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子どもたちの靖国
戦後も「少国民」にされた戦争遺児たち

 ・出典 翰林大学校日本学研究所「翰林日本学」(第37輯、2020年12月)


 

 

松岡 勲

はじめに 私と靖国

 2019年9月、私は、はじめての著書『靖国を問う 靖国集団参拝と強制合祀』(航思社)を出版した。出版して、あらためて私と靖国の関係をとらえ返すことができた。
 私の父は2度目の召集で1945年1月に中国湖北省鄂城県梁湖島で戦死した。35歳だった。父は、私が生まれた日の未明、大阪港から出航した。父が戦死した時、母は28歳だった。父の死後、母は生涯再婚せず、私を育ててくれた。
 私は、高校1年の時、「うちのお父ちゃん、戦争に行ってるんやから、向こうで(中国で)人、殺しているはずや」と母に問いかけた。母は私の問いを「うちのお父ちゃんは、虫も殺さんええ人やったから、絶対そんなことあらへん」と撥ね返した。その後、私は二度とこの問いかけを母に向けることができなかった。それはなぜだったのか。
 高校3年時の日記に私は次のように書いている。
「私の父は戦死した。こんどの戦争で多くの人が死んだであろう。死ぬ人があるなら、殺す人もあるはずである。今の世の中は、ある程度平和で、その中には戦場に行って人を殺して来た人もあるはず。そして、その人達の心の中に、どんな戦争の結果による心理(苦痛)が動いているのか、知りたい。」
 思い返してみると、私は子どもの頃から父を殺したのは「軍隊(最初はアメリカ軍、その後に日本軍)と天皇」と思っていた。父の戦死という原体験からくる戦争・軍隊嫌いと、父を殺した天皇が嫌いという思いが強くあった。私が中学3年の時に行われた天皇の行幸の時、国道171号線にお迎えのため並ばされた時の冷笑的な気分。高校1年生の時に行われた皇太子の成婚パレードに、少年が投石した事件があった。そのテレビ中継を見て「やった!」と心の中で叫んだ記憶が今もはっきりとある。
 同時に、父の戦死について、私の中に「父は殺す側にいた」という認識が育っていった。母と再度その話ができなかったことに後悔が残る。靖国には国家と戦争とに結びついた歴史があり、そのことに触れることは避けられてきた。これまでそういった質問をされた時、「靖国問題を避けてきたから」と私自身も答えてきたし、質問者もそう理解してきた。あらためて今考えると靖国問題を避けてきたからではなかったと思う。父が殺す側にいたこと(加害者としての認識)を母と息子とが共有し、対話するのは大変むずかしかった。まだ、この時点では靖国問題は私の視野に入っていなかったと思う。
 それでは靖国問題は、当時の私にとってどうだったのか。私が中学3年時に書いた靖国神社遺児参拝文集『靖国の父を訪ねて(第12集)』(以下、『靖国文集』と言う。)で、「私はなんとなく父は立派な死に方をしたんだなあと思った。」と書いている。1)
それは大人が求める答えを想定した優等生の文章ではなかったのか。それ以上の靖国神社に関する認識はこの時は持っていなかったと思う。
 私は一度靖国合祀取消訴訟に参加しようとしたが、実際参加したのは母の死後であり、母の遺品から靖国神社の「合祀通知」を見つけてからだった。
 2004年暮れに母は悪性リンパ腫を発病し、私の介護生活が始まった。私が靖国神社合祀訴取消訴訟の計画を知ったのは母の発病の翌年だった。2005年9月30日に大阪高等裁判所は小泉首相の靖国神社参拝に違憲判断を下した。(原告のうち台湾人が圧倒的多数だったので「台湾訴訟」と言う)2)その後、同年12月に私はその判決の画期的意味と合祀取消裁判の計画があることを講演会で知った。靖国神社から父を取り返す「合祀取消」という発想があるとはそれまで考えもしなかった。続けて翌年2006年2月に台湾訴訟の中島光孝弁護士さんの講演で、大阪高裁判決の詳しい内容を聞いた。「合祀取消訴訟に参加したい」という気持ちが強まった。この時はじめて靖国問題に本気で取り組もうと思った。2007年3月の母の死によって一度は訴訟参加を断念したが、母の遺品のなかから合祀通知を見つけ、「こんな紙一枚が父を神にしたのか」とほんとうに腹立たしく思った。そして訴訟参加を決断した。
 靖国合祀取消訴訟は2006年8月11日大阪地方裁判所に提訴され、私は1年遅れで翌年2007年8月7日に訴訟に合流した。3)
 このように合祀取消訴訟に参加したことで、靖国問題が私の大きなテーマになり、問題への関心が深まった。また訴訟の大阪高裁結審の直前に中学3年時の『靖国文集』を再発見し、さらに認識が深化した。靖国神社合祀取消訴訟、その後に参加した安倍首相靖国参拝違憲訴訟4)の存在が私の中でいかに大きかったか、今あらためて思う。


