支援者からのメッセージ 2001.02
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| ◆共感するということ・・・山田悦子さんの「ことば」から(岸本 修) |
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昨年十二月、「当番弁護士を支援し司法への市民参加をすすめる会・奈良」主催の集会に参加する機会があった。集会では甲山事件無実の被告人、山田悦子さんが無罪判決を獲得するまでの二十五年にもわたる自らの過酷な体験を語った。(まったくの私事だが、山田さんと私とは、生年月日が三日違い、私の方が早生まれである) 七年間の公判(第一審)の後、無罪判決受ける。山田さんはこのとき「法の精神とはこれだ」と確信したという。この頃ドイツの法学者イェーリングの著書「権利のための闘争」に出会い夢中になり一晩で読了したという。「人格を侮辱するような攻撃に対しては断固として闘わなければならない」と書かれていた。甲山事件の捜査、裁判で、山田さんだけではなく甲山学園の園児や、仕事仲間の同僚の人々の人格を踏みにじり侮辱しつづけた警察、検察と闘わなければならない、闘えば「法」は私たちを守ってくれるということをこの本から学んだという。第一審で無罪判決を獲得。その後、検察は控訴し、再び被告人となるのだが… 控訴審(第二審)の三年間に、裁判所法廷の職員(廷吏)らとあいさつするほど親しくなるが、控訴審判決言い渡しの朝、大阪高裁大法廷に通じる階段は閉鎖され別の階段から入廷するように言われる。顔なじみの廷吏に「おはよう」とあいさつの言葉を掛けるが、こわばった表情で返事はなかった。いつもと雰囲気が違っていることをいぶかしく思いながら裁判所の窓から外を見ると花束を持った支援者の姿が見えた。判決は一審の無罪判決を破棄し、差し戻すという不当なものであった…。 山田さんは自問する。それは苦渋に満ちたものだ。不起訴となった「私」を二度も逮捕する日本社会とは何だろうか、強引に起訴した上、一審無罪の判決が出たにもかかわらず、高裁は破棄して、またしても「私」を法廷に引きずり出して裁判をやり直そうとする、この「日本」とは何なのか、と。 山田さんは、私は「期待される冤罪者」になれなかった、と語る。事件の被告人としてではなく、客観的にこの事件、この裁判を見つめようとする自分になっていたという。ヨーロッパの「法の精神」はどのようにして生まれてきたのか、そして、日本ではどうだったのか。山田さんは問い続ける。そして、法の前に君臨する巨大な国家権力の存在に突き当たる。明治二十二年公布された大日本帝国憲法の下では「天皇は神聖にして侵すべからず」とされていた。天皇や国家はその「責任」を問われることがない、「無答責」なのだと気が付く。 明治憲法から敗戦後の昭和憲法に代わっても「国家無答責」の本質は変わってはいないのだ。不起訴処分を受ける前の段階で、警察、検察の不当、違法な捜査、取り調べに対して、山田さん、情熱的な弁護活動を続けた弁護士や支援者らは「国賠訴訟」を起こして捜査側の「責任」を追求しようとしたのだが、これが「国家権力」の「恨み」「怒り」を買うことになったのだと、山田さんは考える。二十年以上もの長期裁判となる甲山事件の確執、深淵の源がここにあるというのだ。しかも「国家」の側は人間の尊厳を犯しつづけてきたことに対して、一切の責任を取ろうとはしない。これはいったいどういうことなのか。つまりは「国家権力」と「人間の尊厳」とは相容れないものであるのだ。私たちの力によって「人間の尊厳」を生み出して行かなくてはいけないのだ。目に見えない「思想」や「知性」そして「人間の尊厳」が「法」のなかでいかに豊かに生きているか、司法・立法・行政の三権のもとで生きている私たちにとって「思想」や「知性」や「人間の尊厳」のレベルの高さが日本の司法のレベルを示しているのだ。 山田さんの発言は「司法改革」にも及んだ。いまなぜ「司法改革」なのかという問題の本質が、なかなか市民に伝わっていないことに山田さんはもどかしさを隠せないようだった。二十年以上刑事被告人の立場に置かれた山田さんは、自ら大阪で行われた司法改革公聴会で公述人となって発言した。そして「司法改革」の重要性を熱っぽく訴えたのである。「冤罪」の被害者として山田さんは、あえて「陪審制度」の採用を訴えた。裁判官にではなく市民によって裁かれる、「有罪」か「有罪でないか」を判断する「陪審制度」の採用を訴えたのである。ここには山田さんの「国家無答責」に対する厳しい不信と怒りがこめられている。責任を取らない「国家」に「人間の尊厳」を裁く資格はないという、厳しく重い訴えである。 山田さんは次のような言葉で講演を締めくくった。
山田さんの言葉の一言一言は、簡単に発せられた「言葉」ではなかった。彼女の苦渋に満ちた重い「言葉」は私に、「共感」するとはいったいどういうことなのか、という問題を想起させてくれたと思う。共感するということは、つまりは人としてお互いの「やさしさ」を発見するということではないか。過酷な状況におかれていても決して自らをおとしめることなく、また他者をもおとしめない、心の有り方とでもいえばよいのだろうか。私たちが今、青木さんや朴さんに抱いている感情もこのような「共感」といえるのではないか。獄中という過酷な状況、逆境にあっても拘置所の壁を打ち破って「共感」できる同時代に私たちが生きていること、生きつづけねばならないということを痛切に感じている。
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