[戻る] [次へ] [目次] [ホーム]


『みちくさ』第22号(2004年8月24日発行)

連載
「障害学の窓から見ると」
最終回

個別と普遍、そして社会モデル

――ハンセン病の問題に関わって――

松波めぐみ

「みちくさ」最終号。まだまだ書きたいことがあった。残念だが、まずはこのような機会を頂けたことに感謝したい。最終回とて「総括」等はできないので、いったん障害学から離れ、自分にとって大事な問題について書いてみたい。そして最後に「障害学の窓から見る」(or私にとって人権問題をトラエルとは?)ということを少し考えられたらと思う。

1.序説・ハンセン病について

この数年で、「ハンセン病」に関わる一般の人の認知度は上がった。「らい予防法」のもと、ハンセン病者への「強制隔離」及び「強制断種」等の政策をおこなった国に対して国家賠償を求める裁判が提起され、元患者ら原告が勝利、控訴断念となったのが2002年。その前後から、堰を切ったように出版物も出された。当事者である元患者さんの体験記も多く出されている。「人権研修」「人権学習」等の名目での療養所への訪問客(団体)も年々増えていると聞く。ほんとうに遅まきながら、注目を浴びるようになったのだ。

それを象徴するのが、2003年秋に発生した熊本での「黒川温泉宿泊拒否事件」だった。この事件については「差別」として捉えられ、かなりの量の報道がなされたが、他方で、それを嗤うかのような嫌がらせ(とくに元患者たちがホテル側の表面的な謝罪を受け入れなかった直後から)も発生した。この問題にとりくむ市民団体(その一つには私も入会している)や弁護士らは当然、ホテル側の姿勢や匿名の嫌がらせについて「今も残る根強い差別だとして告発し、「今後ますますの啓発を」といった発言をしている。私も、基本的には異論がない。だが、そこだけにおさまらない思いをも抱いてもいる。

2.噛み合わないという体験 ――障害学サロン、事前の話し合いで

私が自分の「思い」を再確認する出来事が、最近あった。私はこの2年ほど、「神戸障害学サロン」(通称サロン*1)という小さな集まりを運営している。毎回運営委員(5人)で話し合ってテーマを決めるのだが、今年3月、次回は「ハンセン病」の問題をとりあげようということになった。きっかけは私の台湾旅行。もともとハンセン病に関心をもってきた私が、台湾の療養所「樂生療養院」を訪ねてきたので、その報告を兼ねてというわけだ。そして5月頃、サロンの報告者に、もう一人加わることになった。津田さん(運営委員、神大教員)が教え子の小林洋司くん(神大院生)を紹介してくれたのだ。小林くんは積極的に元患者さんと社会との交流活動や、関連の研究に取り組んでいる。(結果的にも、異なる経験をもつ二者が話すことで、問題をより立体的に語ることができたと思う。)

●はずむ会話(打ち合わせ in六甲)

1ヶ月前、サロンの内容構成を詰めるべく、打ち合わせをすることになった。小林くんと、その指導教官でもある津田さんも同席した。(なお津田さんの専門は「成人した知的障害者の学習活動」他。ハンセン病についての知識は、報道や少し本で勉強した程度だったと思われる。)

小林くんとは、ほぼ初対面だったのに、「どんなきっかけでハンセン病に関心をもったんですか」というおきまりの質問に始まって、どんどん話がはずんだ。彼の場合、「ハンセン病(の元患者さん)との出会い」が、文字通り劇的に学生生活、いや人生を変えた人だということがわかった。(私は、どちらかというと「薄く長く」関心をもってきた方だ。)しかし、同じ問題にコミットしているだけあって、どんな話題でもきちんと「話が通じる」。「ああ、やっぱりそのことが気になっていましたか」「入所者の方の中でも、その点は多様ですよね」「そういうことってどの療養所でもありますね」「わかるわかる」・・・等等。

●はずまない打ち合わせ(噛み合わない!)

