旅の記憶

古都ひとり歩き(イタリア)
ひとり歩きの決意/ピサの壁画「死の勝利」 

松岡勲「古都とことこ歩き」(1995年9月)



 

ひとり歩きの決意

 今回の旅行に出る前に、心に決めたことがある。
 今までの旅行で自由行動は結構したが、必ず同行者が誰かいた。今回は完全に単独行をしようと考えた。そこで、ツアーの日程をにらんで、自由行動の時間的余裕の多い場所で、ひとり歩きをしようと、次のように決めて参加した。

 (1) フィレンツェからピサに出かける。
 (2) バルセローナからモンセラットへ行く。
 (3) バルセローナから、ビックできればリポール(リボイ)へ遠出をする。
 (4) ジローナでは(カテドラルは前回に見ているので)ユダヤ人街を歩く。

 さて、うまく行きますかどうか。不安を持ちながら、機上の人となった。

ピサの「死の勝利」に感動 

 8月5日(土)。ついにピサ行きを決行。記念すべき完全ひとり歩きだ。
 フィレンツェ駅でピサまでの往復切符を買う。returnが通じない!指で左右に半円を往復させて描き、通じた。もろ、ボディー・ランゲージ!後で、切符に印刷してある retorno が往復の意味であることが、辞書を引き分かる。
 車中で千葉の学生松井君と会う。ユーレル・パスと、ユース・ホステルを使い、一ヶ月の旅の途中とのこと。夜行列車でイタリア南部まで行き、フェリーでギリシアに渡るそうだ。すごいね。若い人は!松井君とは、ピサのバス停で別れる。
 ピサといえば、斜塔と考えて来たが、あまり感動しなかった。「ああ、傾いているわ・・・」てな感じ。斜塔、礼拝堂、ドゥオモを見た後、あまり期待せずにカンポサンド(墓地)に入る。回廊を歩き、生前の華やかな姿を彫られた墓石を見るうちに興味が湧いてくる。なかには、うら若き乙女が泣きくずれる姿を彫った墓石まである。考えてみると、僕は昔からお墓が好きなのだ。

 最後に、壁画群が飾られた部屋に入り、その絵に驚いた。とりわけ、「死の勝利」という壁画には感動した。帰国後に読んだ小池寿子さんの『死者のいる中世』から、「死の勝利」についての叙述をかりると、
・中央には長い髪をふり乱し、大鎌ふるって宙を舞う死に神がいる。地上では人々が折り重なって倒れ、空中では罰せられた者たちがつぎつぎと悪魔に捕らえられる光景を前に、4人の乞食と足なえ人が、
・「繁栄がわれわれから過ぎ去ってから、死、すべての苦しみを癒す薬である死が、今や、われわれに最後の晩餐をもたらすためにやってきた」
・という文句を記した布切れを差し出しているのである。彼らのうしろでは、馬上の貴人たちが3つの棺に納められた死骸を前に立ちすくんでいる。
・赤褐色にくすみ、ところどころ剥げ落ちた画面からは、死の惨状と緊迫した状況がいまも察せられ、跳梁する悪魔の黒ずんだ身体は、黒死病に倒れた人々の肌色を思わせる。救いなき世の終わりには、一方で、楽奏と愛の語らいに興じる男女がいた。思いっ切り飲み、歌い、戯れ、できるだけ欲望を満足させる方が、この悪疫には効験があると信じた者たちがいた、とボッカチオは語っている。熱烈な信仰心と享楽、悔悛と欲望、希望と絶望。中世末期を彩る人間模様がここにあらわとなってくるのである。
 この壁画のなかの、3つの棺についてふれた箇所を引くと、
・1番目の死者は高位聖職者で、屍は既に死後膨張を示している。
・2番目の死者である王のそれは、腐敗が始まり、蛆虫、蛙、蛇に食われ、血膿を垂らしている。
・3番目の死者はもはや白骨化し、あたかも生のはかなさを物語るように、くぼんだ眼窩をこちらに向けている。
 ボッカチオの『デカメロン』によれば、フィレンツェではペストで10万人以上が死に、その死者の数は当時の同市の推定人口12万人の実に8割強になるという。1347年から51年にかけ、ペストの上陸地とみなされるピサでの死者は住民全体の約7割にもなった。(蔵持不三也著『ペストの中世史』)
 そのただなかでこの壁画が生まれたと考えると、心が震えてくる。ピサを訪ねてよかった!
 帰途、ピサ駅のバルで、Iさん夫婦、Sさんにバッタリ会う。4時すぎの列車でフィレンツェに向かう。列車に乗った途端、検札にきた車掌さんに、「これは普通列車。〇〇〇〇駅で乗り換えなさい」と教えてもらう。実はこの会話はすんなり通じたわけではなく、みんなで「降りろって言っているみたい?どういうことかな・・・」と、混乱していたのです。そこで、車掌さんが時刻表を持ってきてくれ、指し示してくれ、一同納得!次の駅に降りた時に、急行が到着するホームまで教えてもらえた。車掌さんありがとう!
 それで、フィレンツェには、5時すぎに到着できた。フィレンツェのホテルに到着後、Sさんがスリにやられていたことが判明。ほんとうに油断ならぬ時代にイタリアもなっているんですね。  

