【第二部】応援のメッセージ@
田中秀征(前経済企画庁長官)
  
   ただいまご紹介いただきました田中秀征です。市民立法機構というのをつくるから、出かけてきて応援のメッセージを一言ということで出かけてまいりました。
   並河さんから初めてこの機構をつくるという構想を私がうかがったとき感じたのは、これは行政に対する挑戦というより、むしろ国会、立法府に対する本質的な挑戦だと感じたわけです。行政がピッチャーで、立法府、国会、政党、政治家がバッターだとしたら、ふがいないバッターに「ちょっとどけ、俺が打つ!」という感じがしました。すると、ピッチャーは手強いのが出てきたというので愉快ではない。どかされたバッターはもっと面白くないということで、歓迎されない組織であるということを強く感じまして、行政や立法の両者を不愉快にさせる、そういう組織であると思ったわけです。もし私が現職の国会議員であったなら、バッターとして「どけ」と言われる方ですから、おそらく呼ばれても不愉快で来なかったと思うのですが、逆にそうであったら呼ばないだろうと感じてやってきました。
  国民的な要請や時代の要請が強い法案や政策ほど、行政はさけて通るという状況になっていますし、国会の側もまた手を出したくない、あるいは手を出すことができないという閉塞状況に現在あります。行政の側は、自らの身を削る、あるいは体質や姿勢の転換・変更を迫られるような法案や政策に対して抵抗することはあっても、率先して出してくるはずがない。これは現在、行政に政治が世話になっているという状況に根本的な原因があります。さきほど話があった議員立法についても、議員立法が望ましいというのは、教科書通りの話で延々と続けられています。しかしながら、全く逆の方向に来ているのは何故か。これは政策立案スタッフを増やせばいいという話ではありませんし、国会議員の政策立案能力を高めればいいというわけでもありません。そうではなく、国会議員や政治家が、直感的に感ずる素朴な正義感に従って、行動できなくしているものは何かというところに問題があります。いくら優秀な国会議員が出ても、優秀な政策立案スタッフがあっても議員立法はそれだけで望ましいようにできない、ということをぜひ皆さんにわかって欲しい。何故かというと政治が行政の世話になっている。これを私は「ねずみの世話になっている猫」と言ってしまいましたが、やはりねずみの世話になっている猫は、ねずみに対して睨みがきかないので、ねずみは平気で猫の前で芋をかじったりするわけです。遠くから、「なんだねずみを採らないじゃないか」という非難の声があがると、追いかけるふりをして、壁の穴のある方に追って逃がしてやる、という印象があります。これは、政策立案能力、専門分野に長けている人ほど巧妙かつ理論的にやるということで、非常に絶望的な状況にあるわけです。議員立法をもっと増やすために、政策立案能力に長けたスタッフを強化していくことは望ましいのですが、その以前の問題として、政治家にやる気があるかないかという問題です。先ほども申し上げましたように、素朴な正義感があれば、政策に精通していなくとも、少なくとも提案能力はなくとも、政府の側から出てくる望ましくない法案や政策に対して「だめだ」という拒否能力はあります。そう言えないのは何故かというと、選挙や政治で役所の背後からパーティー券をどの位売ってもらうとか、あるいはまた選挙となれば、業界をつついて、「あの選挙事務所に車を5台出してやれ」「人を何人出してやれ」と、間接的かつ巧妙に役所の世話になっているからです。
  それから、私も地方の出身のため、よく経験したことですが、公共事業でも、農林、建設に主な公共事業があり、これを個所づけにした発表の日は一番忙しいわけです。人によっては10台ぐらいの臨時電話を引いて、それを市町村に自分がとったと知らせるのですが、これには段差が付けてあって、この人に知らせたら、30分後に誰に知らせるという、30分、1時間、1時間30分という情報通知の段差が付いています。それを本人たちは知りません。政務次官経験者だからとか、この法案の時に協力してくれたからと段差をつけておいて、それを代議士に知らせる、それを今度は市町村に知らせるわけです。ところが相手の市町村は、よくその辺わかっていますから、誰が知らせてきても最初に聞いたようなふりして喜んでくれるわけです。「先生のお陰であがりました」というような話で、もう何番目かということも知っているわけです。小選挙区になって多少変わってきましたが、そういうことでもし遅れをとれば、小さい村では二日ぐらいのうちに「あの人は力がない」という話になります。他の先生が出かけていったらワイシャツのままで役場の人が来たのに、違う先生が行ったら、局長がわざわざ背広着て出てきた。だからあの先生は力があるという話になるわけです。これまた小さい村では村会議員が1015人で陳情に出かけて、その先頭にたって行くだけで、わずか2、3日で村中に力がある、顔がきくという話になる。逆の場合、彼は全く力がないという話になってしまう。そういう形で、にっちもさっちも行かないくらい、一人一人が完全に取り込まれているわけです。
  こうした状況は日本だけかと思ったら、今回のイギリスの総選挙に関する様々な報道の中で、私がイギリスもここまできているのかと思ったことが二つあります。一つは、地域利益に反する言動をした候補が公認を取り消されるということ。もう一つは、ケンブリッジに通っている下院議員の子供が、親の職業を恥ずかしくて言えないということです。この世界に冠たるイギリスの議会政治において、国会議員がそれほど権威を無くし、恥ずかしい職業になってしまったのかと感じたわけです。こうした流れは、世界的になっているのだろうと思います。
   たとえば、新幹線をオリンピックで長野まで持ってくるという問題で、選挙の時に「財政事情が許せば」と一言いっただけで、私は新幹線建設反対派だという噂が一気に立ちました。ですから、財政事情はどうでもいいから新幹線を造らなければいけないという大会があるとすれば、そこには遠慮させていただいても、新幹線反対という大会があってもそれに出席する勇気は私にはありませんでした。もし、そのような大会に出席すれば、一般的に地域に愛着がないという非常に情緒的な問題に転化されていきます。これはどこの国でも同じで、選挙区とはそういうものだと思います。それを道徳論や政治家の姿勢論で考えるという話ではないので、そうした欠陥をどう補っていくかという所に問題があると思います。
   政党政治がぎりぎりここまできてしまったと思わざるを得ないし、そうした中で市民立法機構という組織が立ち上がったと思うのですが、やはり今の行政や政治、国会の側が身動きをとれなくなってきているという状況をわかっていただきたい。特に行政が政治を取り込んでいる状態で、行政が掌握している票が地方に行けば3割はあります。これだけで小選挙区は勝てますし、それに刃向かうと負けます。私は規制緩和や行革とやたらに言ってきたために、あらゆるものが敵に回っているわけです。自己の存在が掛かっているため、この行政票は非常に熱心ですし、既得権益と結びついてしたたかです。浮動票やボランティアという言葉に代表される曖昧なものではありません。非常にしたたかでしぶといものが3割ぐらいを握っているとしたら、投票率が下がればどこだって完全に制覇できるわけです。このようなことを、今度の小選挙区選挙で学びました。こうした行政に立ち向かう政治をどうやって創りだしていくかが懸案で、やはりそういう意味で警鐘をならす、刺激を与えるのがこの組織だと私は理解しておりますから、とかく形骸化しているぎりぎりの所まできている日本の立法過程に大きな風穴を開けていただきたいと心から期待いたしまして、私の応援のメッセージとさせていただきます。