(1)大阪府遺族会編『靖国の父を訪ねて(第12集)』(大阪府遺族会、1959、283頁)
(2)2001年8月13日の小泉純一郎首相の靖国神社公式参拝に関して全国的に進められた違憲訴訟のうちの台湾人原告中心の訴訟。2005年9月30日の大阪高裁判決は首相の参拝について理由中で違憲判断を下した(損害賠償請求は棄却)。双方が上告しなかっため、大阪高裁の違憲判断は最高裁の審査を受けることなく、確定した。
(3)2006年8月14日に8人の戦没者遺族が、全国で初めて、靖国神社に合祀取消(霊璽簿からの戦没者の氏名等抹消)と、合祀に協力した国に損害賠償をもとめて大阪地方裁判所に提訴した。訴訟では、遺族の承諾なしになされた戦没者合祀によって遺族が長い間精神的苦痛を感じており、それは遺族の信教の自由・思想信条の自由や、人格権の侵害であることを指摘し、かつそのような合祀が可能になった背景には国の組織的、全面的協力があった事実を明らかにした。しかし、2009年2月26日、同裁判所で敗訴し、控訴審の大阪高等裁判所でも2010年12月21日敗訴、原告らは上告したが2011年11月30日、最高裁で上告棄却となった。他に沖縄県人中心の沖縄合祀取消訴訟、韓国人で靖国合祀された韓国人訴訟がある。
(4) 2013年12月26日に行われた安倍晋三首相の靖国神社参拝(内閣総理大臣と記帳)に対して、戦没者遺族ら765人が安倍晋三、国、靖国神社の3者を相手取り、今後の参拝受け入れの差し止めと、損害賠償(慰謝料)を請求する訴訟を大阪地方裁判所に起こした。同訴訟は宗教法人靖国神社が被告とされた初めての訴訟である。しかし、2016年1月28日、原告らの訴える内心の利益の侵害は不快感の域を出るものではなく、法的保護に値しないとの理由で憲法判断されず同裁判所で敗訴し、控訴審の大阪高等裁判所でも2017年2月28日敗訴、原告らは上告したが2017年12月20日、最高裁で上告棄却となった。


第1章 1950年代の靖国神社遺児参拝



靖国文集の再発見

 2011年11月30日、最高裁は靖国合祀取消訴訟の上告を棄却し、大阪高裁での不当判決を確定させた。私は最高裁の上告棄却に強い怒りを覚え、霊爾簿から父の名前を抹消してほしいというごく当たり前の要求がなぜ認められなかったのかと思った。
 高裁結審の直前の2010年6月に、本棚の底に埋もれていた中学校3年生時(1958年)の『靖国文集』(第12集)を再発見した1)。そこには私の作文「もう一度行こう靖国へ」が収録されている。その中で私は、靖国神社本殿での宮司の言葉を記録している。「この靖国神社は、お国のためになくなられたあなた方のお父さんや、お兄さんの英霊がお祀りしてあります。此国がある限り、あなた方のお父さんの名は後々まで残るでありましょう。今日も大きくなられた人々が“お父さん、こんなに大きくなりました。”と報告に来られています。皆さんも、もう一度やって来て下さい。」と。さらに「父の名は後の世まで、この本殿とともに残るではないか。」と私は続けていた。「これが当時の私の認識だったのか?」と愕然とした。戦死した父の「死の意味づけ」を求める子の気持ちをこのように戦後も靖国神社は利用し続けてきたのだと思った。戦死した父や兄を「英霊」として祀られ、その死の意味づけを遺児たちは教えられ、もし戦争となれば、遺児たちもまた次の戦争に動員される。そういった「靖国」の役割を靖国文集に強く感じた。当時の私は戦後版の「少国民」だった。『靖国文集』の再発見をきっかけに、国や自治体、遺族会が戦死者への意味づけを遺児たちにどのように与えようとしたのかを知るために、私は1950年代の靖国神社遺児参拝の実像を調べた。

大阪府の遺児参拝

 大阪府の遺児参拝を調べるために、大阪府公文書館、大阪府立図書館(中央、中之島)・大阪市立図書館・岸和田市立図書館等の図書館及び遊就館靖国偕行文庫を訪れた。大阪府公文書館で見つかった公文書は学事課関係の「戦没者遺児靖国参拝について」だ。それによると1952年に「(サンフランシスコ)講和(条約)発効記念事業の一つとして」遺児参拝が始まっていた。文書は1952年、1955年、1956年のみしかなかった2)。その後、国立公文書館で遺児参拝への国の関与についての公文書を調べたが、文書は見つからなかった。
 この文書と各図書館に分散している靖国文集、遺児参拝を報道した当時の新聞記事、大阪府公文書館所蔵の知事室広報課撮影の写真等を総合すると、遺児参拝はこの後1959年の第14回まで続いた。1957年までは春秋年2回の参拝が行われ、私の参加した第13回の遺児参拝が1958年夏の1回で、1958年から年1回に変わっている。
 1957年までの春秋2回の参拝の参加人数の合計は、初年度の約540名から始まり、1957年には1000名強に増大、年1回の参拝になった1958年には1度に1000名近くも参加していた。私の場合、父の靖国神社合祀が1957年で、遺児参拝は1958年だった。<「靖国神社遺児参拝表(大阪)」参照3)>
 所要経費の負担は、初年度の場合、「一人宛参拝諸経費の補助として二千円(その範囲において実施する)」「全額府において負担」となっている。地方公務員の当時の月額初任給は6500円なので4)、大変大きな予算規模だったと思われる。なお、これと別に1953年7月から戦没者遺族の靖国参拝のために国鉄(現JR)乗車券の5割引の制度が始まっていた。割引分の運賃は国で負担した。(「遺族の靖国神社参拝時の運賃割引の決定について」5)1953年)
 実施要領は「(遺族)連盟の委託事業として運営に関しては連盟に委嘱する」となっている。また、参拝する遺児は「靖国神社合祀済者の遺児に限る」「各支部長の推選するものとする」となっており、期間中は「修学旅行に準じた取扱いをする」(大阪教育長通知)とし、出席扱いであった。また遺児参拝は大阪府遺族連盟(後の大阪府遺族会)への委託事業だったが、大阪府民生部世話課が実務を担当した。

