学校訪問

「ボリビアから比嘉裕さんがやってきた!」


 

 

松 岡  勲 

ボリビアのオキナワ移住地への思い

 私がボリビアのオキナワ移住地を訪ねたのは202年1月だったから、あれからもう11年がたってしまった。当時お世話になった比嘉裕さんとの交流も途絶えてしまっていた。その後、大学での教職概論の授業でその時の「ボリビア・オキナワ移住地訪問」を教材に使いながら、今のオキナワ移住地の様子を知らないままだった。比嘉さんとそのご家族はどうされているのだろうか、当時幼かった3人の子どもさんたちは大きくなられたろうとの思いが最近とみにつのってきていた。そこで、当時、シニア・ボラティアで移住地のオキナワ第一日ボ学校で教員をされていた愛知県のIさんに11年ぶりに連絡を入れ、比嘉さんと今も交流があるか、メールアドレスをご存じないかと尋ねたら、現在も交流があり、メールアドレスをご存じで、教えていただいた。そして、「11年も音沙汰なしだったし、すぐには返事は来ないだろうな」と思いながら、メールを送信した。すると、その日のうちに比嘉さんから返信があった。ほんとうにうれしいことで、11年ぶりにボリビアの比嘉さんと連絡が着いたのだった。

<比嘉さんに送ったメール>
ご無沙汰して、申し訳ありません。
ボリビアのオキナワ移住地でお世話になったのが、2002年のお正月でしたから、早いもので、あれから11年が経ちます。
その後、オキナワ移住地はどのように変化しているのか、比嘉さんと奥さんはお元気にされているのだろうか、子どもさんたちは大きくなられただろうなと思いをはせます。
 私は定年退職後、2年間嘱託で中学教員を続けましたが、母の介護のために嘱託も退職し、現在にいたりました。母が亡くなりまして以降、立命館大学で非常勤講師(将来教員になる学生のための教職課程を担当)をしており、週2コマだけ授業を持っています。年齢故、持病はいくつかありますが、いたって元気に過ごしています。

 その後の比嘉さんご家族のご様子、オキナワ移住地の現在の様子等を知りたく、また、元気なうちにいずれはボリビアのオキナワ移住地を再訪し、比嘉さんのご家族と再会できればと、そんなことを考えて、11年ぶりにメールを送らせてもらいました。
今後ともご連絡をとらせていただけますので、よろしくお願いします。

<比嘉さんからの返信>
松岡先生お元気ですか
現在、私は日本に滞在してます。
来週あたりから九州~東京まで9日間ほどJR周遊券で旅行を計画してました。大阪も入ってますのでお会いできたら幸いです。
京都の同志社や立命館大学を訪問したいと思っていたところでした、是非お会いできます事を楽しみにしてます。

<私の喜びの返信>
ひゃー、うれしいですね。
比嘉さんと連絡を取りたいと思い立ち、Iさんと連絡をして、比嘉さんにメールを入れたら、すぐこんな風にお会いできることになるなんてなんという嬉しいことでしょう。是非、お会いしましょう。ご連絡をお待ちしています。

11年ぶりの再会


 すぐに連絡がつくとは思わなかったし、まさか比嘉さんとお会いできるなんて思いもしなかった。それが、5月1日に大阪(私の住む茨木)で比嘉さんとお会いできたのだった。JR茨木駅の改札口でなつかしい比嘉さんと再会し、あのごっつい手で力強い握手をしていただいた。おみやげにボリビアの「エケコ人形」をいただいたが、その愛嬌のある顔と姿が気に入った。その人形は、11年前に比嘉さんの牧場でもらったガラガラ蛇のしっぽのぬけ殻(それは幸運を呼ぶという)とともに僕の机の上にある。
 そして、食事をしながらお話しをおうかがいした。比嘉さんが沖縄に里帰りされたのは、高校3年生時に亡くなられたお父さん33回忌と宮崎県都城高校の同窓会があったからだった。そのタイミングにぴったりあった訳だ。「運命の糸」で結ばれていると感じた。 

