旅の記憶

アルチプラーノ大縦走
ボリビア大縦断(1)

松岡勲(1998年8月)



 

 98年8月。初めてのラテンアメリカ、高原の国・ボリビアへの旅だ。ボリビアまでの行程は成田~ロサンゼルス~サンパウロ~ボリビアのサンタクルスで、実にまる1日間が飛行機の中だった。南米は遙かな国なのだと実感した。

 ボリビアにはまず東側から入った。ブラジル側と接する熱帯雨林気候のサンタクルス(標高437メートル)に到着し、これから高度を上げていく旅になった。ここで時差ボケの疲れを癒し、一度に高度3千メートル以上の高原(アルチプラーノ)に上がると、高山病になるので、順次高度を上げる旅となる。

 サンタクルスから飛行機でコチャバンバ(2560メートル)へ。まあ、上高地程度だと高をくくっていたら、高山病の兆候が出だした。市内観光の途中、昼食に入ったレストランで出たのが焼き肉、牛のさまざまな部位が大きな鉄の串にさされ出てくる。香ばしい匂いだ。それがめずらしく、大変おいしかったので、食べ過ぎた。食べ過ぎが高山病にとって一番いけない。その後の市内観光のチャーターバスの中で、居眠りが始まる。これは高山病を呼びこむもとだ。なぜかというと、高度が上がると、酸素が薄くなり、血液中の酸素濃度が薄くなる。その上、居眠りは呼吸を浅くさせるので、さらに酸素濃度が少なくなる。「居眠りはいけません。深い呼吸に心がけてください。」という添乗員のKさんの忠告にも関わらず、居眠りが続く。夕食がほとんど食べられず、嘔吐感と頭痛が一晩中続く。不安のうちに夜が明ける。

 コチャバンバを専用バスで出発。4496メートルの峠を越え、南下。その後、延々とアルチプラーノが続くのには驚かされた。アンデス山脈とは険しい山塊が続くものというのが事前の予想だったが、大違い。広大な高原地帯だ!3000メートルを越える高地が四方の地平線が見える、見晴らしのいい平原地帯とは思いもしなかった。

 コカの葉がもとのマテ茶を水筒いっぱいにつめ、飲みつづける。これが高山病に実によくきく。オルロ(3700メートル)を経てウユニ塩湖(3760メートル)に着く頃にやっと体調が戻りだした。高地順応が始まったのだ。ウユニ塩湖は湖が干上がりできたもので、面積1万2000平方キロメートル、20億トンの膨大な塩の固まりだ。その塩の平原にただ呆然。ホテルは「パラシオ・デル・ソル」(塩の宮殿)で文字通り塩でできたホテル。ここで2泊して、今度は北上が続く。鉱山都市ポトシ(4070メートル)~ボリビアの公式首都であるスクレ(2790メートル)へ。延々と続くアルチプラーノを走り、高度感覚・空間感覚が完全に変容させられた。

 さて、明日は飛行機でラパス(3650メートル)へという予定だったが、乗客が少ないということでキャンセルになった。「えっ、そんなことがあるの?」。ボリビアではよくあるとのことで、翌朝から専用バスでポトシを経由しラパスまで登ることになった。運転手のアントニオと現地の旅行社の社長さんが交代で運転し、危険な山道をラパスまでの上りになる。なんと高度差1000メートル。ガードレールなき山道、下方はるかに峡谷が見える。乾期の川底が臨時の車道であったり、橋がない所が多いので川の流れに入っての渡河。夜を徹してのラパスまでの上りは街灯などはない。真っ暗闇のなか、きらめく銀河のもとに車は走る。寝袋にくるまり、その上から毛布を掛け、寒さに震える。トイレは男も女も野外で。なぜ、ぬれナプキンがいるのかがやっと分かった。銀河を見上げ、そして、南十字星の輝きには胸がときめいた。南十字星を見るのはカリマンタンとこれで2度目だ。翌朝早く、ラパス近郊のチチカカ湖に着く。