当時の新聞報道

 当時、遺児参拝がどのように報道されたかを調べた。当時の新聞(大阪版)が保存されているのは、大阪府立中之島図書館に「朝日新聞」「毎日新聞」(どちらもマイクロフィルム)、「大阪日日新聞」(本紙)、大阪府立中央図書館に「産経新聞」(マイクロフィルム)、大阪市立図書館に(「朝日新聞」「毎日新聞」「産経新聞」の他に)「読売新聞」(マイクロフィルム)があった。検索結果、次のような記事があった。(新聞記事本文は引用しないので、脚注は付さない。)

<靖国神社遺児参拝(大阪)新聞記事>
(朝日新聞)「きょう上京 遺児代表」1953年5月10日(遺児参拝初年度)
      「遺児代表東上」1952年5月11日
      「〝元気で行ってきます〟 喜びにみち靖国の遺児上京」1952年10月      26日
(毎日新聞)「知事さんらに送られて 靖国参拝の遺児たち出発」1952年5月11日
      「けさ会える 靖国の父 遺児289名上京」1952年10月26日
      「胸に亡き父の写真 靖国遺児289名参拝」1952年10月27日
      「遺児500名上京 靖国神社参拝へ」1954年11月7日
(産経新聞)「靖国の対面へ遺児250名 知事見送り 府の独立記念行事」1952年      5月11日
「〝靖国の遺児〟出発」1952年10月26日
      「遺児500人が靖国神社参拝」1957年11月2日
(読売新聞)「きょう出発 靖国神社参拝府下遺児代表」1953年5月4日
      「〝靖国の父〟と対面に 500名の遺児出発」1955年6月8日
      「靖国の遺児ら上京」1956年11月7日
(大阪日日新聞)
     「激励受けて出発 靖国の遺児らけさ上京」1953年5月5日

 新聞検索して分かったことだが、1952年の5月と10月の報道は、遺児参拝の初年度であり、各紙とも取り上げていたが、それ以降の報道は少なくなっている。日本遺族会が靖国神社の国家護持法案に精力的に取り組むのは、1969年になってからのことだが、日本国憲法施行からそう遠くない時期にも関わらず、遺児参拝を「政教分離原則違反」であるとした報道が全く見当たらない。

遺児参拝の写真

 知事室広報課撮影の遺児参拝の写真が大阪府公文書館に所蔵されていた。以下はそのリストである6)。

靖国の遺児上京壮行会 1956年6月16日
大阪遺児靖国参拝   1957年11月5日
靖国の遺児上京壮行会 1958年
靖国の遺児上京出発  1958年
靖国の遺児上京壮行会 1959年7月2日

 そのうち私が参加した1958年の写真には、天王寺公園での壮行会、大阪駅での見送り等があった。また、文集には私のアルバムにも残っている靖国神社前の集合写真が載っている。当時、天王寺公園の大阪市立美術館南での出発前の集会は立錐の余地がなかったことを覚えている。写真リスト中の1959年のものが、最終の参拝かどうかの確認はできないが、公文書・新聞記事・文集もふくめて検証できた一番最後の参拝である。

