インターネットの電子掲示板では、ときおり結婚にまつわる相談が寄せられることがある。けっこう深刻で、良い相談相手も見当たらず、途方に暮れてネットサーフィンの末にたどりついて書き込んでくるといった、いうならばヴァーチャル駆け込み寺であろうか。それらを眺めていると、結婚差別の構図はまさに十年一日のごとく変わっていないように見える。兵庫県の渕本稔さんが運営するホームページ「人権ステーション」の掲示板「百家争鳴」や、三重県の田畑重志さんが管理する「反差別ネットワーク人権研究会」ホームページの掲示板「水平線」などを読んでいると、そう感じる。
結婚相談が書き込まれる。多くは、結婚に部落外出身者の方の親が反対しているがどう対応したらいいだろうか、という趣旨だ。女性からの相談の方が多いように見受けられる。いろんな応答がある。無責任な発言もある。結婚差別を受けた体験や、乗り切った体験からのアドバイスがある。ときには、「わたしは親の反対を乗り越えられなくて結婚できなかったが、あなたは頑張ってください」というエールもある。役に立ったのかどうか、事実上の駆け落ちをしたという事後報告が寄せられている例もある。個別具体的な言及は、ここでは控えたい。書き込んだ一人一人に承諾を取ったわけではないし、時間が経てば古い記録は自動的に消えていくことを前提に書き込んでいる人もいるだろうから。
部落出身だと伝えられたそのときには面食らいながら「関係ない」と言っていた相手が親の反対にあって、時間が経つにつれて二人の関係が冷めていく。これもまた、二十一世紀の現実だったりする。
じつは、『みちくさ』ホームページにも、かつて一件、結婚にまつわる相談の電子メールが寄せられたことがある。二年前の秋深い十一月、東海地方に住むという女性からだった。ここではAさんということにしておこう。大阪の部落出身の男性と婚約しているがこのまま結婚して生活をスタートさせるのは不安で仕方ない、自分や将来生まれるだろう子どもに影響があるのかどうか部落差別の現状を教えてほしい、年上の知人からは大反対された、というのである。以下、彼女の承諾を得たうえでこのケースについて触れていきたい。
何度かのメールのやりとりの末、部落出身と部落外出身というかたちで結婚生活を営んでいるわたしの知り合いの何人かを頼ることにした。結婚したらどうなるかなんて、未婚のわたしは知らなかったから。電話で協力をお願いしたある女性からは、まず二人の関係がある、二人の問題は二人が向き合うことで解決せねばならないと言われた記憶が、おぼろげにある。そのアドバイスはわたしなりのことばでAさんに伝えたのだが。ともかく有り体に言ってしまえば、わたしには抱えきれないと感じたので、Aさんとわたしの年上の知り合いとが直接メールのやりとりをしてくれるように、仲立ちをしたのだ。その後は、しばらく連絡をとっていない。
「両親にはまだ彼が部落出身であるとは伝えていないが、伝えるべきなのか。反対された場合に説得するためには、また大阪で新生活を始めるにも、現状を知っておかないと不安だ」というのが、そこまでの間に彼女から伝えられた思いだった。相談に応じてくれた方は30代から50代の、男性五人、女性一人。それぞれにAさんとメールでどんなやりとりをしたのか、わたしに逐一連絡が来たわけではない。それぞれの結婚体験、部落差別との向き合いが伝えられたのであろう。ある男性は、部落問題の一般的な知識を伝え、日常においては部落であるかないかは問題にならないこと、差別の無根拠性を強調し、差別にたいして理性で向き合い克服するよう助言したとのことである(石原英雄「結婚をめぐる一女性の相談にのって」≪『同和はこわい考』通信≫144号(発行:藤田敬一)、2000年6月16日)。
年を越した去年の夏になって、Aさんから久しぶりにメールが届いた。「結論から言うと、婚約は解消しました」と。きっかけは、彼女が同じ相談を、たまたま会った昔の恋人にもしたことだった。婚約者はAさんの携帯電話、手帳、パソコンまで検閲しはじめ、「昔の男に俺の弱みをぺらぺらしゃべった」とAさんを責め続け、Aさんは「自分が軽率だった」と親や友達にも話せないまま自分を責め続けた。そして六月、精神的に限界だと感じたAさんは、両親に相談して、正式に婚約を解消したのである。
婚約中と婚約解消の過程とで、Aさんは深い傷を受けた。一時はストレスクリニックに通院し、その後九月末になっても、メールには「彼のことを思い出すと吐き気をもよおすほどです」と記されてあった。
Aさんは、次のように振り返っている。
「よりによって、俺が脅されても仕方ないことを前の男に言うなんて」
という言葉には本当にびっくりしました。どこの誰が何を脅すというのでしょうか?これを聞いて私は自分の考えが甘かったことを知りました。
部落出身であると告げられた当初は「今は差別とかそういうのは全くないから」と、彼は言っていたのですが、心の中では「脅される材料になりうるもの」だったのでしょうか。部落云々よりも、こういった彼の被害妄想のようなものに、結局ついていけませんでした。