旅の記憶

古都ひとり歩き(スペイン1)
黒いマリア/カタルニア・ロマネスク 
松岡勲「古都とことこ歩き」(1995年9月) 

1995.9



 

黒いマリアは弥勒菩薩に似ていた

 8月9日(水)。バルセロナは3度目になる。今回、スペインでの小遠足はモンセラットを選んだ。モンセラットのことを初めて知ったのは、11年前に読んだ村田栄一さんの『シエスタの夢/私のスペイン』においてであった。
 この本で、村田さんの退職後のスペイン遊学の話、その下宿先のモンセおばさん、その名前のいわれがこのモンセラットであることなど知った。
 旅にでる前に到着した『ろばのみみ』103号に、村田さんが「ひとつの出会いを鍵として」で、モンセおばさんのことを書かれており、グッドタイミングだった。
 プラサ・エスパーニァよりカタルニア公営鉄道に乗り、モンセラットに向かう。往復切符を買い、列車に乗る。アエリ・デ・モンセラットの駅で、切符にロープウェーの分もついていることを知らずに、ロープウェーの切符を買ってしまう。それに駅員さんが気づき、返金してくれる。嬉しいね。この親切!
 リフトで修道院に向かう。リフトが上昇するにつれ、まるで大きな指のような形をした火山岩でできた白い巨岩がニョキニョキとそそり立ち、迫ってくる。

 その巨岩の下にある修道院に着く。そして、聖堂横の行列に加わり、「黒いマリアさま」にお会いできました。その柔和で、すてきなお顔を見たとき、奈良の中宮寺の弥勒菩薩を思い出した。残念ながら、黒い聖母はガラスケースに入っていたので、その上からしか触られなかったか・・・・。
 午後1時から始まった修道院の少年合唱団のかわいい賛美歌も聞くことができた。CDも買っちゃいました。後、サント・ドミンゴ・デ・シロスで世界的に流行したグレゴリオ聖歌を聞くことができたので、スペインで有名な聖歌隊の合唱を2つも、生で聞く幸運に恵まれたことになる。ラッキー!
 夕方、ホテルに帰着。村田さんの先導で、海岸地域であるバルセロネーターへ海鮮料理を食べに出る。一行は、村田さん、Sさん、I夫妻、Hさん、それに私の6人。村田さんのオーダーで食べた海鮮料理のおいしかったこと!
 名前は忘れたが、細長い貝や海老や烏賊などをたくさん食べました。ワインもたっぷり飲んだ。いい気分でタクシーに乗るちょっとしたスキをつかれ、Iさんの奥さんがバイク二人乗りのグループのひったくりに会う。ほんの一瞬のできごとであった。イタリアとスペインの両方で、身近に事件が起こったのだから、ほんとうに物騒な世情にヨーロッパもなったものだと痛感した。
 いや、きょう一日、いろんなことがありました!