靖国文集『靖国の父を訪ねて』

 1950年代の遺児参拝の記録はいずれの県も靖国文集として残っている。そのうち確認出来たものは、北海道、岩手県、福島県、茨城県、富山県、大阪府、広島県、鳥取県、島根県、長崎県である。どの文集も『靖国の父を訪ねて』という同一のタイトルであり、全国的に同一歩調で遺児参拝が行われたことが分かる。(富山県の文集のみ『のびゆく遺児たち』のタイトルである。)遺児参拝は1952年に始まり、一九五九年に一巡して終わっている。<「靖国文集表」参照7)>
 1950年代はひとつ間違えば、日本は他国との戦争へと向かうかもしれない戦争の危機の時代だった。そうなっていれば、戦争遺児たちは再び銃を持たされ、戦争へ動員されていただろう。
 大阪府の『靖国文集』は、第1回目の1952年春の参拝については作成されていないが、同年秋の参拝から文集が作成されている。これが『第1集』になり、この号には集番号はついていない。現在、公文書館、図書館、資料館等で確認できる文集は、『第1集』(1952年秋実施)、『第2集』(1953年春実施)、『第3集』(1953年秋実施)、『第5集』(1954年秋実施)、『第6集』(1955年春実施)、『第8集』(1956年秋実施)、『第10集』(1957年春実施)、『第12集』(1958年実施)である。最後の年となったと推測される1959年は文集が作成されたかどうか不明である。
 私が参加した1958年の第13回参拝を記録した『第12集』は、参加者975人のうち825人が感想文を書いている。行きも帰りも夜行列車の3泊4日の旅で、靖国神社参拝は2日目の朝、旅館で少し休憩をして、午前8時に靖国神社の境内に入り、遺児たちは靖国神社の深閑とした雰囲気に飲みこまれる。そして、本殿に昇殿して、祝詞の声が響き、玉串を捧げる神事が続く。神官が「さあ、あなた方たちのお父様と無言の対面です。心おきなく存分にお話しください。」と遺児達を促し、柏手が打ち鳴らされる。遺児たちの感想文を読むと、本殿の大鏡を覗くと、「お父様の顔が映っているようで」「知らぬ父の顔が現れて来たような気がした。」等の表現が散見される。そして「まえがき」で書いた宮司の話が続く。父のいない悲しさと寂しさをずっと抱えこんできた子たちは、戦死した父の死の意味づけを、このようにして聞かされていた。
 一方、靖国文集には、戦争の記憶が鮮明だった時代を反映し、母が再婚して祖父母に育てられている子ども、今はちがう父と暮らしている子ども、満州で父が戦死した子ども、フィリピンのレイテ島で父が戦死した子どもたち等、彼らの戦後の生活が写し取られている。「せめて一日でもいいから帰って来てほしい。」「ひょっこり帰って下さればどんなに嬉しい事だろうと思う。」と想いがつづられている。一方で「靖国神社では、ほんとうに父を祀っているところではなく、父の名前を祀っているところだと思う。」という冷静な子どもの眼差し、そして、後で述べる遺児参拝を痛烈に批判した大阪市内の女子生徒の文章まで掲載されている。1950年代は非戦の社会意識がまだ強く存在し、その時代相を反映した自由が存在していたのかも知れない。
 都道府県で遺児集団参拝が進められている中、市町村レベルでも遺児参拝が取り組まれた。その例として京都市の遺児参拝、宇治市・舞鶴市等四市連合の遺児参拝をあげることができる。8)この場合は小学6年生が対象で、戦前の遺児参拝の形が戦後も踏襲されたと思われる。それは恩賜財団軍人援護会が1939年から1943年まで毎年1回、全国の都道府県・海外植民地の戦没者遺児の靖国神社参拝を実施したもので、総計18万人が集められた。軍人援護会は1938年10月に皇室の下賜金によって作られた軍人援護の組織で、戦没者の遺族,傷痍軍人ならびに出動軍人の家族等に対する物心両面にわたる援護を行った。植民地は台湾、朝鮮、満州、関東州、樺太等である。1943年3月の第5回参拝には、全国各地から4859名の遺児が参加した。1944年からは戦局の悪化と米軍の空襲の激化で参拝事業は中止され、各都道府県の護国神社参拝に変わった9)。旅費は軍人援護会がすべて負担し、各都道府県の軍人援護会は児童の参拝の感想文集『社頭の感激』(全県同名のタイトル)を発行し、現在も文集が多く残っている。

国家の嘘を見破った少女

 分厚い遺児参拝文集『靖国文集(第12集)』を読み進めるうちに一人の少女の作文を見つけた。それは河上孝子(かわかみ たかこ)さんの作文だった10)。
 彼女は、同参拝前日、区役所での区長激励の辞に対して、根源的な批判を書いている。
「犠牲は美しい行為である。しかしそこに意志が仂いて初めて美しいと言えるのであって、犠牲の気持ち無くして死んでいった者に、結果からみて犠牲の名で呼ぶのはかえって侮辱になりはしないか。父は召集令状、赤紙一枚によって操り人形と化され、別れたくもない親、妻子、知人との別離を命ぜられ、且つ犠牲の美名のもとに死をも命ぜられたのだ。私は靖国参拝を喜ばしい事とも、目出たい事とも思わぬ。こうした日を与えられた私を不幸と悲しむ。」
 また、参拝当日の靖国神社本殿での神主の話に対しても、決して動揺することなく、父の死が英霊として意味づけられることを彼女は拒絶している。
「『もう沢山』と叫びたいのを押えながら、すすり泣きの聞える中を、私は終わりまで神主さんの顔を凝視してやめなかった。『寒い凍れるような雪の中、夏は太陽の下で国の為に雄々しく戦い死んでいかれたあなた方のお父さま』。何と白々しい意志を持たぬ言葉だ。この飾りたてられた言葉が、幾千人の遺族に向って語られたことか。おそらく神主さんの頭の中にその文章は暗記され、明確に覚えこまれていることと思う。明日も明後日も、遺族に向かって語られるだろう。私はそんな安っぽい話なぞ聞きたくはない。私にとって父の死は、もっともっと厳粛な、そして寂しさと恐しさを持って存在するのだ。私の体の二分の一は父によって形造られたのだ。神主さんの話にすすり上げた人達は、話の何処に心ひかれたのか、私には理解し難い。本殿を下りながら、初めて私は悲しい気持ちになったのだ。このような反問の連続と、もろもろの感情を私に与えて靖国神社参拝は終わった。」