しばらく二人の熱い会話を聞いていた津田さんが、「そろそろ本題に入って、サロンの中身を決めていきませんか」と口火を切った。そりゃそうだ、そのために集まったんだから。――だが、なかなか打ち合わせが進まなかった。なぜなら、津田さんがせっかく提案してくれることに、いちいち私が難癖や拒否反応を示してしまったからだ。

具体的には、津田さんは「ハンセン病」と、現在の「障害者問題」との接点をとりだして話す提案してきたのだ。たとえば、「『元患者さんの社会復帰』が課題となりながら長年ハンセン病療養所に暮らした人は今さら出ていける地域がない」という話を聞いたが、これは「長く施設にいた成人知的障害者」の問題と重なるのではないか? あるいは、「優生手術を受けさせられた」ということでは、一部の女性障害者とハンセン病患者は共通するのではないか? ――等だ。「ハンセン病を“遠い話”とせず、より普遍的なテーマに近づけよう」とする津田さんの意図はよくわかる。実際、運営委員の間でも「なぜ障害学サロンでハンセン病なのか? 障害者なのか?」という疑問が出されていたし、もっとよく知らない参加者もいるだろう。「障害」と近づけたほうが説明もしやすいだろう。

しかしなぜか私は違和感を感じてしまった。確かに、障害者問題一般との共通点を挙げようと思えば、挙げられる。でもなんか違う……という思いを抱いてしまったのだ。ハンセン病問題はそれ固有の歴史的・社会的背景があり、元患者さんに固有の思いがあり、一般化できないことがある、という意味のことを私はその場で“力説”してしまった。津田さんの提案は妥当で、ありがたいことであるにもかかわらず、である。なぜ「違うねん!」と思ってしまったのか。結局、この問題に「こだわりがある」からに他ならない。

●それで、結局・・・

津田さんは冷静に、「それじゃ、個人の“思い”を語ってもらうしかないですね」と言った。確かにそうなのだ。私も、小林くんも、自分なりに「言いたいこと」をもっている。だが「言いっぱなし」ではいけないし、危険でもある。結局、各自が最も言いたいことは盛り込みつつ、「他の参加者と共有しやすい話題」(黒川温泉宿泊拒否事件)をとりあげることになった。「障害学との接点」については私が少しふれる、ということで決着した。

サロン当日は、だいたい、うまくいったと思う。(省略)

それにしても、せっかくの津田さんの提案にああいう反応をしたのは、少しおとなげなかったかなと後で反省した。「ハンセン病の問題は、それはそれで個別に、ちゃんと理解してほしい」という思いは、裏をかえせば、「障害学」を学ぶための一つのケーススタディなどではなく、個別性をわかってほしいという意味だ。でもこういう「強い思い」「こだわり」は、わかろうとする他者の理解や歩みよりを拒む障壁となりうるものだろう。

*      *     *     *

 「みちくさ」読者の方であれば、ハンセン病問題の歴史や概略をご存じの方も多いと思う。紙面も限られているので、「ハンセン病問題入門」的なことは避けて(入門におすすめのHP:「モグネットMognet」、「ハンセン病回復者とふるさとと結ぶ会」など。解放出版社の「一問一答」シリーズも手頃)、以下は、当日話したことの中から、思うことを。

3.いま思うこと(1) ~私の個人的体験から

●発端

私が「ハンセン病」のことをなんとなく知っていたのは、母親(91年死去)が療養所(長島愛生園)に住む友人をたびたび訪ねていたからである。だからといって、私がハンセン病にまつわる歴史や状況を理解していたわけでは全くなく、生前の母とちゃんと話したこともなかった。完全に忘れていた。再び関心をもったきっかけは、アムネスティの活動をしていた96年に、積極的にこの問題に関わっていた(当時)阪大の院生だったEさん(現・療養所ソーシャルワーカー)と、フィリピンへの旅行をとおして出会ってからである。

一時期、私はハンセン病に関わる本をむさぼるように読み、講演会に出かけたりした。「こんなことがあっていいのか」と、興奮気味だったと思う。翌年、実際に療養所を訪問する機会が訪れた。ある市民団体が交流を続けている入所者Iさんを訪ねて長島愛生園に行くツアーがあると聞いて、便乗したのだ。Iさんは私たちを歓待し、その後歩いて療養所内を案内してくれた。実際に訪ねた療養所は、海に囲まれ、「景色がよく、明るい」ところだったし、あたりまえだけど、個別の顔をもつ普通の人たちが暮らしているところだった。長島から戻って日がたつにつれ、亡母の友人のことが心にひっかかっていった。母が夫婦ごと親しくしていた「佐藤ゆきさん、順一さん(仮名)」夫妻のうち、ゆきさんが故人だということはわかっていたが、順一さんはおそらく存命だろうと思われた(母が亡くなった時、順一さんから心のこもった弔電が届いていたからだ)。