 時速70キロでガタガタ道を走ったコチャバンバからスクレまでの走行距離が896キロメートル、スクレからラパスまでの夜を徹しての走行距離が720キロメートルでほぼまる1日を要した。合計1616キロメートル!新大阪~東京までの新幹線の距離が552.6キロメートルであるからその3倍だ。まさにボリビア大縦断の旅だった。ラパスへの登りでは体調も絶好調で、完全にボリビアの高度に順応し、そのスリルを満喫していた。 

旅の記憶

たたずむ鉱山都市(ポトシ)
ボリビア大縦断(2)
松岡勲(1998年8月) 

1998.8



 

 ポトシの町はボリビアで一番高い(4100メートル前後)、いや、世界一高いところにある都市だ。ほんとうに空気が薄い。坂道を上ると、息が切れる。深く息を吸い、呼吸を整えながら、そろりそろりと歩く。その上、高地なので朝晩がとても寒い。着いた日の夕方、町に出たが、激しい雨にみまわれ、その寒さに震え上がった。 

 ポトシは16世紀にスペインによって開かれた鉱山都市だ。町のどこからでも見ることのできる、端正な山「セロ・リコ」(富の山)は豊富な銀を産出してきた。スペインが持ち出した膨大な銀は近代ヨーロッパ資本主義の原資となった。銀鉱脈を掘り尽くすと、スペイン人たちはポトシを放棄し、後には色あせ、さびれた建築物がコロニアルな過去の栄光を記憶するようにたたずんでいる。現在はスペイン人が見向きもしなかったスズをインディヘナの人々が細々と掘り続けている。

 E・ガレアーノはそのポトシについて、『収奪された大地~ラテンアメリカ五百年~』(藤原書店)のなかで次のように言う。 

 「虚飾と浪費の病にかかったあのポトシは、ボリビアにその栄光についての漠とした思い出、寺院や宮殿の廃墟、800万インディオの屍を残しただけであった。裕福な騎士の盾に象嵌されたダイヤモンドは、どれをとっても、結局はインディオがミターロ(強制労働に服したインディオ)としての一生に得られるものより高い価値を有していたのである。しかし、騎士はダイヤモンドをもって逃亡してしまった。(中略)今日、ポトシは貧しいボリビアの貧しい一都市である。長いアルパカの毛の肩掛けに身を包んだポトシの一老女が、2世紀もまえの彼女の家のアンダルシア風の中庭をまえにしてわたしに語ったように、それは「世界でもっとも多くのものをあたえながら、もっとも少ししかもたない都市」なのである。郷愁に包まれ、貧困と寒さに苛まれているこの都市は、依然として、アメリカにおける植民地制度の切り開かれた傷口であり、いまなお生きた告発なのである。」

 翌朝、セロ・リコの鉱山見学だ。ガイド氏に連れられ、鉱山の麓の町に到着した。添乗員のKさんが「資金協力をするため、鉱山労働者の店でおみやげを買います。」と促した。何を買うのかと見ると、コカの葉、タバコ、ダイナマイト、導火線だ。「えっ」と絶句。なかなかその意味が飲みこめなかった。だいぶ遅れて、その意味が分かった。鉱山労働者が必要とするそれらのものを差し入れするのだ。一人あたり、10ボリビアーノ程度だった。

 事務所で用意されたヘルメット、作業着、長靴、アセチレンガスで灯すカンテラを装備し、みんなで入坑した。人ひとり立って歩くのがやっとの坑道だった。入ってすぐ2つの祠に案内された。一つはキリストが祭ってあり、「キリストは外の世界の神」であり、もう一つは「ディアブロ・ティオ」という神で「闇の世界の守護神」であるとガイド氏が説明をしてくれた。ディアブロに火のついたタバコをささげた。「全部燃え尽きたら、その日は無事」とのこと。鉱山労働者はディアブロの前でミーティングをし、生活を守るための様々な方策を相談してきたとのことだった。地底に息づく共同性の鉱脈があった。

 さらに進み、地下30メートルで仕事をする鉱山労働者におみやげを渡すことになった。「マエストロ!」とガイド氏の声が坑道に響く。だいぶたって、頭上のカンテラの光が見え、地下の縦坑から鉱山労働者が上がってくる。彼に私たちのみやげを渡し、握手をする。地下から上がってきた彼の笑顔が今も忘れられない。