 この文章を読んだとき、60年余も前に中学校3年生でこれだけの文章を書いた人がいたことに何よりも驚いた。この靖国文集に825人が感想文を書いているが、彼女の文章は飛び抜けて鋭い視点で書かれている。当時の同世代の私たちと違い、彼女はどうしてこのような文章が書けたのだろうか。当時の彼女の思いはどのようなものだったのだろうか。どのような家族と暮らしていたのだろうか。その後、彼女はどのような人生を歩んで来たのだろうか。その後、彼女を探したが、彼女は20歳代後半で亡くなっており、弟さんがいらっしゃることが分かった。弟さんにお会いして、彼女のことをもっと聞きたかったが、弟さんは転居されており、見つらないままだった。

<追記>
 「国家の嘘を見破った少女」で述べた河上孝子さんについては、田中伸尚著『いま、「靖国」を問う意味』11)の中で、実名で触れられている。この田中さんの本が出た後、田中さんのもとに親族から連絡はなく、また私も河上孝子さんの同窓生に所在を問い合わせたが、親族に連絡が取れなかった。そのため親族の了解なしで記名表記する。
 

(1)前掲『第12集』283頁
(2)「戦没者遺児の靖国神社参拝について」(学事課、1952、1951、1955)
(3)<靖国神社遺児参拝表(大阪)>参照
(4)週刊朝日編『値段史年表 明治・大正・昭和』(朝日新聞社、1988、67頁)
(5)「遺族の靖国神社参拝の運賃割引に決定について」(衆議院運輸委員会、195 3年7月10日)
(6)「遺児の靖国神社参拝 写真フィルム(モノクロネガ)」(知事室広報課、1956,1957、1958,1959)
(7)「靖国文集表」を参照。
(8)松岡勲著『靖国を問う 遺児集団参拝と集団合祀』(航思社、20019、33頁以下)
(9))斉藤利彦著『「誉れの子」と戦争 愛国プロパガンダと子どもたち』(大月書店、2019、86頁以下)
(10)前掲『第12集』81頁以下
(11)田中伸尚著『いま、「靖国」を問う意味』(岩波書店、2015、76頁以下)

第2章 大阪府の「靖国文集」を読む



 『靖国文集』(大阪府)を読み終わった。
 これまで『靖国文集』を何度も読もうとしたが挫折した。参拝した中学3年生当時の私の作文に強い抵抗感があったからだし、靖国神社は戦死した父や兄たちを国のため命を捧げた「英霊」として讃え、その刷り込みによって書かされたとしか言えない子どもたちの文章をなかなか読み切ることができなかったからだ。今回ようやく読み切れた。私の『靖国文集』に対する姿勢を「当時この文章を書いた子どもたちと私は同じところにいたのだ」と発想を変えることにより、読み切ることができた。
 以下、『靖国文集』を父や兄の戦死と戦後の母や兄妹との生活、貧しさと寂しさと哀しさを抱えて育った子どもたちの様子を述べていきたい。
 大阪の『靖国文集』は、『第1集』から『第9集』までは大阪府遺族連盟、『第10集』からは大阪府遺族会発行。『第12集』まで発行が確認できる。

父や兄たちの広大な戦場

 遺児たちの父や兄は太平洋戦争中にアジアの広大な戦場で戦死した。その60%強は病死者、戦時栄養失調症による広い意味での餓死者だった。(藤原彰著『餓死した英霊たち』青木書店1))大阪府の空襲死者数を含む戦没者数は約12万7000人とのことだが(大阪府福祉部社会援護課、「戦後71年大阪戦没者追悼式の開催について」2))、これから空襲死者数約1万3000人(広田純「太平洋戦争におけるわが国の戦争被害」立教経済学研究、第45巻第4号3))を引くと、大阪府の軍人・軍属の戦没者は約11万4000人になる。多くの死者たちを背景にして、子どもたちの戦後の生活があった。
 子どもたちの父や兄たちが亡くなったアジア各地の戦場を『靖国文集』から取り出してみる。満州・中国・朝鮮・ソ連・フィリピン・マニラ・レイテ島・ルソン島・マリアナ諸島・トラック島・ラバウル・サイパン島・ニューギニア・フランス領インドシナ・ビルマ(ミャンマー)、それに沖縄、広島の被爆死等と続く。戦地に向かう輸送船が米軍機に襲撃され、父が戦死した様子なども文集に書かれている。