そう気が付いて読み返すと、Aさんが繰り返し訴えていた「不安」が部落差別を受けることにたいするそれではなく、ほかでもない婚約者との関係そのものに根ざす不安だったことが見えてくる。そしてこの不安は、ふとしたことで現実のものとなり、二人の関係は破綻した。そのきっかけは、成り行きによっては部落問題ではなかったかもしれない。だが、わたしは、そして多分ほかの方々も、この結末をAさんから知らされるまで、彼女の親が結婚に反対すること、つまり結婚差別が起きる可能性にしか目が向いていなかった。結婚差別にたいする心構えをいくら説いても、それはAさんの不安と噛み合いはしなかっただろう。
漠然とした思いなのだが、「結婚」となると「すわ、結婚差別か」と身構えてしまう回路が、部落の側あるいは解放運動の側にあるのではないかと感じている。
とくにインターネットは、姿かたちはおろか肉声も聞こえず届かない、相談を受けるには制約の大きなメディアである。相談してくる側の具体的人間像が見えにくく、ましてその連れ合おうとしている方の人格や二人の関係にいたっては雲をつかむような状況で、相談への対応を進めねばならない。
「結婚」することが至上命題であって、結果的に二人が別れることが差別に負けることであるというように、相談を受ける側がつい考えを走らせてしまうために、部落差別以外の条件・環境を閑却してしまうことが、結構ありがちなのではないかと考えている。部落差別一般の話で応答してしまっているのではないか、と。
けれどその前に、そもそも「結婚」という選択肢が本当に「正しい」のか、そこから考え直さないといけないのではないだろうか。戸籍上の結婚をしたカップルの半分近くが離婚するこの時代に、「イエ」制度が前提になっている「結婚」にこだわる必要があるのだろうか。要は二人の関係の問題ではないだろうか。そうとらえれば、Aさんの事例も、婚約していた彼の人間性を図らずも見極めることができたと思えば、ダメになってかえってよかったと評価できなくもない。「結婚」することがかならずしも最善の選択だとは限らない。
そこに部落差別があるのではなくて、そこに人がいるのだ。二人が今現在どのようにして向き合っていて、「結婚」によってどのような関係を築いていこうとしているのか。繰り返しになるが、核心はここにあるはずだ。
という話は、白状すると、わたしが独りで思い至ったことではない。今ほとんど同居生活に入っている「彼女」との会話を通じて、ようやくことばとして紡ぎ出したのである。彼女は言う。
「親が部落の人と付き合うのに反対したら、『ふうん、大変ね』って言ってあげる。だって私は自分の判断で行動するし、言いなりになんないからお気の毒。『なんで反対なの?』って理由ぐらいは聞いてもいいけど、『二人の新居です』ってハガキ一枚送れば、それで終わりでしょ。」
「なんでケッコンケッコンって、(世間は)そうありがたがるかなあ。『離婚して自由になって、今初めて自分の足で立てるようになって幸せ』って人、多いよ。」
彼女はちょっと特別な例かもしれない。でも、自分が重要だととらえているアイデンティティのひとつとして、部落出身であることを相手に伝えるというのであればともかく、結婚する相手ではなく相手の親に許可を乞うというのはやっぱりナンセンスだ。「家」が結婚するわけではない。親が結婚するわけでもない。親に子の相手を選ぶ権利はない。だから相手の親に自分は部落出身であると伝える必要はない。もっとも、伝えたときに向こうの親からどういう反応があるのかには、興味があるのだが。
パウロ・フレイレは、抑圧の具体的状況とは、被抑圧者が抑圧者の価値観を内面化し、その生き方にあこがれ模倣しようとすることであると言っている(『被抑圧者の教育学』小沢有作ほか訳、亜紀書房)。「イエ」制度に裏打ちされた「結婚」幻想も、まさにそれではないかと思う。部落もまた、そこにとらわれているから、「結婚」という結論も、「結婚」のかたちも、その理想形はゆらぎなく、差別する側とされる側の両側で受け入れられる。愛しあう男女二人が国家権力にたいして婚姻を届け出て戸籍に記載することを両家の親が同意して祝福することが「幸せな結婚」であるというイデオロギーが共有されているから、結婚差別が成立するのではないだろうか。
だったら、意識的にずらすという戦略はとれないだろうか。結婚差別を受けないためには、「結婚」というかたちをとらないか、あるいは親を説得する努力は後回しにして二人の合意のみで「結婚」すればいい。これは極論だろうか。
「結婚」という枠組みを揺さぶるべきではないだろうか。部落差別と性差別とは、本当は同時に問題にされねばならない。小稿のはじめに女性からの相談が目立つと書いたが、「結婚」にこぎつけても、うまくいかなくても、しわよせは大抵女性の方に行くという現実の一端が、そこに表れているのではないだろうか。結婚差別も、ジェンダーの視点を持ち込むと、新しい切り込み方ができるようになるかもしれない。
蛇足だったかもしれない。渦中にある人々にたいしてどのようなはたらきかけが効果的なのか、わたしは具体案を持っていない。もしもまた結婚にまつわる相談が舞い込んだときに、わたしはどう応答するだろうか。とりあえず相談にはのる、情報を提供する、選択肢を考える。でも、結局は自分で決めることではないかと思う、と伝えるのだろう、たぶん。