カタルニア・ロマネスクとの対面

 8月10日(木)。本格的遠出の日。前回のバルセロナに来た時、ジローナに行ったため、ビックとリポールに行くことをあきらめた。今回こそ実行だ。
 朝早くホテルを出て、地下鉄でサンツ駅へ。サンツ駅で切符を買うところから緊張の連続であった。駅員さんに1番線に行きなさいと言われたが、列車の発車時刻を正確に聞きとれなかったのが失敗の原因だった。1番ホームに行ったが、次から次へと列車が入ってくるので、どれがどれだか分からず、大慌て!
 何人ものスペイン人に「ビック!ビック!」と尋ねるが、言うことがみんな違う。なかには、家族連れ4人が論争し始める。「1番線でないのかもしれない」と思ったり、「いや、やっぱり1番線だ」と考えたり、心が動転する。
 結局、1番線に入ってきた列車に、「えい、ままよ!」と乗るが、これが列車違い!乗り合わせた親切な若い女性が「私は少し日本語が分かります」と助けてくれ、「次のカタルニア広場で降りて、乗り換えなさい。この列車は全然別の方向に行ってしまいますよ」と教えてくれる。運よく、彼女もカタルニア広場で降りたので、彼女の教えるホームで次のビッグ行きの列車を待つ。
 よく見るとホームには、飛行場で見かけるような列車の発着を表示したテレビがぶら下がっているではないか。お礼を言って別れた彼女がその画面を見て、私のところへ戻ってきてくれる。そして、画面を指し示し、「あの列車に乗りなさい。ホームはここです」と教えてくれる。確かにVICとある。旅での親切が身に沁みる。「大変ありがとうがざいました」とお礼を言い、彼女と別れ、ホームにあった自動販売機でコーラを飲み、ひとごこちする。喉がからからに乾いていたのだった。

 ほっとして、テレビの表示を見ると、「ろばのみみ」の中居さんからもらってきた時刻表の地名があるのに気づく。リュックからそれを出して見ると、確かに、La tour de karol とある。この列車もビックに行くのだ。これだと30分は早い。しばらくしてやって来たその列車に乗り、ビックに向かうことができた。結局、その列車はサンツ駅で乗るはずの列車だった。何という幸運。ほんとうにありがとう!
 10時半頃、ビックに到着。教会へ行く。司教区美術館のロマネスク美術がすばらしい。
 ここでは、中庭をはさんでロの字型になっている建物の半分がロマネスク美術の展示室で、それに堪能しながらぐるりと回ると、中ほどでゴシック美術のコーナーになる。その対比がおもしろい。
 私はロマネスクの方が好きだ。キリストの像、聖母子像などが彫刻、板絵、壁画などさまざまな様式で並ぶ。素朴で、かわいい表現に親しみを感じる。そして、その色彩の鮮やかなこと!この作品群はバルセロナのカタルニア美術館に次ぐ評価を与えられている。カタルニア美術館は、現在改築中で見ることができない。幸いなことに、私は前回それも見ているので、カタルニア・ロマネスクの代表作群を見ることができたわけだ。キリストの絵のポスターと図録を買う。どちらもとてもすてきだ。
 さらにリポールに向かう。駅で、リポールと言っても通じない。リボイがカタラン語なんだ。2時半にリボイに到着。
 サンタ・マリア修道院の正門の彫刻に見とれる。12世紀に作られたロマネスク彫刻の代表作だ。聖書の世界が、味わいにある素朴な表現で、大きな門一杯に刻まれている。14世紀の回廊の柱頭彫刻もすばらしかった。そして、4時半頃の列車でバルセロナへ。カタルニア広場で下車ホテルに到着。本当に充実した一日だった!
 夜、Sさん、I夫妻とカタルニア広場近くのレストランに海鮮料理を食べに行く。1階のバルで安く上げるつもりが、ボーイに「お2階へどうそ」と促され、とっさに「下でいい」というスペイン語が出てこず、2階に上がってしまう。上がって見て、部屋の雰囲気から、一同「高かそう!」。現れた店のオヤジは口八丁手八丁の人物。あれよ、あれよ、という間に、小海老、大海老、魚(タイ?)などが次から次と出てくるは、出てくるは・・・。確かに美味しかったのだが、勘定となれば、4人で4万ペセタ!
 本当は2千ペセタほど釣り銭があるはずだった。「絶対チップなんか払わないでおこう」と言い合っているところに、くだんのオヤジが食後酒のリキュールを持ってくる。「この酒はおれのおごりだ」とくる。また、この酒がうまかった。結局、釣り銭はこなかった。ボラレタなあと実感する。おいしいものを、安く食べるには、食べ物のスペイン語を勉強しなければと、つくづく思う。でも、おいしかったから、みんあ気分よくホテルに帰る。もっと、かしこくなろう!

