はじめに断っておかなければならないのだけれど、「なぜ解放研の活動に関わるのか」というテーマは、僕が決めたものではない。与えられたテーマに対する僕の返答、それがこの文章、ということだ。だから、その返答が、「答える必要はない」ということであっても、問題ないと思う。語るべき理由なんてないと僕は思うし、なくて構わないと思う。ある意味では、ないほうが健全だ、とも思う。それでは、こんなテーマで文章を書くことを引き受けなければいいじゃないか、ということになると思う。確かにそうなのだけれど、この場合は、僕が答える必要がないと考える理由を語ることにも多少の意義があると思うし、それに対する皆さんの意見も聞いてみたい。というのも、解放研の活動―それは広い意味での政治的運動の一環ということになるだろうけれども―に関わることの理由を問う問いが発せられるような状況のほうが問題だと、僕は思うからだ。以下、ぜひ皆さんの意見を聞かせてほしい。
解放研の活動が、部落解放という目的を一人でも多くの人に共有してもらいたい、その目的のために行動してもらいたいという願望のもとに行われるものであるならば、それは政治的運動と呼ぶべきものだ。そうであるならば、全ての政治的運動がそうであるように、重要なのは結果であり、そのためには相対的に良い結果―この場合、一人でも多くの人の、望まれた形の反応―を生み出すような魅力的な刺激を発信しなければならない。
僕には、個人的な動機を語るということが、そのような魅力的な刺激になるという感覚はない。だから、解放研の対外的な活動―解放研に関わっていない人に対して刺激を発信する活動―の一つとしては、わざわざ自分から動機を語ろうとは思わない。対内的な活動として、あるいは単に個人的な理由から、動機を語る必要があるのなら、それは直接会って話せば済むことだ。もちろん、これは僕の趣味に基づいた判断なので、そうした動機を聞くことで解放研に参加してみたいと思う人がいるということは十分ありうるだろう。そのような人に向けて動機を語ろうと思えばいくらでもできるだろうし―地域の人たちとの出会いとか、それを通じた気づきの体験とか―それが部落解放という目的の役に立つのならば、別にしてもかまわないのだけれど、それでも引っかかるところがあるのだ。それは、動機を尋ねるという行為自体が、それと共に意味してしまうかもしれない、もう一つのちょっとした意味に関することだ。つまり、ある行為の動機を尋ねるということは、その行為が何か特別な動機がなければ関わるはずのないものであるという印象をこっそりと伝えてしまいかねないのだ。「なんで?」という言葉が、言い方によっては、変な行動に対する驚きを表すこともある。長い、長い目で見た場合、そのような動機を尋ねる行為の蓄積は逆効果をもたらすと思う。だから乗り気にならないのだ。
さらに考えれば、このような動機が問われるということには、それなりの背景があるのだと思う。もちろん、近くから見れば、解放研の活動が(特に阪大に限った場合は)、昨今低調この上なく、どんな物好きがわざわざ解放研に関わるというのだろう?という疑問が生じるさまが見えてくる。しかし、僕が問題としたいのは、もっと引いて見た場合の背景だ。それは、政治が日常生活の数多くある活動のなかの、ごく普通の活動の一つなのだという当たり前のことを、当たり前のこととして感じさせないような文化が日本において作り出されてきた、ということだ。そのような決まった形の刺激と反応が生み出され続けてきたのだ(その歴史の細かい内容に関しては、残念ながらこの分量では中途半端になってしまうので説明できない。こうやって「実は…なのだ」と言っておいて、その内容を語らないことは全く良いことではないと思うのだけれど、ここではあくまで紙面の都合上の問題として許してもらいたい)。
あくまで形式的には至って民主主義的な社会に生きる一人として、僕は、政治に関わることは、ご飯を食べるのと全く同程度に当たり前のことであると感じる。ご飯を食べることに理由が無いのと同じように政治にかかわることに理由は無い。それでは何故、部落解放運動であって環境保護運動でないのかと言われれば、それは出会いがあったという偶然を除けば、あとは趣味の問題だ。これも、僕がシーフード・カレーよりはチキン・カレーが好きだというのと全く同じレベルのことだ。
僕は、一人でも多くの人が、その人の身近に隠れている問題に気づくことを願うし、自分もまた注意深くありたいと思う。そして、問題の解決のためには人との関わりを持って活動していくことが、ごくごく当たり前のことなのだと感じるような感覚を、自らの内にも他者の内にも、育んでいけたら、と思う。そのためには、いつかそれが当たり前のこととなる日を願って、さしたる動機を表明せずに関わり続けていのも、良いのだと思う。