●佐藤順一さん(仮名)と出会って

かなり勇気が要ったが、思いきって「順一さん」に手紙を書いた。どんな人かわからない。気難しいおじさんだったらどうしよう。母と違ってクリスチャンではない私をどう思うだろう。――いろいろ躊躇はあったが、とにかく「母がお世話になったゆきさんの霊前にお花を手向けたい。一度お訪ねしたい」と書いて投函した。すると即、「ぜひ遊びにいらっしゃい」という和やかな筆致の葉書が届いた。私はそれでも、おそるおそる、長島愛生園を訪ねた。迎えてくれた順一さんは、私の心配を軽く吹き飛ばす、豪放磊落で、お茶目としかいいようがない人だった。母の思い出を含め、たくさんの話を聞かせてもらった。あっというまに時間が過ぎ、山のようなお土産(葡萄やお鮨)を抱えて帰宅した。

その後毎年(1998~2004)、夏に順一さんを訪れるようになり、今日に至っている。毎年、ただ訪ねて、話して、食べて、帰るだけだ。この間に裁判があり、判決があった。順一さんは、思うところあって裁判に参加しなかった。亡き妻の「遺族補償金」も受け取っていない。そのあたりの思いも、折々に聞かせてもらった。(実は大阪で「裁判支援」の市民団体に入っている私は、その頃内心ドギマギしたこともあった。) でも順一さんの主張や思い(なぜ原告にならないのか)も、とても納得がいくものだったし、「裁判に沿って報道される物語」だけではない個々多様な人生があったことを、かえって深く知ることができた。 

順一さん夫婦の話をもっと書きたい気がするが、キリがない。ただ一つだけいえるのは、隔離されて60年以上を療養所で生きてきた一人の男性の生き方や思いを知ったことが、文字通りかけがえのないものとして、私のなかに刻まれている気がすることだ。(文章化するのは、メールを除けば今回が初めてだ)。しかし順一さん個人との交流がなければ、私の「ハンセン病問題理解」が、ずいぶんうすっぺらになっていたことは間違いない。

*      *     *     *

……おっと、いけない。“自慢話”のようになってしまった。私は本当に恵まれている。「入所者の方を定期的に訪ねている」という話を他の人にすると、相手がまじめであればあるほど、大概、「まつなみさん、いい体験をして良かったですね。私はまだまだ理解が足りません」と恐縮されてしまう。当事者とつきあうことが「特権」になってしまうのだ。今、私はその特権を行使している。書かないほうがいいのだろうか?いや、それでも書いておきたかったのだ。こういう人がいる、今も生きている、ということを。

裁判には参加しなかったものの、「社会からの偏見」や「内なる差別」(元患者自身の劣等感)に敏感な人でもある順一さんは、15歳で入所し、今年で81歳を迎える。ラブラブだった亡き妻・ゆきさんとの間に、当然、子どもはいない。「親」として順一さんのことを語り継ぐ人間はこの世にいない。(教会を通して出会った若い人との交流はあるようだ。)

●付録:その他の体験 (フィリピン、台湾を訪れて)

海外のハンセン病施設を訪れた経験について一点だけ。私をハンセン病問題に導いてくれたEさんがフィールドワークをしていたフィリピン、タラ村(ハンセン病を扱う病院と、元患者コミュニティがある)を、98年に訪れて滞在した。タラは他のフィリピンの村と同様、広場にも家の中にも子どもがたくさんいて、うるさいほどにぎやかだった。ほとんどが、かつてハンセン病を患った人(回復者)のお子さんやお孫さんだ。「老人ホーム」と見間違う日本の療養所とのあまりの違いを考えざるをえなかった。背景には、フィリピンでは日本より数十年早く「隔離」をやめ、元患者が自由に「家族」をもてたということがある。最近訪れた台湾の「樂生療養院」(戦前戦中は日本の植民地政策をもろに受けている)でも、時期は遅れたが(80年代)入所者が出産、子育てすることは認められていた。

4.いま思うこと(2) ~何が変わって、何が変わっていないのか

●裁判で勝訴しても 

ここからは雑感だ。「国賠訴訟の前と後で、療養所の様子も様変わりした」ということが時々言われる。確かに訪問者は増えた。しかし何が変わったのだろうと思うこともある。まず、入所者が高齢化していて、寝たきりの人も多い。外で講演などするのは一握りの人だ。親族との絆が復活した人も少数にとどまる(そもそも縁を切られてから数十年の歳月が流れている)。療養所を出て暮らすことを選ぶ人は、どの療養所でも一桁台だ。

一見「ハンセン病に理解があ」るかのようなメディアの言説や啓発言説は、どうだろうか。元患者さんが高齢で、福祉の整った療養所で暮らしていることに安心しているのではないだろうか? 「元患者さんと一緒に街で、お隣で暮らす」ことなど想像もしないですんでしまっているからこそではないのか?と疑わざるをえないのだ(だからこそ、大阪で暮らし始めていた元入所者、千龍夫さんの死=2004年1月 はとても残念だった)。

●一人歩きする「患者」像?