 セロ・リコの労働者は8500人。そのうち、8000人が零細な協同組合に所属し(残りは民営の会社に所属)、手掘りとダイナマイトでスズを採掘している。協同組合は13あるとのことだった。袋に入れた50~60キロの鉱石を運び、数十キロの地底より上がる。8トンが一単位で、その収入は8トンあたり700ボリビアーノ、8トンを採掘するのに2週間はかかり、それも、その半分がダイナマイトなどの必要経費に消えてしまう。(見学者のみやげが重要になるのが実感された。)つまり、1ヶ月に2万円弱にしかならない。1日16時間の労働で、地底に下りると1食しか食事を取らないそうだ。平均寿命は50歳で、肺障害が起こるので、25年が労働の限度であるという。まさに上野英信が筑豊の炭鉱労働者を描いた『追われゆく抗夫たち』の世界だ。

 スペインが去り、大手の会社が去った後、鉱山労働者は協同組合を作り、おたがいの生活を支え合い、生きてきているのだ。ボリビアの民衆運動の活力を感じた。午後は旧造幣局、サンタ・テレサ修道院、サン・ロレンソ教会を見学したが、いつもセロ・リコの地底の闇からもの見ていた。サンタ・テレサ修道院の入り口には男女二人の大きな肖像画が飾ってあった。「この人はだれか。」と聞くと、「スペインのバスク出身の貴族で、セロ・リコの持ち主だった人で、この修道院の創設者の夫婦」とのことだった。修道院に収蔵された絵画や金・銀でできた様々な装飾品が鉱山労働者の生き血を吸ってもたらされたものであることを痛感した。

 スクレのまちで、ジャケットのセロ・リコの写真にひかれ、サビア・アンディナのCDを買った。そのなかにポトシの労働者を歌った曲、「ポトシを讃える」が入っていた。その曲を聴きながら、ポトシを思い浮かべている。

  私はポトシで育った
  ゆりかごからポトシのなかで育った
  ポトシの偉大さを讃えたい
  ポトシのすばらしさを世に知らせていきたい
  祖国ボリビアにポトシの偉大さを伝えたい 

旅の記憶

かいま見た共同性(スクレ)
ボリビア大縦断(3)
松岡勲(1998年8月) 

1998.8



 

 今回の旅行は長距離の移動であるため、ほとんど自由行動はできなかったが、スクレではグループから離れ、町のなかに出た。 

 サン・フランシスコ教会に入ってみると、聖体拝受礼の真っ最中だった。親戚一同が集まり、真っ白な美しい晴れ着で着飾った子どもたちを祝っている。神父の説教が終わると、晴れ着の子どもたちが並ぶ。神父から髪の毛に聖水をかけてもらい、額に水をかけてもらう時には、小さな子どもは泣き出して、礼拝堂のなかは大騒ぎだ。カメラのフラッシュが光り、ビデオカメラがまわる。額に水をかけてもらった後、ろうそくをもらう。聖体拝受の子どもたちは1歳前後から10歳ぐらいまでの幅があった。

 そのような華やいだ雰囲気のなかに、インディヘナの10歳ぐらいの少年がおばあちゃんと妹の3人連れで入ってきた。白と青のさっぱりしたシャツにチョッキをつけていた。精一杯の晴れ着なのだろう。父親は見かけなかった。どこか遠くへ働きに行っているのだろうか。

 白人系の子の晴れ着のきらびやかさと比べれば質素だが、彼の門出を祝う家族の気持ちは晴れやかさに満ちていた。まさに今から貧富の差の大きな社会に旅立っていくのだ。イニシェーション・・・。さまざまな人間模様が渦巻く礼拝堂の雰囲気になぜか涙が自然とにじんできた。