母子たちの戦後

 『靖国文集』の前半の巻では父の記憶が鮮明だ。父と別れた記憶は、集団疎開や空襲の記憶、沖縄・広島の記憶などとつながっている。
●「僕がまだ幼い五才の時ですからお顔はよく覚えていませんが、母が亡くなりその上父に召集が来て戦地へたたれたきり一度も帰れず、僕はおばあちゃんや、おじいちゃんおばさんの所で、従兄達と一緒に何不自由なく大きくなりましたが、お父さんの帰かんの日をどんなに待ったでしょう。しかし戦地から届いたハガキに「隆ちゃん元気ですか、お父さんも元気で、しっかり勉強しています。おばあさんの肩をたたいてらくをさせて上げて下さい。」と書いてあったのが最後の手紙で僕へのかたみになりました。」(『第1集』大阪市生野区、男子)4)
●「七歳の時満州で別れ別れになってしまったなつかしい父、雪の満州牡丹江の駅でさようならしたやさしかった父、汽車の窓から手を差し入れて頭をなでてくれた父の手、思い出はつぎつぎとつきない。何かしらふっと胸が一杯になって来た。涙でうるむ目で前を見ると大きな(*靖国神社の)本殿がどっしりとすわっている。」(『第1集』枚方市、男子)4)
●「最後の面会から二三日経ってから父が乗っていた輸送船が(*南方で)米軍機によって沈められて戦死した知らせが来た時、僕は悲しかった。」(『第2集』貝塚市、男子)5)
●「思えば十年前戦争のため戦地に出征なされた父でした。出発するとき、僕の頭をあたたかい愛情のこもった手でそつとなでられて去っていかれました。」(『第5集』大阪市阿倍野区、男子)7)
●「飢えて食なく、呑む水なく、汗と油に染まり、悪戦苦闘し、あたら沖縄の土にと化した父を思う。」(『第6集』第大阪市東区、男子)8)
●「私の父は昭和十八年七月の召集で満州に入隊いたしました。それから昭和二十年一月にあの恐ろしいかった沖縄に送られたのです。そして二十年六月に戦死いたしました。その時私は二歳でした。」(『第9集』豊能郡東能勢村、男子)9)
●「アメリカがそんな卑怯なもの(*原子爆弾)を落としてくれてなかったら、父は助かったかもしれない。それというのも私の父は広島の原子爆弾で亡くなったからである。そんなことを思いながら参拝した。」(『第12集』大阪市天王寺区、女子)11)

 『靖国文集』の後半の巻になると、子どもたちは父の記憶や思い出はなく、生前の父に顔も見てもらったこともない。私の場合もそうだった。
●「私が誕生した時父はすでに戦場へ行っており、その年に死亡したので、私は父の顔を知らない、もちろん思い出もない。幼い頃の私には、友達が父と歩いている姿を見ていじらしく目につき、うらやましく思った事も幾度かあった。戦争で父を失った私は、戦争の事聞きたくない。母もきっと太平洋戦争の事は云いたくないだろう。なぜならば私がもの心ついてから今日まで、母は私に戦争の事を何も話さない。そして父の事ですら口に出さない。」(『第10集』大阪市西淀川区、女子)10)
●「ぼくには父、母、おじいちゃんがいない。しかしおばあちゃんがいるからいい。ただ父のある友達がうらやましい。(中略)もし戦争がなければ、無言の父ではないし、母もいるだろう。父、母がほしい。しかし今はおばちゃんに育ててもらっているが、昨年まではおじいちゃんがいたが、きょうしんしょうで亡くなった。ぼくは今におばあちゃんを楽にしてあげ、父より偉い人になるのだと決心した。」(『第12集』大阪市西区、男子)11)

 そして戦後の母子の生活は食べることにこと欠く苦しい生活であり、悲惨な家族や家庭の実態が分かる。
●「戦争のため長年住みなれた家を焼き出され、当時小さかった姉弟四人を育てるのに人一倍苦労をした母までこの二年前に永久に帰らぬ人となりました。あとに残された私達にはあまりにも残酷な運命の巡り合わせでした。父さえ無事に帰ってくれたら、戦争さえなかったら、こんなにまでならなかったかもしれないと思うと残念でしかたありません。」(『第1集』大阪市西成区、男子)4)
●「母は昭和二十六年六月二十九日、父の帰りを待ちこがれ、その間の疲労と苦労の為に長い病床につき、この日私達三人を残して病死しました。祖母も我が子の帰りを待ちこがれ、いく日泣いて暮らした事か。我が子の戦死を聞いた時どんなにびっくりした事か。その為に祖母はあまりの驚きに元気な体も一度に弱った事であった。こんな思いをした祖母は老衰の為この年の八月二十四日に死んでしまった。父も母も祖母もない私達兄弟三人が立派に成長する事を父にもう一度誓った。」(『第5集』大阪市阿倍野区、女子)7)

遺児集団参拝はこのように行われた

 夜行列車で東京に着いた子どもたちは宿舎に荷物を置いた後、早朝の深閑とした靖国神社に招き寄せられる。竹樋から落ちる冷水に手を清め、拝殿に進み本殿に向かって安座、お祓いを受ける。この時、本殿で神官が祝詞奏上する。男子から昇殿参拝(女子はこの後男子が終わってから昇殿参拝)する。二拝二拍手一拝の後、神官は「前に見える鏡の奥にお扉があり、その奥にさらに小さな御殿があって、その中に二百五十万柱のみ霊が奉安されています。」と言う。(『第10集』)このように神々しい雰囲気が形づくられたなかで「父との対面」が演出される。さらに子どもたちの正面に置かれた大鏡に父親の顔が見えると誘導される。

