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「韓国語」と「朝鮮語」の間

そごう しゅんすけ(十河 俊輔)

 来年度の大学入試センター試験外国語学科に「韓国語」がくわわることになったらしい。外国語科目としては、英仏独中につづく5科目めということになる。現実にいくつくらいの大学/短大が試験科目として採用してくれるのやら、入試科目としての有効性ははなはだあやしいもので、ありていにいえば、昨今の日韓両国政府による「和解ムード」の醸成という、なんとも政治的な経緯で決定された措置であることは明白である。しかし、小稿はその「政治性」を云々するためのものではない。その言語が「韓国語」とよばれることが、日本社会のなかでいかなる意味をもつのだろうかとかんがえることに、その目的はある。誤解のないようにつけくわえるならば、科目名を「韓国語」としたことに対する韓国側の圧力が日本政府にあたえた影響などをかんがえようということでもない(あったとしてもたいした圧力ではなかったであろう)。あくまで日本社会に内在する問題を論じようとするものである。

「韓国語」という表現について

 ‘the Korean language’と英語でよんでいるものについて、日本語にはさまざまなよび名がある。朝鮮語、韓国語、韓国・朝鮮語、コリア語、ハングル語、5つくらいは存在するだろうか。「朝鮮」も「韓」も、ともに‘Korea’全体をさす名称ではあるが、「韓国」──「国」という字がつく──となると、これはどうしても「大韓民国」に限定されるような気がする。それならば、‘the Korean language’をさすべきコトバとして、「韓国語」という表現は言語名称としてふさわしくない、すくなくともわたしはそうおもっている。

地域/民族/言語/国家の名称と実態の不一致

 もっとも、こんなふうに反論する人がいるだろう。しょせん地域/民族/言語/国家の名称などというものは、ぴったりかさなりあうことなどありえないのだ、と。これについての、日本の学校教育をうけたおおくの人にとってもっともわかりやすい例は、「イギリス」/「英語」というコトバであろう。英作文の課題で、「イギリスでは」という部分を“in England”とかいて、“in Britain (in the U. K.)”と添削された経験をおもちの方はかなりいらっしゃるとおもう。「イギリス」/「英語」は“English”(とその漢字音写表記としての「英吉利」)からきているコトバだが、“English”それ自体は“the United Kingdom of the Great Britain and the Northern Ireland”の一構成国“England”の派生語(形容詞)であって、U.K.全体の形容詞ではありえない。だが、日本語という空間の約束事では、「イギリス」というコトバでUK全体をさすことになっているのだ。かかる例は山のように存在するのだから、どうして「韓国語」というコトバだけがとりざたされねばならぬのか。もともとは国家名称であっても、それを日本語の世界で地域/民族/言語名称として利用して、なにがわるいのか。おまえは物事をややこしく混乱させるだけの、「ためにする議論」をしているだけではないのか、と問われそうである。

われわれは「韓国」「朝鮮」をどうつかいわけているか

 このような問いは説得的なもので、わたしもまったく同意見である。にもかかわらず「韓国語」という表現を問題にせざるをえないのは、もっと別の理由があるからにほかならない。この別の理由とはなにか。具体的なコトバのつかわれ方から帰納してみたい。

 「朝鮮半島」「朝鮮海峡」「朝鮮史」etc。これを韓国での表現そのままに「韓半島」「大韓海峡」「韓国史」という日本人は、相当めずらしい。一方、「韓国語」「韓国料理」「韓国文化」etc。これを「朝鮮語」「朝鮮料理」「朝鮮文化」という人は、今や日本の中で少数派になっているような気がする。さてもうひとつ、「韓(国)」と「朝鮮」を併記する例。「(在日)韓国・朝鮮人」。こうしたコトバのつかいわけにひそむものはなんであろうか。

 わたしのみるところ、韓国という今現在存在する国と密接度のたかいものには、「韓国」がくっつくという傾向があるのではないだろうか。半島とか海峡とか、そういうカタチあるモノは韓国という国ががあろうがなかろうが存在するし、通史としての歴史だって、それが通史であるがゆえに特定の時代(つまり韓国という国が存在している、今現在)に拘束されることはない。だから「朝鮮」という呼称をつかっているんではないか。目を転ずれば、われわれが現実にふれ、体験することのできる朝鮮半島の料理や文化は、韓国からやってくるものが大部分なのである。とすれば、これは「韓国」になる。さらに、今いきている‘Korean people’は、大半が大韓民国か朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と略記する)国籍である。彼らを総称する際は、これはやはり「韓国」と「朝鮮」を併記するほかない。(本論とは関係ないが、日本の外国人登録証における「朝鮮」とは「朝鮮半島出身者」という意味であって、「北朝鮮国籍」を意味するものではない。)

つかいわけのなかにひそむ「朝鮮」イメージ

 ‘Korea’表記をめぐる日本語世界のこうした複雑さは、分断国家となった南北朝鮮が国号の中に同一の地域名称を共有していないこと、そして日本と南北朝鮮とが表記文字として漢字を共有する文化圏に属していることから生じているのだが、「韓国」「朝鮮」のつかいわけは、一見合理性があるようにみえて、実は日本人の朝鮮認識の反映である、というのがわたしのこだわりの理由なのである。漢字でかけばわかりにくいが、発音して自分の耳でたしかめてみてほしい。「チョーセン」というオトは、「シナ」というオト同様、日本人にとって、戦前からひきつづく差別的なニュアンスを、いまだ喚起せずにはいられないのではなかろうか。「朝鮮人の方」などといういいまわしは、なんとかそのきまりわるいニュアンスをうちけすべくうまれたのではないだろうか。

 とすれば、最近の「韓国」好みもまた、同一の文脈でとらえられよう。吉田光男氏は、「「韓国」という壁によって「朝鮮」は日本の人々の目から隠蔽される」という一文をもって表現しているが、同感である。結局われわれ日本人は、朝鮮に対するくらいイメージを打破することなく──それはそのまま北朝鮮に対するマイナスイメージにつなげられている──「明るい韓国」のイメージを享受しているにすぎない。「韓国語」という表現にこだわらざるをえない所以である。


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