そしてまた、裁判(もちろん裁判は貴重な意義深いものだったし、勝訴してよかったと心から思っているが)とその後の報道による、「患者像」「患者の人生像」の一人歩きも気になっている。「国家による人権侵害を受け、悲惨な生活を送ってきたが、裁判で勝って人間回復した」という“物語”が、報道の基底にはある。それは事実ともいえるし、裁判を進める上では戦略上、そういう面を強調せざるをえなかったことも理解できる。だけど、訴訟が進行する中で支配的な物語ばかりが報道されるようになっていき、取り残された声がたくさんあったのではないか、と思わざるをえない。たとえば「順一さん」ら、訴訟に参加しなかった人の声だ。かれら、彼女らは「隔離政策に賛成していた」わけではない。ほんとうに個々さまざまな考えや事情があって、参加しなかったのだ。「療養所があったからこそ自分は生き延びられた」「世間の差別と窮乏が厳しかった」「五十年六十年とそこで生きてきた自分の人生の意味をひっくり返すような裁判には加われない」「現在の尺度から当時を断罪できない」と感じる入所者もいれば、さらには、裁判によって万が一自分の「名前」が外に出ると家族に「迷惑をかける」と恐れて辞退した人もいた。本当に多様である。

勝訴は元患者さんたちの貴重な(勇気ある)証言の賜物だが、そこだけにおさまらない「多様な声」を響かせ、記録していく作業が、これからの大切な課題だと思う。

5.障害学との接点と課題 ~今後に向けて~

既に予定の枚数をオーバーしてしまった。あとはポイントだけを……

●当事者運動の先駆としての「患者運動」

日本の障害者運動の歴史を考えたとき、ハンセン病療養所では戦前(1930年代)から患者の抗議や抵抗運動があり、戦後も「らい予防法廃止闘争」「プロミンよこせ闘争」など、さまざまな運動がなされてきた。これは、(同じ境遇の者が集まっていた、比較的元気な「患者」もいたという条件にもよるが、)明らかに先駆的である。(ちなみに脳性まひ者の運動体「青い芝の会」でも、活発化するのは70年以降である。) 運動が早いうちから盛んだったのは、それだけ劣悪な状況におかれていたことを物語るものでもある。そして、世間で可視化するに至らなかったにせよ、裁判が提起されるまでにも、さまざまな療養所からの発信や運動が続いていたことも知るべきだろう。(運動史の記録も大切な課題だ。)

●「なぜ隔離政策が(世界に類を見ないほど)長く続いたか」を明らかにする必要性

医療専門家(特にハンセン病専門医)の権力、療養所運営をめぐる利害関係、ことなかれ主義の各自治体、市民の無関心、等など・・・詳細に分析する必要があるはず。

●「ハンセン病問題啓発」に残る「医学モデル」

厚生労働省や各自治体が、「ハンセン病の問題を理解しましょう」という趣旨のパンフレットをたくさんつくるようになっている。小林くんがこれを集めているが、どこの自治体も似たようなもので、驚くほど工夫がない。その中でどうしても気になるのは、「遺伝病ではない」(事実そうであり、フィリピンや台湾でもその事実をありありと見ることができたが)、「感染力が非常に弱く、今の日本の衛生環境ではまず絶対うつらない」という記述だ。遺伝じゃない「から」、差別してはいけないのか? 遺伝しうる、うつりうる病気なら差別してもいいのか?という疑問が当然わく。これは容易に差別を正当化するロジックだ。

また、「病気にかかったゆえ差別された」、(プロミンなど)「新薬が見つかってなおる病気になった」ということが強調されることへの疑問もある。「なおる病気だから差別しない」「もうなおっているから(たとえば)温泉に入っても問題はない」などといわれることが、疑問をもたれずに流通していることに、もっと注意すべきではないか。

●「社会モデル」という言葉以前に ~故・島田等さんの言葉~

私がハンセン病を「人権問題」として考える時の原点を、最後に紹介したい。昭和五十六年(1981年)に長島愛生園入園者自治会が編集・発行した『隔絶の里程 ~長島愛生園入園者五十年史~』という本の「あとがき」である。(本は母の書棚で埃をかぶっていた。)これを書いた島田等さんは、裁判の結果など知ることもなく1995年頃亡くなっている。