旅の記憶

古都ひとり歩き(スペイン2)
マラーノたちの嘆きの跡/ゴヤの天井画 
松岡勲「古都とことこ歩き」(1995年9月) 

1995.9



 

マラーノたちの嘆きの跡 

 8月11日(金)。今日からチャーターバスでロマネスク美術を巡る旅だ。9時にバルセロナを発ち、10時半すぎにジローナに到着。カテドラルの前でみんなと別れ、別行動。ユダヤ人街に入る。なぜ、ユダヤ人街に行きたかったのかというと、次のようなことである。
 この前、ジローナに来た時は、ここにユダヤ人街があることを知らなかった。もっぱら「天地創造のタピストリー」やカテドラルの前にあるロマネスク美術を展示している美術館に関心が向いていた。ただその時、カテドラル下の中世の匂いを感じさせる街並みが心に残った。「あの街並みの中に入ってみたいな」と、思いながらも時間がなく、引き上げた。
 帰国後、小岸昭さんの『スペインを追われたユダヤ人~マラーノの足跡を訪ねて~』という本に出会う。その本の表紙の写真が、ちらっと目にしたジローナの中世風の街並みではないか。それがジローナのユダヤ人街だった。その後、小岸さんとお会いし、私たちが高槻でやっている連続講座「リゾナンス’90」でも講演していただいた。 
 15世紀、レコンキスタ(キリスト教徒による対アラブ国土回復戦争)が終結した後、1492年にユダヤ人追放令が出された。スペイン人のユダヤ人は改宗してキリスト教徒になるか(改宗したユダヤ人はマラーノ=豚と蔑まれた)、全財産を放棄して海外に追放されるかの二者択一を迫られた。 

 小岸昭さんの本から、ジローナのユダヤ人街について引用すると、
 ヨーロッパではじめて見るゲットー。何百年も踏みつけられててかてかに光った、幅2メートルもない石畳の細い道が、暗い奥に向かってゆるやかにのぼってゆく。その両側にそそり立つ石積みの高い壁。その黒い石の壁から突き出すようにして、昼間からぼうっと乳白色の明かりをともしている角燈。ただこれだけの単純な光景を、私は棒立ちになって見つめていた。引きこまれるようにそのなかに入ってゆくと、左右の壁から押し寄せてくる沈黙から、1391年にカトリックに改宗しながらも、1492年には追放されここを去らなくてはならなかったマラーノたちの嘆きの声が聞こえてくるようであった。彼らはここで、ユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れるまで数百年間、文化的にも経済的にももっとも繁栄した生活を享受していたのだ。
 今、私はそのユダヤ人街のただなかにいる!小岸さんからもらった地図を頼りに「盲者イサクのシナゴーグ」を探す。イサクはカバラ主義者で、「カバラの父」と言われている人である。カバラ思想はユダヤ教の神秘思想であり、ユダヤ教のなかの変革思想でもある。見当をつけて入った所はどうも博物館のようだだったので、引き返す。見つからない、分からない・・・焦る、迷う・・・集合は12時半。後1時間ほどしかない。どんどん時間がなくなる。狭いユダヤ人街なのに、さまよい歩く。何人もの人に「シナゴーグ?」「イサク?」と尋ねる。ようやくたどり着いたのが最初のムセオであった。どうもこれがシナゴーグのようだが、確信がない。受付の女性に「盲者イサクのシナゴーグか?」と聞くと、「そうだ」との返事だった。
 もう一度、小岸さんの著書で地下聖堂の箇所を引くと、
 1982年に復元されたというこのシナゴーグは、通常の教会建築とはまったく異なる不思議な印象を我々に与えずにはおかなかった。それはまるで地下に向かって建てられているといった趣きだった。勝利者さながらに天空に向かって高くそびえる大聖堂の、まさにその根元に近い所にあって、シナゴーグ「盲者イサク」は、キリスト教のみならず、ユダヤ教に対してさえあえて反旗をひるがえそうとするかのように、その意志と思考をひたすら地下の深みに向かって先鋭化させているのであった。
 12時半に集合地点に戻るが、みんなが帰ったのは1時すぎだった。みんなの帰りを待ちながら「ついに目的のユダヤ人街に行けたのだ!」との充実感と心地よい疲れを感じる。この後、6日間にわたる長期のロマネスクの旅が続く。