 以下、『靖国文集』からその様子を見ていく。
●「大きな鏡の前に私達一同は座った。此の鏡の中にお父さんが居る。私はじっと鏡をみつめていた。「お父さん」と、小さくよんだ。目頭があつくなってきた。あつい涙がほほをつたった。鏡がくもって見えなくなった。」(『第5集』大阪市東住吉区、女子)7)
●「私も顔さえしらない父の霊に心の中で「お父さん!」と叫びながら足の痛いのも忘れ一生懸命祈った。ああ父はあのみにくい戦争の犠牲になった。しかし父は国の為に尽くし、国の為に立派に死んでいった。当時はそれは正しい立派なことであった。そして父もそれを正しい立派な事と信じて立派にこの世を去った。私はその立派な父の子である。誰にもひけをとる事はない。いやそれどころではなく国家の為に尽くした立派な父を持つ事を誇りとし、その父の子としてはずかしくない行いをしなければならない。」(『第1集』岸和田市、女子)4)
●「母の話に依ると僕の五歳の時、父は戦争に行かれたそうだ。その時僕はこんなことを言ったらしい。「お父さん、戦争に行ったら鉄砲の玉があたって、死んでしもてや、死んじゃったかてかめへん、神さんになってやもの」と。」(『第1集』豊能郡、男子)4)
 戦後も遺児参拝は子どもたちを戦死した父に続けと鼓舞する作用が働き、子どもたちをその方向にすり込もうとしたのだと言える。

 一方、「お父さんの姿は見えず、声も聞こえなかった。」という正直な作文もあり、ほっとさせられるとともに、子どもたちの悲しみと切なさを感じる
●「その時ふと父があんな所におられるのだろうか。開けてあいたい。どんな姿であろう、顔も見たい、幼い頃のようにだっこしてもらいたいと思ったが、今はもう何もしてくれい父の姿。お父さんお父さんと言ったってだまっている。そんな事を考えていると涙がこらえられなく、なんであんな戦争をしたの、お父さんをもとの姿で返してと大きい声で云いたくなるほど、悲しくなる。」(『第10集』岸和田市、女子)10)

静かであるが、湧き上がる子どもたちの怒り

 以上見てきたように靖国神社集団参拝を進めた行政や遺族会のねらいは『靖国文集』全体に貫徹しており、遺児参拝が当時全国的に展開された歴史的意味がよく現れている。にもかかわらず、『靖国文集』のなかには父を亡くした寂しさや哀しさ、そして家族をそのよう境涯に追いこんだ戦争と政治権力に対する静かであるが、ふつふつと湧き上がる子どもたちの「怒り」が見られる。そのような声に聞き耳を立てて、書きぬいてみる。
●「私は皆んながどんなに成長しても父親の愛情欠乏症は簡単に治らないと云う事を痛切に感じた。そして又自分自身に付いて振り返って見た。小さい時は父親に手を引かれて甘えながら道を往く私と同じ年頃の幸福そうな人々が大変うらやましかった。そして又十六才に成った今でさえも時々その幸福そうな親子を立ち止まって見る。戦争さえなかったら不幸にして病気で死ぬ人はあってもその他に人間同志で殺し合って死ぬ人々は無かったでしょう。(『第1集』大阪市東淀川区、女子)4)
●「私の父も戦争のゴミの一つになり、祖国を守るために母や私と弟二人をおいて、涙のうちに悲しくも父が出て行かれた時は、私は七才でした。(中略)ついに父親戦死の便りが終戦まもなく来ました。母の悲しみは大きくてがっかりしてしまいました。でも気の強い母は、なあに父の戦死はきっと間違いだと信じ、其の後はただ神様に祈るだけです。どんな寒い時にでも山の中にあるお滝で水に打たれて祈っていましたが、まもなく本当に戦死したと遺骨が帰って来ました。母の信仰も甲斐もなく消えてしましまい、いくら気持の強い母も言葉に云い表せない程悲しみ、気のすむまで亡き父の遺骨をだきしめて泣きつづけました。」(『第3集』高槻市、女子)6)
●「父は私の三才の時に亡くなりました。(中略)私は父とそっくりだそうです。お母さんから、お父さんの顔が見たかったら、自分の顔を鏡に写して見ればよいといわれるくらいです。無口な所、性質等もよく似ているそうです。父が戦場に行く日、私は母にだかれて、どんなに泣いた事でしょう。幼かった私にも父の行き先がわかっていたのではないでしょうか。「お父ちゃん、お父ちゃん、行っちゃいやだあ」。何となだめられても私は泣きつづけていました。けれども父は、汽車の窓から日の丸の旗をふって私から遠ざかって行ってしまいました。戦争はようしゃなく幼い私の手から愛する父をうばい去ってしまいました。私は戦争がにくらしい、戦争がおそろしい。戦死された父や多くの人々は、もう二度と戦争が起こらないよう願っていられるでしょう。私だってこのよう不幸が起こらないように願っています。」(『第5集』大阪市旭区、女子)7)
●「此の国が、神をたよりに今や、何百万と言う尊い人命を投げ捨て戦った。第二次大戦にやぶれさり、何百万と言う家族が苦しんで居る有様を見る時に、神国日本はどうしたのだろうか。果たして神があるものだろうか。決してないのです。私は信じます。神や仏は、苦しんで居る一個人を救うのが、神や仏の力ではないでしょうか。此の苦しんで居る日本国が今全国津々浦々から、何十万と言う遺族を国の費用で参拝させている事は何と言う事かと、なげかざるを得ないでしょう。なぜならばこれは小善に過ぎないからです。日本の政治家は、もう少し一個人を救う道はないものかと言う事を考えるべきでしょう。」(『第10集』大阪市西成区、女子)10)
●「靖国の鳥居を見た時、父に逢えるという喜びに胸一杯だった。しかしそのそこには誰が父を殺したか、それは戦争である。その戦争は誰がするのだ、日本国民を代表する人々ではないか。国のため国のためと、国民の苦労をよそに尊い人命を赤紙一枚で左右する。国民はなにも知らない、罪はないのである。一部の権力者の為に父を、いや数十万という人命を失ったのだ。僕は戦争を憎む。いやそれ以上に戦争を引き起こした政治家、軍人を憎む。父は永遠に帰らないのだ。母は戦後のどさくさに生活するため必死であった。その苦労がたたってか僕の七つの時、母も父の後を追うて帰らぬ人となった。父母を殺したのはだれだ。政治家、軍人のまちがった政治、それにつきる。そんな心が胸の片隅で叫んだ。」(『第12集』大阪市東住吉区、男子)11)
●「僕の父が一体どこにいるのだ。健康な姿はどこに行ったのだろう。ただ大きな鳥居。門の様に閉ざれた(*本殿)正面の板戸、とりまくすべてがなつかしい父と僕との間を閉じている様である。僕は誰にともなく無暗に腹が立った。畜生、誰が父を殺したんだ。世界中で唯一人しかない立派な父を誰が海底に沈めたんだ。僕は無我夢中だった。辺りに誰が居ようが居まいが、おかまいなしにくやし涙がとめどもなく頬を伝った。然しこの相手の無い僕の憤りはすぐに云い知れぬさびしさに変わってしまった。広い靖国神社の玉砂利の中に、僕一人ぽつんと取り残されたようなさびしさだった。(中略)鳥居の所まで出た僕は、わすれ物に気が附いて二、三歩引き返し、しゃがんで下の玉砂利を一にぎりポケットに入れた。」(『第5集』南河内郡、男子)7)