 比嘉さんは50歳になられていた。奥さんの智子さんは、子どもさんが大きくなられたので、日ボ学校の教員に復帰されたとのことだ。
 子どもさんたちも成長されていた。長男の謙吾君は、当時6歳だったが、今は18歳で大学(農学部)1回生で、お父さんの農業を継ぐ予定で勉強に励んでいる。
 次男の裕貴君は、当時5歳だったが、今は16歳で、高校2年生(ボリビアでは、小学校は5年間、中学校3年間、高校は4年間)で、将来は日本の大学に進学を希望している。彼は3、4歳の時に比嘉さんの那覇のお兄さんに預けられ、1年間、日本で暮らした。その時に、大変日本が好きになり、特に歴史関係に強い関心があるとのことだった。 

 そして、当時2歳だった千智ちゃんは現在は中学3年生で、生徒会会長をしているとのことだった。3人の中では一番バイタリティのある子の感じだったので、さぞかししっかりした女の子に育っているだろう。 
 移住地の農業のその後について関心があったので、比嘉さんの家業の農業の現状についてお聞きした。当時、比嘉さんは牧場を350ヘクタール経営されており、肉牛を300頭飼育されていた。牧畜だけでは将来性がないので、飼育頭数を減らし、あらたにトウモロコシ栽培に事業を拡張したが、水害と国際価格の暴落でトウモロコシ栽培は失敗したので、さとうきび栽培に重点を移した。その後、さとうきびの国際価格が高騰し、経営は持ち直した。現在は、肉牛100頭、さとうきび100ヘクタールの組み合わせで、農業経営は安定しているとのことだった。苦闘の連続を切り抜けられてきたことをお聞きし、そのバイタリティーに感心した。

比嘉さんと京都を散策

 5月2日、3日と比嘉さんと京都を散策した。ご一緒したのは、オキナワ移住地におられたことのある下村康子さん、中村緑さんとだった。下村さんは日ボ学校で教員をされていた方で、比嘉さんの子どもさんの裕貴君と千智ちゃんの元担任で、現在は同志社大学で留学生の支援に関する仕事をされている。中村さんは、移住地の病院の栄養士をされていた方で、移住地の人々とと深いつながりがあり、地域の人々、とくに青年や子どもたちのことをよく知っておられた。
 京都を訪ねた比嘉さんの目的のひとつは、裕貴君の進学関係の情報を入手することだった。同志社大学では下村さんから大学の資料を入手し、立命館大学では資料入手と直接入試担当者から説明を聞いた。比嘉さんが進学関係で考えられていたのは、帰国子女への特別対応だったが、どうも外国人一般の対応しかないようだった。沖縄の琉球大学では「特別枠」があるとの比嘉さんの話だった。あまり知らないことだったので、勉強になった。最後に京都大学も見学した。比嘉さんがお父さんとして裕貴君への深い愛情を持たれていることに感動した。

 京都観光は、京都御苑、金閣寺、祇園の花見小路、八坂神社、銀閣寺、哲学の道等をまわり、充実したひとときを持つことができた。
 その後、比嘉さんは神戸、広島(宮島)、福岡を回られ、沖縄の実家に帰られた。約1ヶ月間の日本滞在で、ボリビアに帰国される。
 今回の比嘉さんとの幸運な再会を契機にして、2、3年後にはボリビア再訪を果たしたいと思った。その際、ボリビア経由でペルーにも思い切って旅をし、かねてから望んでいたペルーの日系移住地にも訪ねたいと思っている。

<私から比嘉さんへ> 
 エネルギッシュな行動の全開で福岡に到着、ほとほと感服します。
 僕もそのエネルギーをいただいて、ボリビア再訪を期します。お元気で!

<比嘉さんから>
 先生がボリビアを再訪することを待ってます。
 よろしければ、お友達もおよびください。私は一向に構いません。
 家内の智子も喜ぶと思います。

<比嘉さんから日本の友人たちへ>
 今日で日本探索の旅は終わりました。
 東京から神奈川、静岡、京都、大阪、神戸、広島、福岡をなんと10日間で駆け回りました。
 友人とは人とはすばらしい絆で結ばれているとつくづく感じました。皆様がボリビアへお越しの際はご連絡ください、私なりにお返しをしたいと考えてます。
 今後ともお付き合いをよろしくお願いいたします。
 明日、沖縄の実家に帰ります。


(2013・5・9)

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