ゴヤの天井画は本物だった

 バスによるツアーの最後に、はじめの予定に入っていなかったチンチョンに寄れたのは嬉しかった。私はできたらマドリーからチンチョンに行こうかなと考えたこともあったからだ。
 8月16日(水)の11時45分頃、チンチョンに到着。昨日で終わりの聖母昇天祭のフェスタがここでは今日も続いていた。この静かで、かわいい村はまだお祭りの最中であり、広場は闘牛場に変わっていた。7時に闘牛があるとのこと。丘の上の教会ではミサが行われており、そのミサの中で、ゴヤの「聖母昇天」を見ることができる。今現在の信仰の中に、ゴヤの絵が生きている。なんてすばらしいことなんだろう!
 8月17日(木)はスペイン最終日。今日はゴヤのパンテオンに行くことにする。前回は、その前まで行ったのに修復中でしまっており、無念の涙をのんだ。
 村田さんにバスの乗り方を教えてもらい、バスで行く。出発前に村田さんが言うには、「あの絵は模写なんだ。素人には分からんだろうがね。」 「えっ!それでは行くのをやめようかな」と私・・・。「いや、いや、それでもなかなかすばらしい作品だから、行ったほうがいい」
 ということで、ゴヤのパンテオンに行くことにし、10時前に到着。ちょうど、開館されるところだった。朝の淡い光のなかに、天井いっぱいに「聖アントニオの悲劇」が浮き立ち、まるでそれらの人物が生きているかのように感じられた。なんとすばらしい絵!見ているうちに「これは本物だ」という確信が湧いてきた。パンテオンの女性の職員に「これはコピーか」と聞いてみる。「とんでもない。本物です!ここにはゴヤのお墓もあります」という言葉が返ってきた。ゴヤの天井画を充分堪能してから、パンテオンを出る。明かりをどこから取り入れているのか確かめながら、パンテオンの周りをぐるりと回ると、左手にまったく同じ形をしたパンテオンがある。入ってみると、ミサ中であった。同じ作りのパンテオンの天井には絵はなかった。
 その後、プエルタ・デル・ソルのカフェテリアでコルタアードを飲みながら、余韻を楽しむ。それから、すぐ近くにある、私のお気に入りの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに行き、ゴヤやスルバランの絵をゆっくり見つめ、満たされた時間を持つ。そして、スペイン最後のみんなでの夕食の前にホテルに集合。

村田さんとの会話。
 「ゴヤのパンテオンはどうだった。?」
 「いや、とてもすばらしかった!」
 「ところで、本物はどこにあるんでしょうね?」
 「左手のパンテオンにあるんだが、見せないんだよ。」
 「そのパンテオンはミサ中で開いていたけど、何もなかったよ」
 「・・・・・・・・・・・・・」
 村田さんのイタズラ坊主的側面が感じられた、楽しい一瞬だった。
 今回のツアーでは、最初に計画した「ひとり歩き」が完全に実現し、こんなすばらしい旅は今までなかったと、今、その思い出を噛みしめている。  

読む・視る

書評・映画評・教育時評・報告を掲載します。

学校訪問

これまで管理人(松岡)が取り組んだ学校訪問・学校間交流の記録です。

旅の記憶

これまで管理人(松岡)が出かけた旅の記録です。