<『靖国文集』(大阪)を読み終えて>
 私と同時期の靖国集団参拝経験者の年齢は70歳代後半になる。作文を読み、当時の私の心情が思い起こされ、彼ら彼女らがとてもいとおしく感じられた。戦後75年、彼らのなかに集団参拝の記憶、戦争と戦後の記憶がどのように今あるのか、聞き取りを続けて行きたいと思った。


(1)藤原彰著『餓死した英霊たち』(青木書店、2001、3頁以下)
(2)大阪府福祉部社会援護課「戦後71年大阪戦没者追悼式の開催について」(大阪府報道発表資料、2016年7月15日)
(3)広田純「太平洋戦争におけるわが国の戦争被害」立教経済学研究、第45巻第4号、1992、7頁)
<『靖国文集』は各号数の引用順に脚注を付す。>
(4)『第1集』56頁以下、105頁以下、35頁、88頁、126頁以下、25頁以下
(5)『第2集』111頁
(6)『第3集』126頁
(7)『第5集』25頁以下、26頁以下、19頁、88頁以下、248頁以下
(8)『第6集』17頁以下
(9)『第9集』233頁
(10) 『第10集』76頁以下、122頁以下、14頁
(11)『第12集』28頁、20頁、155頁以下

おわりに 「靖国神社の歌」



 鳥取県遺族連合会編『靖国の父をたづねて(第四集)』1)を入手したのは2017年5月のことだった。この冊子が「第4集」とあることは、鳥取県で少なくともこれまで4回は遺児参拝が行われていたのだろう。本を見ると、表紙の裏に次の「靖国神社の歌」が罫紙に印刷され綴じ込まれていた。

(1)
日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
ああ大君の 御拝し給う
*戦前の歌詞(「ああ大君の ぬかづき給う」)
栄光の宮 靖国神社 

(2)
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらおの 御魂鎮まる
ああ国民の 拝み称う
いさおしの宮 靖国神社

(3)
報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をおみなの
清らけき 御霊安らう
ああ同胞の 感謝は薫る
桜さく宮 靖国神社

(4)
幸御魂 幸はえまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
ああ一億の 畏み祈る
国護る宮 靖国神社
(『靖国文集』に載った歌詞は新仮名づかいに直した。また漢字等の表記は『日本の唱歌(下)』2)に合わせた。)

 「靖国神社の歌」は1940年の皇紀2600年の祭典の一環として、主婦の友社が歌詞を一般公募し、入選した詞に陸海軍軍楽隊が合同で作曲したものだ。作詞細淵国造、作曲和真人。(金田一春彦、安西愛子編『日本の唱歌(下)』講談社文庫。この歌の成立の詳細は山中恒著『靖国の子』合同出版3)。)
1955年、戦後10年も経って「靖国神社の歌」が『靖国文集』にわざわざ綴じられている。「巻頭によせて」で鳥取県知事遠藤茂は「大東亜戦争が悲劇的な終末を告げ満十年の歳月が流れましたが」と書いている。ネットの検索によると遠藤知事は「革新系」の知事だった。かくも戦前と戦後の遺児参拝が連続していることに驚かされる。


(1)鳥取県遺族連合会編『靖国の父をたずねて(第4集)』(鳥取県遺族連合会、1955、表紙裏に綴じ込み。)
(2)金田一春彦、安西愛子編『日本の唱歌(下) 学生歌・軍歌・宗教歌編』(講談社文庫、1982、252頁以下)
(3)山中恒著『靖国の子 教科書・子どもの本に見る靖国神社』(大月書店、2014、85頁以下)

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