*****************************

つい半世紀以前からのこととはいえ、私たち患者が受けてきた社会的処遇はひどいものであった。先輩たちの無念さを想って筆の荒れそうになったことも何度かあった。史的記述を心がけた本文中では書けなかった私の主観の二、三を書きとどめさせてもらうことにする。
人間を終生強制隔離することは非人間性をまぬかれない。その社会的動機の正当性をもってしてもそうである。まして執行者にその認識を欠くときは、惨憺たる結果となる。ハンセン病の隔離は医学や公衆衛生の名分で正当化されてきた。今日でも当事者はその時代的正当性を主張してゆずらない者が多い。仮に百歩ゆずって隔離をみとめたとしても、隔離後の患者の処遇を正当化する者と、私たちは妥協できない。(中略)
生前、小川正子(まつなみ注:隔離政策に協力した善意の女医として有名)は、
    夫と妻が 親とその子が生き別る 悲しき病 世に無からしめ
とうたった。
しかし、“悲しき病”をこの地上からなくすことは、はたして人間に可能なのかどうか。ハンセン病はなくなることがあっても、どのような別の“悲しき病”に、人間はみまわれるかもしれない。
だが“悲しき政策”はなくすることができなくてはならない。それは人間じしんの手になるものだであるからである。(島田等)   

*****************************

 私はこの文章を、何度も何度も読み返してきた。厳粛で、うつくしい文章だと思う。

島田さんは詩人であり、本を読む人だったそうだが、まちがっても「医学モデル」「社会モデル」等の言葉を知っていたはずもない(日本はおろか、当時の英米の障害学でも、まだこの概念は完成していなかった)。だが、ここで島田さんが書いていることは、障害学の中核にある「社会モデル」の思想そのものにふれるものである。いや、そんなふうに名づけてしまうのが、島田さんの言葉をそぎ落としてしまうことを恐れもするのだが。

圧倒的な差別と偏見のもとで「社会」から抹殺され、隔離された島で厳しい「生」を生きながら、本質を見抜いている人は常にいたのだろう。島田さんだけではなく、たくさん・・・。こういう人達に想像力を働かせることが、また「順一さん」と話したことを反芻することが、私にとって「ハンセン病問題」の個別性と普遍性をともに考えることである。 

6.おわりに

まとまりも何もない最終回になってしまった。ハンセン病を個別の「人権」問題として、あるいは普遍的な課題を伝えようとして、あるいは「障害学」から考えるヒントになることを記述しようとしたが、どうも時間切れのようだ。(読みにくい文章ですみません。)

「普遍的人権」という言葉やイメージは、空虚に見える。それだけを唱えても学んでも、眠たいお説教みたいなものだ。「個別」問題を経由し、五感をはたらかせて自分の頭で考えることがないと、「普遍」的人権の理解などにはたどりつかないのかもしれない。

個別の出会いや、そこからあふれ出てきた感情を大事にすること。それは、部落問題であれ何であれ、人権に関する「強い思い」の原点なのだろう。だけどそれを訴えるだけでは、「人権」(人権とは道徳律ではなく、「社会」との関係でルールとなるものであると私は考えている)の問題として解決の方向を展望するには不十分なのだと思う。差別や抑圧を生み出す「社会」のあり方を問う、「普遍」的思考と結びつけることがなくては、ハンセン病元患者さんの講演もただの「感動的なお話」になってしまう。唐突だが、障害学の「社会モデル」は、一つの補助線を与えるものだと思う。「病気だから、障害をもったから仕方がなかった」という“常識”的な考えに対する歯止め、ヒントになるのだ。

だけど、あたりまえのことだが私が知りえた個々人の人生の物語(「順一さん」なり、島田さんなり……)は、理論や概念といった「普遍的なもの」に還元しきれるものはない。そこからはみ出たものがあるし、そういうものをも、しっかり自分で抱きとめていきたい。そこから見えることにもまた、大事なことが隠れているかもしれないからだ。「個別」と「普遍」を往復すること、しつづけることに、一つのカギがあるのだと思う。

読んで下さった方、ありがとうございました。またどこかでお会いしましょう。

松波めぐみ
■所属:大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程(多文化教育学)
障害学研究会関西部会・共同世話人、神戸障害学サロン・運営委員
(今後のサロンの予定等については、立岩真也、津田英二氏のHPを見て下さい。)
■メール: CQA05226@nifty.ne.jp
■宣伝:『ディスアビリティ・スタディーズ -イギリス障害学概論』 がついに明石書店から発売されました(コリン・バーンズ他著、杉野昭博、山下幸子氏との共訳)。障害学理論の初めての邦訳書で、読みごたえ十分! 税込み3980円ぐらいですが、私に連絡していただいたら、三千円でお分けします。メールでご連絡ください。


[戻る] [次へ] [目次] [ホーム]