 5月24日広場に行くと、靴磨きの少年が寄ってきて、「靴を磨かして。」と言いよる。「No!」「No!」と強く言っても、離れない。ベンチに座ると、彼は少し離れた所に座り、世間話をしだした。彼は11歳で、フェルディナンドと言い、ケチュア語を教えてくれた。私はいつのまにか靴を磨いてもらう気になっていた。片足で1ボリビアーノ、両足で2ボリビアーノ(1ボリビアーノは25円程度)か・・・。「1日に5ボリしかもうからない。」と言うから、親方がピンハネをするんだろう。フィリピンでホームステイさせてもらったグアドゥラ家の兄弟もタバコの行商で家族を支えていた。観光客の関心を引くたくみな話術。彼も自力で生きていくために、その力を身につけてきたのだろう。チップもらって、彼は「チャォ、チャォ!」と言って軽やかに去っていった。彼の磨いてくれた靴には愛着があり、今も毎日はいている。

 メルカードで、コーヒーを飲んでいた時、少年3人がフォルクローレの演奏をしに入ってきた。兄弟なのだろうか、年かさの少年が太鼓をたたき、真ん中の年令の子がサンポーナ(笛)を吹き、年下の子が帽子を持って、お金を集めていた。上手といえる演奏ではなかったのだが、「食べるための音楽」に感動している自分があった。店のママさんが「ブラボー」と声をかけ、顔見知りと思われるおじさんが小銭を帽子に入れていた。また、食事をした後、施しを求める人に残り物を分け与える光景も見かけた。ポトシの町でも、メルカードに入ったが、どちらの市場のなかにも、人々の<共存関係>が生きていると感じた。市場の中で、店を構える人、地べたで商いをする人、トイレの清掃をしてチップを取る人、施しを求める人たちが一つの場でつながりあい、支えあって生きている、そんな関係が印象的だった。

 帰国して、いつも見慣れた私の住む町の風景に違和感を持った。あまりにも町の人間関係が整序されている。大阪の近郊都市に住んでいるのだが、ボリビアで感じた共存関係はない。近年、ホームレスの人々が多くなったが、日中にはその存在感はない。見事に異質な人々が排除されているのが、日本の町の構造ではないだろうか。

旅の記憶

日系ボリビア人の今
ボリビア大縦断(4)
松岡勲(1998年8月) 

1998.8



 

 ボリビア旅行の最終地ラパスでガイドでついていただいたMさんとは夜を徹してのバス行で到着したチチカカ湖で会った。最初、日本語の流ちょうな彼を日本からの留学生かと思ったが、「日系1世」と聞いて、納得した。まるで月面世界と見まがう「月の谷」をバックにしたレストランで昼食を取りながら、彼に日系ボリビア人社会のさまざまな問題について聞いた。 

 彼は両親に伴われて、福岡県からボリビアのサンタクルスに7歳の時に移民し、年齢は30歳代に見えた。大学に通いながら、ガイドと日本語とスペイン語の翻訳で生計を立てている。

 サンタクルスには日系移民の居住地が2ヶ所あり、一つは「コロニア・サンファン」で九州出身者が多く、もう一つは「コロニア・オキナワ」で沖縄から移住してきた人々が居住する。彼はサンファンの出身で、両親は農場を経営しているとのことだった。帰国後、日系移民の歴史が気になり、読まずに長い間、置いたままだった上野英信著『出ニッポン記』(潮出版社、1977年発行)を本箱から取り出し、読んだ。炭坑離職者の南米移民の跡を追い、一人一人と会い、その歩みを書き綴ったこの本には胸つまる思いがした。サンファンとオキナワの居住地の歴史と1977年当時の様子について詳しく書かれていた。サンファンへの移住について、同書には次のように書かれている。 

「ボリヴィア移住促進組合が結成されたのは、西川移民団(注、ボリビアに最初に移住した私設の移民団)が入植して4カ月後の1955年12月である。その翌年の8月には日本・ボリヴィア両政府間に移住協定が締結され、ボリヴィア側は向う5年間に1千家族6千名の日本人移民を受け入れることになった。その第1次「計画移民」は25家族159名がさんとす丸で、日本を出発したのは、明けて57年の3月5日である。これを先陣として日本からの送出は1963年7月までの間、23次にわたってつづけられ、サンファン入植者は第0次の西川移民を加えると422家族1820名をかぞえた。当初の構想の1千家族6千名には遙かに及ばなかったことになるが、むしろこれは不幸中の幸いであったといえるかもしれない。なぜなら、それだけ棄民政策の犠牲者が少なくて済んだからである。」

