日暮らしです。子どもたちには学業をちゃんと終えさせたいが、なにせ貧しくて・・・・」という。タバコの売り上げといっても、一日に20~50ペソ(1ペソは約13円)程度だ。兄弟もダバコ売りに道路に出る。奥さんのソリダドさんは、洗濯の仕事にでている。みんなで日銭稼ぎだ。3畳もない箱といってもいいバラックの中で、夫婦と子どもたち5人の7人が住む。もちろん、電気もガスもない。

 さて、会話は英語でするわけだが、なにせ私の貧しいボキャブラリーでは、1時間もすると会話がとだえる。そこで、困った私は、「散歩に連れていってくれ。」となり、フランシスコさんと長男の20歳のアーノルドくんとよく散歩に出た。散歩で、アーノルドくんが最後に決まって連れていくのが、マニラ湾がよく見える海岸だった。彼は、「イサオは海岸が好きか?」「日本には横浜という港があるだろう。オレは船に乗って横浜へ行きたい。」という。アーノルドはエネルギッシュな若者だが、仕事がない。その彼が所在なげにしている時、何か遠くを見るような哀しい目を時々する。うっ屈した心情が日本への渡航を夢みさせるのだろうが、その私たちの住む日本に何があるのだろうか。フィリピンの人々を抑圧するものしかないとしたら・・・・

 レベリッサを辞す少し前、アーノルドが「日本に行きたいが、援助してくれるか?」と問うたが、一瞬、私は答えに窮した。ここで安易に答えたら、若いアーノルドに幻想を持たせることになる。私は、「君が自力で日本に来たなら、私の家に泊める。」と答えた。自力で来られるはずがないのだ。2人のやりとりをじっと聞いていたソリダドさんは、その時、安心したように笑顔を見せた。その笑顔と、遠くを見つめるようなアーノルドの目が忘れられない。

 また、強く印象に残っているのは、レベリッサの子どもたちとよく遊んだことだ。グアドゥラ家の3歳のアンジェロ、5歳のソルランシャと、そして隣近所の子どもたち。かごめかごめ、石けり、けんけん、せっせっせ、目かくし鬼ごっこ・・・・などなど。私の子どもころの路地裏の世界が、今も生き生きとあった。このかわいい女の子たちが大人になって、もし、日本の売春観光客に抱かれでもしたら、と一瞬でも想像するだけで、恐ろしい。

 別れ際に、フランシスコさんは「神を愛するのと同じように、我が近隣の仲間を愛している。」と言った。貧しさ故の相互扶助、抑圧への抵抗としての共同性の強さ、そして、何よりも子どもたちの屈託のない笑顔に満ちた路地裏の世界に、日本の社会が経済成長で喪失したものの大きさを思った。

 貧困と抑圧に抵抗するレベリッサの人々には、人間を信頼する、底抜けに明るい笑顔があった。その笑顔に応えるには、フィリピンを抑圧する側にある私たちが、この日本をどう変えていくか、これしかない。

 私の机の上には、アーノルドくん手製の写真立てがある。それには、「君との思い出に送る。私と出会ったことを、忘れないでくれ」とある。

(追記)
 このホームページを見ていただいた二上次郎さんから、メールをいただき、「白い花」について次のようにお教えいただきました。うっすらしていた記憶がよみがえりました。ほんとうにありがとうございました。

サンパギタ Sampa Gita  フィリピンの National flower で小さな白いローズのような形をしている。独特のあまずっぱい強い香りがして、糸を通して、レイのような首飾りとして用いられる。マニラのベニグノ・アキノ空港に到着時に掛けてくれる。(ハワイ到着時に掛けてくれるレイのようなもの) 

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