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桑島玄二の戦中詩人論を読む 


 

 

『物言わざれば』(桑島玄二)

 桑島玄二著『物言わざれば』(編集工房ノア)を読んだ。友人がこの本の中の「戦争と子どもの詩」のコピーを送ってくれ、その中に大阪の「靖国文集」第4集の紹介、引用があると知らせてくれた。「第4集」については未見だった。また「戦争と子どもの詩」を読み、興味を持ったことは、「二十年も前に書かれた子どもの詩といま書かれている子ども詩のみごとな同時性。このことは、戦争中の子ども詩とのいまの詩とのあいだにいえるのだ。」という著者の考えだった。さらに「この世界のすべての子どもに共通するもの。離れた国に育ち、育っている子どもたち間のみごとな連繋性である。こうした共通の箇所は、まさに子どもの詩の世界であり、しかも子どもたちは、その世界をしっかりつかんで放さない。そして、私が戦中の子ども詩をとりわけ愛するのは、戦争がくり返えされてなるものかという熱願からである。それを子どもたちは支えてくれる。」と言及する。この思考にひかれて、この本を入手した。この本は、無名戦士の死と歌(「骨のうたう」という詩を残した竹内浩三論!)、「雨ニモマケズ・・」私観、ナチスの詩、日本浪曼派と大阪等と展開され、非常に興味深かかった。引き続き何冊か読むつもりだ。

『つばめの教室/あの戦争下の少年少女詩集』(桑島玄二&櫻本富雄) 

 引き続き桑島玄二&櫻本富雄著『つばめの教室/あの戦争下の少年少女詩集』(理論社)を読んだ。太平洋戦争下の少年少女たちの詩を発掘し、「この一冊を手にして私たちは、『これだけしかなかったのか』と嘆くべきか、『こんなにも珠玉はあったか』とよろこぶべきか・・・・。ともあれ、あの十五年戦争が少年少女たちから奪い去ったもの、しかも少年少女が奪いつくされはしなかったものーーその両面を、かえりみる時が来ております。」(「この本の成り立ち」)この本の内容は、「テンノウヘイカ バンザイ」(戦中小学生詩集)、「霧と山刀」(高砂族の戦中詩)、「明るい教室」(小学校教師の戦中詩)「高原の孤独」(戦中少女詩集)、「真っ赤な手で」(満蒙開拓義勇軍詩集)、「日の丸の下で」(戦中青少年詩集)からなり、こんなアンソロジーを試みた人がいたんだと感嘆した。

『兵士の詩/戦中詩人論』(桑島玄二) 

 引き続き桑島玄二著『兵士の詩/戦中詩人論』(理論社)を読んだ。桑島玄二は私より20歳上の年齢で、学徒動員世代であり、詩人仲間の僚友がたくさん戦死している。そのことにこだわり続けて文章を書いてきた方だ。桑島の仕事について、この本の巻末に足立巻一(足立巻一は桑島の先輩に当たる詩友で、私は学生の頃、彼の構成による毎日放送(テレビ)のドキュメンタリー番組「真珠の小箱」に親しんだ。)は次のように語る。「桑島の戦争詩論の核点となっていまなお燃え続けているものは、やはり、この本に書かれているように森川義信の狂死であろう。森川は桑島が詩にふれた初期から敬愛した同郷の詩人であったので、その戦死は深刻な衝撃となった。」「それというのも、森川の詩そのものに対する親愛な芸術的共感、さらには渇仰に近い感動があってのことであろう、桑島は激烈に打撃されたと述懐したことがある。」桑島自身も先に読んだ『物言わざれば』のなかで、「私たちがいま太平洋戦争を語るのは、消しがたい私たちの青春の記録としてであり、日本浪曼派を語るのもおなじ意味からである。私たちが兵士となることを拒否できなかったと同じように、日本浪曼派を拒否できなかった青春について語っているのである。」と言う。森川義信論を中心にその他の戦中詩人論、「反戦詩はあったのか」「日本浪曼派私観」等大変重厚な批評の本だった。ただ私は詩に親しんだことがないのと、戦中派世代の体験(特に日本浪曼派体験)について肌に感じるものがないので、「日本浪曼派私観」は難解だった。あと、桑島玄二の本は『純白の花背負いて/詩人竹内浩三の”筑波日記”』(理論社)を持っているが、以前から読もうとして読めていない竹内浩三著『戦死やあわれ』(岩波現代文庫)、同著『筑波日記』(新評論)とともに後日読んで見ようと考えている。 

『純白の花負いて/詩人竹内浩三の”筑波日記”』(桑島玄二)

 桑島玄二の詩人竹内浩三論『純白の花負いて/詩人竹内浩三の”筑波日記”』(理論社)を読んだ。現在では竹内浩三は詩「骨のうたう」で知られている。この本は、23歳でフィリピンのバギオで戦死した竹内浩三について、学徒動員世代の著者が哀惜を込めて書いた竹内浩三の評伝、詩論である。その竹内浩三が筑波山嶺で落下傘部隊の演習にあけくれていた時に密かに書いた軍隊日記(軍隊手帳)が残っている。その「筑波日記」は2冊あり、桑島の本が出版された当時、そのうちの後半部分の1冊は行方不明とさていたが、後日発見され、竹内浩三全集2『筑波日記』(新評論)に収録されている。この日記を含む竹内浩三の詩や手紙類を大切に残していたのは、姉松島こう子であり、姉は「浩三はどこかでまだ生きています」という。姉の「あのやさしい弟が、斬込隊員となって人を殺すなど、私にはどうしても考えられません」「ジャングルに迷いこみ、いまでは現地人と結婚して、子供の何人か作っているのではないでしょうか」という言葉はなんとも哀惜を感じる。若くして戦死した竹内浩三の詩や日記、手紙類については、この後、『筑波日記』『戦死やあわれ』(岩波現代文庫)を読み、あらためて書くつもりだが、竹内浩三に直接触れた箇所でないが、特に私の心に残った文章を引いておく。(松原新一の言葉)「父親を戦争によって奪われねばならなかった母親にとっても、少年にとっても、戦争の傷痕はたやすく消え失せなかったはずだ。父親の戦死を根拠とする戦争体験の継続としてよりほかには、彼らにとって、戦後の時間はあり得なかったというべきだろう」(戦死公報の父の名に誤字があったという岸上大作の指摘に触れて)「そのとき、ああ、戦死やあはれ・・・とうたった竹内浩三の、真実だけがもつ悲しみが血のようにして吹き出してくるのである」 

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