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戦死の父、合祀への違和感(松岡勲)

*出典 「京都新聞」(2025年8月3日)


 

 

巡り糸 戦後80年
第4部「絡まる」③英霊のかたち

戦没者遺族としての思いを語る松岡熱さん。父の建てた家は太いはりが特長で、母の自慢でもあった(大阪府茨木市)=撮影・佐伯友章

 今から80年前に中国湖北省で戦死した父の兵籍薄の写しを指でなぞる。「占領地粛清戦に参加」。現地住民の抵抗を力で封じた記録でもある。松岡勲さん(81)=大阪府茨木市=は「父は国の犠牲者だが、侵略者の側にいたことも間違いない」と話す。
 1944年3月、松岡さんが生まれた日に大工の父徳一さんは徴兵され、遺骨すら戻ってきていない。
 松岡さんは高校生の時、自宅で母の春枝さんに、ふと思ったことを口にした。「戦争やからお父ちゃんも人を殺してるはず」
 春枝さんは裁縫の手を止め、「そんなはずない。虫も殺さん優しい人や」と強い口調でたしなめ、会話を打ち切った。母の真っ青な表情に驚き、その後、「父と戦争」について尋ねることができなくなった。

 それから半世紀を経た2007年、春枝さんが他界した。遺品から徳一さんの最期を上官が書きとめた現認証明書と、靖国神社からの合祀通知が出てきた。現認証明書には、「熾烈なる敵火の射撃を受け壮烈なる戦死」とつづられていた。
 松岡さんの脳裏に、毎年8月15日、全国戦没者追式のテレビ中継をじっと見ていた春枝さんの後ろ姿が浮かんだ。「わずか4年の結婚生活。父の最期を想像して苦しんだだろう」
 合祀された日は、母との分断が生じる2年前。母の沈黙の理由や合祀への思いは想像するしかないが、母が何度も靖国神社に参拝していたことも分かった。
 戦前は国営だった靖国神社には明治維新前後の殉難者から太平洋戦争の戦没者まで約246万柱が祭られている。戦後、国が戦没者名簿を遺族に無断で提供した。「合祀を喜ぶ遺族を否定はしない。私はただ、加害の側に立つので英霊とされることに違和感がある」。松岡さんは靖国神社に合祀取り消しを求める訴訟の原告に加わった。
 裁判の最中、ショックを受けた出来事がある。自身が中学3年の時、大阪府と府遺族会の事業で、靖国神社へ遺児参拝した際に書いた感想文が見つかり、合祀を喜ぶ姿が記録されていたのだ。
 「お国のために亡くなった英霊」という宮司の発言に感銘を受け、「父は立派な死に方をしたんだなあと思った。父の名は後の世まで残る」とあった。
 父不在の寂しい心に、国に殉じるのは尊いとの教えが染み込んだのか。「記憶にないが参拝直後の率直な思いだろう。上から目線の嫌な少年だ」と思った。同時に、もし参拝時に戦争中であれば、自分も迷わず銃を持ち英霊の後に続いたはずだと怖くなった。

 遺児参拝の実態に迫ろうと、京都や宇治、舞鶴市など京都府内を含む各地の行政文書や遺族会の記念誌を読み解き、本にまとめた。
 裁判では、合祀は神社の自主的な判断で、松岡さんの法的利益を侵害したとは認められないとして敗訴した。だが、その後も毎年靖国神社を訪れ、合祀取り消しを求めている。今年10月で13回目を数える。
 「遺児としての意地かな」。徳一さんの顔は写真でしか知らないが、父が建てた自宅で育ち、その存在は身近だった。父が作った松の木の椅子はずっしりと重く、今も現役だ。「家で個人的に悼みたい。父を返してほしい」


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