 彼の家族の移住はこの移民の最後の頃だった。両親は「シィ」と「ノー」とのふたつのスペイン語しか知らない状態から出発し、現地の人を雇い、現在まで農場を大きくしてきたとのことだった。彼は大学で経営学を学び、農場を発展させていきたいと語った。

 彼に「現在、日本への出稼ぎ者が増えていると聞くが、若い世代の流出の問題はどうなのか。」と尋ねた。「青年層の日本への出稼ぎによる日系ボリビア人社会の崩壊現象がある。」とのことだった。

 ボリビアに出発する前に読んだ新聞記事には、不況下の日本で失業状態にあるブラジル人の救済の問題がブラジルの新聞で大きく取り上げられているとあった。また、ブラジルの日系人会に招聘された経験のある知人の新聞記者の話では、ブラジルでも若い人々の日本への流失が日系社会の崩壊を加速し、また、若い人がほとんど日本に行ってしまうので、日系新聞の維持がむずかしくなり、日本の若い人で記者になってくれる人を求めているとのことだった。南米の日系社会は同じ問題を抱えており、日本社会が南米の日系社会の崩壊現象に責任をもっていると思った。

 彼との話でもう一つ興味をもったことがある。それは言語の問題だ。彼は「私の場合、小学生になった頃に移住したので、基本言語は日本語になります。それとスペイン語との二重言語で育ってきました。」と言い、「ボリビア人のスペイン語と私のスペイン語はどうしても違うんです。」と悩みを語った。大学で論文を出したとき、「思考パターンが違う。」と指導教官に何度も指摘されたそうだ。

 「1世がサンファンの居住地で日本語を残そうとして、日本語教育に努力してきたことは正しいと思います。」と彼が言った後、「3世、4世には日本語は邪魔で、不必要だ。」という人たちも出てきているとのことだった。しかし、彼は「日本語の縦書きの発想とスペイン語の横書きの発想との両方を生かし、ボリビアで生きていきたい。」と語った。クレオール的状況を生きるとは、このような困難を生きぬくことであり、そのなかで、新たな可能性をつかむことなのだろうと思った。

 帰国後、北米の日系社会の人々の生き様を追い続けるAさんからEメールをいただいた。

「松岡さん、お久しぶりです。返事が遅れてすいません。ぼくは先日サンフランシスコから帰ってきたばかりなので、ブラジルに行って、記者にでもなれたらどんなに素敵だろう!と思ってはいますが、残念ながらぼくはポルトガル語はまったく分かりません。ぼくが翻訳しているのは、北米日系移民の史料なので、使用する言語は英語なんですね。日系新聞維持の困難はサンフランシスコでも同じでした。2世、3世、4世と世代を経るにしたがって、日本語世界はどんどん消滅して行くのです。こうした若い日系人たちは、日本語を必要と思わないし、実際生きて行く上で必要ないし、日本語世界にたいして全くリアリティーを感じていないんですね。それを否定的にとるか肯定的にとるか、価値判断はとりあえず脇においといたとしても、1世と2世以降の人々のあいだにはある断絶があるのはまちがいないと思います。それは、言語であり、共同性であり、歴史であり、もっと個人的な感情や情念のようなものなのかもしれません。こうしたことは、ディアスポラに生きる人々にとっての宿命のようなものであり、かれらは決定的な喪失を抱えたまま生きざる得ない。あるいは、「喪失」したものを回復するために、時に彼らは権力やヘゲモニーや制度やマジョリティなどと二項対立的に戦う必要もある。たとえ、「喪失の回復」というものが幻想にすぎないとしても。こうしたことをあっさりやり過ごして、クレオールだとか、ディアスポラ礼賛をぼくはしたくないですね。」

 2週間のボリビアの旅から帰国して、ラテンアメリカをもう一度訪れる時には、日系社会のディアスポラ的・クレオール的状況での人々の生き様と文化を追い求め、サンパウロ~サンタクルス、そしてペルーへの道をたどりたい思っている。   
(99・1・5) 

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